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  • 「肉の働きは宴楽である」
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
塔68 7/15 437–440ページ

「肉の働きは宴楽である」

「一緒に家に帰ってそのことはもう忘れてしまいなさい。なんと言ってもそれはカーニバルの時のことだ」。とり乱した一組の若い夫婦にむかってミュンヘンの一判事はこう語りました。ミュンヘンで7週間つづくカーニバルの時の配偶者の不貞を理由に離婚を訴えてくる夫婦に対して,ミュンヘンの判事はこう語るのを常にしています。

このカーニバルはどんなものですか。次のようにしるされています。「手に負えない奔放さをもって(その結果10月と11月には必然的に出生率が高くなる),西ドイツの人々はライン川以西の地方と南ドイツにおいて四旬節前の火曜日の最後の一瞬に至るまで四旬節前の飲み騒ぎをつづける。これは毎年のことである。当然に予想されることであるが,一部の教会員や両親はまゆをひそめている。しかしパーティに行く人々は宴楽を満喫する。ライン以西の地方においてカーニバルの時には酔っぱらい運転と殺人以外のことなら何でも大目に見てもらえる。とくにあぶないのは“女のカーニバル”の夜で,大柄な北欧人種の若い女が町をねり歩き,不用意な男をたたいたり,あるいはもっと大胆ないたずらをしたりする。ミュンヘンにおいても,夫婦そろって舞踏会に出ないという,問題を起こしがちな伝統があるせいもあって,カーニバルの時期には裁判ざたになるいざこざが起こる」― 1963年3月4日付ニューズ・ウィーク。

ミュンヘンのこの祭りでソーセージその他は言うに及ばず何千クォートのぶどう酒や他の酒類とともに300万クォートのビールが消費されます。主としてこれは宗教的な起源を持つ祭りで,カトリック教徒が肉やその他のぜいたく品を断つ四旬節に先だって行なうものとして始められました。カーニバルということば自体が「肉よ,さらば」という意味です。ニューオーリアンズやリオデジャネイロなどの都市ではカーニバルの最終日である告解火曜日の名をとってこの祭りをマルディ・グラスと呼んでいます。告解火曜日<マルディ・グラス>は四旬節前に肉食を許される最後の日で,文学どおりには「油っこい火曜日」という意味です。

宴楽がこれら特別の時期に限られているわけではありません。多くの都市において夜の生活は,ブエノスアイレスに関する次の一報告が示しているように,乱痴気騒ぎに近いものです。「毎晩,乱痴気騒ぎをしている波止場の地区ラ・ボカにある一レストランでは例のとおり騒々しさがみなぎっている。夜,活気を呈する場所の例にもれず,ウェイターはしばしば盆をほうり出して楽器をかなで,客は踊り,歌の音頭をとり,忽ちに出来たコンガ踊りの列がテーブルの間をぬって夜の明け方までくねる」― 1967年11月号ナショナル・ジオグラフィック。

神のことばは宴楽を非とする

このような宴楽にふける人々の大多数が,ローマ・カトリック教と新教のいずれにしろクリスチャンを名のる者であることは疑いありません。しかし宴楽はクリスチャンにふさわしいですか。ペテロのことばによればそうではありません。ペテロはクリスチャンに対し,彼らもクリスチャンになる前は宴楽にふけったにしても,今はそのようなこととは無縁であると述べています。「過ぎ去った時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけってきたが,もうそれで十分であろう。今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらない」。クリスチャンはこのような乱行にもはや加わらないので,以前の仲間は驚き,かつののしるのであるとペテロは述べています。―ペテロ第一 4:3,4。

宴楽がクリスチャンのものでないことは,使徒パウロも明らかにしています。パウロは次のように書きました。「宴楽と泥酔,淫乱と好色,争いとねたみを捨てて,昼歩くように,つつましく歩こうではないか。あなたがたは,主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。「肉の働きは明白である。すなわち,不品行,汚れ,好色,偶像礼拝……泥酔,宴楽,および,そのたぐいである」。これらはどれほど悪いことですか。これらのことのためにクリスチャンは永遠の生命を失う破目となります。「わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない」と使徒パウロは述べています。―ローマ 13:13,14。ガラテヤ 5:19-21。

この警告が前述の宴楽にもあてはまることは,ギリシャ語の原語コモスの語義からも明らかです。それは「酒宴,大酒盛,酔酒の結果また付随物」a を意味します。英語のことばレヴルリは「底抜けの歓楽」「どんちゃん騒ぎ」「お祭り騒ぎ」を意味します。

なぜ気をつける必要があるか

ゆえにミュンヘンその他における四旬節前のお祭り騒ぎならずとも,注意しないとふつうの社交的な集まりが宴楽に化することがあります。どのようにそうですか。

結婚の披露宴のようなお祝い気分の席において,はなやかな音楽があり,おそらくビールやぶどう酒が盛んにふるまわれる時,度をすごす危険があります。クリスチャンらしくない浮かれ騒ぎになったり,下品な冗談が出たり,男女間の礼儀が乱れる傾向があったりして,祝いが宴楽に堕するかもしれません。

神のことばが興ざましになるというのではありません。聖書は喜びや楽しみを決して度外視していません。それとは反対に聖書は,神の民にむかって喜び歓喜するように何度もすすめており,またそうする多くの理由をあげています。人間は創造者に,夫は妻に,若者は青春に,労働者はその手のわざに,農夫はその労苦の実に喜びを見いだすようにと,聖書は教えています。(詩 32:11。箴言 5:15-19。伝道の書 3:22; 11:9。申命 26:10,11)また聖書は飲食に伴う喜びについても述べています。「あなたは行って,喜びをもってあなたのパンを食べ,楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい」。エホバは,「人の心を喜ばすぶどう酒」と「人の心を強くするパン」を備えられました。―伝道の書 9:7。詩 104:15。

しかしクリスチャンは人生の良いものを楽しむにあたって節度を保ち,自制しなければなりません。ゆえにクリスチャン会衆の監督の資格として,一つには「自らを制」することが求められ,またクリスチャンの婦人も「自らを制」するように教えられているのです。―テモテ第一 3:2,11。

節度のない習慣,奔放また騒々しい行為,やかましい,耳ざわりな音楽は,クリスチャンの評判を悪くします。そればかりでなく,それは往々にして酔酒,大食など,聖書にたびたび戒められている極端に陥ります。「酒にふけり,肉をたしなむ者と交わってはならない」。このような自制心の欠如は,神のことばが明白に罪に定めている性の不道徳に往々にして人を導きます。「神のみこころは,あなたがたが清くなることである。すなわち,不品行を慎み,各自,気をつけて自分のからだを清く尊く保ち,神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず……神がわたしたちを召されたのは,汚れたことをするためではなく,清くなるためである」― 箴言 23:20。テサロニケ第一 4:3-7。

騒々しい,奔放な行為は自制心の欠如を示すものです。放縦なことばは往々にして放縦な行為に先だつものとなります。神の是認を欲する人は次の戒めを心にとめなければなりません。「汝等の口より慢言を出すなかれエホバは全知の神にして行為を裁度りたまふなり」。ビール,ぶどう酒あるいはもっと強い飲みものが,喜ばしい席に不可欠であると考えるのは間違いです。これはおもにその土地の習慣の問題です。それで次のような知恵のことばを心にとめてください。「酒は人をあざける者とし,濃い酒は人をあばれ者とする,これに迷わされる者は無知である」。クリスチャンも注意を怠ると,モーセが山に上っていた40日の間に当時のイスラエル人が陥ったあやまちをするかもしれません。その出来事についてこうしるされています,「民は座して飲み食いをし,また立って踊り戯れた」。それは偶像崇拝にも導きました。―サムエル前 2:3,文語。箴言 20:1。コリント第一 10:7。出エジプト 32:4-6。

使徒パウロはこの点でコリントのクリスチャンに良い助言を与えています。コリントは官能的な歓楽で悪名の高い都市であり,その助言は特に必要でした。「だから,飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にも,つまずきになってはいけない。わたしもまた,何事にもすべての人に喜ばれるように努め,多くの人が救われるために,自分の益ではなく彼らの益を求めている」。お祝い気分の席においては,他の人をつまずかせることのないように注意するいっそうの理由があります。それは自分の「足のために,まっすぐな道をつく」るべき時です。―コリント第一 10:31-33。ヘブル 12:13。

お祭り気分になってはめをはずさないようにする

喜ばしい行事が宴楽に堕さないようにするには,いろいろなことに注意しなければなりません。たとえば「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」という聖書の原則があります。この理由でクリスチャンは,神のことばとその教える行動の高い標準に全く無関心な不信者が開く社交的な集まりに出ることを賢明に避けるでしょう。クリスチャンの開く社交的な集まりに不信者が招かれる時にも,注意しなければなりません。昔のイスラエル人はこの点で教訓となっています。ペオルのバアルのことで彼らに罪を犯させたのは,不信者ではありませんでしたか。―コリント第一 15:33。民数 25:1-9。

もう一つの注意すべきことは,どんなダンスをするかということです。現代のダンスの多くは情欲をおこさせるものですが,アメリカのスクエア・ダンス,バージニア・リール,ポルカなど楽しく,また良い運動になる健全なダンスもあります。このようなダンスはある程度の熟練や協調を必要とし,グループで踊る楽しさを備えています。しかも現代のダンスによく見られる好ましくない面がありません。

お祭り気分になって破目をはずさないようにするには,どんな音楽をかけるかということにも一考を要します。若い人は,世間で宴楽と結びつけられている騒々しい音楽を好む傾向があります。そこでクリスチャンが音楽を選ぶとすれば,良い上品な音楽,必ずしもクラシックとか静かな音楽というのではありませんが,結婚の披露宴などでよく使われるリズムと大きな音を強調した感覚的,通俗的でないものを選ぶでしょう。低級な音楽は,ある人々に対するアルコール飲料の働きと同じく,人を本能的にさせ,またはめをはずさせる働きをします。

別の貴重な助けは,少なくとも二,三人の円熟したクリスチャンに出席してもらうことです。とくに参加者の大多数が青少年の場合,若い人々の霊的な福祉を心にかけている,真に円熟した何人かのクリスチャンが出席するのは望ましいことです。出席者がその人々を尊敬することから,集まりは健全な影響を受けます。

聖書的あるいはまじめな事柄を話し合うことの価値も考慮すべきです。たとえば聖書にしるされた出来事を基にしたクイズをする,聖書の原則を示す実例を語る,聖書の人物を演ずる,興味深い経験を語るなどのことをできます。これらのことは創意,演技力その他を発揮する機会となり,楽しいと同時に有益な晩をすごす助けとなります。エホバの民の大きな大会で毎年行なわれる聖書劇の成功はそれを物語っています。

適当な散会の時期をあらかじめ定めておくのも,見すごしてはならない実際的な処置です。パーティーが長びいて夜おそくなればなるほど,騒がしくなり,宴楽に堕する傾向があります。散会の時間をあらかじめ発表しておくこともでき,主人役が時間に気づかなくても,適当な時間に帰る必要を悟っている客は,必要以上に言い訳がましくせずに辞去できます。

そうすることの利点は一つにとどまりません。道徳的にはめをはずすおそれが少ないだけでなく,飲食にふけるかわりに睡眠を得ることになり,したがって健康を害するおそれも少なくなります。このすべてはクリスチャンの奉仕者にとって特に益があります。たいてい日曜日は宣教と崇拝で忙しい一日だからです。ある年配のクリスチャン奉仕者が言ったように,おもしろおかしく暮すことが少なければ,つまり,世の快楽を追うことが少なければ,それだけ多く与えることができます。

クリスチャンの生活に起こってくる他のすべての事と同じく,お祝い気分の行事の時にも自制と節制が必要です。創造者は,人間が社交的な集まりをも含めて多くのことから楽しみを得るようにもくろまれました。しかし社交的な集まりを宴楽にする必要はありません。言いわけも後悔も必要ない健全で楽しいものにできます。確かにそれは知恵の道です。

[脚注]

a 新約聖書用語解説辞典 ― W・E・ヴァイン。

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