キリスト教世界の諸教会は力を失いつつあるか
ブラジルの「目ざめよ!」通信員
キリスト教世界の諸教会をつぶさに調べると,それが今や崩れゆく帝国であることが分かります。幾世紀も昔には,一つの強大な教会が世界の大半を支配していました。その教会に属する皇帝や王たちは“神授王権”の名のもとに統治しました。やがて宗教改革が起き,権力が二分されました。三十年戦争終結後の1648年に締結されたウェストファリア平和条約によって,カトリック教会の影響力にかげりが見られるようになり,プロテスタントの勢力が力を得てきたのです。フランス革命をもって,教会の支配に対する反抗の時代の幕が開きました。やがて至る所で自由主義運動が起こり,産業革命が始まり,進化論,高等批評,近代主義,物質主義が次々と台頭しました。
第一次世界大戦が世界を雷光のように打ちました。ロシアの正教会はボルシェビズムの猛襲を受けて衰退の憂き目をみました。宗教を「人民のアヘン」と呼び,その根絶を決意している共産主義は国境を越えて他の国々に広まりました。こうした事柄すべてを考慮して,法王ヨハネ・パウロ二世は最近次のような問いを投げかけました。「我々の主がその教会の将来に定めておられる運命は何か。西暦2000年が近づきつつある今,人類はどこに向かおうとしているのか。これらは重大な問題であるが,『神のみぞ知る』というのがそれに対する唯一の答えである」。
神のみぞ知る。確かにそのとおりです。世界各地の様々な教会について調べてみることは興味深く,読者はおそらくそこに,新たな事実を見いだされることでしょう。
アフリカ
ナイジェリア:
長老派の一僧職者ジェームズ・ウカイブは,「今日,教会が,まるで記憶喪失症にかかってしまったかのように自分の真の姿を見失い,自分は何なのか,何のために存在しているのかと問いつづけている」事実を嘆きました。
「ニュー・ナイジェリアン」はこう報じました。「多くの高位僧職者は追随者のために高い道徳規準を定めておらず,むしろ会員が自分でそれを定めることを期待している」。
それでもナイジェリアでは,いまだに宗教が広く実践されており,人々はイスラム教,キリスト教,部族の宗教のいずれかを信奉しています。しかし,道徳面や教育面での力という点では,諸教会は影響力を失いつつあります。犯罪と不道徳は増加の一途をたどっています。内乱の際,諸教会はいずれかの側に付きました。そして内乱終結後,宣教師の運営する学校は政府の手で運営されるようになりました。加えて,高校や大学で物質主義と進化論に根ざす教育がなされているため,宗教心の極めて薄い世代が生み出されています。
南アフリカ:
プレトリア大学の講師ジャン・カレル・クツィー博士はオランダ改革派教会の教会員を対象にして調査を行ないました。調査に応じた人の28%は,人間が罪を受け継いでいることを信じていませんでした。19%の人が創造の記録に疑念を抱いており,23.8%の人がアダムとエバに関する記述に疑いの目を向けていました。70%近くの人がキリスト・イエスの助けなしに救いを達成できると信じていました。
アジア
香港<ホンコン>:
香港の雑誌アジアウイークは次のように報じて東洋の人々の考えの一端を伝えています。「右翼的な考えを持つ西欧の高位僧職者たちは体制側の爆弾を祝福し,ラテン・アメリカの長髪の神父たちは左翼の[爆弾]を投げている。……ローマ・カトリック教会の名を一番傷つけているのはその富であろう。……100か所ものスラム街で,神のために建てられたきらびやかな教会堂が,だれの目にも明らかな民衆の貧苦をしり目にそびえている。……多くの国の歴史の中で,カトリック教会は封建体制の維持勢力であった。そのために,来世の幸せに望みを託す御しやすい無知な民衆の,今の世で楽をする可能性を踏みにじることも少なくなかった。教会はしばしば独裁者の宮殿とともに焼かれた」。
日本:
メソジスト派の宣教師たちが東京に開設した青山学院大学は,入学志願者の減少と運営費の不足を理由に,1973年から神学部を廃止することを決定しました。付随的なことながら東洋では,仏教が西欧諸国の諸教会と同様,腐敗をもたらす勢力にむしばまれつつあるという重要な事実があります。
オーストラリア
一つの大陸から成るこの国には約1,350万人が住んでいますが,ここでも1966年当時と比べてローマ・カトリック教会の修道女の数は2,000人,修道士と司祭の数は400人減少しました。
メルボルンからの報道は,プロテスタントの場合も似たり寄ったりであることを示してこう伝えています。「教会の公式調査が示すところによると,オーストラリアのプロテスタントの僧職者五人に一人は神と天の存在を疑っている。その調査によって,プロテスタントの教会に通う人の三分の一は神について疑念を抱いていることが判明した」。
ヨーロッパ
英国諸島:
1978年7月に,カンタベリー大主教はランベス会議に出席した400人の主教に向かって次のように語りました。「神は我々をゆるしてくださる。我々は次の点を認めることはしない。我々がそれを認めたとすれば会衆はショックを受けるだろう。体裁を繕い,型通りの動作は行なってはいるが,我々は耳を傾けることをやめ,我々の霊的な命は死に絶えてしまった」。僧職者の数は減少の一途をたどっています。
ザ・タイムズ紙の通信員はこう伝えました。「主要な教会はいずれも教会員の減少や深刻な財政難にあえいでいる。だが,これらの教会をそれ以上に悩ましているのは,慈善事業を主とする宗教と若い世代の人々との間に存在し,広がる一方の広い溝である」。
フランス:
アレイン・ウッドロウのL'Eglise déchirée(分裂した教会)と題する本(1978年出版)には,モンシニョールの称号を持つグルノーブルの司教ガブリエル・マタグリンの次の言葉が引用されています。「カトリック教会が危機を経験しつつあることは否定できない。宗教儀式はしだいに行なわれなくなり,受洗者や公教要理受講者の数は減っている。司祭をはじめ,宗教的職務に就く人の数はますます減少している」。
ノートルダム大聖堂で行なわれた四旬節の説教の中で,司祭ベルナール・ブローはこう語りました。「[フランスで]カトリックを実践する人は現在の16%から7%に減少するものと専門家は推定している。私個人としては,1%にまで落ち込む可能性が十分あることを教訓として教えてくれた北の国々の実例を思い起こす。30年もすれば,すべては終わってしまうだろう」。
ドイツ:
南ドイツ新聞はカトリックのある会議の討議を取材し,次のように報じました。「カトリック教会とその関連団体は現代人の希望とはかかわりのない存在のように思われる。同教会は常に時代に遅れをとっている。人々が望んでいる事柄,人々がほんとうに必要としている事柄を理解していないように思える」。
諸教会がドイツで地歩を失いつつあることを強力に物語っているのは,「35歳以下のドイツ人のうち神が存在することを信じているのはわずか17%にすぎない」というブンテ誌に載った統計です。
ギリシャ:
最近まで,ギリシャ正教会は全能とも言えました。今ではギリシャ正教会の行動や目的に正面切って非難が浴びせられつつあります。アテネの日刊紙トゥー・ビマは次のように論評しました。「今日,正教会つまりその僧職者階級,とりわけ高位僧職者階級がスキャンダルの巣くつ,無分別と愚かさの根源となることが非常に多い。それがあまりにもはなはだしいので,ほとんどの僧職者は,ギリシャ人の大多数から尊敬に値する霊的な人とはみなされず,扇動家と醜聞をまき散らす者たちの集団,過激論者,搾取者,『群れを導く』よりも,群れが彼らの手がら話に飽きない限り,むだ話やたわ言で群れの成員を楽しがらせている者とみなされている」。
トルコ:
ギリシャからボスポラス海峡を隔てた所にある古代からの都市コンスタンチノープルには,「世界総主教と『新ローマ』の大主教」が座を構えています。デメトリオス一世が世界各地にいる8,500万を数える正教会会員の象徴的指導者です。タイム誌はこう報じました。「それでも,デメトリオス一世聖下がイスタンブールの聖ジョージ教会で行なわれる日曜日のミサを司式するとき,巨大なシャンデリアはがらんとした聖堂信者席の列に力なく光を投げかけるだけである。その会衆で崇拝を行なっている人はわずか10数名にすぎず,その大半は年配者である。かつてはキリスト教世界の半分の中心地であったここの由緒ある主教管区は姿を消しつつある」。
イタリア:
法王パウロ六世に宛てた公開書簡の中で,ピントネロ大司教はこう述べました。「周知のとおり,神学校と教皇アテナ学堂は一般の学校になってしまいました。さらにマルクス主義と無神論にまで進み,すでに若い僧職者の九割以上がその影響を受けています」。ラ・ディフェサ・デル・ポポロは司祭の数に言及し,「1871年にはイタリアに15万2,000人[の司祭が]いたが……1973年にはその数は4万7,000人であった。その間にイタリアの人口は2,700万人から5,400万人に増加したことを銘記すべきである」と述べました。
ポルトガル:
1977年に,オプサゥン誌はこう伝えました。「自分たちは絶滅途上にある集団の生き残りにすぎないと感じている司祭がいるような有様である。司祭の大多数は日曜日にミサを執り行なうだけで,週中は大学に行くか,正規の仕事を行なっている。新たな生活の方法を見いださねばならなくなるのだろうかと考え,彼らは一分たりとも気の安まることがない」。
1978年の復活祭の日に,枢機卿であるリスボンの大司教はポルトガルの社会が犯した罪について抗議の言葉を述べました。しかしオプサゥン誌は,カトリック教会は政治的に罪なしとは言えず,独裁者サラザールの暗黒の統治中にその罪を増し加えた責めがある,と同教会を非難しました。
スペイン:
ここでは,宗教的伝統が根底から変化しました。数年前まで,聖週は一般大衆が忠実に守る宗教行事でした。今では,人々が大挙して都会を脱出し,田園地方や山野へ向かう合図の時となっています。また,スペインでは,ほんの一握りの学生しかいない神学校が少なくありません。僧職を離れる人や修道院を出る人の数が増加しているために,事態は悪化しています。
スウェーデン:
スウェーデンの教会は人々の生活に大きな影響を及ぼしていません。平均すると,スウェーデン人は一年に三回足らずしか教会に行きません。「結局のところ,スウェーデン人は自分の教会に満足しており,出席はしないものの,教会の維持費はすすんで負担しているようである」とある解説者は語りました。
南北アメリカ
米国:
タイム誌はある表紙記事の中で,「全国的に見て監督教会は過去10年以上にわたり15分に一人の割で教会員を失ってきた」と報じました。同教会では,女性司祭の採用をめぐって分裂が生じました。1978年1月には,新たに結成された“北米聖公会”の新しい主教四人が立てられました。そのうちの一人は,監督教会に残ることは「死人に口移しの人工呼吸を行なうようなものだ」と語りました。
ユダヤ教のラビ,アルビン・J・レインズは,「米国におけるユダヤ民族は絶望的な危機状態にある」と言いました。タイム誌によると,レインズは,「西暦2100年までに米国におけるユダヤ人社会は今日の580万人から100万人足らずに減少し,取るに足りない存在になるものと確信して」います。「米国のユダヤ人は伝統的なユダヤ教の教えを少しも受け入れようとしない。そして宗教がなければユダヤ民族は絶滅してしまう」とレインズは論じたと言われています。
停滞気味の既成宗教では満たされないため福音主義がこのところ盛んなようです。しかし,「人間の行動」誌の伝えるところによると,有名なビリー・グラハムの伝道活動で見られる情景は必ずしも額面通り受け取れないようです。そのような活動の際に一般に行なわれる“祭壇の呼び掛け”に答えて前に出る人々の中には,「大勢の人々が期せずして一斉に答え応じたような印象を作り出すために」前もって計画的に紛ぎれ込んでいる人が少なくないとの主張がなされています。
最近のギャラップ青年調査の明らかにしたところによると,既成宗教に大きな信頼を置いていると答えた青年は全体のわずか25%にすぎませんでした。「ビンゴ,バザー,お粗末な説教 ― それが教会のすべてである」とか,教会に通う人には「霊的な深みがない」といった意見が数多く聞かれました。教会やそこに通う人々の偽善,また諸教会が神や聖書について教えていない事実に関する意見も多数聞かれました。
ブラジル:
これまで聞かれなかったことですが,今や「ブラジルはローマ・カトリックおよびプロテスタント双方の外国人宣教師の移住を大幅に制限してい」ます。(アーカンソー・ガゼット紙)しかし,ブラジルでは必要なだけの僧職者が生み出されているのでしょうか。人口増加率は僧職者の増加の割合を大きく上回っています。事実,オ・エスタード・デ・サンパウロ紙は,「1968年以来,僧職者の数は徐々に減少に向かっている」と伝えました。
カトリック思想が影響力を失いつつあることは,人々の生活態度にもはっきり認められます。サンパウロ大学の一研究班によると,カトリック教会の定めなどお構いなしに婦人のうち二人に一人が何らかの形の避妊法を採用しているとのことです。ブラジル・ヘラルド紙の見出しに実状をあらわにする一文が載りました。そこにはこうあります。「ブラジルのカトリック教会: 輝きを失った光」。
あなたの通う教会は,キリスト教世界の諸教会が一般に抱えている典型的な問題を抱えてはいないかもしれません。出席者も多く,繁栄しており,あなたが喜んで耳を傾け,一緒に働けるような僧職者がいるかもしれません。しかし,自分で正しいと考えていても実際に正しいとはかぎりません。真のクリスチャンでさえ,「自分が信仰にあるかどうかを絶えず試しなさい。自分自身がどんなものであるかを絶えず吟味しなさい」と勧められているのです。―コリント第二 13:5。
イエスは,地上におられた時,当時のユダヤ人の宗教が神に仕えるものではないことを示されました。初期クリスチャン会衆のある者たちも幾つかの点で自分が神に仕えていることを実証できませんでした。それら神の崇拝者のある者たちが実証できず,今日でも個人や諸教会が実証できずにいる事柄の幾つかを下に掲げます。この表を調べる際,自分自身と自分の所属する会衆について吟味してみましょう。
[18ページの拡大文]
「自分たちは絶滅途上にある集団の生き残りにすぎないと感じている司祭がいる」
[18ページの拡大文]
「監督教会に残ることは死人に口移しの人工呼吸を行なうようなものだ」
[19ページの拡大文]
「ブラジルのカトリック教会: 輝きを失った光」
[20ページの囲み記事]
あなたの教会はどうですか
宗教上の伝統か,それとも正確な知識か
「彼らがわたしを崇拝しつづけるのはむだなことである。彼らは,教理として人間の命令を教えるからである」。『彼らは神に対する熱心さをいだいています。しかし,それは正確な知識によるものではありません』。―マルコ 7:7。ローマ 10:2。
神の言葉を行なっているか,それとも口先だけの信心か,あるいは人に見せるためのものか
「みことばを行なう者となり,ただ聞くだけ(の)者となってはなりません」。『業のない信仰は死んだものです』。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです」。―ヤコブ 1:22; 2:26。マタイ 7:21。
へつらいの称号についてはどうか
「彼らは……最も目だつ場所を……好み……人にラビと呼ばれることを好みます。しかしあなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。……あなたがたはみな兄弟……です。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです」― マタイ 23:6-9。
偏り見ることについてはどうか
「人を偏り見るのであれば,あなたがたは罪をもたらしているのです」。『神は不公平なかたではない』。―ヤコブ 2:9。使徒 10:34。
霊的な人になっているか
「兄弟たち……わたしは,あなたがたに対して,霊的な人に対するように話すことはできませんでした。……あなたがたの間にねたみや闘争があ(ります)」。「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です」。―コリント第一 3:1-3。ガラテア 5:22,23。
神とキリストを公に賛美する者となっているか
「常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。「すべての国の人びとを弟子とし(なさい)」。「あなたがたは……地の最も遠い所にまで,わたし[イエス・キリスト]の証人となるでしょう」。―ヘブライ 13:15。マタイ 28:19。使徒 1:8。
神を愛しているか
「そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛……です」― ヨハネ第一 5:3。
神を信じているか
「無分別な者は心の中で言った,『エホバなどいない』と」― 詩 14:1,新。
贖いとなられたキリストについてはどうか
「ほかの[キリスト以外の]だれにも救いはありません」― 使徒 4:12。
隣人を愛しているか
「『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』……愛は自分の隣人に対して悪を行ないません」。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」。―ローマ 13:9,10。マタイ 7:12。
互いの間に愛があるか
「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:35。
世に対する愛についてはどうか
「あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか」。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。―ヤコブ 4:4。ヨハネ第一 2:15-17。