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  • 聖書理解の助け ― アッシリア(その二)
  • 目ざめよ! 1980
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  • ティグラト・ピレセル三世
  • シャルマヌエセル五世
  • サルゴン二世
  • セナケリブ
  • エサル・ハドン
  • アッシュールバニパルと帝国の没落
  • 預言におけるアッシリア
目ざめよ! 1980
目80 1/22 30–31ページ

聖書理解の助け ― アッシリア(その二)

「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。

アッシリア(その二)。

ティグラト・ピレセル三世

聖書に名の挙げられているアッシリアの最初の王は,ティグラト・ピレセル(三世)で(列王下 15:29; 16:7,10,新),この王はまた,列王下 15章19節で「プル」とも呼ばれています。歴代上 5章26節(新)にはこの両方の名前が用いられているため,以前にはこれを別々の王と考えた人もいました。ところが,バビロニアの碑文は“Pulu”に言及して,この両方の名前が同一人物に当てはまることを示しています。中には,元々この王は“Pul”という名で知られていたが,アッシリアの王位に就いたとき,ティグラト・ピレセルという名前を用いたのだと示唆する人もいます。

ティグラト・ピレセル三世がイスラエルの北王国の領土に入ったのは,イスラエルのメナヘム(西暦前791 ― 780年)の治世中のことでした。メナヘムは銀一千タラント(約142万3,590ドル:2億8,000万円余)を支払って,アッシリア軍の撤退を取り付けました。(列王下 15:19,20)ところが,後に,イスラエルのペカ王(西暦前778-758年)は,シリアの王レヂンと組んでユダのアハズ王(西暦前761-745年)と戦いました。このシリア-イスラエル連合の脅威はアッシリアの王の力によって必ず排除されると予告したイザヤの預言にもかかわらず(イザヤ 7:1-9,16,17; 8:3,4),アハズはティグラト・ピレセルにわいろを贈り,この連合勢力を攻撃してユダに対する重圧を除去してもらおうという愚かな道を選びました。アッシリアの帝王はこれに応じて,イスラエル王国北部の幾つかの都市と共に,ギレアデ,ガリラヤおよびナフタリの地方をも攻め取りました。ティグラト・ピレセル三世はその治世の初期に,征服した地域で後日反乱などが生じにくくなるよう,地域住民を移住させる政策を開始していたので,今度は一部のイスラエル人を流刑に処しはじめました。(歴代上 5:6,26)その上,今やユダはアッシリアに屈従する立場に立ち,ユダのアハズは,これまたアッシリアに落ちたダマスカスに赴き,明らかにティグラト・ピレセルに敬意を表しました。―列王下 15:29; 16:5-10,18,新。歴代下 28:16,20,21。イザヤ書 7章17-20節と比べなさい。

シャルマヌエセル五世

シャルマヌエセル五世はティグラト・ピレセルの跡を継ぎました。イスラエルの王位をさん奪したホセア(西暦前758-740年)は最初,アッシリアの要求に屈して貢物を納めましたが,後にイスラエルをアッシリアのくびきから解放しようとしてエジプトと共謀したので,シャルマヌエセルはサマリアの都市に対する三年間の攻囲を開始し,ついにサマリアは陥落し(西暦前740年),イスラエルは追放されました。(列王下 17:1-6; 18:9-11,新。ホセア 7:11; 8:7-10)大抵の文献は,シャルマヌエセルはサマリア征服を完了する以前に死に,その都市が最終的に陥落するころまでにはサルゴン二世が王になっていたと述べています。

サルゴン二世

サルゴンの記録は,イスラエル人2万7,290人が上ユーフラテス川およびメディアの地方に流刑に処されたことを述べています。また,フィリスティアを攻めて,ガト,アシュドドおよびアスドディムを征服したことも記されています。預言者イザヤがアッシリアの侵略者に対する保護手段としてエジプトやエチオピアに信頼を置くことのむなしさを警告するよう命じられたのは,この軍事行動の取られた時期でした。(イザヤ 20:1-6,新)バビロンやシリアから初めて人々がサマリアに連れて来られて,そこに再び人が住むようになったのは,明らかにサルゴンの治世中のことで,後にアッシリア王は追放の身の,あるイスラエル人の祭司を送還して,「この地の神の宗教」を人々に教え諭させました。―列王下 17:24-28,新。

セナケリブ

サルゴンの子セナケリブは,ヒゼキヤの第14年(西暦前732-731年)にユダ王国を攻撃しました。(列王下 18:13。イザヤ 36:1)ヒゼキヤは,その父アハズの行動の結果として課せられたアッシリアのくびきに反抗しました。(列王下 18:7)これに対抗して,セナケリブはユダの至る所を襲い,46の都市を征服したと伝えられています。(イザヤ書 36章1,2節と比べなさい。)次いで彼は,ラキシュの陣営から人をやって,金30タラントと銀300タラント(約158万6,907ドル; 3億,2000万円余)の貢物をヒゼキヤに要求しました。(列王下 18:14-16。歴代下 32:1。イザヤ書 8章5-8節と比べなさい。)この金額のお金が支払われたにもかかわらず,セナケリブは代弁者を差し向けて,エルサレムの無条件開城を要求しました。(列王下 18:17-19:34。歴代下 32:2-20)その後,エホバが一晩のうちにセナケリブの軍隊18万5,000人を滅ぼさせたので,この誇り高いアッシリア人は撤退を余儀なくされ,ニネベに帰りました。(列王下 19:35,36)その地で,彼は後にその子らのうちの二人に暗殺され,もう一人の子エサル・ハドンが代わって王位を継ぎました。(列王下 19:37,新。歴代下 32:21,22。イザヤ 37:36-38)これらの出来事は,アッシリア軍の滅びを除いて,やはりセナケリブの角柱とエサル・ハドンの角柱に記録されています。

エサル・ハドン

マナセの治世中(西暦前716-661年),アッシリア軍の長老たちは,このユダの王を捕らえて,(当時アッシリアの支配下の)バビロンに連行することをエホバにより許されました。(歴代下 33:11)このことはエサル・ハドンがエジプトと対戦して勝利を収めた時に起きたと考える向きもあります。いずれにしても,ユダのメナシ(マナセ)が進貢者の一人として碑文の中で名指しで呼ばれています。マナセは後にエルサレムに復帰しました。(歴代下 33:10-13)エズラ書 4章2節からすれば,イスラエルの北王国からの住民の移住と同王国への住民の移住は,なおエサル・ハドンの時代にも続いていたようですが,これでイザヤ書 7章8節に記されている預言の「六十五年」の期間の説明がつくようです。

アッシュールバニパルと帝国の没落

エサル・ハドンの子アッシュールバニパルは,アッシリア最後の大王で,同帝国の最大の拡張をもたらした人物です。彼はエジプトの反乱を鎮圧し,テーベの都(ノ・アモン; ナホム書 3章7,8節と比べなさい)を奪い取りました。今やアッシリア帝国の境界線は,エラム地方,メディアの一部からアララトまで,西は小アジアのキリキアまでと,シリアとパレスチナを経てエジプトまで,それにアラビアとバビロンを包含しました。彼はエズラ書 4章10節(新)で言及されている「大いなる尊いアセナパル」であると考えられます。

エサル・ハドンは死ぬ前に,その子アッシュールバニパルをその「王国の王」,またもう一人の子シャマシュシュムキンをバビロンの王として任命しておきました。シャマシュシュムキンは後にその兄弟に背きましたが,アッシュールバニパルはその謀反を制圧し,バビロンの都を奪い取りました。アッシュールバニパルの治世の残りの部分,つまりアッシリア帝国の歴史の残りの部分は不明です。「注釈者の聖書事典」(第1巻274ページ)はこのことについてこう注解しています。「この戦いがアッシリアの国力にとって負担となりすぎたか,あるいは他の知られざる理由によるかは分からないが,アッシュールバニパルの治世の最後の20年間は不思議な沈黙の期間として空白のままである。……この国は驚くほど突然に没落し,その歴史は不明になった」。

わたしたちは西暦前632年をニネベ陥落の大体の年代として受け入れていますが,大抵の文献ではその年代は西暦前612年とされており,中にはそれよりも20年程後とする人もいます。一般の記録からも分かるように,この期間が確かでないことは認められているので,わたしたちは聖書の記録の中に示されている年代のわく組みに頼り,年代の点で現在受け入れられていて,人気があっても,おおむね推測の域を出ない事柄,もしくは明らかに薄弱な証拠に基づく事柄を優先させるよりもむしろ,一般の歴史を聖書の年代のわく組みに合わせてきました。

バビロニア年代記(B・M[大英博物館]21901)は,バビロンの王(「アッカドの王」)ナボポラッサルと,メディア人キャクサレスとの連合軍によって行なわれた攻囲の後にアッシリアの首都ニネベが陥落したことを詳述しています。その首都は,「廃きょの塚,砕片の山と……」化していると描写されています。(D・J・ワイズマン著,「カルディア王の年代記」,61ページ)こうして,アッシリアのすさまじい支配は不名誉な結末を迎えました。もっとも,アッシュール・ウバリットはその首都ハランからアッシリアの支配を存続させようと試みましたが,短期間で失敗したと言われています。―イザヤ 10:12,24-26; 23:13; 30:30-33; 31:8,9。ナホム 3:1-19。ゼパニア 2:13。

バビロニア年代記(B・M 21901)は,この時点でアッシリア軍とエジプト軍が同盟を結んでバビロンと戦ったことを示していますが,この事実は,列王下 23章29節(新世界訳聖書,1955年版[英文]の脚注を見よ)に記されているファラオ・ネコの活動に関連した記述と一致します。その結果として,ユダのヨシヤ王は死にました。(西暦前629ないし628年)この句は,「エジプトの王ファラオ・ネコがユーフラテス川のほとりのアッシリアの王のもとに攻め上って来た」と述べていますが,ネコが攻め上って来たその「アッシリアの王」とは,疑いもなくアッシリアを征服したバビロニア人ナボポラッサルで,その征服のゆえに今や彼はまさしく真の「アッシリアの王」と呼ぶことができたのです。数年後(西暦前625年)に,ネコはカルケミシュの戦いでバビロニア人に完全に破られました。―エレミヤ 46:2。

この「アッシリアの王」という称号は同様に,エルサレムの神殿の再建(西暦前515年に完成した)の時にアッシリアを支配したペルシャ王(ダリウス一世[ヒュスタスペス])にも用いられました。―エズラ 6:22。

預言におけるアッシリア

アッシリアは,西暦前1473年ごろバラムの述べた預言の中にも出ています。(民数 24:24)アッシリアのことは,イザヤ,エレミヤ,エゼキエル,ミカ,ナホム,ゼパニヤおよびゼカリヤの預言の中で数多く言及されています。一方,アッシリアがイスラエルの北王国を荒廃させることについての警告が,ホセアの預言全体の至る所に織り込まれています。背教したイスラエルとユダはこのような異教諸国に頼り,「心のない単純な鳩」のように,しばしばエジプトとアッシリアの間を揺れ動きましたが,このことは何度も非難されました。(エレミヤ 2:18,36。哀歌 5:6。エゼキエル 16:26,28; 23:5-12。ホセア 7:11,新)このような歩み方がもたらした悲惨な結果もなまなましく描写されています。(エゼキエル 23:22-27)アッシリアが没落してシェオルに陥るさまは,そびえ立つ巨木の倒壊になぞらえられていますし,その後,追放されたイスラエル人が故国に復帰することも預言されています。(イザヤ 11:11-16; 14:25。エレミヤ 50:17,18。エゼキエル 31:3-15; 32:22。ゼカリヤ 10:10,11)最後に,アッシリアとエジプト両国の間に平和な関係がもたらされ,これらの国が神の恵みによってイスラエルと結び合わされ,「地の中で祝福」となることも予告されています。―イザヤ 19:23-25,新。

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