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  • クリスチャンは同性愛者を憎むべきですか
  • 目ざめよ! 1997
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目ざめよ! 1997
目97 12/8 13–15ページ

聖書の見方

クリスチャンは同性愛者を憎むべきですか

去る1969年,同性愛者に対する非理性的な恐れや嫌悪感を描写する英語の言葉が造られました。それは“homophobia”(同性愛恐怖)という語です。そのような特定的な語のない言語も少なくありませんが,これまで何千年もの間,国や国語が異なっても多くの人は同性愛者を嫌う態度を示してきました。

しかし近年,同性愛は人が選び得る性的表現の一つの形態にすぎないとして広く推し進められてきました。歴史家ジェリー・Z・ミュラーは最近,「同性愛をそのようなものとして公に認め,尊重するよう求める気運の高まり」について書きました。そして,同性愛者は「ますます団結して,自分たちの行なっていることを称賛に値するものと公言し,他の人もそうすべきだと要求するようになってきた」と説明しています。特に西欧諸国でそれが見られます。とはいえ,世界のほとんどの場所で,いわゆる自由主義の国々においてさえ,多くの人は今でもやはり同性愛を非とし,はねつけます。

同性愛者や同性愛ではないかとされる人たちは注目されて,嘲笑,嫌がらせ,暴力の標的にされる場合が少なくありません。宗教指導者さえそのような憎しみをあらわにしてきました。同性愛者に対する個人的闘争のようなものを開始した人たちもいます。例えば,近ごろギリシャの国営ラジオで放送された,ギリシャ正教会の一主教による批評について考えてみてください。その主教はこう述べました。「神は同性愛者を地獄の,燃える瀝青の中で永久に焼かれる。彼らの汚れた口から出る悲鳴はとこしえに響きわたる。そのねじけた体は耐え難い責め苦を経験するのだ」。本当にそうなのでしょうか。神は同性愛者をどのようにご覧になるのでしょうか。

神の見方

聖書は,クリスチャンの排撃すべき,もしくは憎むべきグループとして同性愛者に特別の注意を喚起しているわけではありません。また,神が同性愛者を ― あるいは,ご自分の被造物のだれかを ― 罰として火の燃える地獄で永久に焼く,と教えているのでもありません。―ローマ 6:23と比較してください。

とはいえ聖書は,創造者の定めた道徳規準を説明しており,その規準は多くの場合,現代の道徳観とは相いれません。同性愛行為,結婚関係にない者同士の異性愛性行為,獣姦などはすべて聖書の中で非とされています。(出エジプト記 22:19。エフェソス 5:3-5)神がソドムとゴモラを滅ぼしたのも,そのような性行為を習わしにしていたためです。―創世記 13:13; 18:20; 19:4,5,24,25。

同性愛行為に関して,神の言葉ははっきり,「これは憎むべきことである」と述べています。(レビ記 18:22,新エルサレム聖書)イスラエルに対する神の律法はこう明記していました。「男が女と寝るのと同じようにして別の男と寝るなら,そのふたりは共に忌むべきことを行なったのである。彼らは必ず死に処せられるべきである」。(レビ記 20:13)獣姦,近親相姦,姦淫などを犯す者に対しても,同じ処罰が規定されていました。―レビ記 20:10-12,14-17。

使徒パウロは霊感のもとに,同性愛行為を「恥ずべき性欲」の表われ,また「自然に反する」ものと描写しました。こう書いています。「このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事柄を行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって神を奉ずることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不適当な事柄を行なうにまかされました」― ローマ 1:26-28。

聖書には,弁護も,譲歩も,あいまいさもありません。同性愛の慣行,姦淫,淫行などはすべて,神の目に嫌悪すべきものです。それゆえに真のクリスチャンは,現代文化の中でもっと気に入ってもらう,あるいはもっと受け入れてもらうだけのために,「恥ずべき性欲」に関する聖書の立場を手加減して述べるようなことはしません。また,同性愛を普通の生活様式の一つとして推し進めようとするどんな運動にも賛同しません。

「悪を憎め」

聖書は,「エホバを愛する者たちよ,悪を憎め」と訓戒しています。(詩編 97:10)ですからクリスチャンは,エホバの律法に反する習わしをすべて憎むはずです。一部の人々は,同性愛行為を不自然な性倒錯であるとみなして,同性愛に対しては他のかたちの不道徳に対する場合以上に強い嫌悪感や反感をもって反応するかもしれません。しかしクリスチャンは,そのような習わしを持つ人を憎むべきなのでしょうか。

詩編作者は,詩編 139編21,22節でこの問題に啓発を与えています。「エホバよ,あなたを激しく憎んでいる者たちをわたしは憎まないでしょうか。あなたに背く者たちにわたしは嫌忌の念を抱かないでしょうか。わたしは憎しみの限りをつくして彼らを憎みます。彼らはわたしにとって真の敵となりました」。エホバとその諸原則に忠節であれば,故意にエホバに反抗する者や,神の敵としての立場を取る者に対して嫌忌の念が生じるはずです。神に対するそのような頑固な敵の中に,サタンと悪霊たちがいます。一部の人間も,恐らくその類に入ることでしょう。とはいえ,クリスチャンにとって,そのような人々を外見で見分けることは非常に難しいでしょう。わたしたちは心まで読むことはできないのです。(エレミヤ 17:9,10)間違ったことを習わしにしているからといって,その人を矯正不能な神の敵と決め込むのは間違いでしょう。悪を行なっている人であっても,ただ神の規準を知らないだけという場合が多いのです。

ですから,一般的に言って,クリスチャンは簡単なことでは仲間の人間を憎みません。たとえある種のライフ・スタイルに強い憎悪感を抱いているとしても,人に危害を加えようとしたり,恨みや敵意を抱いたりはしません。それどころか,聖書はクリスチャンに,「すべての人に対して平和を求めなさい」と助言しています。―ローマ 12:9,17-19。

『神は不公平な方ではない』

どんな不道徳を犯してきたとしても,真に悔い改めるなら,エホバはその人を許されます。エホバがある種の不道徳を他のかたちの不道徳以上に悪いとみなしておられる証拠はありません。『神は不公平な方ではない』のです。(使徒 10:34,35)一例として,1世紀のコリント会衆のことを考えてください。使徒パウロは彼らにあててこう書きました。「淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝る者,盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継(ぎません)」。次いでパウロは,以前に淫行の者,姦淫をする者,同性愛者,また盗む者であった人たちで,コリントのクリスチャン会衆に受け入れられた人たちがいることを認めました。こう説明しています。「とはいえ,あなた方の中にはそのような人たちもいました。しかし,あなた方は洗われて清くなったのです。神聖な者とされたのです。わたしたちの主イエス・キリストの名において,またわたしたちの神の霊をもって,義と宣せられたのです」。―コリント第一 6:9-11。

もちろんエホバは,ご自分の完全な道徳規準に対する継続的また執ような違反をいっさい容認されません。ご自分の定めた原則をかたくなに無視する態度を明確に憎まれます。しかし,和解の扉は常に開いておられます。(詩編 86:5。イザヤ 55:7)これに調和して,クリスチャンは同性愛者を,また他のだれをも,悪感情,あざけり,嫌がらせなどの対象とはしません。真のクリスチャンは仲間の人間をキリストの弟子になるかもしれない人とみなし,敬意を込め,品位ある態度で接します。聖書はこう述べています。「これは,わたしたちの救い主なる神のみ前にあってりっぱなこと,受け入れられることです。神のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです」― テモテ第一 2:3,4。

クリスチャンは悔い改めた人を迎え入れる

聖書は,神が快く人を許す方であることを何度も言明しています。神を,「許すことをなさる神であり,慈しみ深くて憐れみ深く,怒るのに遅くて愛ある親切に富んでおられる」と描写しています。(ネヘミヤ 9:17。エゼキエル 33:11。ペテロ第二 3:9)聖書はさらに,神を放とう息子に関するイエスのたとえ話に登場する父親に例えています。その息子は,遠くの土地で相続財産を放とうの生活に乱費しました。父親は,息子がついに本心に立ち返り,悔い改めて,自分の家族のもとに戻って来たとき,これを迎えようと両手を広げて待ち構えたのです。―ルカ 15:11-24。

そうです,悪を行なっている人も,変化することは可能です。聖書はそれを認め,古い人格を脱ぎ捨てて新しい人格を身に着けるよう,また「思いを活動させる力において新たにされ(る)」よう人々を励ましています。(エフェソス 4:22-24)同性愛者に限らず,悪いことを習わしにしている人は思考と行動のパターンを徹底的に変えることができ,実際に多くの人が首尾よくその変革を遂げてきました。a イエス自身そのような人々に宣べ伝え,それらの人は悔い改めを示したときイエスに受け入れられました。―マタイ 21:31,32。

クリスチャンは,歩みを悔い改めた様々な背景の人々を迎え入れます。どんなかたちのものであったにせよ,だれでも不道徳な習わしから離れた人は,神の許しの益を余すところなく受けることができます。なぜなら,「エホバはすべてのものに対して善良であり,その憐れみはそのすべてのみ業の上にあ(る)」からです。―詩編 145:9。

クリスチャンは,必要とされる霊的な支援をいつでも喜んで差し伸べます。同性愛の傾向とまだ闘っている人たちに対してさえそうします。これは神ご自身の愛の表明と調和しています。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられる」と,聖書は述べているのです。―ローマ 5:8。

[脚注]

a 「目ざめよ!」誌,1995年3月22日号の,「どうすれば,このような感情をなくせるだろうか」という記事をご覧ください。

[14ページの拡大文]

クリスチャンは同性愛に関する聖書の見方を手加減して述べるようなことはしない

[13ページの図版のクレジット]

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