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目ざめよ! 1979
目79 6/22 21–24ページ

命の音信を携えて水路密林地帯に分け入る

ペルーの「目ざめよ!」通信員

大型ボートに乗ってジャングルを旅してみたいと思われませんか。ジャングルは,巨大な樹木と種々の植物が密生し,さまざまな鳥の奇妙な鳴き声や無数のこん虫の羽音,それに野性動物の叫び声でにぎやかな所です。きっと楽しいでしょうね,とあなたは言われることでしょう。

「良いたより」の宣明されねばならない地域

ペルーの密林地帯は74万7,287平方㌔にわたり,この国のほぼ五分の三を占めているため,そこではこうした経験をする機会がふんだんにあります。この密林地帯の西の境は高いアンデス山脈に接しています。熱帯のこの広大な密林では,絡み合った植物の至る所に数知れぬこん虫がすんでいます。その中には,蚊やブヨ,イサンゴス(穿孔虫の一種で,特に足首などの皮膚の毛穴に入って激痛を引き起こす)のような害虫も含まれています。また,ジャガー,アリゲーター,グアンガナス(密林にすむ野性のブタ)といった野性動物の種類も相当の数に上ります。特に低地では,川が唯一の交通機関となっています。

水路の数は幾千幾万を数え,規模が大きく水量の豊かな水路もいくつかあります。三つの大きな川,つまりウカヤリ川とマラニョン川,そして二つが合流してできた大きなアマゾン川が密林地帯を縦横に流れています。大小さまざまな川がこれら三つの主要な川に流れ込み,人間の体で言えば動脈と静脈のように,伝達網を形成しています。この水路網は,人が全く住めない地域にまで通じています。

この広大な地域には,一年の特定の時期だけ土地を耕す人たちが住んでいます。また,カシーボ,シピーボ,カンパ,マシゲンガといったアメリカ原住民の数多くの部族もこの広大な密林を絶えずあちらこちら移動しています。

ウカヤリ川を少し詳しく調べてみましょう。それは(その支流の中で最も長いアプリマク川を含めると)全長2,700㌔にも及びます。川岸には,プカルパ,コンタマナなどの大きな都市があります。近年の石油や木材産業の発展に伴い,日ごとに商業活動が高まって水路の交通量が増大したため,これらの都市は現在繁栄しています。

エホバの証人がペルーの人々に命に関する聖書の音信を宣べ伝え始めたとき,海岸地方や山岳地方の人々のもとへは容易に出掛けて行くことができました。しかし,こうした密林地帯に住む人々はどのようにして「良いたより」を聞く機会を得たのでしょうか。

解決策が見いだされる

弟子を作るというクリスチャンの業の拡大を願っていたエホバの証人は,達し難い区域からさし向けられた挑戦に喜んで応じました。彼らは川を行き来できる屋形船の建造を思い付きました。ペルーにやって来た(1940年代の半ばに)エホバの証人の最初の宣教者の中にウォルター・アキンという人がいましたが,この活発で熱心な同労者によって彼らは励まされました。アキンはその計画が完成を見るまで援助を続けました。

船には,川旅に耐えられるがんじょうさと,六人の人が生活できる広さが必要でした。計画は技術者たちの手に引き渡され,彼らは次のような特色を持つ船を設計しました。船体は長さ9㍍,幅3㍍,重さ5㌧。総鉄製で,河川航行用に特に設計された50馬力のディーゼルエンジンが備え付けられています。また,寝室や食堂,台所,浴室などもふさわしく備え付けられました。

建築作業はカヤオのあるエホバの証人の仕事場で始められました。カヤオはペルーの主要な港町ですが,大西洋岸にではなく太平洋岸にあります。このため,15㌧の鉄製の船をどのように太平洋岸からひき上げてアンデス山脈を越えさせるか,どのように海抜4,815㍍の峠を越えさせて,ジャングルへ下ろすかという現実的な問題が生じました。解決策としてただ一つ考えられたのは,船を二つの部分に分けて建造し,山を越えてから密林の中で組み立てるという方法でした。

ウカヤリ川沿岸のプカルパという港町でその屋形船は再び組み立てられました。この“人命救助”船にはどのような名前を付けたら良いでしょうか。エル・レフーヒォ号(避難所)という名前が最適のように思えました。

このくらいの大きさの船は比較的大きな川しか航行できませんでした。こうした川に注ぎ込む,航行不可能な支流の沿岸,ならびに付近のすべての湖の沿岸に住む人々のもとへは,どのように達することができるのでしょうか。船外機を付けたペケペケという小型の船が造られました。大きな川を移動するときにはエル・レフーヒォ号に乗り,小さな川や湖の場合にはペケペケを使うことになりました。そのほかの地域へは徒歩で出掛けて行きます。

さて,プカルパではすべての準備が整いました。特別な任務を預かる乗組員が必要とされました。リマにあるものみの塔協会の支部事務所は,密林に住むできるだけ大勢の人々のもとへ行くという,この挑戦的で興味深い業に全時間携わることのできる人々を六人捜し出しました。村人たちや部族民たちは習慣や方言がそれぞれ非常に異なっているため,それは本当に困難な仕事でした。

フランシスコ・エチェガライという,ペルーのある会衆の経験を積んだ監督はこの大型ボートを管理するよう任命されました。彼は長年全時間の伝道活動に携わってきただけでなく,以前船員をしていたために航海術によく通じていたのです。それから残りの五人の乗組員が選ばれました。気候や環境の変化に慣れるのが難しく,時折,乗組員が交代することもありました。

これら“開拓者”たちの主要な二つの目標は,できるだけ大勢の人々に命の音信を伝えること,そして自分たちの高い霊性を保つことでした。そこで,エル・レフーヒォ号は小さな会衆として活動し始め,巡回監督の訪問から益を受けることさえありました。

乗組員のためにきちんとした日課が決められました。台所仕事などの決まりきった仕事は,“家族の監督”として任命された一人の監督の下で交代で順番に行なわれることになりました。この取り決めには調整と改善が加えられ,その結果,次のような日課が定まりました。起床時刻は午前四時で,まず川の中で運動量の激しい入浴を済ませます。運動量が激しいと言うのは,もし体を動かすのをやめるなら,ピラニア(この魚はさらに奥地にすむピラニアほど大食家ではありません)などの魚がかじりに来るからです。ベルが鳴ると全員が集まり,日々の聖句を討議するために食卓に着き,それから料理当番が朝食を出します。主に出されるのはタカーチョという料理で,これはバナナとオートミールと揚げ魚でできています。

そして午前六時に,文書を積んだ船外機付きの小さなモーターボート,ペケペケに乗り込んで一日の奉仕に出掛けます。そのころまでにたいていの人は一日の活動をすでに始めており,夜の七時か八時ころにはすべての活動を終えているので,早い時刻に奉仕を始めるほうが良いとされています。

経験

この船で命の音信を宣べ伝えることにより,何が成し遂げられてきたでしょうか。1976年9月から1977年7月にかけて,プカルパの南にあるニュー・サン・ホァンという村が本部として用いられました。開拓者たちはウカヤリ川とその支流を上下しながら,両岸の町々や村々を訪問しました。セパ川流域の人口のまばらな地域にまで行ったこともありました。“宣教者の船乗り”たちはこれらの場所に到着すると,土地の責任者と話し合い,村人たちが公開講演に集まれる時間を取り決めます。講演の後,関心を示した人々には聖書文書が配られます。集会を開くために,教室や個人の家,ホテルのロビーなどが使われました。

ニュー・サン・ホァンの村には500人の人が住んでおり,その大半はプロテスタントです。兄弟たちが到着したとき,村人たちはこの新参者たちを自分たちの宗教に改宗させることに自信を持っていました。ところが,しばらくすると全く反対のことが起きたのです。エル・レフーヒォの船乗りたちは関心ある人々と多くの聖書研究を行なうようになり,やがて平均23名の人々が集会に出席するようになりました。

この地域にはシピーボ族とコニーボ族が住んでいますが,“宣教者の船乗り”たちは原地の人々と奇妙な取り引きを行なうことができました。彼らは言葉を交換したのです。ものみの塔協会の出版物を使いながら,原地の人々は宣教者に彼らの方言を教え,宣教者は彼らに母国語のスペイン語を教えるのです。

1977年8月に,その屋形船は北へ向かって移動し,コンタマナに到着し,そこに新しい本部が置かれました。コンタマナの人々は聖書に大きな関心を示しました。彼らは日夜宣教者を訪ねては質問したり文書を求めたりしました。聖書研究が幾つも取り決められ,これらは一つに集められ会衆の集会となるまでに発展しました。六人の宣教者が「川の危険」という使徒パウロの言葉を鮮明に思い浮かべたのは,このコンタマナでのことでした。(コリント第二 11:26)どのようなことがあったのでしょうか。

暴風を伴った激しいあらしが突如その地域に吹き荒れ,川の水かさが急に増したのです。増水した水は船をつなぎ留めておいたロープを引きちぎり,見張りに当たっていた乗組員はロープを固定させるために岸へ上がりました。しかし,自然の力によってロープはどれも切れてしまい,エル・レフーヒォ号は川の上で漂う状態になりました。船の中で眠っていた三人の乗組員は目を覚まし,急速に水かさの増す流れの中で船を操ろうとエンジンをかけました。ところが,彼らは川の水の猛烈な勢いで下流に流され,ちょうど川岸の崩れた所にぶつかって,川の中に転覆しました。このため,船は右側に傾き,兄弟たちは船内に閉じ込められた形になりました。数分後には船は沈み始めました。しかし,引き戸が開いていたため,中にいた人々は荒れ狂う水の中にはい出し,岸まで無事に泳ぎ着くことができました。

それは川岸にいた四人の宣教者にとって幸福な再会の一瞬でした。仲間の働き人の命を非常に気遣う余り,目に涙をためている者もいました。だれ一人命を失わなかったことを彼らはどれほどエホバ神に感謝したことでしょう。エル・レフーヒォ号はどうなりましたか。それは竜骨を上に向けて完全にひっくり返っていました。「有り難い,わたしたちの家はまだ引き揚げられる」と,彼らの監督,フランシスコ・エチェガライは言いました。

船が水面下に沈んでしまわないうちに復旧作業を行なうため,午前四時にすぐに準備が始められました。七時には,地元の材木会社の持ち主が親切にも貸してくれた二台のトラクターを使って船を川岸へ引き揚げることができました。乗組員たちは船を元の位置に戻そうと幾度も試みましたが,それがやっと元通りになったのは,近所からクレーンを貸りてきてからのことでした。この作業が完了したのは午後四時で,それは12時間にわたる重労働を済ませた後のことでした。彼らはやっと小休止を取り,食事をすることができました。すべての物を失い,疲れ果ててはいましたが,彼らはその日の終わりに,自分たちの目的を果たすために不可欠な家,つまりその屋形船を元通りにできたことを喜びました。幾らか修理を加えるなら,この船は,命に関する聖書の音信,「良いたより」を携えて,ジャングルの住人たちのもとへ行くのに再び使えるようになるでしょう。ここペルーのエホバの証人から財政面の援助を受け,修理に数か月間を費やした後,エル・レフーヒォ号は再び旅に出られるようになりました。

この“宣教者の船乗り”たちの行く手には何が待ち受けているのでしょうか。それは,マラニョン川とその幾百もの支流の全域に密生するジャングル,途方もなく広大なアマゾン流域に広がるジャングルです。わたしたちは,この勇敢な乗組員たちがエホバの祝福と保護の下に,割り当てられた地域すべてを回り,ペルーのジャングルに住む大勢の人々が偉大な創造者エホバに仕える機会を得られるよう援助できることを祈っています。

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