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  • 「全世界に,天使にも人々にも見せ物にされた」
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 9/1 538–543ページ

「全世界に,天使にも人々にも見せ物にされた」

マックスウェル・G・フレンド

「すべて神を恐れる者よ,来て聞け。神がわたしのためになされたことを告げよう」。(詩 66:16)私が今しようと思っているのはこのことです。

私の先祖はアブラハムです。アブラハムと同様,私の心からの願いは,エホバを永遠の友とし,いつまでもエホバとともにいたいということでした。

9人の子供を持つ敬虔なユダヤ人を両親とする家庭に私が生まれたのは1890年でした。そしてユダヤ教の正統派の教えの中で育てられ,学校に行く前からヘブル語の読み書きを教えられました。それで,厳格なユダヤ教の教師からではなく,敬虔な両親に幼い時から教えられて,神に引き寄せられました。ユダヤ教の教師から習ったことと言えば,形式ばったヘブル語の祈禱や無意味な儀式だけでした。

1897年,家族はスイスのチューリッヒに移りました。この町に来て小学校の1年生になった私は,初めてイエスの誕生の物語りを聞かされ,すっかり感激しました。その後,子供向きにやさしく書かれ,さし絵のついた宗教の本をようやく手に入れましたが,私はまだドイツ語をほとんど知りませんでした。それでその本は大きな活字で印刷され,ヘブル語およびギリシャ語聖書中のすばらしい物語りがのせられており,深い興味を覚えたのですが,苦心して何度も読み返しました。よく知っているヘブル語聖書中の物語りや,メシヤおよびその初期の弟子たちに関する耳新しい物語りはいずれも私の心に生き生きと映り,私はすっかり魅了されてしまいました。私の幼い心はそれらすべての物語りをそのまま信じました。しかし後日,そのころ人気のあった学問,おもに生物学と宇宙論の書物に興味を抱くようになり,知的視野を広げた私は14歳当時,それまでの形式だけの宗教を棄ててしまいました。

成年期にはいって

いわゆる高度の大学教育を幾年か受け,同時に,宗教の不快な形式主義,無意味な教義,恐るべき宗教的な偽善をさらに知り,遂に,幼い時代の純粋な信仰を失い,不幸な懐疑論者,不可知論者,進化論者になってしまいましたが,それも長い期間ではありませんでした。幼少のころから神の創造のわざの美しさを深く愛していたため,この尊崇の思いに動かされて再び神への信仰を取りもどしたのです。スイスのチューリッヒの有名な市立演劇場で3年間,演劇の激しい訓練を受けたのちの1912年には,演劇場の近くの美しい湖の岸辺に腰をおろして思いにふけったものです。驚嘆すべきすべての創造物はたしかに,計り知ることのできないはるかに偉大な創造者によって造られたのだという事実に私の心の目がふたたび開かれたのはこの場所でした。

その後まもなく,私が神に信仰を抱いていることを知った,ある親友の母親が現代訳のクリスチャン・ギリシャ語聖書を下さったのです。この聖書を読んで私の心には喜びが高まり,幼いころキリストに対していだいていた信仰がよみがえってきました。それは1912年のことでした。今や私はより深い理解をもって,ナザレのイエスが救い主であり,御父の御国の王であり,約束されたメシヤであると信じることができました。

献身

そしてすべてを考慮したのちに私は,その尊い地的生命を犠牲にして私を贖ってくださった偉大な主の足跡に忠実に従うことにしました。

1912年当時,私は知りませんでしたが,チューリッヒでは十数人の熱心なクリスチャンが神の国について宣明していたのです。彼らの所属する団体は現在エホバの証人として知られていますが,当時,彼らは「聖書研究生」と呼ばれていました。たまたま友人を訪問した際に,友人の音楽室の一隅で「三つの世界」と題するパンフレットを見つけました。女中が郵便受けから持ってきて,そこに置いていったのです。万国聖書研究会発行のドイツ語のそのパンフレットに興味を感じた私は,友人に話して,それを家に持ち帰りました。その夜遅くまでかかって注意深く読んだ私は,それが真理であり,そしてイエス・キリストの真の追随者が発行したものであることに気づきました。

チューリッヒを訪れるチャールズ・T・ラッセル

その後まもなく,アメリカ人の聖書研究者で世界各地を旅行するチャールズ・T・ラッセルの公開講演を宣伝する大きなプラカードがチューリッヒ市内の各所に現われました。講演の題は,「墓のかなた」でした。プラカードには,鎖で縛られた聖書からキリストの霊が出てきて,あらゆる教派の牧師たちの厳粛な長い行列に非難の指を向けている様子が生き生きと描かれ,彼らを告発する次のようなことばが書かれていました。「あなたがたは……わざわいである。知識のかぎを取りあげてきた」(ルカ 11:52)「確かにそのとおりだ!」と私は思いました。そして,チューリッヒ随一のコンサート・ホールであるトーンハーレでの公開講演の夜が待ちどおしく思えてなりませんでした。

当日の夜,コンサート・ホールに行ったところ,会場の入口には大勢の人々が入場許可を待っていました。残念なことに,ホールはすでに満員で,入口の扉は閉められていたからです。そして講演はラッセルの通訳によって1週間後にもう一度行なわれるという発表があり,入口で待っていた人々は帰りました。

今度はだれよりも早くコンサート・ホールに行き,扉の開かれる時を待ち,場内にはいってすぐロビーで,「世々にわたる神の経綸」と題する本を求めました。これはラッセルの幾冊かの本の第1巻でした。直ちに読みはじめましたが,その本の内容に魅了されてしまい,司会者が講演者を紹介する時まで,その本から目を離せませんでした。そして,それまで求め続けてきたものを遂に見つけたのだという大きな喜びを感じました。

講演を一語一語食い入るように聞いた私には,その1時間はあまりにも短く感じられました。帰宅したのちも,買い求めてきた本を幾時間も読み続けました。正直に言って,読んだ事柄のすばらしさにしばしば圧倒された私は,喜びの涙のあふれ出るのをどうすることもできませんでした。そして,その本を通して聖書の真理が次々に解明されるので,遂に翌日の明けがたまで読み続けましたが,しかしその日の仕事もあるので,ちょっとの時間まどろむことにしました。

その日の午前中の練習はシェークスピアの有名な劇「ハムレット」でした。しかしこの時ばかりはどうしても練習に心を打ち込めませんでした。私は次のように自問したのです。神のことばに反しているにもかかわらず,殺された王である父が幽霊として生きているなどとどうして言えようか。血の復讐をすると誓えるだろうか。死んだ王の「不滅の魂」と話し合ったり,煉獄や地獄の火を,さも真実のように語ることができるだろうか。

「死の深い眠りの中ではどんな夢が現われるのだろうか」というようなせりふを繰り返せるだろうか。「死後の恐れ」とか「旅人の決してもどれない未知の国」などということばを,それが非聖書的であることを知った今,はたして口にし得るだろうか。そして,これからはほとんどすべての演劇で同様の良心上の悩みに直面しなければならないことに,とっさに気づきました。不敬虔な偽りをもはや劇の中で語れないということを知ったのです。私の心は,色あざやかに美しく輝くシャボン玉を喜々として追いかけ,つかまえたとたんにシャボン玉が破裂したときの子供心の空しさにも似ていました。

初めて会衆と交わる

遂に私は,チューリッヒ市内の聖書研究生の集会所と集まる時間を知りました。集会所は市内のホテルの一室でした。集まっていた十数人の人々は私を心から親しく迎えてくれました。彼らの熱心な聖書研究に参加した私は,生まれて初めて,私たちの先祖が荒野で用いた幕屋の全容やその預言的な意義を知ったのです。今や私の眼前には,新しい真実の生活の門口が大きく開かれ,神の民の愛すべき一群の人々とかたいきずなで結ばれている自分を感じました。彼らと交わる時,本当に心のくつろぐのを感じました。しかし今でも私は,世界中のどのエホバの証人の集会に出席しても,同じ暖かい思いを味わえます。

神の国の良いたよりに関しては,次のように語ったエレミヤと同様に感じました。「わたしの心にあって,燃える火の……ようで(した)」。(エレミヤ 20:9)心の中に収めておくのはとても困難で,語らないわけにはゆきませんでした。ヘブル語聖書にかなり精通していた父は私の話に虚心に耳を傾けましたが,多くを語ろうとはしませんでした。母は父同様に敬虔な人で,私の語ることをむしろ喜んでくれました。イエスに関しては二人とも,「彼がメシヤであるということはあるいは真実かもしれない」と認めざるを得ませんでした。何年ものちに死期の近づいた母親は病床で,聖書と「神の立琴」の本を熱心に読みました。約束された復活の時が訪れて,両親が十分の理解を与えられ,そして永遠の生命の報いを得ることを私はどんなに待ち望んでいることでしょう!

私の4人の兄弟と4人の姉妹はどの宗教にもはいっていませんでした。それぞれ自由主義の考えを持ち,私の見出した新しい信仰を黙認するだけで,めったに反論しませんでした。幾人かの親友がいましたが,みな宗教心のない人たちで,「理想主義的な幻想」を私に捨てさせようと懸命に説得してきました。彼らの友情を失ったのは大きな悲しみでしたが,しかし神は,マルコによる福音書 10章29,30節の約束どおり,その時以来その友の代わりに「百倍」をもって報いてくださったのです。

私はチューリッヒ会衆で無料頒布用の文書を得,最初に多数のユダヤ人の家々の郵便受けにイディッシュ語の大版のパンフレットを入れて回りました。次に異邦人用としてドイツ語のパンフレットを得ました。このような方法および口頭の証言によって,1914年は現在の悪の秩序の「終りの時」の世界的な動揺が始まる年であるという重大な警告を伝え,神の国の良いたよりを広めるわざに参加しました。―ダニエル 12:4。

全時間奉仕

聖書に言う「畑に隠してある宝」つまりエホバの御国を見出した私は,「その畑を買う」ために,俳優としてのこの世的な野望はもちろんのことすべての物質的な欲望を捨てなければならないということを悟りました。(マタイ 13:44)その代わりに,使徒パウロが指摘した「全世界に,天使(と)人々に」対する「見せ物」の中の一つの小さな役を謙虚に演じてゆきたいと願うようになりました。それによって自分にではなく,エホバに誉れと賛美をもたらすことができるのです。無神論的な考えを持つ監督に自分の意向とその理由を打ち明けたところ,彼は失望の色をありありと浮かべ,私の意向を変えさせようと説得しましたが,それは無駄でした。しかし彼は,何年かのちに死ぬ時まで,彼の言う「時あるもの偶然なるもの」によって私がやがて「理想主義的な幻想」から目ざめるだろうという望みを捨てませんでした。

その翌年,1913年の早春,エホバと彼の奉仕に対する献身の象徴として浸礼を受けました。浸礼は,市立演劇場の近くの美しいチューリッヒ湖のまだかなり冷い湖水で行なわれました。それから,自分にできることであればどんな奉仕でもさせていただきたいと,ものみの塔協会のドイツの支部事務所に願いを出したところ,ベテルと呼ばれる支部で働くように招待されました。しかし両親は失望してしまいました。そして二人は利己的な考えから,私の幸福に資する他の道を歩ませようとしました。

当時バーメンにあったドイツの立派なベテルの暖かな楽しい雰囲気の中でいろいろの地味な奉仕を手伝いました。そのころのベテルの家族は15人ほどの小さなもので,ほかに支部のしもべの可愛らしい二人の娘がいました。その妹のフェーベ・ケーティッツは長年の間,開拓者つまり良いたよりの全時間の伝道者として奉仕し,今もアメリカでその奉仕を元気に続けています。当時ベテルで働いていた人で,今も元気に奉仕しているのはハインリッヒ・ドウエンジャーです。彼は今もスイスのベルンの支部で忠実に奉仕しています。多くの事柄を学び,たくさんの仕事を行なったので,ベテルでの最初の1年は瞬くまに過ぎ去りました。

のちにものみの塔協会の会長に就任したJ・F・ラザフォードが支部を訪問した際に,オーストリアおよびハンガリー地方の多くのユダヤ人の間で,メシヤによる御国の良いたよりを広めるためにその地におもむけるかどうかと彼は私に尋ねました。(私の肉身の兄弟3人およびフランスに住んでいた義理の妹一人をも含めて,この地のユダヤ人の大半は後日ナチの手で虐殺されました)喜んでその招待に応じた私は,1914年の初頭チェコスロバキアの首都プラハに向かいました。古い歴史を持つプラハ市内の広いユダヤ人地区の家々を回って,イディッシュ語のパンフレットを配布しました。次にオーストリアの首都ウィーンに行き,同様の奉仕をしましたが,当時私は一人でその仕事をしていました。ウィーンには「ものみの塔」誌の予約者がわずか4人しかいませんでした。それで再三彼らを訪問しては,神のことばに対する彼らの関心を強めるよう助け,その中の二人とは毎週家庭聖書研究を行なえました。その後,協会から一人の援助者が派遣されましたが,そのわざを二人で行なえるようになったのは確かにうれしいことでした。(伝道 4:9-12)私一人でしていた時よりもはるかに多くの仕事を二人で行なえたのです。

ユダヤ人は,私たちのことをキリスト教国の宣教師と取り違え,良いたよりにほとんど応じようとはしませんでした。何世紀もの間,国から国に追われ,火や剣で残忍にも殺害されてきたため,彼らはキリスト教国にいささかの愛をも感じなかったのです。当時でさえ帝政ロシヤでは牧師が企てた残忍無比な計画つまりユダヤ人の虐殺が行なわれていました。ウィーンのユダヤ人地区を回ったのちに,スロバキアのプレスブルグにおもむきました。この町のユダヤ人地区でパンフレットを配布していた時,熱狂的で凶暴なユダヤ人の暴徒の一団に襲われ,キリスト教国の宣教師にまちがえられたため,その地区から追われましたが,神の保護を受けて無事に急場を切り抜けました。しかし,これら誤導された哀れな民は神の保護を受けなかったのです。その20年余ののちに,ここプレスブルグに住むユダヤ人のほとんどすべては,悪鬼につかれたナチの手で滅ぼされてしまいました。プレスブルグの次にハンガリーの首都ブダペストのユダヤ人地区を回りました。

さて,1914年の秋が迫まるにつれて,聖書預言に指摘されている異邦人の時期の終わりを予期していたため,私たちの期待はますます高まってゆきました。当時を回顧してみると,その年が人類史上の画期的な年だったことがよくわかります。私たちがウィーンにもどり,その地にとどまっていた時,第一次世界大戦が勃発しました。この大戦のために人々が受けた苦しみを思い,心は痛みましたが,しかしそれにもかかわらず,異邦人の時の終わりに関して長年待ち望んできた聖書預言の成就をみて言いしれぬ喜びを味わいました。

それにひき続いて起きたのは,キリストの油そそがれた成員で地上に残っている者たちが3年半にわたって恥ずかしめられたことです。それは彼らが象徴的な荒布をまとった期間でした。(黙示 11:2,3,7-11)1919年,エホバは,捕われの状態にあったその民を「バビロン的な」束縛から解放しはじめられ,「いのちの息が,神から出て彼らの中にはいり,そして,彼ら(は)立ち上がった」のです。そして私も彼らとともに「神の子たちの栄光の自由」にはいり,思いを新たにして全時間の神権的なわざを再び行なうことになりました。(ローマ 8:21)スイスにもどった私は,そこで,妥協せずに忠実を守ったため,悲痛な試練にあいました。

私の良い助け手となり忠実な伴侶になった妻イルマを得たのは,エホバの民のチューリッヒ会衆でのことでした。私たちは一緒に,チューリッヒにある協会の中央ヨーロッパの事務所で奉仕し,のちにはスイスのベルンのベテルで働きました。これらの歳月はきわめて忙しくかつ産出的な時期でしたが,また,協会内の高い責任の地位にあった不忠実な者たちに災いされた危険な試みの時でもありました。エホバは彼らが私たちの上に立つことを許されたために,余儀なく「火の中,水の中」を通らされ,私の謙遜さは試みられましたが,のちに私の苦しみは取り除かれました。―詩 66:12。

協会の本部での奉仕

1926年,ラザフォード兄弟の招きで,ブルックリンにある協会の本部に移りました。ここでも翻訳者としての特権をひき続き保ち,それはさらに拡大されました。妻は,スイス人特有のきれい好きで物事をきちんと整える持ちまえの良さを発揮して,ベテル内の部屋の掃除や整頓の仕事を手伝いました。また翻訳の仕事の合い間には,巡回者つまり協会の代表者として旅行し公開講演をする特権を与えられ,合衆国内に散在しているドイツ人の会衆を訪問し,カナダにも行きました。時にはラジオ放送を通じて,ドイツ語およびイディッシュ語でキリストの御国の良いたよりを伝える機会をも得ました。

その後,思いもよらない奉仕の特権がエホバの恵みで与えられました。それは,大きな評判を博した聖書劇および牧師にそそのかされて偏見をいだく判事や検事によりアメリカで行なわれたエホバの証人に対する横暴な裁判を再現する劇を監督し上演する特権でした。その劇により彼らの虚偽は公に暴露され,エホバのしもべたちのわざの正しさは立証されました。これらのラジオ番組の熟練した劇の出演者や音楽家たちは,「王の演劇団」として広く知られました。彼らの劇は協会の所有していたラジオ放送局WBBRおよび,ニューヨーク,ニュージャージー,ペンシルベニア各州の他のラジオ放送を通じて幾年も放送されました。

ギレアデ

1943年,協会はものみの塔ギレアデ聖書学校を創設し,外国の地における特別の奉仕のために宣教者や他の宣教のための代表者に高度の訓練を施すことになりました。この学校は,1943年以来の御国伝道者の大きな増加に大いに貢献しました。身に余るエホバの恵みで,私はその教訓者の一人に用いられ,聖書研究および公開講演の二つの学課を担当することになりました。私はこの仕事に心を打ち込み,神の助けと導きを得て17年余の間に宣教者34クラスと御国宣教学校の10課程で教えました。

70歳を迎えるに及んで,自分の仕事を軽減せざるを得なくなりましたが,協会のN・H・ノア会長の親切な取り計らいでギレアデ学校の責任を解かれ,妻イルマとともにブルックリンのベテルに再びもどり,やさしい仕事を割り当てられました。ギレアデ学校の所在地の美しい御国農場を去るのは辛いことでした。農場とそこに住む人々は忘れられませんでした。しかし再びベテルに住んでみて,だれかが,「この世から全く離れた所」と評したことばの真実さを以前にもまして深く感じています。この組織がいかに円滑に運営され,心から協力し合うクリスチャン精神がいかに満ちあふれているかを深く知るには,ここベテルに住んでみなければなりません。ここでは,だれ一人追いたてられて働く者はなく,監督者の姿もあまり見えません。しかしここには活動が満ちあふれ,驚くべき量の仕事が成し遂げられているのです。

1913年以来これまでに与えられてきた奉仕の割り当てのすべては,感謝すべきことですが,新しくされるごとにそれはさらに良いものでした。このすばらしいベテルの家での現在の生活は今までの中で最良のものです。次にさらに良いものを受けるとすれば,それは天の命以外にはないと私たちは考えています。

77歳の今,それは当然のことですが,仕事をしてもすぐ疲れます。しかし,引退しようなどとは少しも思いませんし,これからも決して思わないでしょう。真実なこと,良いこと,愛すべくかつ美しいことに対する私の感覚は今も生き生きとしており熱意を感じます。聖書にこう書かれているとおりです。「正しい者は……香柏のように育ち……彼らは年老いてなお実を結び……〔エホバ〕の正しいことを示すでしょう」(詩 92:12-15〔文語〕)大きな仕事はできなくても,小さな仕事を心をつくして行なえます。そして,自分が「ふつつかな僕」の一人にすぎず,主のわざに関してこれまでに行なってきたことすべてを考えると,なすべき事をしたにすぎないということがよくわかります。―ルカ 17:10。

長年にわたって行なってきた御国奉仕を回顧してみると,良い時や悪い時,喜びの時や悲しみの時がありましたが,すべては自分の試練と鍛練の機会となったことに気づきます。神の山のすばらしい登山も時にはきわめてけわしく困難でした。時にはつまづいて倒れ,傷を負ったこともありましたが,あわれみ深い私たちの案内者の力強い助けをいつも受けて,立ち上がり,勇気を新たにして再び注意深く登りはじめました。神が約束してくださったすばらしい祝福はすべて実際に成就されたということを私は確言できます。(ヨシュア 23:14)小さな役を謙遜に演じて,エホバの立証という宇宙的な偉大な劇に貢献するということは,何物にも比べられない貴重な特権だと思います。神の真理の光を見るまでの私は,死の谷の暗黒の中をさまよい,目的もなく生きていたにすぎませんでしたが,私たちの王である救い主の犠牲を通して偉大な天の父に献身した時以来,生きるにふさわしく喜びにあふれ充実した真実の生活を確かに送ることができました。私の心からの願いそして最大の望みは,天の御国で大いなる者となることではなく,神にまみえ,神および私たちの救い主とともにいつまでも生きることです。そのために私はすべてを捨てました。しかし,命の冠を与えられ,なかんずく永遠の友エホバとともになる祝福を考えるとき,ああそれはなんと取るに足らぬものでしょう。

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