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  • 砂漠の国で見つけた真理のオアシス
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
  • 副見出し
  • 神を捜し求める
  • 聖書の真理にふさわしく生きる
  • 反対に打ち勝つ
  • 喜びに満ちた新しい生き方
  • エホバは苦境の時にも備えてくださる
  • 思いもよらない祝福
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 5/15 313–317ページ

砂漠の国で見つけた真理のオアシス

わたしはハルツームの生まれです。ハルツームとはアラビア語で「象の鼻」を意味します。わたしの生まれ故郷の名前は,白ナイルと青ナイルの合流点のすぐ上にあって二つの川を隔てる狭くて,細長い土地の形に由来しています。この地点から二つの川はナイルのひとつの大きな川となってサハラ砂漠を流れて行きます。探険家や他の人々がハルツームについて芳しくない事を語ったにせよ,わたしにとってそれは“わが故郷”です。

当然のことですが,やけつくような熱帯の太陽の下では暑さにうだります。この土地は海抜わずか360㍍にあって,湿った川の堤から1,2㌔行くだけで,そこは厳しい暑さのために砂漠となっています。またハエとの絶え間ない戦いがあります。また吹きつける砂漠の砂はどこにでも,そしてあらゆるものの中に入り込んできます。時として砂のために昼間が夜のようになることもあります。ほてった体を,ほんのわずかな風にでもあてようと家中でベッドを外に持ち出した時,激しいハブーブの嵐にいつのまにか見舞われていたことが何度あったことでしょう。朝になって目から砂を払い落とし,起き上がってみると,砂だらけのマットレスには体の輪郭が残っています。

ハルツームではこれが生活の現実なのです。この土地でわたしは正統派コプト教会の忠実な婦人会員として家庭を持ち,三人の息子と二人の娘を育てました。

神を捜し求める

わたしは常に神を捜し求めていました。それはわたしだけではありません。わたしは毎朝その事に気付かされました。町の至る所にある回教寺院の尖塔からは勤行時報係の,鼻にかかった読経の声が,太陽の昇る前から聞こえてきました。これは太陽が空を回るにつれて一日五回同じように繰り返されます。ハルツーム,ハルツームノース,オルドルマンの三つ組都市は回教徒が圧倒的に多く,したがってコプト教会の会員としてキリスト教徒を名乗るわたしたちは少数派でした。

神に仕えたいと強く願ったわたしは,若いころ教会の修道女として献身的な奉仕をすることを考えたほどです。しかし自分の信仰とコプト教会の伝統的な儀式についての疑念に悩まされていました。教会の祭礼の飾りたてた行列と,手のこんだ飾りは,イエス・キリストの簡素な生活とどうして調和するのでしょうか。また“地獄の火”の恐怖と,説明のつかない,こみ入った三位一体を思いめぐらして眠れない夜を過ごした事が何度もありました。これらは自分のクリスチャンの信仰の一部としてわたしが心から受け入れるに至らなかったものです。夫は宗教的な事柄にほとんど関心を示さない人でしたが,わたしは結婚後も子供を連れて欠かさず教会に行きました。その事のためにわたしたちは隣人や親類に“受け入れられ”ました。わたしたちはナイルの泥を焼いたれんが造りの家でかろうじて生計を立てていたのです。わたしたちの家は優美なコプト教会の近くにありました。

1958年8月のある暑い日,わたしは家で裁縫をしていました。真理を見いだして神を崇拝したいと願っていたわたしは祈りの気持ちで神の助けを求めていました。するとそこへ ― 一人の人が家に訪れたのです。彼女はわたしの宗旨を明らかに示す十字架や宗教的絵画が壁に飾られているのを見たに違いありません。その婦人は聖書のことを話すために来たのでした。このような宗教的付属物が真のキリスト教の表現ではないことを示す聖書の句を,彼女が苦もなく見つけたので,わたしはそのことにすぐ感銘を受けました。

彼女の聖書はわたしのアラビア語の聖書とは違うと言ってわたしが反論すると,彼女はわたし自身のその聖書を持って来て調べてはどうかと勧めてわたしの反対にすぐに応じました。こうしてわたしの古い,あまりきれいでないアラビア語の聖書が持ち出されました。そしてその中からわたしが聖句を見つけ出せないことはすぐに暴露されました。このようにして聖書の内容を調べることは,司祭から一度も勧められたことがありません。しかしイエス・キリストに関する聖書の真理,死者に対する希望その他わたしの心に貴重な事柄を説明された時,わたしは何という心の喜びを味わったことでしょう。話し合いを終えてわたしは聖書研究の手引きである二冊の本を即座に求めました。

訪問した婦人を送り出したわたしは,自分の祈りがかなえられたことを悟り,文字通り喜び踊りました。この砂漠の国でわたしは真理の水によってさわやかにされたのです。

聖書の真理にふさわしく生きる

オムドルマン,エル・マサラマと呼ばれるこの近隣での生活は自分だけの私的なものという訳にはいきません。茶色の泥れんが造りに陸屋根をのせた粗末なわたしたちの家に来る珍しい訪問客は,たちまち近所の人の注目を集めました。わたしたちの家はオムドルマンの水準から見てさえ非常に粗末で,いちばん下の息子などは砂あらしが窓を吹き破り,激しい雨が屋根を通して流れ込んだ時のあったことを今でも覚えています。とはいえ神を求めることに幸福を見いだそうと努めていたわたしにとって,毎週の聖書研究は非常な喜びとも楽しみともなりました。しかし親類や以前の友人はこのような楽しみを共にしようとせず,聖書研究者である訪問者に対して異常なほどに批判的な目を向け始めたのです。

討議を始めて最初のころに十字架の事が採り上げられました。わたしはなるべく大きく,そして目立つように十字を切ることを子供たちにいつも教えていました。それが子供たちを守護することになると考えていたからです。それぞれが首に十字架をかけていましたし,この象徴はわたしたちの信仰生活でかかせないものになっていました。それで十字架の使用が非キリスト教のものであるという十分な証拠を示されても,十字架を除くことを好みませんでした。このような新知識は家族の他の者にも影響し始め,夫はこの新しい訪問者のことでわたしに警告し,友人としてのみ彼女を歓迎すればよいと言いました。長男も“伝道者”が家に来ることについて日曜学校の先生に話すようになり,彼女は‘良くない’から少しもかかわりを持たないようにと教師は口をきわめて勧めました。それでも神を喜ばせたいというわたしの願いは強く,二か月間学んで後に,わたしは宗教的な十字架と絵をすべて取りはずして庭のごみ捨て場に投げ込んでしまいました。

エホバとそのお目的についての真理を初めて学んだ,わくわくするような喜びに動かされてわたしはあらゆる機会に親類,友人,隣人のだれかれをつかまえてはその話をしました。隣人はわたしたちが聖書を学んでいる最中に庭や家に石を投げ込んでそれに応じました。教会の司祭や親せきは研究をやめさせようと何度も試みました。

毎年わたしの家ではマリアの祭りを祝うのがしきたりで,特別のケーキを作り,親族と共にそれを特別な日とするのが常でした。しかしマリアにはイエスの誕生後に他の子供たちもいたことを聖書から今学んで,わたしは非常に驚いたのです。それでマリアの祭りはもうしないと宣言した時,長女は聖書を教える訪問者との研究をやめてほしいと強く訴えました。「マリアを祭ることをやめなくてもよいではないかしら」とわたしは考え始め,こう結論しました,「あの婦人が今度みえたら,お客として歓迎しますが,宗教のことは話さないでくださいと言いましょう」。

この事は大変気がかりであったため,次の聖書研究の前日に台所で転んだことが,わたしには自分のしようとしている事に対する神罰に思えました。するとごらんなさい。その婦人がいました。彼女は一日早く来たのです。そして転んで泥だらけになっているわたしを見ました。彼女に助け起こされてわたしが自分の考えていた事を語ると,驚いたことに彼女はわたしを優しく抱きしめ,せっぷんしたのです。この事について話し合ってのち,わたしたちは共に祈り,神の言葉の真理に固くつき従えるように力を求めました。マリアの祭りはそれきりしなくなりました。

反対に打ち勝つ

近隣からの干渉はますます強まり,わたしの新しい友人に危害を加えようとこん棒で武装した人々が押しかけて来たので,わたしは彼らが司祭と共にわたしの家に来て聖書研究者と討論することを勧めました。約束の日の晩,日中の暑さも過ぎたころにエル・マサラマの人々はこぞってサクスつまり市場に出かけるかわりにわたしの家にやって来ました。家の中は満員になり,家の外の庭の囲いの中は,スーダンの伝統的な白い衣服とターバンを着けた人々でひしめき合うほどになりました。司祭たちはみずからはやって来ずに道の端に陣どり,討論の間,助祭と彼らの代わりの者が時おり飛び出して行ってはこれらの高僧に伺いをたてるのでした。

その晩にはけんそうの中で多くの事が論じ合われました。でもわたしが今でも思い出すのは教会の代表者が群衆に向かって叫んだ言葉です。「静かに。これはためになるからわたしも聞いているのだから」。それでも彼は最後にわたしにこう言いました。「教会の信仰から離れてはいけない」。それは確かに記憶に残る夜でした。わたしに関する限り,真理は依然として正しいことが立証され,わたしは砂漠の国でオアシスを見つけた人のように真理によって引き続きさわやかにされました。

しかし近隣の人々と教会は満足せずに妨害を続け,石を投げることをやめませんでした。わたしたち一家を脅そうと,大量の汚水が庭にぶちまけられたこともあります。ある隣人の家に許可を得ずに入ったという不法侵入のかどで警察に訴えられた時,反対は最高潮に達しました。わたしは告訴され,民事法廷に出頭することを命ぜられました。そこにはオムドルマンでいちばん良いと言われる二人の弁護士が待ちかまえていました。禁固3か月に罰金50スーダン・ポンド(約4万5,000円)ということです。しかし弁護士の一人はわたしの行動が「スーダンにおけるシオン主義の始まり」であると述べて全く見当違いな事を申し立てました。

判事は判決を下すにあたってこう尋ねました,「この婦人を相手どってあなたがた弁護士が二人も出かけて来たのはなぜですか」。判事は,もしわたしが望むならば,スーダン全土にでもわたしの宗教をひろめる自由があるとの判決を述べました。事件の結末に対してエホバに感謝する気持ちでいっぱいであったわたしは,アフリカ最大のこの国で真理を証しするわざがどんなに大変なものかその時には思い至りませんでした。しかしエホバがしてくださった事に対する感謝のしるしとして,良いたりの全時間宣明者になる願いを抱いたことは確かです。

喜びに満ちた新しい生き方

今や日ごとに神の言葉を学び,神の王国について他の人々に語るのがわたしの生活となりました。朝早く起きて午前9時までに一切の家事を終え,フールつまりパンと豆の朝食ともいうべきものをとり,それから午後1時30分に子供たちが学校から帰るまで王国を証しするわざに加わるのが常でした。太陽の炎暑が一日の営みを支配するスーダンでは,午後2時ごろから5時ごろまでラハト・エル・ズールつまり昼休みがありますが,午前中を活用することによって証言活動に毎月90時間までを費やすことができました。

1959年5月,わたしは夫と二人の年上の子供と共にエホバへの献身の象徴として白ナイル川の水でバプテスマを受けました。その数日後,アフリカ奉仕旅行の途上でスーダンを通ったものみの塔協会会長ノア兄弟の訪問を受けたことは喜びでした。

そのころは忙しい日々を送りました。わたしは今や良いたよりの「正規開拓」宣明者でした。毎日のようにわたしはオムドルマンの迷路のような砂だらけのでこぼこ道に姿を現わし,牛乳配達がろばの両側に牛乳の鑵をぶら下げ,自分の足はろばの首の上にくるぶしを組んで道を行く前を横切ったり,市場へ荷を運ぶらくだに自分の行く手をさえぎられたりしながら町をめぐりました。オムドルマンのほとんどすべての通りには,旅人のかわきをいやすための回教徒の備えである大きな陶製の水がめが木蔭に置かれていますが,わたしは今やそれにほとんど目を留めなくなりました。わたしは真理の水によっていやされたのです。

わたしは週の間に日を定めてそれぞれの子供を別々に教え,個人的な注意を払うようにしました。いちばん下の息子は学校に上がらないうちから「失楽園から復楽園まで」という本を使ってアラビア語を読むことを覚えました。

エホバは苦境の時にも備えてくださる

その後わたしたちは突然に危機に見舞われました。夫の失業で収入が無くなったのです。どうしたらよいでしょう。わたしはいくらかの貴金属と三枚のじゅうたん,そして他の物を売りました。ついでわたしたちは家のはとに目を向けました。そのころ,はとはほとんど奇跡的に増え,末の息子は毎日二つがいか三つがいのはとを市場に持って行っては15ピアストル(約135円)で売ることができました。はとはあり余って毎日の食糧の足しにさえなるほどでした。このような境遇にあってほとんど1年の間,エホバはわたしたちを養ってくださったのです。ある日,王国奉仕に出かけようとしていた時,1ピアストルも残っていないことに気づきました。どうする事ができるでしょう。すると娘は以前にピアストルを蓄えていた古い鑵を見つけました。わたしたちはそれを忘れていたのです。いくらかのお金がありました! それは奉仕する区域に出かけ,またその日の食糧を買うのに足りる額でした。

1962年の3月,わたしは「特別開拓者」の隊伍に加わるように招待されました。彼らは神の王国を人々に説明することに毎月140時間かそれ以上を捧げる人々です。以来ずっとわたしはこの特権にあずかっています。

思いもよらない祝福

1963年の初め,訪問中のある兄弟が家を訪れ,その年おそくにドイツのミュンヘンでクリスチャンの大会が開かれることについて語りました。そこに行ってもっと多くのクリスチャンの兄弟と交わることを,わたしはどんなに望んだことでしょう。でも言うまでもなくそれは不可能に見えました。すると六日後に長女が航空会社の国際線のスチュワーデスに採用され,その事からわずかな費用で往復切符を入手でき,こうしてミュンヘンで信仰を共にする多くの人と集まることができたのは言いしれない喜びでした。

次男と下の娘は1962年に,そしていちばん下の息子は1965年にそれぞれバプテスマを受けました。エホバに対する彼らの熱心は常にわたしの喜びでした。この娘はエホバに全時間奉仕する願いを培って1968年以来「正規開拓者」となり,1971年にわたしと同じく「特別開拓者」となりました。そして会衆の奉仕のしもべの妻となって結婚生活に入ってからもこの特権を保っています。三人いる息子のいちばん下はいま職を得て妻を養い,会衆内の奉仕のしもべの特権を果たす余裕を生み出しています。

わたしにとってすばらしいのは,神の王国の事柄を第一にしてきた間に生活水準が向上してきたことです。わたしたちは物質よりも霊的な事柄を常に第一にしてきました。それによってわたしたち家族は祝福され,30人以上の人がエホバに献身してバプテスマを受けるのを助けることができました。しかしわたしたちは他の面でも繁栄しました。ミュンヘン大会に出席して以後,わたしは家族と共にヨーロッパおよびアフリカ各地での国際的なクリスチャンの大会に出席してきました。経済的危機を通過してのち,わたしたちはオムドルマンからハルツームに移り,拡大を続ける会衆の集会を開くことのできる大きさの家に今では住んでいます。

次男は学業に良い成績を収めてエジプトの大学に進むことを決めましたが,わずか1年で家に戻り,家族と共にスーダンで真の崇拝をひろめるわざに精力を傾けています。彼はいま長老であり,その能力と献身的な働きは会衆に大きく役立って皆に喜ばれています。

渇ききって砂漠のオアシスにたどり着いた人の思いは,その渇きをいやした人でなければ本当には分かりません。そして他の人々が生気を取り戻すのを見る幸福はさらに喜ばしいものです。こうして真理の水はわたしと家族にとって祝福となってきました。そしてこの事に対してわたしたちは真理の泉であられるわたしたちの神エホバに深く感謝しています。

[313ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

スーダン

ハルツーム

ナイル川

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