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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 3/1 153–156ページ

エホバの導きを回顧する

マルチン・ポエツィンガーの経験

わたしは今世紀の初め,流れの美しいイーザル川にまたがる町で生まれました。それは歴史上の数々の事件の舞台となり,カトリックの中心地,また一時はナチ運動の根拠地でもあったババリア州の首都ミュンヘンです。

すでに,10歳の時,わたしは,人はなぜ死ぬのだろうか,死んだらそれで終わりだろうかなどの疑問をもちました。学校のカトリック教師はこうした疑問に納得のゆく答えをしてくれませんでした。

ほんとうの意味での聖書の真理に初めて接したのは1926年です。その年,わたしの兄は自分が出席したある聖書研究グループの集会について話してくれたのです。わたしもともに行くようになり,その後まもなくカトリック訳の聖書を手に入れました。

こうしてわたしは聖書を愛読するようになりました。当時読んだ聖句でわたしの心に残ったのは,エホバのみことばを聞くことに関する大ききんを予告したアモス書 8章11節です。わたしは,自分が飢えた群衆のひとりであったこと,そしてついに心を満足させる糧を得るようになったことを知りました。

自分の務めを知る

『神を愛するならだれでも神の国の伝道に加われるだろうか』。これはわたしが当初いだいた疑問の一つです。加われるというのがその答えでした。それでわたしは区域の割り当てを求め,聖書研究用の小冊子50冊をかばんに詰め,家から家への宣教奉仕に初めてひとりで出かけました。ほんのわずかの間に,手もとに残るのは12冊だけになりました。わたしにとって,これは以後の楽しい御国宣教の出発となりました。

同じ年の秋,わたしはエホバがいっそうの前進を促しておられることを確信しました。“クローネ・サーカス”の大テントを利用して大きな集会が開かれ,イザヤ書 6章8節を主題とした講演がなされました。講演者は話を聞いて理解した人々に,起立し,「我ここにあり我をつかはしたまへ」というエホバへの厳しゅくな宣言に加わるようにと勧めました。その時,神のみことばに満たされたわたしは,多くの人々とともに預言者イザヤのことばを復唱しました。心からそうしたのです。その後まもなくわたしはバプテスマを受けました。

バプテスマを受けた日の印象はわたしの心にはっきり残っています。特に父親のことばは忘れません。わたしが家を出る時,父親は言いました。「マルチン,このことは十分に考えたのか」。わたしは十分に考えた結果であることを話しました。父親が次に語ったことばは心に深く残りました。「わたしはおまえを止めようとは思わない。しかし忘れてはならない。神に誓うなら,それは果たさねばならないのだ」。それこそわたしが決意していたことでした。次の休暇にわたしはババリア森へ行きました。遊ぶためではありません。家から家への全時間宣教奉仕を多少でも経験するためです。

わたしたちの宣教奉仕が人の命を救う活動であることは知っていました。しかしこれが文字どおりの意味でも人を救うわざであることを,ババリア森でのある経験を通じて知りました。かばんの中に本が1冊だけ残ったわたしは,近づく夕だちを避けるため,滞在先の村に向かって急いでいました。ふと見ると,山の上に小さな家が1軒ありました。山のけわしい小道をのぼって行くにはややおりが悪いように思われました。しかし責任感のようなものに動かされ,わたしはそちらに向かいました。のぼりついてみると,家には鍵がかかっていたのです。どうしようかと思っているとき,納屋でかすかな物音がしたように思えました。納屋の戸を押してあけると,ひとりの男が立っており,疲れた声で,「なんの用だ」と言いました。

わたしが説明すると,彼は自分にとってそんなものはもう意味がないと言いました。その告白によると,彼は家の者を畑にやってひとりになり,まだ手に握っている綱で首をくくろうとしていたのです。とっさにわたしは残っていた1冊の本を出し,うみ疲れ,うちひしがれた者に神のみことばが差し伸べる希望である平和と正義の御国について話しはじめました。夕だちは今にも降り出しそうでした。わたしは彼の応答を待ちました。二,三秒後,彼は額をぬぐい,綱を元の壁にもどして言いました。「よし,その御国のために,わたしには生きる勇気が出た。神は最後の瞬間にあなたをつかわされたのだ。わたしはその本をもらって,ゆっくり読もう」。

全時間宣教奉仕

1930年10月1日,これはわたしがついに正規の全時間伝道を始めた日です。わたしは数人の仲間とともに,スイス国境コンスタンス湖に至るシュワルツワルト(黒森)地方を割り当てられ,ババリアのカトリック地区深くまではいりました。ついで1931年,パリ大会に出席するようにとの招きを受けました。そこには23か国の証人たちが集まることになっていました。そのおりにはベルリンでも集まりがあり,マグデブルグにあった,ものみの塔協会ドイツ支部を尋ねる機会もありました。

1931年,わたしたちはエホバの証人という名を得ました。「わたしはきょうエホバの証人のひとりとしてお尋ねしました」と自己紹介すると,戸口に出てきた人は驚き顔で言いました。「でもあなたはまだ聖書研究生ではないのですか。それとも新しい宗派にはいったのですか」。しかし37年後の今ではずいぶん違うではありませんか。最近ではわたしが何も言う前から,「あなたはエホバの証人ですね」と人々は言うのです。

1933年の年句を覚えています。それは,エホバの御名はかたきやぐらのごとしということばでした。(箴言 18:10)わたしたちには確かにこのような確信が必要でした。このころまでに,戦闘的な国家主義が教会のうしろだてを受けつつ国中に広がっていたからです。わたしたちの伝道活動は禁じられ,集会場所は閉鎖され,文書類は没収されました。これによってわたしの愛する全時間奉仕は終わりになるのでしょうか。悪名高いナチスの秘密警察ゲシュタポがわたしのもとに来ました。しかし罪状となるようなことを何一つ見いだせなかったゲシュタポは,ミュンヘン市内にとどまるか,さもなければダハウの強制収容所に行く覚悟をしろという最後通告を残して去って行きました。

他の土地での伝道

ドイツでの情況は日ごとに悪化しました。その年の秋,協会はわたしがブルガリアに移り,その土地の御国の事柄を世話するようにと指示しました。わたしたちの伝道の助けとして,それぞれの文書を各国語で紹介した証言カードがありました。これは大いに役だちました。しばらくの間,これがブルガリア人と意志をかわす唯一の手段であったからです。しかし間もなく,シリル・アルファベットを早く習得しなければならないことに気づきました。住民の多くは字を知らずブルガリア語の証言カードを見てもそれを他の人に読んでもらわねばならなかったからです。

この国のおとなは混乱の時代に育ち,教育に恵まれた者はごくわずかでした。それで子供がおとなたちを集め,石油ランプの下で本を読み聞かせる光景も珍しくありませんでした。御国の音信が幼子の口を通じて伝わったのです。

わたしが初め大いに当惑したブルガリア人の習慣は,同意する時に首を横に振り,否定する時に首を縦に振ることです。わたしはこれになかなか慣れず,聖書の音信に関心はないと誤解して立ち去りかけたことが何度もあります。

1年もたたぬうちに情勢は緊迫し,わたしたち外国から来た者は退去を命じられました。次に行ったのはハンガリーです。ここでも新しいことばと新しい習慣を学ばねばなりませんでした。ブダペストでうれしかったのはドイツ人の開拓者(全時間奉仕者)たちに会い,定期的な聖書研究集会に出席できたことです。これはわたしが1年以上も求めていたものでした。外国人の居住は1回に6か月ずつと限られていましたので,時々スロバキアに旅行し,ブラチスラバのドイツ語系の証人たちを助けました。

ブダペストではスパイと誤解されて捕えられ,三日間拘留されたのち国外に追放されました。今度は自費でプラハに行きました。しかし協会は,ユーゴスラビアに行って,その地の開拓奉仕者たちの監督をするようにと指示しました。神権組織を通じてエホバの導きを受けられるのはほんとうにすばらしいことでした。

このころの活動には数々の楽しい思い出があります。背中の袋に文書を詰め,田や野や村々を何キロも歩いたこと,食事や宿泊をさえ提供してくれた親切な人々,冷たい夜気を縫って遠くの農家から伝わるバラライカの音を聞きつつ,星空の下でハンガリーの“プスタ”(平原)を越えたこと,そして翌朝の新しい区域での伝道に備え保管場所から文書を背負って夜道を引き返したこと,また招かれて農家に泊まり,話を聞きに来た近隣の人々に御国の音信を伝えて慰めたことなどです。

ししのおりに帰る

重い病気でザグレブの病院に長くとどまったわたしは,退院後ドイツにもどらねばなりませんでした。しかしその後すぐ,わたしは地下活動にてい身していました。政治運動ではありません。エホバの証人の全国的な秘密伝道活動です。1936年,非常に性質の異なった二つの事柄がわたしの身に起きました。8月には,中央ヨーロッパでの躍動に満ちた伝道でともに忠実に働いた仲間のひとりと結婚しました。しかし同じ年,わたしは捕えられました。そして信仰を捨てず,ヒトラー政府を最高の権威として認めなかったとき,強制収容所に送られました。わたしはダハウに送られ,妻は別の収容所に送られました。

収容所でわたしが最初に見たものは,作業場に向かってのろのろと走る服役者たちの姿です。それはさながら悪霊がのたうちまわるかのようでした。しかし,それは序の口にすぎません。ダハウが新兵徴募施設となったとき,わたしたちはオーストリア北部モーソーゼンの死の収容所に移されたからです。花こう岩の採石場であるこの収容所においては,信仰を守るためにあらゆる努力を奪い起こさねばなりませんでした。

収容所内にはエホバの証人が145人いました。ゲシュタポはエホバへの信仰を破らせようとしてあらゆる企てをしたのです。餓死必然の食事,欺まん的な友情,残虐なしうち,小さな囲いの中に幾日も立たされること,うしろ手にしばられ3メートルの杭につるされること,むち打ち,そのほか口で言えないほど卑劣な行為が企てられました。しかしエホバの導きは終始わたしたちとともにあり,「わたしの子よ,賢くあって,わたしの心を喜ばせなさい」という偉大な戒めを心にとめさせました。―箴言 27:11,新。

再開の喜び

やがて待望の日が到来しました。ナチス強制収容所での悪夢のような生活が終わりを告げたのです。米軍が進駐し,数週間前からモーソーゼンの監視を引きついでいたウイーン警察の武装を解きました。今度は監視員が囚人となりました。エホバの証人以外の囚人たちはこれを機会に武器を取り,かつての残虐な監視者たちに対して仕返しに出ました。それは身の毛のよだつような光景でした。一晩に1,000人以上の囚人が殺されたこともあります。

いっぽう,証人たちは収容所内のある通りに集まり,いっしょに祈りをしました。武器を手にしたかつての仲間の囚人が以前の虐待者を求めて走りまわる間も,エホバはご自分の民を守られ,流れだまが当たることさえ許されませんでした。わたしたちに仕返しのほこを向ける者はいませんでした。わたしたちは平和を愛するクリスチャンとしてよく知られていたからです。

やがてわたしは他の人々とともに自分の故郷ミュンヘンに返されました。廃虚となった町の中で集会を取り決め,公の御国伝道を再開するための基礎をかためました。まもなくわたしはオーストリアにいる証人たちと連絡を取ることを依頼されました。オーストリアの地理をよく知るあるクリスチャン姉妹の助けの下に,わたしはザルツブルクに着き,忠実で信頼できる証人たちを集め,活動の再組織という協会の提案を伝えました。兄弟たちが顔を輝かせ,戦後の大規模な復興のわざに備えるさまを見るのはなんと大きな喜びではありませんか。

つきない祝福

ついで,あふれるような祝福が次から次に注がれました。忠実に信仰を守った妻との再会の喜びを想像してください。わたしたちそれぞれは9年間ものきびしい収容所生活に耐えたのです。協会は10都市で一連の大会を組織しました。その最初は1946年9月28日から30日までのニュルンベルク大会です。エホバの輝かしい勝利ではありませんか。かつてはナチスの大会場であったツェッペリン広場の野外大講堂に,エホバの民は神のことばを学ぶため平和裏に集まりました。同じ日,ナチスの高官21人は人類に対する罪を問われて死刑を宣告されたのです。

数々の大きな喜びを言い表わすにはことばが足りません。1950年にはニョーヨークの大会に出席し,1953年には再びヤンキー球場を尋ねて,会場を埋めつくした幸福な人々を見,1958年にはギレアデ聖書学校に招かれたのです。翌春深く愛したサウスランシングのギレアデ学校と別れた時の感激は忘れられません。エホバの導きに対する確信をいよいよ増してドイツに帰ったわたしたちは,さらに多くの特権をいただきました。

わたしたちはふたりで合計75年以上全時間奉仕をしてきたことになります。快適な時も,むずかしい時もありました。妻とわたしは,できる人すべてに,「開拓者になりなさい!」と心の底から勧めます。

仮りに若い時代に帰る場合,再び同じ道を進みたいかと問われるなら,わたしたちは,はい! と,答えます。ただ一つの違いは,もっと早く始めることです。早くから全時間宣教奉仕の喜びと責任を経験するなら,自分の生活に対するエホバの導きをそれだけ多く受けられます,エホバの招きに対して,「我ここにあり,我をつかはしたまへ」と応ずるなら,現在だけでなく,目前に迫った新秩序下においても多くの祝福を楽しめるのです。その時わたしたちは,エホバがわたしたちの歩みを一歩一歩導いてくださったことを喜びのうちに回顧するでしょう。

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