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辛抱強さの模範について考えなさいものみの塔 1991 | 5月15日
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辛抱強さの模範について考えなさい
『神は,滅びのために整えられた憤りの器を,多大の辛抱強さをもって忍ばれた』― ローマ 9:22。
1 (イ)霊感による神の言葉は,どのようにわたしたちの益になりますか。(ロ)そのことと関連して,ここで辛抱強さという特質について考慮するのはなぜですか。
わたしたちの創造者エホバ神は,ご自身の霊感によるみ言葉である聖書をわたしたちに与えてくださいました。聖書は『わたしたちの足のともしび,わたしたちの通り道の光』となるべきものです。(詩編 119:105)神の言葉は,わたしたちが「あらゆる良い業に対して全く整えられた者」となる面でも助けになります。(テモテ第二 3:16,17)聖書がそのようにわたしたちを整えさせる一つの方法は,辛抱強さの優れた模範をわたしたちに提示することです。この特質は神の霊の実の一つであり,わたしたちが神の是認を得,仲間の人間と一致して仲良くやってゆく上で不可欠なものです。―ガラテア 5:22,23。
2 「辛抱強さ」と訳されているギリシャ語にはどんな意味がありますか。この特質を表わす面で最も優れているのはだれですか。
2 「辛抱強さ」と訳されているギリシャ語は,文字通りには「霊の長いこと」を意味しています。辛抱強さは,「刺激的な事態に直面しても,すぐに復しゅうしたり直ちに処罰したりしない,自己抑制の特質」と定義されてきました。(W・E・バイン著,「バインの旧約・新約聖書用語解説辞典」,第3巻,12ページ)辛抱強いということは,自制心を働かせ,怒ることに遅いことを意味しています。では,辛抱強さを表わし,怒ることに遅いという点で最も優れているのはだれでしょうか。それはエホバ神にほかなりません。ですから,出エジプト記 34章6節には,エホバは「憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」であると記されています。実際,聖書の中でエホバが『怒ることに遅い』方として語られている箇所は,さらに八つあります。―民数記 14:18。ネヘミヤ 9:17。詩編 86:15; 103:8; 145:8。ヨエル 2:13。ヨナ 4:2。ナホム 1:3。
3 幾つかのどんな特質は,エホバが辛抱強いことの説明となりますか。
3 辛抱強さ,つまり怒るのに遅いこと ― これこそまさにわたしたちがエホバ神に期待する事柄でしょう。エホバは力と知恵において無限,公正において完全な方であり,まさしく愛を体現しておられる方だからです。(申命記 32:4。ヨブ 12:13。イザヤ 40:26。ヨハネ第一 4:8)神はそれらの特質を制御され,常にそうした特質の完全な平衡を保っておられます。神がなぜ,またどのように不完全な人間に辛抱強さを示してこられたかについて,み言葉は何を明らかにしていますか。
み名のための辛抱強さ
4 神が罪人たちに辛抱強さを示してこられたことには,どんな正当な理由がありますか。
4 どうしてエホバは辛抱強くあられるのでしょうか。なぜ神は罪人たちを直ちに処罰されないのでしょうか。それは,義に対する無関心や熱意の不足に起因しているのではありません。そうではなく,エホバが怒ることに遅く,人々を速やかに処罰されないことには正当な理由があります。一つの理由は,神のみ名を知らせるということです。もう一つの理由は,エデンにおける反逆によって提起された,神の主権と人間の忠誠に関する論争を解決するには,時間が必要だったということです。神が辛抱強いさらに別の理由は,その辛抱強さによって,誤りを犯す者たちに自分たちの道を改める機会が開けるということです。
5,6 エホバが人間の反逆に関連して辛抱強さを示されたのはなぜですか。
5 エホバはエデンの園の最初の人間夫婦を扱う際に,辛抱強くあられました。二人が善悪の知識の木の実を食べてはならないという神のおきてを破った時,エホバは,その二人と,エバを欺いた堕落したみ使いを直ちに処刑することもおできになりました。エホバの義と公正の感覚が踏みにじられ,反逆した三者にエホバが怒りを覚えられたことに疑問の余地はありません。神が彼らを即座に処刑されたとしても,それは完全にご自身の権利のうちにあったことでしょう。神は最初の人間アダムに対して,「善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」と警告しておられました。(創世記 2:17)アダムが罪を犯したその日,神は言い開きをさせるために違反者たちを呼び寄せ,死の宣告を下されました。司法上,アダムとエバはその日に死にました。しかし,わたしたちの辛抱強い創造者はアダムを930年生き長らえさせました。―創世記 5:5。
6 この場合,神が辛抱強く,怒ることに遅くあられたことには正当な理由がありました。もし神がそれらの反逆者を即座に処刑されたなら,エホバ神は崇拝されるに値しない神で,エホバは,状況がどうあろうとも神に忠誠を保つ人間の僕たちなど持ち得ないという悪魔の暗黙の嘲弄に答えることにはならなかったでしょう。さらに,次のような質問の答えも与えられないままになったことでしょう。それは,だれのせいでアダムとエバは罪を犯したのか。また,エホバは最初アダムとエバを,誘惑に抵抗できないよう道徳的に弱い者として創造しておきながら,後に誘惑に抵抗しなかったことを理由に二人を処罰されたのか,という質問です。これらすべてに対する答えは,ヨブ記 1章と2章にある記述から明らかにされています。エホバは人類が増えるのを許されることにより,人間がサタンの行なった告発は偽りであるということを証明する機会を持てるようにされたのです。
7 エホバが即座にファラオを処刑されなかったのはなぜですか。
7 エホバはご自分の民であるイスラエル人をエジプト人の束縛から救出しようとした際,再び辛抱強さをお示しになりました。エホバはファラオと配下の軍勢を即座に滅ぼすこともできましたが,神はそうする代わりに,彼らをしばらく大目に見られました。それにはどんな正当な理由があったのでしょうか。時がたつにつれファラオはいよいよ強情になり,イスラエル人をエホバの自由な民としてエジプトから去らせることを拒みました。そのようにしてファラオは,エホバへの反抗ゆえに滅びに値する「憤りの器」であることを示しました。(ローマ 9:14-24)とはいえ,このとき神が辛抱強さを示されたことには,もっと重要な理由がありました。神はモーセを通してファラオにこう言われました。「わたしはすでに手を突き出してあなたとあなたの民を疫病で撃ち,それによってあなたを地からぬぐい去ることもできたであろう。だが,実際には,この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである」― 出エジプト記 9:15,16。
8 神が荒野で反逆的なイスラエル人を処刑されなかったことには,どんな理由がありますか。
8 イスラエル人が荒野にいる時にエホバの辛抱強さが示されたことにも正当な理由がありました。彼らは,金の子牛を崇拝することと,10人の斥候が悪い報告を持ち帰った時に信仰を働かせなかったことにより,甚だしく神の忍耐を試したのです。神はご自分のみ名と評判が関係していたので,ご自身の民である彼らをぬぐい去られませんでした。そうです,エホバはご自分のみ名のために辛抱強さを示されたのです。―出エジプト記 32:10-14。民数記 14:11-20。
人間のための辛抱強さ
9 エホバがノアの時代に辛抱強さをお示しになったのはなぜですか。
9 アダムが罪を犯して自分の子孫となる見込みのあったすべての人に甚だしい不正を働き,彼らに不当な仕打ちを加えて以来,エホバは人類のために辛抱強さを示してこられました。神の辛抱強さは,悔い改めた人間がご自身と和解するための時間を神がお与えになることによって,その不当な仕打ちが正されることを可能にしました。(ローマ 5:8-10)エホバ神はさらに,ノアの時代の人間にも辛抱強さを示されました。その時「エホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった」と記されています。(創世記 6:5)神はそうした状況を見るやいなや人類をぬぐい去ることもできましたが,神が布告されたのは,その状態を120年後に終わらせるということでした。(創世記 6:3)辛抱強さがそのように表明されたので,ノアが3人の息子をもうける時間,息子たちが成長して結婚する時間,ノアの家族が自分たちの魂を救うための,また動物を保護するための箱船を建造できる時間が与えられました。そのようにして,地に対する神の当初の目的は実現可能となりました。
10,11 エホバがイスラエル国民に関して非常な辛抱強さを示されたのはなぜですか。
10 辛抱強さの別の定義は,神がご自分の民をどのように扱われるかということに特に当てはまります。それは,「不穏な関係が改善されるという希望を捨てまいとする決意を伴って,不当な行為もしくは刺激的な事態をじっと忍耐すること」です。(「聖書に対する洞察」[英文],第2巻,262 ページ,ものみの塔聖書冊子協会発行)このことは,神がイスラエル人に対して辛抱強くあられた別の理由を指し示しています。彼らは再三にわたってエホバから離れ,異邦諸国家の束縛のもとに入りました。しかし神はイスラエル人を救出して悔い改めの機会を与えることにより,辛抱強さを示されました。―裁き人 2:16-20。
11 イスラエルの王たちの大部分は,自国の臣民を偽りの崇拝に引き入れました。神はそのような国民を即座に捨て去ったでしょうか。そうではありません。不穏な関係が改善されるという希望をすぐには捨てられませんでした。むしろエホバは怒ることに遅くあられました。神は辛抱強さを示し,悔い改めの機会を何度も彼らにお与えになりました。歴代第二 36章15節と16節には次のように記されています。「彼らの父祖たちの神エホバはその使者たちによって彼らに伝えさせ続け,何度も遣わされた。その民とご自分の住まいとに同情を覚えられたからである。ところが,彼らは絶えずまことの神の使者たちを笑い物にし,そのみ言葉を侮り,その預言者たちをあざけっていたので,ついにエホバの激怒がその民に向かって起こり,いやし得ないまでになった」。
12 クリスチャン・ギリシャ語聖書は,エホバが辛抱強くあられる理由について,どんな証拠を挙げていますか。
12 クリスチャン・ギリシャ語聖書にも,誤りを犯すご自分の民を助けるため,エホバが辛抱強さを示される証拠があります。例えば使徒パウロは,違犯をおかしていたクリスチャンたちに,「[あなたは]神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか」と問いかけています。(ローマ 2:4)ペテロによる次の言葉も,同様の主旨のことを述べています。「エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです」。(ペテロ第二 3:9)「主の辛抱を救いと考えなさい」と言われているのは非常にふさわしいことです。(ペテロ第二 3:15)ですから,エホバは感傷や怠惰のゆえではなく,ご自分のみ名と目的が関係しているゆえに,さらには憐れみ深く愛に富んでおられるゆえに辛抱強いということが分かります。
辛抱強さに関するイエスの模範
13 聖書には,イエス・キリストが辛抱強くあられたことを示すどんな証拠がありますか。
13 神がお示しになった辛抱強さの模範に次ぐ優れた模範は,み子でありメシアなるイエス・キリストの模範です。イエスは刺激的な事態に直面しても性急に復しゅうしたりせず自制されたという点で,際立った模範となっておられます。a メシアが辛抱強さを示されることは,預言者イザヤの次の言葉によって予告されていました。「彼は激しい圧迫を受け,苦しめられるままに任せていた。彼はそれでも口を開こうとはしなかった。彼はほふり場に向かう羊のように連れて行かれ,毛を刈る者たちの前で黙っている雌羊のように,自分も口を開こうとはしなかった」。(イザヤ 53:7)この同じ真理を裏づけているのが,ペテロによる次の言葉です。「彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました」。(ペテロ第一 2:23)イエスは,だれが一番偉いかと繰り返し議論する弟子たちによって大いに試みられたに違いありません。しかしイエスは弟子たちに対し,何と辛抱強く,何と忍耐強くあられたのでしょう。―マルコ 9:34。ルカ 9:46; 22:24。
14 辛抱強さに関するイエスの模範は,何をするようわたしたちを動かすはずですか。
14 わたしたちは辛抱強くある点でイエスが示された模範に倣うべきです。パウロはこう書きました。「自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか。わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめながら。この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られたのです。そうです,罪人たちの,自らの益に反するそうした逆らいのことばを耐え忍んだ方のことを深く考えなさい。それは,あなた方が疲れて,あなた方の魂が弱り果ててしまうことのないためです」― ヘブライ 12:1-3。
15 イエスが辛抱強く,進んで試練を耐え忍ばれたことはどのように分かりますか。
15 イエスが辛抱強く,進んで試練を耐え忍ばれたことは,捕縛される時にお示しになった態度から分かります。イエスは,ペテロが自分の主人を守るために剣を取ったことについて彼を叱責した後,こう言われました。「あなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか。そのようにしたなら,必ずこうなると述べる聖書はどうして成就するでしょうか」― マタイ 26:51-54。ヨハネ 18:10,11。
辛抱強さに関する他の模範
16 ヤコブの息子ヨセフが辛抱強かったことを,聖書はどのように示していますか。
16 罪深い人間も,たとえ不完全であっても辛抱強さを示すことができます。ヘブライ語聖書には,不完全な人たちが不当な仕打ちをじっと耐え忍んだことに関する模範が含まれています。例えば,ヘブライ人の族長ヤコブの息子であったヨセフがいます。彼は自分の異母兄弟やポテパルの妻から受けた不当な仕打ちを,まさにじっと耐え忍びました。(創世記 37:18-28; 39:1-20)ヨセフはそれらの試練によって苦々しい気持ちにさせられないようにしました。そのことは,ヨセフが自分の兄弟たちに,「わたしをここに売ったことで悪く思ったり,自分のことを怒ったりはしないでください。命を長らえさせるために神がわたしを皆さんに先立って遣わされたのですから」と告げた時に明らかになりました。(創世記 45:4,5)ヨセフは辛抱強さに関する何と優れた模範を示したのでしょう。
17,18 ダビデの場合には,辛抱強さに関するどんな証拠が見られますか。
17 エホバの忠実な僕で,不当な仕打ちをじっと耐え忍び,辛抱強さを示した別の模範は,ダビデです。嫉妬深いサウル王から犬のように追い回されていたダビデには,サウルを殺して復しゅうすることもできた機会が二度ありました。(サムエル第一 24:1-22; 26:1-25)しかしダビデは,アビシャイに述べた言葉から分かるように,神を待ちました。「エホバが[サウル]に一撃を加えられるであろう。あるいは,彼の日が来て,死ななければならなくなるか,戦いに下って行き,きっと一掃されることであろう。エホバの油そそがれた者に向かって手を出すなど,わたしには,エホバの見地からして考えられないことだ!」(サムエル第一 26:10,11)そうです,ダビデはサウルに追い回される生活を思い通り終わらせることもできました。しかしダビデはそうする代わりに,辛抱強さを示すほうを選んだのです。
18 ダビデ王が自分の不実な息子アブサロムの手を逃れていた時に生じた事柄も考慮してください。サウルの家のベニヤミン人であったシムイはダビデに石を投げ,ダビデの上に災いを呼び求めて,「出て行け,出て行け。この血の罪のある男,どうしようもないやつめ!」と叫びました。アビシャイはシムイが殺されることを願いましたが,ダビデは復しゅうすることを拒みました。むしろダビデはこのときも,復しゅうするよりも,辛抱強さという特質を示しました。―サムエル第二 16:5-13。
パウロの模範について考えなさい
19,20 使徒パウロは自分自身が辛抱強いことをどのように示しましたか。
19 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中には,不完全な人間が辛抱強さの優れた模範となっている別の例があります。それは使徒パウロです。パウロは自分の宗教上の敵に関連して,またクリスチャンであると公言する人々に関連してじっと耐え忍び,辛抱強さを示しました。そうです,コリントの会衆の中に,「彼の手紙は重々しくて力強いが,身をもってそこにいる様は弱々しく,その話し方は卑しむべきものだ」と言う人がいても,パウロは辛抱強さを表わしました。―コリント第二 10:10; 11:5,6,22-33。
20 ですから,パウロがコリントの人たちに次のように述べたことには正当な理由がありました。「あらゆる点で自分を神の奉仕者として推薦するのです。多大の忍耐と,患難と,窮乏と,困難と,殴打と,獄と,無秩序と,労苦と,眠らぬ夜と,食物のない時と,純粋さと,知識と,辛抱強さと,親切さと,聖霊と,偽善のない愛(によってです)」。(コリント第二 6:4-6)同使徒は同様な調子で,仲間の働き人テモテにこう書くことができました。「あなたは,わたしの教え,生き方,目的,信仰,辛抱強さ,愛,忍耐,迫害,苦しみに堅く従ってきました。……それでも,主はそのすべてからわたしを救い出してくださいました」。(テモテ第二 3:10,11)使徒パウロは辛抱強くある点で,わたしたちのために実に優れた模範を残しました。
21 次の記事は,どのようにわたしたちを助けてくれるかもしれませんか。
21 明らかに,聖書には辛抱強さに関する優れた模範が数多く記されています。エホバとその愛するみ子は主要な模範です。しかし,ヨセフやダビデ,それに使徒パウロのような不完全な人間もこの特質を示してきたことを知るなら,大いに励まされます。次の記事は,そのような優れた模範に倣うようわたしたちを助けることを目的としています。
[脚注]
a 辛抱強い(英語はlong-sufferingで,文字通りには,長く苦しむという意味)とは,単に長く苦しむことを意味しているのではありません。もし長い間苦しんでいる人が,復しゅうできないために欲求不満に陥り,苦々しい気持ちになっているなら,その人は辛抱強いとは言えないでしょう。
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すべての人に対して辛抱強くありなさいものみの塔 1991 | 5月15日
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すべての人に対して辛抱強くありなさい
「兄弟たち,またあなた方に勧めます。無秩序な者を訓戒し,憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい」― テサロニケ第一 5:14。
1 エホバの証人はどこで,またどんな状況のもとで辛抱強さを表わしてきましたか。
エホバの現代の証人たちは,辛抱強くあることに関する何と優れた模範となってきたのでしょう。彼らは現在に至るまで,以前にナチやファシストが支配していた国々で,またマラウイなどの国々で,多大の苦難と迫害を耐え忍んできました。宗教面で分裂した家で生活する人たちも,辛抱強さを示しています。
2 エホバの民が今日享受している霊的パラダイスが存在する理由として,どんな二つの要素がありますか。
2 エホバの献身した民は,自分たちが経験する迫害や苦難にもかかわらず,霊的パラダイスの祝福を享受してきました。実際のところ,油そそがれたクリスチャンが1919年に霊的パラダイスを享受し始めたことを事実は示しています。この霊的パラダイスが存在する理由をどのように説明できるでしょうか。まず第一に,パラダイスのようなこの状態がエホバの民の間に存在するのは,神がご自分の油そそがれた僕たちを,清い崇拝に関係した彼らの「地」つまり状態に回復させたからです。(イザヤ 66:7,8)霊的パラダイスが繁栄しているのは,その中にいる一人一人が神の霊の実を表わしているからでもあります。辛抱強さは霊の実の一つです。(ガラテア 5:22,23)わたしたちの霊的パラダイスに関する限りこの特質が重要であることは,学者のウィリアム・バークレーが述べた次の言葉から理解できます。「マクロスミア[辛抱強さ]の伴わないクリスチャンの交友などというものは,あり得ない。……また,その理由となっているのはまさにこのこと,つまりマクロスミアは神の偉大な特質であるということである(ローマ 2:4; 9:22)」。(新約聖書単語集,84ページ)そうです,辛抱強さはそれほどに重要なものなのです。
わたしたちの兄弟たちに対して辛抱強くある
3 イエスは辛抱強さに関して,ペテロにどんな教訓をお与えになりましたか。
3 使徒ペテロは辛抱強さを表わす面で何らかの問題を抱えていたようです。同使徒はかつて,「主よ,兄弟がわたしに罪をおかすとき,わたしはその人を何回許すべきでしょうか。七回までですか」とイエスに尋ねたことがあるからです。イエスは,「あなたに言いますが,七回までではなく,七十七回までです」と述べてペテロを諭されました。(マタイ 18:21,22)言い換えれば,わたしたちが互いに忍び,わたしたちに罪を犯した人を許すべき回数には限界がないということです。結局のところ,わたしたちは77回まで数えるような人を想像することができません。しかし,そのように許すためには,確かに辛抱強さが求められます。
4 特に長老たちが辛抱強くなければならないのはなぜですか。
4 霊的な兄弟たちが辛抱強さを表わすという問題について言えば,会衆の長老たちが模範となる必要があることに疑問の余地はありません。ある仲間の信者たちが不注意だったり無頓着だったりするために,長老たちの忍耐は試みられるかもしれません。悪い習慣を正すという問題について,優柔不断な人もいるでしょう。長老たちはクリスチャンの兄弟姉妹たちの弱点を見て,すぐにいらいらしたり腹を立てたりしないよう注意しなければなりません。むしろ,それら霊的な牧者たちは,次の諭しを思い起こすべきです。「ですが,わたしたち強い者は,強くない者の弱いところを担うべきであって,自分を喜ばせていてはなりません」― ローマ 15:1。
5 もしわたしたちが辛抱強いなら,何を忍ぶことができますか。
5 また,人間としての弱点や欠点が原因で,個性が衝突することもあるかもしれません。何かの失敗や個人的なくせのために,わたしたちが言わば兄弟たちの神経を逆なでし,そのために兄弟たちがわたしたちに同じ仕打ちをすることもあります。ですから,次の諭しは実に当を得ています。「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい」。(コロサイ 3:13)『互いに忍ぶ』とは,だれかに対して不満を抱く正当な理由があっても,辛抱強くあることを意味しています。わたしたちは,わたしたちの兄弟に復しゅうしたり罰を加えたりすることはおろか,兄弟に対して溜め息をついてもならないのです。―ヤコブ 5:9。
6 辛抱強くあることが知恵の道であるのはなぜですか。
6 それと同様の主旨の諭しは,ローマ 12章19節にも記されています。「わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』」。『神の憤りに道を譲る』とは,怒ることに遅い,つまり辛抱強いことを意味しています。この特質を表わすことは知恵の道です。それは,わたしたちにも他の人たちにも益をもたらすからです。何かの問題が生じたとしても,わたしたち自身,辛抱強くあることによって問題を悪化させずにすむので,良い気分でいられます。それに,わたしたちが辛抱強さを示す相手も,こちらが何かの方法でその人に罰を加えたり復しゅうしたりしないので,良い気分でいられます。パウロが仲間のクリスチャンに,「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい」と勧めたのも不思議ではありません。―テサロニケ第一 5:14。
家族の中で
7 既婚者が辛抱強くなければならないのはなぜですか。
7 幸福な結婚とは,許すことに長じた二人の人の結び付きであると言われてきましたが,これは至言です。この言葉は何を意味しているのでしょうか。幸福な結婚生活を送っている人たちは,互いを辛抱強く扱うということです。人はしばしば互いの気質が正反対であるために引き付けられます。そのような相違は魅力的なこともありますが,すでに既婚のクリスチャンの「肉身に患難」を招いているストレスや不安を増し加える摩擦の原因となる場合もあるのです。(コリント第一 7:28)例えば,夫が細かいことに無頓着であったり,幾らか不注意でだらしないところがあったりする場合を考えてみましょう。妻はそういうことに腹を立てるかもしれません。しかし,親切な言葉で提案しても効果がないなら,妻は辛抱強くあることによって,夫の弱点をただ忍ばなければならないでしょう。
8 夫たちが辛抱強くなければならない場合があるのはなぜですか。
8 一方,妻は細かいことで大騒ぎをし,とかく夫に小言を言う傾向があるかもしれません。そういう傾向で思い出されるのは,「小言を言う妻と家を共にするよりは,屋根の上で生活するほうがよい」という聖句でしょう。(箴言 25:24,今日の英語訳)そのような場合,「夫たちよ,妻を愛しつづけなさい。妻に対して苦々しく怒ってはなりません」というパウロの諭しに従うには,辛抱強さが必要です。(コロサイ 3:19)夫が使徒ペテロの次の諭しに注意を払うにも辛抱強くなければなりません。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻と共に住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。あなた方は,過分の恵みとしての命を妻と共に受け継ぐ者でもあるからです。そうするのは,あなた方の祈りが妨げられないためです」。(ペテロ第一 3:7)夫は妻の弱点に腹を立てるかもしれませんが,辛抱強くあれば,夫は妻の弱点を忍べるようになります。
9 親の側に辛抱強さが必要なのはなぜですか。
9 上手に子供たちを育てたいのであれば,親も辛抱強くなければなりません。子供たちは何度も同じ間違いをするかもしれません。子供たちは強情であったりのみこみが悪かったりするように思えるかもしれず,親をいつまでも腹立たしくさせているかもしれません。そのような状況のとき,クリスチャンである親は怒ることに遅くあり,かんしゃくを起こしたり落ち着きを失ったりせず,義の原則に堅く従いながら冷静さを保つべきです。父親は,自分にも若い時があり,間違いをしたことを忘れてはなりません。父親は,「父たちよ,あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」というパウロの諭しを自分に当てはめる必要があります。―コロサイ 3:21。
外部の人に対して
10 わたしたちは職場でどのように振る舞うべきですか。そのことはどんな経験から分かりますか。
10 クリスチャンが働く職場では,人間の不完全さと利己心に起因する不快な状況が生じるかもしれません。平和を保つために巧みに振る舞い,不当な仕打ちを耐え忍ぶのは知恵の道です。これがどれほど賢明なことかを示しているのは,そねみの気持ちを持った同僚からひどく不愉快な仕打ちを受けたクリスチャンの経験です。その兄弟はそのことで言い争わず,辛抱強かったため,やがて悩みの種であったその従業員との聖書研究を始めることができました。
11 わたしたちは特にどんなときに辛抱強くなければなりませんか。それはなぜですか。
11 エホバの民は,クリスチャン会衆外の人たちに証言する際,特に辛抱強くある必要があります。クリスチャンは時々ぞんざいで荒々しい反応に直面します。そのようなとき,同じようにやり返すのは正しいこと,あるいは賢明なことでしょうか。そうではありません。それは辛抱強さを表わすことではないからです。知恵の道は,「温和な答えは激しい怒りを遠ざけ,痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす」という賢明な箴言を思い起こし,それに従うことです。―箴言 15:1。
辛抱強さを示す点で信仰と希望は助けになる
12,13 わたしたちが辛抱強くあるために,どんな特質が助けになりますか。
12 わたしたちが辛抱強さを示し,過酷な状況を耐え忍ぶ上で,何が助けになるでしょうか。その一つは神の約束に対する信仰です。わたしたちは神の言われることをそのまま信じなければなりません。聖書はこう述べています。「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。しかし,神は忠実であられ,あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず,むしろ,あなた方がそれを忍耐できるよう,誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。(コリント第一 10:13)言い換えれば,長い経験を持つある人が述べているように,「もし神が許しておられるのなら,耐えることができます」。そうです,わたしたちは辛抱強くあることによって,耐えることができるのです。
13 信仰と密接に関連しているのは,神の王国に対する希望です。王国が全地を支配する時,わたしたちを苦しめる邪悪な状況はすべて除き去られます。この点に関して詩編作者ダビデはこう述べました。「怒りをやめ,激怒を捨てよ。激こうし,そのためにただ悪を行なうことになってはならない。悪を行なう者たちは断ち滅ぼされるが,エホバを待ち望む者たちは,地を所有する者となるからである」。(詩編 37:8,9)神がこれら試みとなる状況をすべて間もなく除き去られるという確実な希望は,わたしたちが辛抱強くあるための助けとなります。
14 わたしたちが未信者の配偶者に対して辛抱強くあるべき理由を,どんな経験が示していますか。
14 もしわたしたちが未信者である配偶者に苦しめられるとしたら,わたしたちはどのように行動すべきですか。神に助けを求め続け,反対者がエホバの崇拝者になるという望みを絶やさないことです。クリスチャンの夫を持つある妻は,時々夫の食事の準備や夫の服をきれいにする仕事を拒みました。きたない言葉を使うこともあれば,何日か夫と口をきかないこともありました。魔術を使って夫に呪いをかけようとしたことさえあったのです。「でも,その都度,私は祈りのうちにエホバに頼りました。私には確信がありました。エホバは,私が辛抱強さという良い特質を培い,クリスチャンとしての平衡を失わないようにするための助けを与えてくださるという確信です。妻の心の態度はいつの日か変化する,という望みも抱いていました」と,夫は述べています。妻は20年間そのように夫をあしらっていましたが,そののち妻に変化が生じはじめました。夫はこう言っています。「辛抱強さという霊の実を培えるようエホバが私を助けてくださったことに,私は深く感謝しています。いま私は,妻が命の道を歩み始めるという結果を見ているからです」。
祈り,謙遜さ,愛は助けになる
15 わたしたちが辛抱強くある上で,祈りが助けになるのはなぜですか。
15 祈りも,辛抱強さを表わす上で大きな助けになります。パウロはこう勧めました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。(フィリピ 4:6,7)「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる。神は義なる者がよろめかされることを決してお許しにならない」という訓戒にも,ぜひ忘れずに注意を払いましょう。―詩編 55:22。
16 辛抱強くある上で,謙遜さはどのように助けになりますか。
16 霊の実の辛抱強さを培うためのさらにもう一つの大きな助けは,謙遜さです。誇り高い人には忍耐力がありません。そういう人は何かというと腹を立て,すぐに怒り,どんな気に入らない扱い方に対しても我慢ができません。これはみな,辛抱強さの反対です。しかし,謙遜な人は自分を過度に重視しません。サウル王につけ狙われ,ベニヤミン人シムイに軽べつされた時のダビデのように,エホバを待ちます。(サムエル第一 24:4-6。サムエル第二 16:5-13)ですからわたしたちは,「全くへりくだった思いと温和さとをもち,また辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍び」つつ歩むことを願うべきなのです。(エフェソス 4:2)さらに,『エホバのみ前にあって謙遜になる』べきです。―ヤコブ 4:10。
17 わたしたちが辛抱強くあるために,愛が助けになるのはなぜですか。
17 とりわけ無私の愛は,わたしたちが辛抱強くあるための助けになります。実際,『愛は辛抱強い』のです。愛は他の人たちの最善の益を心がけるようわたしたちを促すからです。(コリント第一 13:4)愛はわたしたちが感情移入を行ない,言わば相手の立場に立って物を考えるのを可能にします。さらに愛は,辛抱強くあるようわたしたちを助けます。「[愛は]すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐(する)」からです。「愛は決して絶えません」。(コリント第一 13:7,8)確かに,「エホバに向かって賛美を歌う」の本に含まれている200番の王国の歌の歌詞にあるとおりです。
「愛は善きを見 兄弟結び
誤れる者を 優しく励ます」。
喜んで辛抱する?
18 喜んで辛抱することは,どうして可能ですか。
18 パウロは,コロサイにいる自分の仲間の信者が,エホバにふさわしい仕方で歩み,エホバを喜ばせ,あらゆる良い業において実を結ぶために,神のご意志に関する正確な知識に満たされるようにと祈りました。彼らはそのようにして,「あらゆる力をもって神の栄光ある強大さのほどにまで強力にされ,十分に耐え忍ぶ者,また喜んで辛抱する者とな(る)」のです。(コロサイ 1:9-11)とはいえ,どうして人は「喜んで辛抱する」ことができるでしょうか。矛盾しているのではありません。聖書で言われている喜びを抱くということは,うきうきした陽気な気分になるというだけのことではないからです。霊の実である喜びには,神のみ前に正しいことを行なったという,深い満足感が含まれます。それはまた,辛抱強さを示した結果,約束の報いを受けるという希望の表われでもあります。そのようなわけで,イエスはこう言われました。「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです。歓び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです。人々はあなた方より前の預言者たちをそのようにして迫害したのです」― マタイ 5:11,12。
19 辛抱強くあり,同時に喜びに満ちていることが可能であることを,どんな実例が示していますか。
19 イエスはそのような喜びを抱いておられました。実際,「この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え」ました。(ヘブライ 12:2)この喜びにより,イエスは辛抱強くあることができたのです。同様に,使徒たちがむち打たれ,「イエスの名によって語るのをやめる」ようにと命令された時に生じた事柄も考慮してください。使徒たちは「彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,サンヘドリンの前から出て行った。そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続けた」とあります。(使徒 5:40-42)キリストの追随者たちは喜んで辛抱できるということを示す,見事な実例です。
20 もしわたしたちが辛抱強さを示すなら,それはわたしたちと他の人たちとの関係にどんな影響を及ぼすことがありますか。
20 復しゅうをせず,最善のことを望んで怒ることに遅くあるよう,そうです,辛抱強くあるようわたしたちに勧めている神の言葉は,確かに賢明な諭しを与えています。会衆内の兄弟姉妹たち,家族の成員,職場の人たち,クリスチャン宣教を行なう際に会う人たちと仲良くやってゆくためには,いつも祈ることと,神のこの霊の実が必要とされます。では,辛抱強さを表わす上で何が助けになるでしょうか。それは,信仰,希望,謙遜さ,喜び,そして愛です。確かに,そのような特質があれば,わたしたちはすべての人に対して辛抱強くあることができます。
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