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マルコものみの塔出版物索引 1951-1985
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12:30 塔73 48; 組 132; 目73 2/8 8; 目73 3/8 4; 目72 5/8 4; 塔71 370; 塔66 67; 塔65 628; 目65 6/8 8; 目64 9/22 28; 塔63 333,548; 塔62 89; 塔61 472-473,579
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マルコ 注釈 12章新世界訳聖書 (スタディー版)
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心: この語は,一般に人の内面全体を指す。しかし,「知力」や「自分の全て」と一緒に言及される場合,より限定的な意味を持ち,おもに人の感情,欲求,気持ちを指すと思われる。ここで使われている4つの語(心,知力,力,自分の全て)は,全く別々のものを指すのではない。それらは意味が重なり合っていて,神への愛には欠けたところがあってはならず,全てを込めたものであるべきことを最大限強調している。この節の知力と力に関する注釈を参照。
知力: 人は神を知り,神への愛を育むために,知的能力を使わなければならない。(ヨハ 17:3。ロマ 12:1)この部分は申 6:5からの引用で,元のヘブライ語本文では「心」,「自分の全て」,「力」の3つの語が使われている。しかし,ギリシャ語で書かれたマルコの記述では,心,知力,力,自分の全てという4つの言葉が使われている。使用されている語が異なることには幾つかの理由があると思われる。「知力」という語が加えられたのは,ヘブライ語の言葉が重なり合って伝えている意味を十分に出すためかもしれない。古代ヘブライ語では「知力」を意味する明確な言葉がなく,その概念はヘブライ語で「心」に当たる語にしばしば含まれていた。その語は人の思考,感情,態度,動機を含めた人の内面全体を指す。(申 29:4。詩 26:2; 64:6。この節の心に関する注釈を参照。)この理由から,ヘブライ語本文で「心」という語が使われている箇所で,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳はしばしば「知力」に相当するギリシャ語を使っている。(創 8:21; 17:17。格 2:10。イザ 14:13)また,マルコの中で知力が使われているということは,「力」に当たるヘブライ語と「知力」に当たるギリシャ語の意味に重なり合うところがあるということかもしれない。(「力」ではなく「知力」を使っているマタ 22:37の言い回しと比較。)このように意味が重なり合っているので,律法学者はイエスに答える時,「理解力」という語を使ったと考えられる。(マル 12:33)さらに,福音書筆者たちが申 6:5を引用した際にその聖句と全く同じ言い回しをしなかったのもそのためだと思われる。この節の力に関する注釈と,マタ 22:37,ルカ 10:27の注釈を参照。
力: 知力に関する注釈で述べられているように,この部分は申 6:5からの引用で,元のヘブライ語本文では,「心」,「自分の全て」,「力」の3つの語が使われている。「力[または,「活力」,脚注]」と訳されるヘブライ語は,身体的力と知的能力の両方の意味を含む。そういう理由もあって,この聖句がギリシャ語聖書に引用される時に「知力」という言葉が含められているのかもしれない。マタ 22:37の同じ引用で「力」ではなく「知力」が使われているのもそのためかもしれない。いずれにしても,律法学者は(ギリシャ語で書かれたルカの記述 [10:27] によれば)同じヘブライ語の聖句を引用する際,心,力,知力,自分の全てという4つの言葉を使っている。これは,イエスの時代,ギリシャ語の4つの言葉全てが引用元の3つのヘブライ語に含まれると一般に受け入れられていたことを示していると思われる。
自分の全て: マタ 22:37の注釈を参照。
エホバ: ここでの引用は申 6:5から。元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。
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