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  • 神への信仰,それは一つの生き方
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目ざめよ! 1977
目77 3/22 20–23ページ

神への信仰,それは一つの生き方

米国の政策調査センターが1974年に行なった世論調査によれば,調査の対象となった人々の69%は「神が存在することを確信して」いました。このことは,それらの人すべてが神に信仰を持っているという意味ですか。そうではありません。どうしてですか。なぜなら,神に信仰を持つことは一つの生き方だからです。

神の存在を信じることと,神に信仰を持つことには大きな違いがあります。例えば,一つの国の国民なら自国の特定な政治家の存在を知っていることでしょう。しかしそれは,そうした国民が皆その政治家を大統領に選ぶほど信頼しているということですか。決してそうではありません。

聖書記述者のヤコブは,まさにこの点を強調しています。「あなたは,ただひとりの神がおられることを信じているというのですね。なるほどそれはりっぱです。ですが,悪霊たちも信じておののいているのです。しかし,ああむなしい人よ,あなたは,業を別にした信仰が無活動であることを知りたいと思いますか。実に,霊のない体が死んだものであるように,業のない信仰も死んだものなのです」。言い換えれば,神に信仰を持つことは一つの生き方であり,その結果として人は行動を起こすようになります。そうでなければ,その信仰は死体のようなものになってしまいます。―ヤコブ 2:19,20,26。

イエス・キリストは,この同じ点を繰り返し強調されました。それでイエスは,山上の垂訓の結びとして,イエスの言葉に従って行動し,それを自分の生き方とする思慮深い人と,イエスの言われることを聞くだけで満足し,何も行なわない愚かな人とを対照させた例えを話されました。同様にイエスは,『くちびるでは神に近付きながら,その心は神から遠く離れている』ような人々を激しく非難されました。また,『言いはしても,実行しない』宗教上の偽善者を厳しく戒められました。(マタイ 7:24-27; 15:8; 23:1-4)このようにある人々の偽善について述べた際,イエスは預言者イザヤの言葉を引用されましたが,このことは,その預言者の時代にも同様な状態が見られたことを示しています。―イザヤ 29:13。

また,神に信仰を持っていると唱える現代の非常に大勢の人々に関しても同じことが言えます。それゆえ,1974年4月号の「現代の神学」誌に載せられた論説は次のように述べています。「全般的に,クリスチャンが,他の宗教の人々や全く無宗教の人々に比べて,より愛情深く,より寛大で,より思いやりがあるなどとはとても言えない」。

しかし,彼らが従っていると唱える教え手,また模範者は,こうした点に関して最高の基準を示されたのですから,それらの人々は,より愛情深く,より思いやりがあり,より寛大であるべきではありませんか。悲しいことに,現実は,米国の人気随筆家が何年も前に「禁欲主義者は皆,禁欲主義者であったが,キリスト教世界のどこにクリスチャンがいるのだろうか」と言わざるを得なかった状態と変わってはいません。

そうです。イエス・キリストが教え実践された,神への信仰とは,単に信じるということだけではなく,一つの生き方なのです。その理由で,1,900年前の初期の時代に,神への信仰は“道”として知られていました。例えば,タルソスのサウロ(パウロ)は,転向し自らイエス・キリストの追随者となる前に,『だれでもこの道に属する者を見つけたら,男でも女でも』迫害していた,と記録されています。―使徒 9:2。ほかにも使徒 19:9,23; 22:4; 24:22をご覧ください。

知識は主要条件

「信仰とは神の言われることをそのまま信じることである」とはよく言ったものです。しかし,神がご自分のみ言葉の中で述べておられる事柄についてほとんど知らないなら,どうして神のみ言葉を信じることができるでしょうか。使徒パウロが書いた通りです。「人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか」。(ローマ 10:14)そのようなわけで,エホバのクリスチャン証人は,人々を転向させるために,教祖的な宗教演説家に頼ったりはしません。むしろ,証人たちは,この世に見られる邪悪な事柄のゆえに『嘆き悲しんでいる』人々や,「自分の霊的な必要を自覚している」人々を探して家から家を訪れます。―エゼキエル 9:4。マタイ 5:3。

エホバの証人は,喜んで学ぶそうした人々に,神の属性や特質,地的創造物に対する神のみ業やご要求などについて神のみ言葉である聖書が述べている事柄を教えます。そのようにして証人たちは,イエスの次の命令を遂行しているのです。「それゆえ,行って……弟子とし……わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」。そのように守り行なうことが一つの生き方なのです。―マタイ 28:19,20。

正しい出発

そうした知識を得て,神に信仰を持つようになると,学んでいるそれらの人々は,神への信仰を一つの生き方とするために犠牲を払うことさえできるようになります。そうするためにある人々が払った犠牲の良い例は,1974年の初めにアルゼンチンで開かれた「神の勝利」大会でバプテスマを受けた人々の語った言葉に示されています。その一人,C・H氏は次のように語りました。「私は軍隊に入る四か月前に,聖書の真理の正確な知識を学ぶようになりました。そのため私は重大な決定を迫られることになりました。私はエホバの側を支持する決定を下しました。カンポ・デ・マヨの刑務所で三年間服役する刑を受けましたが,エホバの証人として,今日,バプテスマを受けることができ,私は本当にうれしく思っています」。

また,A・L氏は自分についてこう語りました。「私は,有名なテレビの喜劇役者でした。私は,エホバが清い組織を持っておられるという真理を学び,仕事の性質上,重大な決定を迫られることになりました。幾度も祈った結果,エホバは私に,正しい決定を下す力を与えてくださいました。それで,私は聖書の原則に反する不道徳な番組への出演契約すべてを破棄するようになりました。そのため,収入だけでなく,テレビでの私の人気もがた落ちになりました。けれども,エホバ神に奉仕するという特権のためにそうしたのですから,私は満足でした」。

生き方に関する別の種類の試みに首尾よく対処したのは,L・M夫人です。彼女は次のように語りました。「私が最初にエホバのクリスチャン証人と聖書の研究を始めたとき,夫はそのことに反対しませんでした。しかし,聖書研究が進むにつれて夫は本気で反対するようになりました。神権学校で初めての割り当てを果たす日に,夫は王国会館へやって来て,『お前はエホバの証人かおれか,どちらかを選ぶのだ』と言いました。私はエホバ神の側を選ぶと告げました。15年間の結婚生活の後,夫は法的に別居の手続きを取り,私たちは実際に別居生活をしています。それでも私は,こうしてこの大会に出席でき,エホバの証人の一人としてバプテスマを受けられることをうれしく思っています」。神への信仰が単に神の存在を信じることだけではなく,神の表明されたみ言葉と調和した生活をすることが関係しているという点を示す,こうした例は幾らでも挙げることができます。

その生き方を続ける

正しい出発をした後には,正しい道を歩み続け,正しい動機を保たねばなりません。クリスチャンは,税金を支払うことなど,国の法律に従うことにより,『カエサルのものはカエサルに返さ』ねばなりません。(マタイ 22:21)処罰を恐れるためだけではなく,良心のためにもそうするのです。使徒パウロが諭している通りです。「したがって,あなたがたがどうしても服従するべき理由があります。その憤りのためだけでなく,あなたがたの良心のためでもあります。それゆえに,あなたがたは税を納めてもいるのです」。(ローマ 13:5,6)この点に関して言えば,エホバのクリスチャン証人は,税金を支払うという義務を忠実に果たすことで,公に度々,賞賛を受けてきました。

敬神的な生き方には,雇われている者として良心的に働くことも含まれています。今日,できる限り怠けようとする人々や,上司が見ているときだけ働いて,人を喜ばせようとする人は少なくありません。しかし,真のクリスチャンは次のような聖書の原則に従って行動します。「あなたがたの主人である者に対し,すべての事において従順でありなさい。……何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい。あなたがたは,しかるべき報い……をエホバから受けることを知っているのです」。(コロサイ 3:22-24)そうした諭しに留意した結果,エホバのクリスチャン証人たちは働く者としての良い評判を得てきました。エホバの証人と聖書を学んで間もない一人の若い女性が取った行動は証人たちの教える業がもたらした結果の典型的な例と言えます。その女性の仲間は,上司の見ていない時でも彼女が非常に良心的に働くのをあざけりましたが,彼女はこう答えました。「でも,どんなときでも見ておられる方が天にいらっしゃいます」。

生き方に神が関係しておられる分野は外にも挙げることができますが,その一つは配偶者に対する貞潔です。神のみ言葉は率直にこう述べています。「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。(ヘブライ 13:4)この問題に関して神のみ言葉に同意しない僧職者は増える一方ですが,真のクリスチャンは神のご要求に従って行動します。この点に関しても,エホバのクリスチャン証人たちは,りっぱな評判を得ています。例えば,「新カトリック百科事典」は“エホバの証人”について論じた箇所で,「結婚や性に関する彼らの道徳律は極めて厳格である」と述べています。そうです。聖書と同じように厳格なのです。―第七巻,864ページ。

証しの業を行なう

神への真の信仰が一つの生き方であることを示す最も顕著な点は,証しをし,宣べ伝え,教える活動にあると言えるでしょう。それゆえ,イエスは,ご自分の追随者に,彼らの光を人々の前に輝かせるようにと命じられ,また人々の前でご自分を認めるのを恥じるようなことがないように,もし恥じるなら,イエスもご自分の天の父の前で彼らを認めるのを恥じるであろうと警告されました。(マタイ 5:14-16。マルコ 8:38)イエスは特に,ご自分の追随者たちに最後の言葉を語られた際,次のような義務を彼らに負わせました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし……彼らにバプテスマを施し(なさい)」。そしてイエスの弟子たちはその言葉を理解しました。弟子たちが,迫害によって散らされた際,「みことばの良いたよりを宣明しながら全土をまわった」と書かれているからです。―マタイ 28:19,20。使徒 8:4。

実際に,弟子たちは大変勤勉に働いたので,使徒パウロは『あなたがたの聞いたその良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです』と書くことができました。(コロサイ 1:23)イエスもまた,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と予告されました。(マタイ 24:14)この点でも,今日エホバの証人だけが,宣べ伝え教える業を生き方としています。例えば,報告によると,1976年4月には,215万3,539人が宣べ伝え教える業に携わり,137万3,707件の家庭聖書研究を司会しました。

そうです。神に信仰を持つことは確かに生き方です。それは,満足と心の平安,また幸福をもたらします。それは単に,神とキリスト・イエスを信じるということだけではなく,聖書の原則に従って生活し,神とイエス・キリスト,またその王国に関する真理を知らせる業に携わることを意味しています。これこそ,エホバのクリスチャン証人が行なっていることであり,証人たちは,このような生き方を受け入れたいと望む人をだれでも喜んで援助しています。

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