ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目80 10/22 3–4ページ
  • 宗教について他の人と話すのはふさわしいことですか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 宗教について他の人と話すのはふさわしいことですか
  • 目ざめよ! 1980
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 宗教について話すと必ず議論になってしまうか
  • こうした会話は真の益をもたらすか
  • 宗教について話し合うためには教会へ行かなければならないか
  • あなたの宗教を変えるべきですか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
  • だれが宗教に本当に関心を持っているか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
  • あなたは正しい宗教を持つていますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1958
  • あなたの教会は真の宗教を教えていますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
もっと見る
目ざめよ! 1980
目80 10/22 3–4ページ

考えてみたことがありますか ―

宗教について他の人と話すのはふさわしいことですか

最近,宗教に関連したニュースが新聞のトップ記事になっています。法王ヨハネ・パウロ二世の旅行,ヨーロッパにおける神学論争,イスラム教の隆盛,イランのアヤトラ[宗教界最高指導者]たちの日々の動静 ― こうした事柄が毎日のように見出しを飾っています。それに伴い,以前なら宗教のことを話題にしなかった人々を含め,多くの人が宗教について話しています。

宗教について話すと必ず議論になってしまうか

そうであってはなりません。宗教に関する話し合いは,他の人が特定の考えを抱き,特定の行動を取る理由を理解するのに役立つものであるべきです。聖書は隣人を愛するように勧めていますから,聖書が論議の的になっている場合は特にそうです。

隣人同士が理解を深め合う必要がある,という点に異議はないでしょう。当然のことながら,お互いを知るには個人的に話し合う必要があります。しかし,これは必ずしも容易ではありません。宗教が関係している場合はことにそうです。

例えば,近年,インド,パキスタン,東アフリカの諸国から多数のアジア人が英国諸島に移住してきました。それに伴い,宗教をはじめとする多彩な文化がもたらされたのは当然の成り行きです。50万近くに達するこれらのグジャラティー語(グジャラート語)を話す人々と意志を通わすのはクリスチャンにとって容易な業ではありません。そうした人々のことをほうっておくのは最も安易な道です。英国の大半の教会は事実そのようにしています。彼らと共存できることで十分満足しているのです。

一方,エホバの証人の中には,新しく移って来た隣人たちに神に関する信仰について話すため,その人たちの言語を一生懸命学んでいる人が少なくありません。「現在[エホバの証人によって定期的に]グジャラティー語で聖書講演が行なわれている」とガラビ・グジャラート紙が最近報じたのは興味深いことです。そのおかげで,沢山の友好的な関係が生まれています。互いが意志を通わせ,温かい雰囲気が築かれていくからです。隣人をよりよく理解することに加えて,こうした交流にはほかにどんな益があるでしょうか。つまり……

こうした会話は真の益をもたらすか

明らかに益をもたらします。というのは,それによって,会話に加わるすべての人が,宗教と,今日の生活において宗教の果たす役割について知識を深めることができるからです。宗教は個人的な問題ですが,「鉄が鉄を研ぐように,人は互いに学ぶ」という聖書の賢明な箴言には真理があります。―箴 27:17,福音聖書。

霊的な知識を完全に備えている人はひとりもいません。わたしたちはすべて,箴言の言葉が述べているように,「互いに学ぶ」ことができます。宗教に関する友好的な話し合いは,人を向上させ,重要な疑問に対する意味深い答えを与えることがあります。ある若い女性は悲しげにこう語りました。「今日,だれもが内に深刻な疑問を抱いているものです。でも,その答えを宗教に,つまり教会に求めてもむだです。信仰心を抱いているのですが,教会では物足りないのです」。

この言葉に同意する人は少なくありません。依然として神に信仰を抱いてはいるのですが,教会でそうした疑問に対する答えを見いだそうとして失望を味わわされて来たのです。それらの疑問の中には次のようなものがあります。死んだら,どうなるのか。神はなぜ悪を許しておられるのか。神はそれに対して何らかの処置を講じてくださるのか。人生の目的は何か。どうしたら家族の絆を固く保てるだろうか。ほとんどの教会がこうした疑問に満足のいく答えを与えてきませんでした。その結果,多くの人がしだいに教会に通うのをやめてしまいました。しかし,これは次のような考えさせる一つの問いを提起します。

宗教について話し合うためには教会へ行かなければならないか

キリスト教の創始者の模範の示すところによると,そうではありません。イエスの宣べ伝える活動の一つの特異な点は,人々と宗教について話し合う際,特別の建物を必要としなかったことにあります。イエスは,時間や場所を問わず,喜んで神について語られました。山腹で,市場で,岸辺で,時にはほこりっぽい道を歩きながら,神について語られました。自然な状況の下で話がなされたため,人々はくつろいだ気持ちで会話に加わりました。

イエスは宗教について話すために人々の家を訪れました。事実,聖書を読むと,イエスの語られた非常に意味深い教えの幾つかは個人の家で詳しい説明の加えられていることが分かります。イエスはご自分の弟子たちに向かってことさら次のように言われました。「どんな都市また村に入っても,その中にいるふさわしい者を捜し出し,去るまではそこにとどまりなさい。その家の中に入るときには,家の者たちにあいさつをしなさい。そして,その家がふさわしいなら,あなたがたの願う平安をそこに臨ませなさい」。弟子たちが人々の家庭を訪ねて,イエスから学んだ事柄を伝えることになっていたのは明らかです。―マタイ 10:11-13; 13:36。

キリスト教が伸展するにつれ,家庭が集まり合うための中心地となっていきました。やがて,会衆全体が集まって聖書研究を行なう集会場所を持つようになりましたが,神に関する実際の会話の多くは家庭でなされました。このようにあらゆる機会に他の人に進んで話す態度がキリスト教の急速な拡大に貢献するものとなったのです。熱心な弟子たちは今日のクリスチャンに対して立派な模範を残しました。

今日のエホバの証人も自ら進んで同じことを行なっています。エホバの証人は,前述の深刻な質問をはじめ,他の様々な質問に聖書が答えを与えていることを知っており,それを喜んでお伝えしたいと思っています。エホバの証人は聖書の定期的な話し合いを行なうために,世界の各地で百万軒以上の家庭を毎週訪ねています。無償のそうした奉仕を受けたい旨,お知らせくださればよいのです。人生の諸問題に対して聖書が与えている答えについてエホバの証人と話し合うことがいかに有益かをご自身でお確かめになってください。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする