会話によってその隔たりに橋を架けましょう
だれでも話はするのだから,会話など簡単だ,という考えは正しいでしょうか。間違っています! 実際,特に見知らぬ人と会話することを考えただけで戸惑いを覚える,ということも珍しくありません。「どのように話の口火を切ったらよいのだろうか。何について話すべきだろうか。自分のなまりはどうだろうか」といった気にかかる数々の質問が矢継ぎ早に生じます。内気で会話が上手にできない人は,これらの,また他の多くの疑問に悩まされます。どんな解決策がありますか。
バスを待っているとしましょう。夕方の時間で,日は沈みつつあり,夕焼けが町を染めています。一,二メートル離れた所に見知らぬ人がいて,どうやら物思いにふけっているようです。その人とあなたしかいません。どうなるでしょうか。障壁ができ上がりますか,架け橋ができるでしょうか。黙っていますか,会話を交わしますか。
「都会は大きくて冷たいと言う人もいますが,都会でも夕焼けは,私の育った小さな町の夕焼けと同じで,美しいものですね」。
あなたは,隣人に対して橋の最初のアーチを架けました。大抵の場合,相手の人はそれに答え,二人の隔たりに橋が架けられます。言うまでもなく,すべての人が話したがるわけではありませんが,少なくとも,夕焼けの美しさという簡単な共通の基盤を用いて,あなたは機会を差し伸べたのです。それは万人の心に訴える話題です。
しかし,会話の際に最小限に抑えるべきことが一つあります。それは自分自身です。話題は聴き手の心に訴えるものであるべきですから,自分のことはまず話題に上らないでしょう。例を挙げてみましょう。うぬぼれの強い一人の映画俳優の話があります。この人は,このあいだ会ってから自分の生活に生じたささいな事柄すべてを1時間も話し続けて招いてくれた人を退屈させ,最後に,「これで僕の話はおしまいだ。僕の最近の映画を見たかどうか,話してくれる?」と言って話を結びました。このような自己中心的な態度は避けなければなりません。
ですから,自分のこと,あるいは自分がしたことでさえ,主な話題にしてはなりません。むしろ既に生じたこと,これから生じること,ニュース,天気,世界の出来事,そしてそれらがどのように自分と聴き手に影響を与えるかということを話題にしましょう。
もちろん,共通の関心事となっている話題を取り上げることと,それを魅力的な方法で示すこととは別問題です。あなたと同じほど物事を鮮明に見られるよう,聴き手を助けなければなりません。どのようにそれができるでしょうか。自分の好きなある事柄について熱意をこめて話すことです。もし“的を射た”手ごたえがあり,相手もあなたと同じような熱意を示してくれるなら,質問をしてください。相手に話させるのです。その交流はどちらの側にも益を与えます。
「私にはなまりがあります」
自分の話し方は一般に受け入れられている文法の型や発音にかなっていないので,上手な会話は絶対にできない,と考えている人がいます。外国生まれの人は時々そのような考え方をして,「ご存じのように私にはなまりがあり,私の言うことはあまりよく分かってもらえないのでないかと思う」と言います。ところが,現実には,珍しいなまりを聞くのは好きだ,と言う人が少なくないのです。例えば,スペインとポルトガルで長年を過ごした一人の英国人はこのように説明しました。「スペイン語やポルトガル語を話す時には自分のなまりが気になりましたが,実際はなまりが,いろいろな場合に関心を保たせる働きをしてきました。調子があうまでには,少しの時間がかかる場合がありますが,調子があってしまえば,自分たちの言語を学んでくれたということで喜んでくれました」。
外国なまりがごく普通に見られる国は少なくありません。そのために軽べつされるようなこともありません。ですからなまりに妨げられてはなりません。むしろ,あなたが異国の地から来たということは,あなたが話題や経験を収めた大きな倉を持ち得るということです。
大抵の国々には,いずれにしても異なったなまりや方言があります。それらはすべて,人類の中に見られる魅力ある多様性の一部です。時々,“大都会”の人々は,都会の“奇妙な”話し方が地方の人々の好奇心を呼び覚ましているとはつゆ知らず,地方の人々の“風変わりな”話を聴くのを楽しみます。真に重要な点は,彼らが話をしているということです。
聴くのは難しいか
聴くことは,良い会話を交わすためのもう一つの面であり,話すことと同じほど重要です。問題は,本当に耳を傾けて聴こうとしない人がいるということです。そのような人たちは,次に自分の述べる考えの筋を練り,話に割り込む頃合を待ち設け,しばしば異なった話題や雰囲気で話を脱線させてしまいます。そうなると,会話は二人の人の行なう,結びつきのない長談義へと姿を変えてしまいます。ですから,『聞くことに速く,語ることに遅くありなさい』という諭しは実に適切です。―ヤコブ 1:19。
正しい態度で聴くことは,正しい礼儀作法の表われです。そのような聴き方をする人は,提出された見解を偏見を捨てて検討し,それらの見解が現在の意見にどのような影響を及ぼすかを考慮します。そのとき,真の誠実さが明らかになります。聴き手は,どんなことがあってもある見解に固執しようとするでしょうか。それとも,妥当な点が示された場合にはそれを認めるでしょうか。そうです,誠実さと柔軟性によって良い会話への道が開かれるのです。
結婚生活ほど,誠実に聴くことが重要となる場はありません。夫あるいは妻に話しかけたところ,当たり障りのない答えが返ってきて,一言も心に銘記されていないことが分かった,というような経験はありませんか。それは確かに腹立たしいものです。それでも,結婚生活を豊かなものにするには,意思の疎通が肝要です。互いの考えや親密さの意義深いやり取りに基づいた,信頼と信用の確かなきずながなければなりません。
残念ながら,ある人々はこの種の親しい話をほとんど,あるいは全く行ないません。そのような人たちには刺すような舌があり,侮辱的な言動を“ウイット”で覆い隠します。その周りにいる人々は,その人の舌の鋭い切っ先をいつ感じるとも分からず,不快な気持ちにさせられます。聖書の箴言が述べる通り,「剣で刺すかのように無思慮に話す者がい」ます。ですから,「あなた方の発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけされたものとし,一人一人にどのように答えるべきかが分かるようになりなさい」という助言に従うほうがはるかに優れています。そうです,慈しみにあふれた会話は,他の人の感情を不必要に傷つけたり,威厳を損ねたりすることはありません。―箴言 12:18。コロサイ 4:6。
ですから,よく会話を交わす人であってください。恐れずに障壁を打ち破り,隔たりに橋を架けてください。会話が,「より快い,思いの宴」,「理性の宴,また魂の流れ」と表現されていることを忘れてはなりません。ですから,人々のことを知るようにし,自分のことを知らせることによって,あなたの『魂を流れ』させてください。そしてもう一言,― 聴き手を圧倒してはなりません。やめる時をわきまえましょう。