「あなたのみことばは真理です」
「聖週間」はクリスチャンのためのものですか
エルサルバドルでは「聖週間」が近づくにつれ,おとなも子供もその話で持ち切りです。中央アメリカの国々では3月か4月に当たる“クアレスマ”すなわち四旬節の8日間は,ある人にとって,1年で最も神聖な時期です。それでこの「聖週間」中,多くの信心深い人々は一時的にしろ敬虔深い気持ちをいだきます。しかし他の人にとって,四旬節は,しばしば不品行を産む娯楽にふける時にすぎません。
この週中,人々の道徳観は低下し,不法や無秩序がごく普通のものとなることは注目に価します。たとえばひとつの主要雑誌「ラ プレンサ グラフィカ」は1967年3月27日号の誌上で,「聖週間中,死者70人,負傷者986人」と報じました。これはエルサルバドルのような小さい国にとって驚くべき数字です。しかもわずか4日間の死者数なのですからそう言えます。
この時期には,多くの人々が肉を食べないという宗教的慣習を守ります。それで,たいていのカトリック教徒の家庭では「聖週間」中に,乾燥した塩づけの魚を食べるのが普通です。
また信者たちは,「聖週間」の始まる何か月も前から高価な服地を買えるように貯金します。普通その服地は紫か黒で,人々はそれで僧侶の着るような長い衣を作り,「聖木曜日」と「聖金曜日」に行なわれるたいせつな宗教行列の時に着てねり歩くのです。「聖金曜日」は「聖週間」の中で一番重要な日です。若者も,さほど信心深くない人もお金をためますが,彼らはおもに,木曜日から「復活祭」にかけての休日を目あてにしています。
「聖金曜日」の儀式は,イエスの像を教会の十字架から取りはずすことにより始まります。その彫像は非常に高価な香水を注がれ,手足の傷がよく見えるようにしてガラスの棺に置かれます。それから行列が始まります。何千もの人々が死をいたみながら,木製の重い壇の上に用心深く置かれている像のあとをついて行きます。その壇が重ければ重いほど,通りから通りへとそれを運ぶ人々の犠牲は価値のあるものと考えられています。
行列は一日じゅう市内をねり歩き,人々は長い黒の衣を着て,嘆きながら後ろについて行きます。50人ほどのかつぎ手は区画ごとに交代します。かつぎ手はそれぞれ,イエスの像を一区画運ぶ特権を得るため4ドル(1,440円)も支払います。行列がとまるごとに,それも一区画内で数回とまりますが,人々は爆竹をならし,嘆きの声に陽気な騒ぎの声を加えます。
オガクズで作られた色とりどりの意匠もまた興味深いものです。これにもやはり多額のお金が費やされています。グアテマラのアンティグアやエルサルバドルのサンソナテなどの町は,色とりどりの美しい巨大なオガクズ製“敷物”で有名です。それが大きければ大きいほど,またそれに費用をかければかけるほど,玄関先にその“敷物”を作った家は尊敬されます。行列が通過するとき,行進している人々は“敷物”が完全にこわれるまで踏みつけます。そのような印象的なオガクズを使って人の目を奪い,自分自身と自分の家に関心を引き寄せることに,人々は満足を覚えているようです。
しかし考えなければならない質問があります。「聖週間」はクリスチャンが守るべき正しい宗教的祝祭ですか。その祝いや儀式は神のみことば聖書に基づいていますか。「聖週間」の祭りについて,聖書はなんと述べていますか。それらの答えを得るのは賢明なことです。
まず,ある人は,「聖週間」につきまとう不法・不道徳・無秩序に対して疑問をいだいています。真のクリスチャンの祝祭なら,イエス・キリストと聖書の教えをまったく無視して,それをだいなしにすることなどできないはずではありませんか。実際のところ,そのような実は,真実に上品で賞賛に値する,クリスチャンにふさわしいものではありません。―コリント後 6:14。ヤコブ 3:11,12。
したがって,予期されるとおり,「聖週間」の祝祭を守ることに関する指示は聖書のどこにも見あたりません。事実,その祭りの際中に行なわれる慣行や行為は聖書の教えとまったく矛盾しています。「聖週間」中に肉を断つことはその一例です。聖書は,そのように宗教的理由に基づいて食物を断つことは背教の特徴であることを指適し,次のように述べています。「ある人々が信仰を遠ざか(る)……であろう。かれらは偽善のいつわり者にまどわされ,……信じて真理を知った者に感謝をもって受けさせようとして,神が創られた食物を断てと命じる」― テモテ前 4:1-3,バルバロ訳。
イエス・キリストは,「霊と真理とをもって」神を崇拝しなければならないと述べられました。(ヨハネ 4:24,バ)イエスのこのことばは,イエスの像を主役に宗教的行列をする“聖週間”の行事と一致しますか。一致するどころか,物体の像に栄誉と敬意を示すのは,「(我らは)見ゆる所によらず,信仰によりて歩め……り」という聖書の原則を明らかに破っています。―コリント後 5:7。
しかし,「聖週間」を守る人の中で,あがめられているのは像ではなく,像が表わすイエス・キリストであると唱える人があるかもしれません。しかし神の率直な戒めはその種の,像への相対的崇拝すら禁じています。神はこう言われています。「自分のために,なんの彫刻した偶像も,つくるな,上は天に,下は地に……あるものの,どんなかたちのものも,それらの前に……崇敬をしめすこともすな」。「あなたたちは,自分たちのために,偶像をつくってもならないし,彫刻した姿も,立石も建てず,そのまえでひれふすために,自分たちの住む地に,浮き彫り石を置いてもいけない」。「小さな子らよ,偶像を警戒せよ」。―出エジプト 20:4,5。レビ 26:1。ヨハネ第一 5:21,バ。
木や石,あるいは宝石でできた無力の物体をあがめるのは,知恵のないことではありませんか。それは命の通わない,人間の手のわざにすぎません。それは人間と違って推理することができず,語ることもできません。ちょうど,子供と話をすることのできない人形のようなものです。それは請願を聞くことができず,迫ってくる危険に気づいて,警告の叫びをあげることさえできないのです。それゆえ,「聖週間」になされるごとく像をあがめるのは愚かであると聖書が示していても少しも不思議ではありません。―イザヤ 44:9-20; 46:5-7。詩 134:15-18,バ。
聖書の中でクリスチャンが守るように命じている祝いはただ一つあります。それはイエスご自身の死の記念です。この祝いがどのように取り決められ,それを祝うことがクリスチャンの守るべき事柄となったかに注意してください。聖書は次のように説明しています。「時刻が来たので,イエズスは,使徒たちとともに,食卓におつきになった。……そしてさかずきをとり,感謝して『これを取ってたがいに分けよ……』とおおせられた。またパンを取り,感謝してさき,弟子たちに与えて『これはあなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれをおこなえ』とおおせられた」。―ルカ 22:14,17-19,バ。
真のクリスチャンが守るべきものは,この年一回の祝いであり,聖書に反する習慣や儀式を伴う「聖週間」ではありません。クリスチャンにとって,イエスの死を記念するこの祝いは,真の崇拝に一致させ,キリストを人間のあがない主として備えられたエホバ神のあわれみを正しく認識する機会となるのです。