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  • 謙虚さ ― 逆境の際の助け
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 11/15 682–687ページ

謙虚さ ― 逆境の際の助け

謙虚である,つまり,思いのへりくだった状態でいるのは,人間にとって非常にふさわしいことです。この世で知恵があるとされている人々の中にさえ,確かに,この事実を認める人がいます。

たとえば,最大の科学者のひとりである,アイザック・ニュートン卿はこう述べました。「わたしが,他の人たちより遠くを展望しえたとしたら,それは卓越した人々の,いわば肩の上に乗せてもらったからである」。同様に,原子が分裂しうることを最初に発見した故オットー・ハーン博士は,自叙伝の中で次のように語っています。「わたしの長い生がいを振り返ってみる時,科学上のわたしの功績が,大部分,幸いともいうべき偶然の連続に負っていることに気づく」。

謙虚さはふさわしいばかりでなく,どんな場合にでも望ましいものです。最も重要なこととして,謙虚さを持っていれば,エホバ神との正しい関係を保つよう助けられます。つぎのように書かれています。「神は高慢な者たちに敵対し,謙遜な者たちに過分の恵みを施される」。(ヤコブ 4:6,新)謙虚さはさらに,わたしたち自身が平安な思いと満足をいだくのに役だちます。また,仲間との関係を保つうえにも,謙虚さは助けとなります。

それに加えて,逆境のゆえに試練にあっている際,謙虚さは特別な助けとなります。家庭内の諸問題,経済的にひっ迫した事態,あるいは,きびしい助言などに接するのは,つらいことかもしれません。逆境はさらに,クリスチャン宣教の際にあう反対や,激しい迫害といった形を取るかもしれません。友だちだと思っていた人から不正をされるような場合も同様です。これからみるとおり,そうした逆境に耐えるのに,謙虚さは助けとなるのです。

家族関係において助けとなる謙虚さ

疑問の余地のないことですが,逆境は家族内にもしばしば生じます。不幸な結婚はなんと多いのでしょう。いろいろな逆境のゆえに家族を棄てる人は,大ぜいいます。同様な理由で離婚に訴える夫婦は,なんと多いのでしょう。謙虚さがあれば,逆境に耐えることができますし,原因をさえ除き去れる場合がよくあります。

謙虚さは,夫また父親にとって確かに必要です。それがあれば,家族の欠点だけでなく,自分自身の欠点にも気づけます。そうすれば,次の原則を適用して,家族の弱点を補う立場に立てるでしょう。『強い者は,弱い者の荷を負うべきである』。(ロマ 15:1,新)謙虚さがあれば,思いやりを示すことができ,家族の他の者と同じ立場に立って物事を見ることができます。夫や父親に謙虚さがあれば,自分と家族の者との間に話し合いの場がたえず保たれ,家族は容易に自分の気持ちを言い表わすことができ,家庭生活の中でしばしば問題となる誤解を避けられます。確かに,父親が家族のだれよりも,ある問題についてよく知っている場合があるでしょう。しかし,家族の各人が何を考えているかをほんとうに知っているなら,家族をもっと良く援助できるということを父親は認めます。

今日,時として,夫のかしらの権に対する敬意を欠いた,つまり独立心が強く,我を通そうとする妻がいます。たとえば,一家の生計をささえる夫に前もって相談もしないで,高価な買い物をする妻がいるかもしれません。同様に,我が強く,当然示すべきていねいな態度を取らない子どもも多くいます。家族のかしらが謙そんで,自分にも弱点があることを認めているなら,家族の者から忍耐を試みられるような場合でも,冷静さと寛容を保てます。相手を威圧するために大声で話したり,叫んだりするかわりに,きょう正が必要ならば,親切で,しかも確固とした仕方で懲らしめを与えます。―テモテ後 2:24。

謙虚さを持つ家族のかしらは,家族にかかわる重大な決定を下す際,家族のことを考慮します。すすんで提案を求め(子どもでさえ良い考えを述べることがあります),そうした提案に必要な考慮を払います。謙虚さがあれば,妻や子どもたちがどんなに大きな祝福であるかを,夫は思いめぐらすことができます。また,自分のあやまちを認めることもできますし,卑しい仕事でも,必要であればすすんで行なえるものです。謙虚さがあれば,『やさしい思いやりをもち,惜しみなく許す』ことができるでしょう。―エペソ 4:32,新。

妻と子どもにとって,服従することが時として非常にむずかしい場合があるかもしれません。なぜなら,家族のかしらは,他のすべての人と同様,不完全で,やはり,あやまちを犯すからです。しかし,謙虚さがあれば,服従することはやさしくなります。妻と子どもに対する次の助言は,神のことばであることを忘れないでください。『妻たちは,何事においても,自分の夫に従いなさい』。「子どもたちよ,何事においても,あなたがたの親に従順でありなさい。これは主に喜ばれることだからである」― エペソ 5:24,コロサイ 3:20,新。

家族の中で意見の相違がみられることは避けられません。男と女では,ものの見方が違いますし,若い世代と古い世代についても同じことが言えます。謙虚さがあれば,そうした意見の相違ばかりでなく,人間の持つ不完全さゆえに生じるストレスや緊張感に耐えられるよう,すべての人が助けられます。そればかりか,そうした感情を解消するのに大いに役だちます。

経済的な苦境に際して,助けとなる謙虚さ

さらに謙虚さは,経済的な苦境に陥った時の大きな助けとなります。いろいろな理由で,失職する場合もあるでしょう。あるいは,台風の場合のように,家や持ち物などを全部失うこともありえます。そうした時に,謙虚さは大きな助けとなります。謙虚な人は,自分のことだけでなく,同じ苦境に置かれている他の人についても考え,その人たちに援助の手をさし伸べ,励みを与えるものです。そういう時に謙虚さがあれば,物質的には富んでいなくても,持っているもので満足できるものです。また,逆境に善処でき,あらしの場合など,命に別状がなかったことに対して感謝の気持ちをいだけます。

真に謙そんな人は,社会が自分にすべて最善のものを提供する義務がある,というような考え方をしません。したがって,自分の持っていないものを他の人が持っているからといって,不幸に感じたり,いらいらしたり,または,盗みを働いたりはしません。(箴言 30:7,8)むしろ,質素な食事であっても,食卓につけることが,また,最善の生地でなくても,あるいは,最新の流行ものでなくても,着る服があることに対して,誠実な感謝をささげるはずです。聖書の助言が述べているように,そのような人は食べ物と着る物があれば,満足するでしょう。―テモテ前 6:8,新。

助言を与えられる際,助けとなる謙虚さ

謙虚さは,助言を与えられたり,しっ責されたりする時にも,大きな助けとなります。高慢な人は助言を受けると憤慨します。そのような態度は,自分は決してあやまちを犯さないということを意味するものです。そのため助言を与えられると,怒って“爆発”したり,ひどく“興奮”したりします。いずれにせよ,問題は悪くなるばかりです。謙そんな人は,快く助言やきょう正を受け入れます。自分がきっとあやまちを犯したであろうことを知っているからです。それゆえに,聖書はこうさとしています。「君長たる者汝にむかひて腹たつとも 汝の本処を離るゝなかれ 温順は大なるとがを生ぜしめざるなり」― 伝道 10:4。

助言としっ責は,謙そんに受け入れられる時,大きな益をもたらします。「教訓の懲治は生命の道」だからです。(箴言 6:23)そうした訓戒に謙そんに応じるなら,今の時代に災いを避けるよう助けられ,さらに,神の是認を受け,それゆえに,とこしえの命に至る道を歩むことができます。―箴言 12:28。

野外宣教における謙虚さ

クリスチャン宣教の点で苦境に面した時も,謙虚さは大きな助けとなります。謙虚な人は,イエスの助言に注意を払うことができるからです。「悪しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば,左をも向けよ」。エホバのクリスチャン証人として,町かどに立って聖書文書を通行人に提供する際,だれかに非難がましいことばをかけられた時,いわば,顔を打たれた場合,謙虚さがあれば,同じような仕返しをしないよう,自分を守れます。むしろ,『他のほおも向ける』でしょう。このように,親切,柔和,そして優しさを示すことによって,悪に征服されるかわりに,善をもって悪を征服することになります。―マタイ 5:39。ロマ 12:21,新。

また,戸別伝道の際,だれかに,忙しすぎるから,といって追い返されたとしても,その人をすぐさま,ひどい人間だなどとはみなさないでしょう。謙虚さがあれば,自分でも,他の人が訪問した時に忙しい場合があるかもしれない,ということに気づくはずです。家の人のきげんが悪いようにみえても,謙虚な伝道者は,何かの理由があったのだろうと考えて,気分を害したりしないですみます。さらに,謙虚さがあれば,人と話し合う際に,自分が決定的なことばを述べねばならないとか,家の人の反論すべてに答えねばならない,というふうには考えないものです。すばらしい音信を伝えているのであり,聞く人々とそれをわかち合うことに喜びを感じているのです。出された質問に答えられない場合には,ほんとうに知りたいのでしたら,答えを調べてから,またうかがいますが,と謙そんに申し出ることができます。

相手がどのような態度で応じるかにはかかわりなく,謙虚さは,クリスチャン宣教に携わる際,非常な助けとなります。なぜなら,謙虚な人は,他の人々の見解を理解し,それから,相手を援助しようと努めるからです。そして,使徒パウロと同じ態度を取ることができるでしょう。彼は次のように書きました。「われ凡ての人に対して自主の者なれど,さらに多くの人を得んために,自ら凡ての人の奴隷となれり。……我すべての人には凡ての人の状に従へり,これいかにもして幾許かの人を救はんためなり。われ福音のために凡ての事をなす,これ我も共に福音にあづからんためなり」。そうです,謙虚さがあれば,人に接する際,相手と同等の立場になって話すことができます。―コリント前 9:19,22,23。

クリスチャン兄弟からもたらされる苦境

時には,仲間の信者だと唱える人から,クリスチャンにふさわしくない仕打ちを受ける,といった苦境に対処しなければならないことがあるかもしれません。そういう場合,ともすれば,たいへん怒って,すっかり義憤にかられたり,あるいは,そのことでつまずいて,クリスチャン会衆から脱落したりしかねないような人がいます。しかし,謙虚さがあれば,そのような場合でも,必要な洞察力が得られ,怒りをおそくさせ,そのため,あやまちを見のがすことができます。(箴言 19:11)この点,古代の人,ダビデは,わたしたちのために良い模範を残しました。ダビデはサウロ王に追い回され,命さえ危険にさらされながら,サウロの態度のゆえに彼に対して苦々しく思ったり,復しゅうの念にかられたりはしませんでした。ダビデは謙そんに,エホバ神が事態を処理されるに任せました。そして,エホバはご予定の時に,そうなさり,イスラエルの王権をダビデに与えました。

不当な扱いを受けた時,謙虚さがあれば,霊感を受けた次の助言に聞き従うよう,確かに助けられるでしょう。「だれに対しても,悪に悪をもって報いてはならない。……愛する者よ,自分で復しゅうせず,御怒りにまかせなさい」。事実,少し考えただけで,不当な扱いをした人を罰そうと望むのは,思い上がった態度であることがわかります。神が審判者です。謙虚さがあれば,エホバが事態を正されるのを待ち望むことで満足できます。―ロマ 12:17,19,新。

謙虚さは,迫害された時の助け

激しい迫害にあっている時にも,謙虚さは同様に大きな助けとなります。そのような取り扱いを受けると,人はしばしばざ折したり,妥協したり,あるいは主義を曲げて,良心を忘れ去ったりします。この点で,エホバのクリスチャン証人はしばしばりっぱな評判を得ました。ナチ強制収容所のある目撃者が述べたとおりです。「エホバの証人は,泥の海の中に立つ岩のようでした」。

一つには,謙虚さがあれば,たとえ,そのような苦しみにあうことを神が許されたとしても,神に反逆したりはしません。そうした苦しみに耐え,論争,すなわち,サタンのどんな仕打ちにもかかわらず,被造物は神に忠誠を保ちうるか,という問題に対する正しい認識を示すことができます。ヨブの経験した逆境は,彼の置かれた状況,また周囲の人々のことを考えると,非常にきびしいものでした。彼の妻は,「神をのろって死になさい」とヨブにすすめました。しかし,ヨブはそのようなことをせずに,謙そんにすべてを甘んじて受けました。そして,ついに,神ご自身によって,ヨブの正しさは立証されたのです。彼の模範をはじめ,関係している論争に対する知識により,わたしたちは耐え忍ぶことができます。―ヨブ 1,2,42章,新。

しかし,この点に関する最大の模範は,なんといってもイエス・キリストです。イエスは,自分に対する御父の意志を謙そんに受け入れ,霊者たちすべてのおさとしての天の栄光をあとにし,不滅性を持たない単なる人間として地上に来られました。「そのうえ,人のさまであられたとき,彼はへりくだり,死にいたるまで,しかも刑柱上の死にいたるまで従順になられた」のです。その死は,非常に恥辱的な,苦痛の伴う死でした。「こんなに苦しまねばならないからといって,いったいわたしをだれだと思っているのか」というような態度を,イエスは取られませんでした。それどころか,ご自分の行ないを通して,謙虚さの最大の模範を示されました。その模範は,わたしたちのために残されたのです。―ピリピ 2:8,新。

謙虚さをつちかう

謙虚さという,このすぐれた特質を身につけるにはどうしたらよいのでしょうか。それは自動的に得られるものではありません。他のすぐれた特質のすべてと同様,そのためには努力しなければなりません。時間がかかります。ですから,努力したってなんの益になるのか,と考えて,失望したりしてはなりません。たとえ時間と努力がかかり,しばしば失敗をしても,努力するだけの益があるのです。

まず,わたしたちは謙そんでありたいとの熱烈な願いを持たねばなりません。謙そんでいてはじめて,エホバ神を喜ばせうるということを,わたしたちは,たえず思い起こさねばなりません。ペテロ前書 5章5節(新)で明らかにされているのはその点です。「あなたがたすべては,互いに対する,へりくだった思いを,みずからまといなさい。なぜなら,神は高慢な者たちに敵対し,謙そんな者たちに過分の恵みを施されるからである」。しかも,わたしたちは,神の過分の恵みを必要としていませんか。どうしてエホバに敵対されてよいでしょうか。神のことばを定期的に読むことによって,わたしたちは,謙虚さに関する神の思いを知ることができるのです。―マタイ 18:4; 23:12。ヤコブ 4:6,10。ペテロ前 5:6。

別の大きな助けは祈りです。事実,祈りそれ自体,謙虚さの表現と言えるでしょう。なぜなら,それは,いわば,こじきとして,つまり,自分たちの霊的な必要を認識している,貧困者として,エホバ神のもとに来ることになるからです。(マタイ 5:3,新)そして,信仰をもって求め,祈り求めたことを得るために努力して,自分の分を果たすなら,謙虚さという,このすぐれた特質を獲得できます。エホバは,ご自分の聖霊や知恵にかぎらず,謙虚さのような,すぐれた特質を願い求めるすべての人に,惜しみなく与えてくださいます。―ルカ 11:13。ヤコブ 1:5-7。ピリピ 4:6。

理解は,エホバ神との関係についての正しい認識,と的確に定義されていますが,これも謙虚さをつちかう上で大きな助けとなります。それは,エホバ神が宇宙の主権者ならびに至上の立法者として,わたしたちに服従を要求する権利を持たれる,という認識を意味します。そればかりでなく,全能であられるゆえに,エホバ神はご自分の意志と命令を施行することもできます。神に比べて,わたしたちはなんと弱小で,取るにたらない者なのでしょう。その御前にあって,全国民は,からの手おけから落ちる一滴の水にすぎません。(イザヤ 40:15,新)物事に対するこうした認識を持つなら,わたしたちは理解を得ていることになります。しかし,理解をはばむ最大の敵は,誇り,あるいは自尊心です。したがって,次のように書かれているのは,十分理由があってのことなのです。「あなたが得るものすべてをもって,理解を得なさい」― 箴言 4:7,新。

謙虚さをつちかうための助けとして見すごしにできないのは,愛,つまり,原則に基づく無私の愛です。『愛は誇らず,たかぶりません』。愛を持っている人は,その思いがへりくだっており,他の人々を自分よりまさったものとみなしますから,すぐわかります。―コリント前 13:4。ピリピ 2:2,3。

謙虚さを得るために毎日努力する

逆境に際して謙虚さがわたしたちの助けとなるためには,毎日の生活で考えること,言うこと,そして,することすべてにおいて,謙虚さを行使しなければなりません。謙虚さは思いのへりくだった状態を意味します。それは,だいそれた考えや野心をいだいたり,他の人々を見下げたりすることではありません。使徒パウロのような考え方をすることを意味しています。彼は自分のことを,「凡ての聖徒のうちの最小き者よりも小き者」また,「使徒のうち最小き者」と語りました。―エペソ 3:8。コリント前 15:9。

謙虚さは,わたしたちの会話にも表われねばなりません。自分はこう思う,自分は何をした,何をするつもりだ,というように,いつも自分のことばかり話したがりますか。他の人のことを批判的に話すことが多いですか。謙虚さがあれば,エホバ神,そのみことばとわざ,そのすばらしい属性に注意を向け,また仲間のしもべのことを良く言うはずです。

会話をたびたびひとり占めにすることはありませんか。謙虚さがあれば,他の人々にも話す機会を与えられます。他の人がなかなか話をしない時には,謙そんに,たくみさと愛を示しながら,会話に引き入れてあげることができます。そうすれば,その人は幸福に感じますし,あなた自身を強められます。自分だけが話すかわりに,話す機会を他の人に与えるなら,もっと喜びを味わえるものです。―使行 20:35。

謙虚さはわたしたちの行動を特徴づけていますか。謙虚さがあれば,他の人を押しのけたり,並んで立っている場合,いつでも先頭にいたいと考えたりはしません。家のまわりの雑用とか,御国会館の掃除とかといったつまらなそうな仕事でも行なえるでしょう。謙虚な人は,他の人から仕えられることを期待するかわりに,自分から他の人に仕えます。イエスの模範を思い出してください。彼は,仕えられるためではなく,他の人に仕えるために来たのです。―マタイ 20:28,新。

確かに,謙虚さが望ましいものであることを示す事柄は,数多くあります。それは,わたしたちの造り主であられるエホバとの平和な関係を保つのに貢献します。平安な思いを保つのに寄与します。仲間との友好関係を保つのに役だちます。そして,わたしたちが助けを最も必要とする時,すなわち,逆境の際に,大きな助けとなるのです。

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