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  • 町の乱暴者がクリスチャンの奉仕者になるまで
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 9/15 552–556ページ

町の乱暴者がクリスチャンの奉仕者になるまで

ハリー・S・ヨシカワの語った経験

今から50年近く前に私が生まれ育った,ハワイの小さな地区に住む隣人たちと言えば,ばくち打ちや乱暴者,それに泥棒などでした。父は荒っぽい漁師でしたが,武術の達人でもありました。

父は,兄と私がまだ幼い時分から護身術を教えてくれました。私たちはよく武道の競技会に出場し,大抵の場合,優勝するか,さもなくば二位になりました。私が13歳になったとき,私たちは日本へ行き六か月間滞在して,さらに武道の腕をみがいたものです。また,ハワイの元ミドル級チャンピオンからボクシングの手ほどきも受けました。

こうして私は毎週のようにけんかをするようになり,そのため“小さな巨人”というあだ名を付けられました。しかし,私は決して小さい方ではありませんでした。夜中に友人たちがやって来て,ホノルルかワイキキでだれかとけんかをさせるために私をよく連れ出したものです。

1944年に軍隊に入ると,ヨーロッパに送られました。そのころは第二次世界大戦の真っ最中で,戦禍は見るも無惨でした。戦後,“ビーチ・コーマーズ”という楽団を結成し,さらにハワイアン・ボクシングのチームをも作りました。私たちは軍人と軍属双方を楽しませながら,ヨーロッパ中を旅行しました。そして,数枚のレコードを録音し,ラジオ番組にも出演しました。

決して忘れられない二人の若者

1945年の初頭,ベルギーで戦争が行なわれていた当時,私は初めてある事柄を耳にしました。それは当時,自分にとって余り意味のない事柄でした。私は先任下士官でしたが,18歳位の一人の若者が毎週のように事務所へやって来て,地に平和をもたらす政府を神が建てることについてよく話して行きました。なぜ入隊していないのかと尋ねると,すでに軍隊,それもキリストの軍隊に入っているのだという答えが返って来ました。私にはその答えの意味がさっぱり分かりませんでした。

1946年にヨーロッパ戦線から帰国した後,別の十代の若者から聖書についての話を聞きました。最初,その若者が話し掛けて来たのは,私がいつもけんかをしたり,酒に酔ったり,その他の悪事を働くといった生活をしていたからだと思いました。私は,ベルギー人の若者の言っていた事柄を思い起こし,その音信が同じものであることに驚きました。

この若者は,ある劇場のすぐ横の路上で宗教雑誌を配布していました。その子がかわいそうでしたし,自分のほうが恥ずかしく思ったので,家に帰るなり,私と一緒に映画を見に行くなりできるよう,その雑誌すべてを求めると言ったものです。ところが,その若者はいつも決まって私の申し出を断わりました。同年代の若者と比べると随分変わった子だと思いました。

結婚しても変わらなかった

私は時おり,けんかの時間を割いては求愛に精を出し,やがて結婚しました。しかし,結婚しても毎週のように行なうけんかは終わりませんでした。

家に帰ると,別の種類のけんかが待ち受けていることもありました。妻は,自分と子供を家にほっておいて出歩いたと言ってはよく怒ったものです。あるとき,路上でけんかをして相手を打ち負かし,朝の6時になって意気揚々と帰宅しましたが,妻はまんじりともせず待ち構えていました。私は地下室から忍び込み,酔ったふりをしようとしましたが,妻を欺くことはできませんでした。妻は待っていましたとばかり,げたで私に殴りかかりました。

変化のきっかけ

1954年は,人生の転換期になりました。バス会社で働いていた同僚から,「新しい世を信ずる基礎」,そして「ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世」と題する二冊の小冊子をもらったのです。私はそれを受け取り,それを繰り返して読み一夜を明かしてしまいました。そして,この宗教は確かに異なっており,自分の知っている他の諸宗教とは違うことが分かりました。

私たちと同じブロックのどこかに,この宗教に属する一家が住んでいると聞いていたので,その家族を捜すために家から家へと訪ねて行きました。それは火曜日の晩で,その家を尋ね当てた時にはちょうど聖書研究が行なわれていました。エホバの証人かどうかを尋ねると,その人たちは答えるのをためらいました。きっと,私がぶっきらぼうで,粗野な話し方をし,おまけに古い作業衣を着ていたからでしょう。私が騒ぎを起こしに来たと思ったのかもしれません。

しかし,家の中に招じ入れられて,ことのほか親切に,また手厚くもてなされ,実にくつろいだ気分になりました。その結果,私のいつもの態度はすっかり陰をひそめ,自分の言動を恥ずかしく思うようになりました。その人々は時間を割いて聖書から数多くの論点を説明してくれ,個人的な聖書研究を始めるよう,そして聖書の集会すべてに出席するよう勧めてくれました。その家を去るときには,この人たちは真理を持っているに違いないと感じていました。

私は勤め先のバス会社の同僚と研究をするよう勧められました。その人はエホバの証人でした。ところがなんと,私は以前にその人の風さいがどうしても気に入らず,ひっぱたいてやろうと思ったことがあったのです。しかし,学びたい一心で,私は謙そんになり,聖書研究を司会してくれるようその人に頼むことにしました。

その人は私が家に近づいて来るのを見て,私が何かもん着を起こしに来たに違いないと考えました。その人の奥さんが応待に出て来て,クリスチャンとしてのひとかたならぬ親切を示してくれました。主人の方の恐れもやがて消え去り,聖書研究が始まりました。二か月もたたないうちに,私は友人や親族に自分の学んでいる事柄について話すようになりました。しかし,それは巧みな話し方とはおよそ縁遠いものでした。

私は妻に,我々はもはや仏教徒ではなく,クリスマスやその他の異教の祝祭をこれからは祝わない,とぶっきらぼうに告げました。そして,この決定を受け入れないと容赦しないと言い放ちました。妻は私がとうとう頭に来てしまったと思い,“お宅の息子さん”の挙動がとても変なので,どうしたら良いのかと私の両親に助言を求めました。母は自信たっぷりに,「心配しなくてもいいよ,うちの息子は熱しやすくてさめやすい方だから。三か月もしてごらん,そんな気違い宗教やエホバのことなんか,けろりと忘れてしまうから」と言いました。

公の証言

しかし,今度ばかりは母の考えは間違っていました。やがて私は,他の人々に加わって,公に証言をするようになりました。最初の伝道は忘れられないもので,危うく悲惨な結果を招くところでした。主宰監督が,街頭で聖書に関する雑誌を配布する業に連れて行ってくれました。

私は通行人に,「『目ざめよ!』を読みましょう」と呼び掛けていました。すると,一人の人がいかにも意地悪そうに,「こちらはちゃんと目ざめているので,そんなくずみたいな雑誌はいらないよ」と答えました。その途端,私の古い人格がよみがえりました。

「ほう,ちゃんと目ざめているだと。それも長いことはないぜ。間もなく眠らせてやるからな」と言って殴りかかり,二ブロックほど先までその人を追い掛けたのです。あわてふためいた主宰監督がそこでようやく私に追い付き,相手の人をまだ捕まえていなくて本当によかったと言いました。もし私がその人を痛い目に遭わせるなら,神のお名前に非難をもたらすことになる,と主宰監督は説明しました。私は,警察に捕まっても自分がエホバの証人だとは言わないで,ペンテコステ派の一員だと言うので心配ないと言いました。

その監督は忍耐強く私を正し,それではうそをつくことになると説明してくれました。それからというものは,主宰監督は私のすぐ隣りに立っていました。私は恥ずかしく思い,家に帰ってエホバに許しを祈り求めました。エホバのお名前に非難をもたらそうなどとは思いもよらないことだったからです。

他の人の家を初めて訪問したときの経験も,ちょっとしたエピソードです。最初の家で,私はなかなか人の善さそうな婦人に会いました。その婦人は聖書の話に耳を傾け,様々な質問をしました。しかし,その質問は聖書に関するものではありませんでした。婦人はこんな質問をしました。「あなたは結婚していますか。お子さんは幾人いますか。お宅ではだれが料理をするのですか」。

その家の主人は,彼女がだれと話しているのかと思って,顔を出しました。そして,彼女は精神病にかかっていて,完全に気が触れているので,そんな事を話しても時間のむだだと言いました。しかし婦人は質問をし続け,私の方は聖書の話を最後まですることができました。そのお陰で,次の家に行く自信が付きました。そしてなんと,次の家で,関心を示した人が聖書研究の手引き書を三冊求めたのです。その日の終わりまでに,私はさらに七冊の本を配布しました。

根底から変化する

私のニコチン中毒は相当なもので,夜中にたばこが切れると,妻を起こして,隣家にたばこを二,三本分けてもらいに行かせたほどでした。しかし,神のみ言葉を学んだ結果,喫煙はクリスチャンの生活と相入れないことが分かりました。それで研究を始めてから三か月して,私は喫煙の習慣を断ち切りました。

私は自分がエホバに献身したことを水のバプテスマによって表わすことに決め,1954年7月17日にバプテスマを受けました。そして今度は,家族そろって真の崇拝に加わることが私の大きな願いとなりました。

妻が家事を一切行ない,夫は何の手助けもしないのが東洋の習慣です。私はこの習慣を守り通していました。しかし,妻にも聖書を研究してもらいたいとの願いがそうした考えよりも強くなり,やがて皿洗いをしたり,汚れたおむつを洗ったり,料理や育児の手伝いをしたりするようになりました。

あるとき,友人たちと共に浜辺へピクニックに行った際,私は波乗りやいつものような会話を楽しむかわりに,皆に向かって聖書を読み出しました。私の執ような伝道から逃れるため,彼らは散歩に行くことにしました。しかし,私が聖書を手にしてすぐ後から付いて行ったので,彼らは失望しました。そしてついに,妻と友人夫婦は定期的に聖書研究をすることに同意したのです。

母は,考えていたこととはうらはらに,私がエホバに対する奉仕への関心を失わないことを悟りました。母は私が身に着けていった新しい人格が一時的な気まぐれでないことを理解するようになりました。それで母も,何が私の人格を変えたのかを知るため,聖書を研究することに同意しました。

1955年6月25日は,私にとって人生の最良の日とも言えました。その日はエホバの証人の大会でバプテスマの施される日でした。そして,浸礼希望者の席にはだれが座っていたと思われますか。妻と母,そして友人夫婦の四人全員が,エホバに対する献身を表わす用意をして,そこに座っていたのです。

それ以来,同僚であるバスの運転手の多くが聖書の真理を受け入れ,エホバの証人になるのを見る喜びにあずかってきました。その中には,私が壁に押さえ付けて,痛い目に遭わせてやると脅したことのある運転手もいました。その人は今では旅行する監督になっています。

奉仕の機会

バプテスマを受けた翌年から,私は会衆内にあって様々な立場で用いられるようになりました。そして1958年には主宰監督として,またホノルル市の都市の監督として任命されました。

家族を養う責務があったので,“開拓者”として全時間の伝道奉仕に携わることなど,自分にはとても無理だと思えました。四人の子供たちはまだ学校に通っていました。しかし,できる時はいつでも,家族で一時開拓をしたものです。そして,妻は1963年に正規開拓者になりました。

私たちの会衆には開拓者精神があふれていました。ある月には会衆の成員の半分以上が一時開拓を行なったことがありました。全部で72人が一時開拓に携わったこともあります。一つの会衆でこれだけ大勢の人が開拓奉仕をするのですから,良い計画と多大の助け合いが必要でした。子守りや車の手配,そして区域の取り決めが綿密に作られました。私たちは皆,実に楽しくその月を過ごしました。

1967年に,私は巡回の業にあずかるよう招待されました。それはハワイ諸島の諸会衆を訪問して,それぞれに霊的な励みを与える仕事です。それは願ってもない機会でしたが,まず家族に相談せずにその招待を受け入れることはできませんでした。というのは,子供たちのうち三人はまだ学校に通っていたからです。

子供たちは喜んでパートタイムの仕事をすることを申し出て,私がこの新しい任命を受け入れられるよう,できる限りどんなことでも助けになりたいと言ってくれました。一人の娘はこう言いました。「お父さんはいつも私たちに開拓奉仕をするように励ましてくださったけど,お父さん自身はどうなの。今ここに,エホバに全時間をささげる機会が開かれているじゃないの」。

巡回の業を行なっている間に,数々の異なった,そして時には興味深い経験に出くわしました。中でも特に印象に残っているものがあります。一方が自分の家の庭に垂れ下がって来た隣人のマンゴーの木を切ったために,隣人同士大変仲の悪くなっていた人たちがいました。そして,ひどい言葉や脅しを互いに浴びせ合っていました。木を切った方の人の家を私が訪れたとき,その人は私が事件を捜査している刑事だと思って,家の中へ入れてくれました。

私が話し出すと,その人は,『この刑事は随分変わった近づき方をするものだ。聖書を使って私を戒めようとするなんて』と考えたそうです。しかし,数分たって私がエホバの証人であることに気付き,自分はこれまでにエホバの証人を家の中へ入れたことは一度もなかったと言いました。その人は聖書研究をすることに同意し,一家そろって研究に加わるようになり,良い進歩を示しました。やがて,その人の親族や友人,合わせて十人がエホバの証人になりました。

子供たちは今では皆大人になっています。一人の息子は,エホバの証人の世界本部であるブルックリンのベテルで四年間奉仕しました。この息子夫婦は,現在,米領サモアで地域および巡回監督として奉仕しています。二人の娘は特別開拓者です。もう一人の息子夫婦には今では女の子がいますが,やはり良いたよりの活発な宣明者です。そして,私と妻は今でも巡回の業を続けています。

町の乱暴者としての私の評判を覚えているのは今日ではごく少数の人です。事実,私の過去について聞いて,とても信じられないと言う人もいます。今では,ハワイ諸島で平和を愛するクリスチャン奉仕者として広く知られるようになったからです。こうして,私たちの偉大な神エホバを代表できるのは何と喜ばしいことなのでしょう!

[554ページの写真]

東洋の習慣に反して,私は家事を手伝うようになった

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