神の目的とエホバの証者(その19)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
活発な奉仕のために再組織する
ジョン: 第一次世界大戦後,協会が自由に解放されて,伝道のわざができるようになったとき,彼らは多くの面で霊的な束縛にも捕われていたとすぐに認識しました。偽りの教理や行いがたくさんあって,それらは制度から清められていませんでした。その全部はすぐに分かったわけではなく,年月が経つ中にだんだん分かってきました。そして,兄弟たちはどの程度までバビロン的な捕われの状態にいたかも明白に知ってきました。兄弟たちは大きな誤解をいだいていました。すなわち,彼らは地的な政府を,ロマ書 13章1節の神の任命した「上なる権威」としてうけいれていました。その結果,証者たちは人間を恐れました。特に支配者たちを恐れるようになりました。a
また,多数の人々は「人格向上」を強調していました。つまり,自己の修養は救いを得ることに役立つものと信ぜられました。b そして,制度内には人物崇拝もかなり行なわれていました。c さらに,クリスマスのような異教の休日も祝われており,d クリスチャン献身のしるしとして十字架も使用されていました。e エホバの名前も,時折り使用されましたが,それはうしろの方に押しやられて,その真の意義は明るみに出されませんでした。制度的の面では,証者たちは地方会衆政府の民主主義的な仕方に従っていました。f 別の言葉で言えば,各人は自分の目で正しいと考えられることを行なっていました。全部の取り極めは,神権的な指示のないゆるい交わりでした。1870年代から1918年までの思想の変化は多くの面できわめて顕著なものであったため,これらの偽りの考えや行い ― キリスト教国が採用していた異教の言伝えからうけついだものは,兄弟たちの注意をひきませんでした。
1919年からは非常に新しい見方が出てきました。献身していたこれらの僕たちは自分たちの間ちがいを認めて,その悪を公に告白し,エホバのゆるしを求めて彼のめぐみを願いました。エホバのめぐみは一時的に失われたと,彼らは感じたのです。彼らは以前の行いを悔改めて,その行いを変えたいという願いを言い表わし,エホバのゆるしを祈り求めました。彼らは「完成された奥義」(英文)の本の247-253頁を切りとって,検閲官たちをよろこばせるために妥協したことを認めました。g 1918年6月1日号の「ものみの塔」(英文)に示されているごとく,別の妥協もなされました。
4月2日の会議の決議と,5月11日のアメリカ合衆国大統領の宣言に従い,主の民はどの場所にいようと,5月30日を祈りと祈願の日にするよう提案する。h
この発表文に示された言葉は,クリスチャンの正しい中立を表わしませんでした。人類に与えられる祝福は,神の約束する回復によって来るという希望が与えられましたが,その発表文の結論の言葉は,聖書的な責任を十分知っていない多くの人の心に疑問を残しました。
戦争のすばらしい結果が約束されていることに対して,神に賛美と感謝を捧げよう。そして貴族主義の束縛が破られて,捕われ人を自由にし,(イザヤ 61:1)一般人のために世界を安全にすることに対して,神に賛美と感謝を捧げよう。―神の御言葉によりこの国の人々と全世界の人類には祝福が保証されている。i
クリスチャンはひとつの目的にむかって専念しなければなりません。しかし,彼らはそのことについての認識に欠けていました。そのことは,彼らが非宗教的な性質の事業に参加したことからも分かります。j
恐れのない活動に呼びかけられる
彼らは,ひきつづいてなされた反対にもくっせず,前進しつづけて正しい道を取るという決意を持ちました。そのことは具体的に示されました。すなわち,当時の協会の会長は1919年の9月の大会で「恐れ無き者は祝福される」という心ひきたてる題で講演したのです。その話は,同年の「ものみの塔」(英文)で,二つの号にまたがる記事になって掲載されました。いま,結論の節のひとつを読んでみましょう。
この題についての第一部と第二部の論議をまとめるとき,我々は次のことを見出す。すなわち神は小さな群れが黄金時代中に発表するよう定めたのである。神はその群れに御国を与えることを大いによろこばれる。神は,黄金時代中,特にその収穫の期間中にその級を発達せしめ,そして神は絵,タイプ,譬および直接の言葉によって,彼らを教えてこられた。神がこのすばらしい賞を与える級の者は,その信仰と神に対す確信が絶対のもので,人間や人間製の制度を恐れず,そしてその愛は完全である。聖書からまた昨年生じた出来事から教会の立場を判断するとき,また御国級は多くの患難を経て来なければならぬということを知るとき,高い召の賞を目ざしてすすむ競走にはいっている人は,みな心のおびをひきしめ,緊張し,われわれの救の長なる主の命令を待とう。われわれは評判,名声,令名,富,あるいは生命そのものを犠牲にしても主の命令にいつでも従う用意をととのえ,よろこび進んで従わなければならない。k
ロイス: 証者たちの経験したことから判断すると,そのためには真実の信仰を必要としたことでしょうね。
ジョン: そうです。しかし,それは目ざめ始めた制度に新しい生命をもたらしました。彼らのわざには新しい意味が与えられ,忠実を守って,清い崇拝にしっかり立つために,いっそうの拍車がかけられました。このように霊的に元気づけられることによって,状態も変化しはじめました。
トム: 大戦後にお話しのあった「完成された奥義あるいは「ZG」を配布するには,恐れのない態度が必要であったように見えますね。それを配布したために証者たちの中の幾人かはひどい目に会ったようですが,かりに私がそんな目にあったなら,その本を用いる大運動にすぐ参加するかどうかはうたがわしいですね。
ジョン: それは大成功でした。そして兄弟たちは勇気のあることを示しました。もっともそのときまでには政府はその本に対する禁令を取りのぞいていたのです。l しかし,恐れのないことを示す例は,それだけではありませんでした。1920年,協会は「黄金時代」英文の特別号を印刷して配布しました。それは非常に「強烈」であったので,少数の兄弟たちはその号の配布参加を拒絶しました。a 兄弟たちはその号を「GA27番」と呼んでいました。それは「黄金時代」を示す記号で,その数字は特別号の号数でした。
しかし,1919年から1922年まで大きな反対はほとんどありませんでした。実際のところ,それは世界大戦後の神の僕たちに対する元気回復の時でした。エホバは御自分の民を守り,1922年に始まる大運動にそなえて彼らを準備していました。そのいとぐちは,二つの号に載せられた「恐れない者は祝福されている」の結論の中に見出されます。最終の記事の最後から,ひとつ前の節は,次のように述べています。
クリスチャンの小さな群れは,史上最大の戦いをしている。このようなものは,決して,二度とないであろう。宇宙の大いなる神は,それを取りきめた。大いなるあがない主,王の王主の主は,この小さな群れの長であり指導者である。彼は勝利を絶対的に確信しているとわれわれは知る。したがって,われわれがこの競走に走るよう召されて選ばれて後は,もし忠実を保ち,恐れを持たず,われわれの行動が愛にもとづき,最後にいたるまで忠節を維持してすべての機会に彼に奉仕するなら,われわれはついには彼と共に勝利者となり,「忠実にして良き僕よ,よく行なった」という御父の是認の言葉を聞くであろう。それで,恐れてはならない。なぜなら,「永遠の神は,われらののがれどころであり,その下には永遠の腕あり」。b
それから,この1919年8月15日号の「ものみの塔」(英文)の次の頁には「奉仕の機会」と題する記事が出ています。
奉仕の機会を認めるとは,エホバの僕たちの力を二つの面で再組織することを意味しました。すなわち,「バビロンの滅亡を前もって告げ,同じ悪の力に対して非難の言葉を告げること」および「直理と主の民の再確立」そのことは,古代イスラエルのバビロンの捕われ後にエズラとネヘミヤがエルサレムの「町を再建し,宮の崇拝の復興により代表された」。c それは,さらに他の者たちを集めて世話をし,主にみちびいて救を得させる準備を意味しただけでなく,また救の教理である御国のよいたよりを頑強に拒絶した者たちを滅びにさだめる準備でもありました。
戦争後に新しい協会は設立される
拡大する社会として神の民を再び集めて力づけたこの時は,エホバの新しい世の関心事のためにささげられました。一方,サタンの世の諸政府も力をたくわえ,いくつかの新しい社会が発展の途上にありました。このすべての社会は,エホバの新しい世の代表者によって構成され,成長しつつあった社会に反対しました。
1918年1月,まだ第一次世界大戦の苦悶の只中にあって,アメリカの大統領ウードロウ・ウィルソンは国際連盟を提唱しました。おぼえていらっしゃると思いますが,その翌月ものみの塔聖書冊子協会の会長は,エホバの証者の代弁者として,驚くべき音信「世は終われり ― 現在生存する万民は決して死する事なし」を伝道しはじめました。それから,翌月の初旬に,協会の顕者な代表者たちは人類のただひとつの希望として神の御国を伝道したために逮捕されました。それで,キリスト教国なるアメリカの教会の前で大論争は何であるかはっきり示されました。すなわちクリスチャンと称する者は神の御国か,国際連合か,そのどちらを選ぶべきかという論争です。
第一次世界大戦は1918年の11月に終わり,民主主義の連合軍は勝利を得ました。しかし,ルサフォード兄弟とその仲間の者はまだ刑務所にはいっていました。パリの平和会議は1919年の1月に始まることになりました。アメリカにあったキリスト教国の指導的な教会は,その選んだものを言明しました。しかし,彼らは妥協するためにその論争を混同しました。1918年12月12日,アメリカのキリスト教会連邦会議の実行委員は,年一度の集まりを開き,次のような驚くべき言葉を記す言明文を発表することにより連盟設立を提唱したウィルソン大統領の案を支持しました。d
世界の戦争危機は過ぎ去った。しかし,世界の危機は存在している。……世界を真理,権利,公正そして人道のために組織する時が来た。クリスチャンとして我々は,この目的のために,来たるべき平和会議において自由国家の連盟の設立を強く主張し,すすめるものである。そのような連盟は,単に平和手段であるばかりでなく,むしろ,地上における神の御国の政治的表現である。……勝利の結果から,正義の宿る新しい天と新しい地が来ないならば,死んだ英雄たちは犬死をしたことになるであろう。教会は多くのものを与え,多くのものを得る。教会は,新しい国際制度に神の御国の預言的栄光のごときものを与えることにより,強力な賛同を与えることができる。……教会は,善意の霊を与えることができる。国際連盟は,その霊なしには存続することができない……国際連盟は,福音に根づいている。福音のように,その目的は「地上の平和,人間への善意」である。福音のように,その訴えは世界的である。……われわれはすべてのクリスチャン,神を信ずるすべての者および人間を愛するすべての者に呼びかける。すなわち古い文明の灰の中から公正,協力,兄弟愛,および奉仕というキリストの理想に基づく新しい世すばらしい状態があらわれるように,するため真心をこめて働き,祈るようにと呼びかける。
連邦会議の会長および教会の他の代表的な指導者たちで構成された特別使節団は,1919年のパリ平和会議にその宣言文を伝えるために任命されました。教会人のこの特別な使節団は,フランス,パリの政府役人にこの宣言文を提出したと記録されています。e
トム: あなたの言われた他の社会とは何でしたか。そのひとつは共産主義でしたか。
ジョン: そうです。1917年の革命後には共産主義 ― 最初過激主義と呼ばれていた ― は,ロシアで勢力を増加して行きました。しかし,同じ時に別の勢力も働きはじめました。おぼえていらっしゃるでしょう,19世紀の最後の25年間に真の崇拝が復興しました。それは,サタンの地的制度内に革命的な活動があって以後になされました。しかし,異邦人の支配の終りは1914年に来るとエホバの民が述べ伝えていた約40年のうちに,再建されたドイツ帝国は力を得ていました。カイザル・ウィルヘルムは,この帝国に十分の力を与えるのにほとんど成功しました。しかし,彼は戦争に敗けて,国外に追放されました。
しかし,第一次世界大戦後にはドイツはふたたび強国になりました。1919年の5月,アドルフ・ヒトラーは,ドイツ・ミューニッヒでナチ政党の一員になりました。ナチ主義が権力をにぎるにいたった速度は,イタリアにおけるファシスト主義の運動よりもおそいものでした。このファシスト主義は1919年に始まり,1922年までにはベニト・ムッソリーニの道具に使われてイタリアを支配しました。キリスト教国の牧師は,国際連盟を永遠の平和の希望として人々にさしのべました。しかし,法王ローマの後押しの力をうけたナチ主義,ファシスト主義の力は,次の25年間,拡大していったエホバの証者の社会の存在を危険なものにしました。
ナチ主義とファシスト主義の両方の力は同じ年に出発して,ともに進歩して行きました。一方,エホバの清い崇拝に基礎を置いていたエホバの証者の拡大する社会は神とその御言葉に対する人々の心を柔らげました。しかし,ナチ ― ファシスト ― カトリックの連合は人々の心を神の真の僕たちに公然と敵対させることに大きな役割を果たしました。また過激主義すなわち共産主義も大きな役割を果たしました。
間もない中に始まるこの攻撃に対処するため,エホバは1919年から1922年までの期間中,御自分の民を霊的に進歩させ,将来の仕事に備えるため必要な訓練を与えました。
トム: それで,1919年から1922年までの期間は,エホバの証者と証者に反対する両方にとって意味深いとあなたは仰言られたのですね。ちょうど反対し合う二つの制度が発展してきたようです。
ジョン: そのとおりです。それはエホバの証者にとって重要な変化の時でした。
神権制度についての認識は始まる
1919年の秋,新しい雑誌「黄金時代」を使用するわざがはじまりました。この雑誌は,1919年9月5日の金曜日,シーダー・ポイントの大会で,当時の協会会長,ルサフォード兄弟の話した「共働者へ」という話の中で発表されました。
1919年の神の民たちは,新しい道具「黄金時代」がナチ ― ファシスト ― カトリックの不敬虔な結合をばくろするために果たす意義深い役割をほとんど知りませんでした。その後の年月中,この勇敢な雑誌の記事や漫画によってその結合は痛烈な致命的な強打を受けました。
トム: GA27番のようなもののことですか。この特別号を用いての特別の取りきめがありましたか。
ジョン: ございました。できるだけ大ぜいの人々にこの雑誌を渡すための努力が払われました。約400万部が印刷されて,それらは無料か,または10セントの自発的な寄付で分けられました。家から家に配布されただけでなく,兄弟たちはその雑誌を携行して,友人やちょっとした知合の人々に分け与えました。
しかし,「黄金時代」を用いる正規のわざはちがった仕方で行なわれました。1919年ものみの塔協会の出版したパンフレットの中では次のように述べられています。
黄金時代のわざは,御国の音信を用いての家から家の運動である。われわれは,神の報復の日を宣べ伝え,なげく者をなぐさめる。その運動のほかに,予約が取れても取れなくても,すべての家に「黄金時代」の1部を配布する。……クラス奉仕者は,管理者から見本の雑誌を得る。f
トム: この管理者は,長老が会衆から選出されたように,会衆によって選出されましたか。
ジョン: そうではありません。1919年に開かれたこの新しい奉仕の分野に参加することをのぞんだ会衆は,奉仕制度として協会に登録するよう要求されました。協会はこれらの要請状をうけとると,本部の兄弟たちはその会衆内の一員を神権的に任命して,協会の任命者として,奉仕させました。その者は「管理者」として知られるようになりました。この者は1年1度の選挙に拘束されなかったのです。すると,民主主義的に制御されて,「選出された長老」の下にあった会衆から,権威がはじめて取りあげられて,管理は特に協会の国際的な管轄下にはいったということになります。それは,たしかに制限つきのものでした。しかし,目に見える神権制度は,この取りきめとともにはじまりました。管理者は,民主主義的に選出された長老たちと共々に働きました。長老たちは,いつものとおり会衆の研究や講議を制御しつづけました。
トム: 長老のうちのある者は,その取りきめをかんたんにうけいれるとは思えませんね。
ジョン: 進歩的でない人々,そして将来のわざを正しく認識しなかった人々から,いくらかの反対がありました。あの人々は過去の仕方,つまりパストー・ラッセルの時代に生活することを強調しました。むかしのふつうの兄弟たちは彼を聖書的な解明を与えるただひとつの径路として見なしました。パストー・ラッセルがマタイ伝 24章45節に述べられている僕であるということは,1927年にいたるまでひろく考えられ,認められていました。g しかし,ラッセル兄弟の時代にもものみの塔協会が聖書真理の出版者であったように,この真の崇拝の回復の期間中にもものみの塔協会はエホバにより用いつづけられるでしょう。個人勝手な解釈をうけいれぬよう,そして指導者の振をする者たちに盲目に従わぬようにとの警告が兄弟たちに発せられました。これらの指導者たちは,御国奉仕の拡大よりも,自分自身の個人的な地位に,いっそう多くの興味を持っていました。人間をよろこばすことは,避けるべきでした。h ものみの塔協会は,当時の地方会衆の支配行政についてはその程度までしか管轄権を延ばせなかったのです。i
翌年,協会はいく人かの「選出された長老たち」が次のような考えを持つのをやめさせようとつとめました。すなわち,彼らは,地方的な「理事委員会」を構成し,地方的な会衆から権威を最初に投票されず,その権威を持たなくても独立の道を追い求めることができるという見方です。神の径路は,地方的な長老と会衆との関係を明確にしようと努力しました。j 全世界にわたる一致を求める願いの言葉が発せられました。英国にいる者たちは,アメリカで行なわれているのと同じ仕方でわざをするようにと助言されました。k
兄弟たちが健全な精神を持っていたことは,この新しい活動計画に対する応答の中にはっきり示されました。伝道の責任を強化するとは,1920年に始まりました。そのとき証言のわざに参加した会衆内の各人は,毎週一度報告を出すよう要求されました。1918年前では,聖書文書販売人すなわち開拓者だけが,その奉仕の活動を報告しました。会衆の野外のわざのために明確な区域の割当が会衆になされました。1920年に初めて報告がなされました。この年には8052名の「クラス奉仕者」と350名の開拓者lがいました。1200以上のアメリカの会衆のうち1922年までには980の会衆は8801名の「クラス奉仕者」とともに野外奉仕に従事するため十分に再組織されたと報ぜられました。クラス奉仕者とは,書籍,冊子,雑誌のような文書を寄付で配布した人々のことです。a
[脚注]
a (イ)「聖書の研究」(英文)第1巻(1886年)250頁(1926年版)
b (ロ)1916年の「ものみの塔」(英文)155-157頁。1926年の「ものみの塔」(英文)131-137頁。
c (ハ)1916年の「ものみの塔」(英文)356-370頁。
d (ニ)1919年の「ものみの塔」(英文)31頁。1946年の「ものみの塔」(英文)361頁。
e (ホ)1906年の「ものみの塔」(英文)274頁。
f (へ)1913年の「ものみの塔」(英文)381頁。
g (ト)1918年「ものみの塔」(英文)77頁。
h (チ)1918年の「ものみの塔」(英文)174頁。また1918年「ものみの塔」(英文)78頁をも見なさい。
i (リ)1918年の「ものみの塔」(英文)174頁。
j (ヌ)1900年の「ものみの塔」(英文)64頁。1911年の「ものみの塔」(英文)178頁。1920年の「ものみの塔」(英文)226頁。
k (ル)1919年の「ものみの塔」(英文)249頁。
l (オ)1920年の「ものみの塔」(英文)244頁。
a (ワ)1920年の「ものみの塔」(英文)374頁。
b (カ)1919年の「ものみの塔」(英文)249頁。
c (ヨ)1922年の「ものみの塔」(英文)270頁。
d (タ)1919年1月,連邦会議掲示第2巻,第1号,12-14頁を見なさい。
e (レ)1919年,アメリカ,キリスト教会の連邦会議年鑑報告,11頁を見なさい。
f (ソ)わざはだれにゆだねられているか(1919年。ものみの塔協会のパンフレット)1頁。
g (ツ)1927年の「ものみの塔」(英文)55,56頁。
h (ネ)1920年の「ものみの塔」(英文)5頁。
i (ナ)同じ「ものみの塔」(英文)104頁。
j (ラ)1921年の「ものみの塔」(英文)265頁,343頁。
k (ム)1921年「ものみの塔」(英文)343頁。
l (ウ)1920年の「ものみの塔」(英文)372頁。
a (ヰ)1922年の「ものみの塔」(英文)389頁。