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他の宗教に関心を持つのはなぜですか神を探求する人類の歩み
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1章
他の宗教に関心を持つのはなぜですか
1-7 世界の宗教の様々な表われ方を示す幾つかの例を挙げてください。
読者はどこに住んでいようと,宗教が幾百万もの人々の生活にどのように影響を及ぼしているかを確かに見てこられたことでしょう。もしかすると,あなたの生活も影響を受けているかもしれません。ヒンズー教が行なわれている国では,プージャー,つまりココナツや花やリンゴのような供え物を神々にささげることを含む儀式が行なわれるのをしばしば目にすることでしょう。司祭僧はティラク,つまり赤や黄色の顔料のしるしを信者の額に付けます。また,毎年,幾百万もの人々がガンジス川に群がって,その水で身を清めます。
2 カトリックの国々では,教会や大聖堂の中で人々が十字架像やロザリオを携えて祈る姿を目にします。敬虔な態度でマリアにささげる祈りの回数を数えるために,ロザリオのじゅず玉が使われます。それに,修道女や司祭は黒い僧服をまとった独特の身なりをしているので,容易に見分けられます。
3 プロテスタントの国々では礼拝堂や教会がたくさんあり,普通,日曜日には教区の信者たちがよそゆきの服を着て,賛美歌を歌ったり,説教を聞いたりするために教会に集まります。牧師は大抵,黒いスーツを着,僧職者用の独特のカラーを着けています。
4 イスラム教の国々では,祈とう時報係,つまり一日に5回尖塔から大声で叫び,信徒たちをサラート,すなわち礼拝に招集するイスラム教の触れ役の声が聞こえます。信徒たちは聖クルアーン(もしくはコーラン)をイスラム教の教典とみなしています。イスラム教の信条によれば,クルアーンは神からの啓示を受けて書かれており,西暦7世紀にみ使いガブリエルが預言者ムハンマド(マホメット)に与えたものです。
5 仏教の行なわれている多くの国の街路では,普通,サフラン色や黒,あるいは赤の衣をまとった仏教の信心の証しとなる修行僧の姿を目にします。穏やかな表情をした仏陀が展示されている古代の寺院は,仏教信仰の古さを示す証拠です。
6 おもに日本で行なわれている神道は日常生活に溶け込んでおり,家には家族用の神棚があり,先祖のために供え物がささげられています。日本人は入学試験に合格することをさえ含め,極めて世俗的な事柄のためにもためらうことなく祈ります。
7 世界中で知られている,もう一つの宗教活動は,聖書や聖書文書を携えて家から家へ訪問したり,街路に立って奉仕したりする人々の活動です。「ものみの塔」と「目ざめよ!」両誌が人目を引いているため,それらの人々がエホバの証人であることをほとんどすべての人が認めています。
8 宗教上の専心に関する歴史は何を示唆していますか。
8 宗教上の専心のこうした世界的な著しい多様性は何を示唆していますか。人類は何千年にもわたって霊的な必要を感じ,また霊的なものにあこがれてきたことを示しています。人間は試練に遭い,重荷を負い,また死のなぞを含め,疑念や疑問を抱きながら生きてきました。人々が神,あるいは自分たちの神々に頼って祝福や慰めを求めると共に,宗教感情は多くの異なった仕方で表現されてきました。宗教はまた,次のような重大な疑問に取り組もうとしています。わたしたちはどうしてこの世にいるのだろうか。わたしたちはどのように生きるべきだろうか。人類の将来はどうなるのだろうか。
9 大抵の人々の生活には,宗教上の専心が何らかの形でどのように見られますか。
9 一方,宗教も神に対するいかなる信仰も奉じない幾百万もの人々がいます。そのような人々は無神論者です。そのほか,不可知論者は,神は知られてはいないし,多分,神を知ることはできないと考えています。しかし,だからといって,そのような人々が節操もしくは道徳観念のない人だという意味でないことは明らかです。それは,ある宗教を奉じているからといって,その信奉者には確かに節操もしくは道徳観念があるとは言えないのと同じです。とはいえ,もし宗教を「ある原理に対する専心; 厳密な忠誠もしくは忠実; 良心的であること; 篤信の愛情もしくは愛着」という意味で受け入れているなら,無神論者や不可知論者を含め,大抵の人々の生活には確かに何らかの形で宗教上の専心が見られるものです。―「オックスフォード簡略英語辞典」。
10 宗教は現代の世界に衝撃を与えますか。例を挙げて説明してください。
10 旅行および通信手段が絶えず高速化されて,ますます縮小してゆく世界に非常に多くの宗教があるため,人々は好むと好まざるとにかかわらず,世界の至る所で様々な宗教のもたらす衝撃を感じます。一部の人々から“背教したイスラム教徒”と呼ばれた作家の書いた「悪魔の詩」のことで,1989年に激しい怒りが引き起こされた事件は,宗教感情がいかに世界的な規模で表われ得るかを示す証拠です。イスラム教の指導者たちはその本を発禁処分にするよう要求し,その著者を死刑に処することさえ要求しました。人々は宗教の事柄で,どうしてこれほどまでに猛烈な反応を示すのでしょうか。
11 ほかの信仰について調べるのは,どうして間違ったことではありませんか。
11 その答えを得るには,世界の宗教の背景についてある程度知る必要があります。それは,ジェフリ・パリンダーが自著,「世界宗教 ― 古代から現代までの歴史」の中で,「様々な宗教を研究することは,必ずしも自分自身の信仰に対する背信行為を意味するわけではなく,むしろ他の人々がどのように実体を究明し,またそのような研究によってどのように豊かにされてきたかを知ることにより,自分自身の信仰を広くすることができるかもしれない」と述べているとおりです。知識は理解を生み,理解は異なった見解を抱く人々に対する寛容な態度を生みます。
調査するのはなぜか
12 人の宗教は普通,どんな要素で決まりますか。
12 読者はこれまで,『わたしには自分の宗教があるし,これは極めて個人的な事柄だ。わたしは宗教のことでほかの人と話し合うことはしない』と考えたり,言ったりしたことがありましたか。確かに宗教は極めて個人的な事柄です。つまり,事実上,人は生まれた時以来,親や親族から宗教的,もしくは倫理的な考えを脳裏に植え込まれています。その結果,人は普通,自分の親や祖父母の宗教的な理想に従っています。宗教はほとんど家族の伝統ともいうべきものとなっています。このような経過はどんな結果をもたらしましたか。多くの場合,ほかの人がわたしたちのためにわたしたちの宗教を選ぶことになりました。それは単に自分がいつ,またどこで生まれたかという問題にすぎないことになります。あるいは,歴史家アーノルド・トインビーが指摘したように,人がある特定の信仰に従うことは,多くの場合,「たまたま自分の出生地となった地理的な場所」によって決まることになります。
13,14 人が誕生時に入れられた宗教は,自動的に神に是認されると考えるのは,どうして道理にかなったことではありませんか。
13 人が誕生時に入れられた宗教が必然的に全面的な真理だと考えるのは,道理にかなったことでしょうか。もし,あなたがイタリアか南米で生まれていたなら,多分,カトリック教徒として育てられたことでしょう。もしも,インドで生まれていたなら,自動的にヒンズー教徒になっていたことでしょうし,もしパンジャブ出身だったら,恐らくシーク教徒になっていたことでしょう。もしご両親がパキスタン出身だったら,明らかにイスラム教徒になっていたことでしょう。また,もし,これまでの数十年の間に社会主義国で生まれていたなら,無神論者として育てられる以外に選択の余地はなかったかもしれません。―ガラテア 1:13,14。使徒 23:6。
14 そうであれば,人が誕生時に入れられた宗教は,自動的に神に是認された真の宗教と言えるでしょうか。もしそれが幾千年もの間踏襲された概念だとすれば,人類の中の多くの人々は,『わたしの先祖にとって結構なものは,わたしにとっても結構なものだ』という前提に従って,いまだに原始的なシャーマニズムや古代の豊穣神崇拝を行なっていたことでしょう。
15,16 ほかの宗教について調べることには,どんな益がありますか。
15 過去6,000年余にわたって世界中で進展した広範な宗教的表現の多様性を考えると,他の人々の信じている事柄や人々の信仰の起源を理解するのは,少なくとも教育的で,考え方を広くするのに役立ちます。また,自分の将来の一層具体的な希望に関する展望が開けるかもしれません。
16 今では多くの国々で移民や人口変動のために,宗教の異なる人々が隣近所に住んでいます。ですから,お互いの見解を理解するなら,信仰を異にする人々の間で一層意味深い意思の伝達や対話を行なえるようになりますし,また恐らく世界に見られる,宗教的な相違に根ざす憎しみも,多少消え去るかもしれません。もちろん,各自の宗教的信条に関しては人々の間に根強い意見の相違があるかもしれませんが,単に異なった見解を抱いているからといって,人を憎むべき根拠は一つもありません。―ペテロ第一 3:15。ヨハネ第一 4:20,21。啓示 2:6。
17 宗教上の考え方が自分のそれと異なっている人たちをどうして憎むべきではありませんか。
17 古代のユダヤ人の律法はこう述べています。「あなたは心の中で親族を憎んではいけない。近親者を戒めなさい。ただし,彼のゆえに罪科を被ってはいけない。あなたは同国人に対して復しゅうをしたり,恨みを抱いたりしてはいけない。仲間の者を自分自身のように愛しなさい。わたしは主[エホバ]である」。(レビ記 19:17,18,タナッハ)キリスト教の創始者はこう述べました。「しかし,聴いているあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛し,あなた方を憎む者に善を行ない(なさい)。……そうすれば,あなた方の報いは大きく,あなた方は至高者の子となるのです。神は感謝しない邪悪な者にも親切であられるからです」。(ルカ 6:27,35)クルアーンは「吟味されるべきである彼女」という見出しのもとで,同様の原則(スーラ 60:7,ピクタール)を次のように述べています。「多分,アッラーは,あなたとあなたが敵と考えている者たちとの間に友情を生じさせてくださるでしょう。それで,アッラーは強力な方です。アッラーは快く許す方,憐れみ深い方です」。
18 人が何を信ずるかは,どうして問題となりますか。
18 それにしても,寛容と理解は必要ですが,だからといって,人が何を信ずるかは問題ではないというわけではありません。それは歴史家ジェフリ・パリンダーが,「すべての宗教は同じ目標を持っている,あるいは真理に通ずる同一の道であるとか,宗教はすべて同じ教理を教えているなどと言われることがある。……しかし,犠牲者の鼓動する心臓を太陽に向かって差し出した,古代アステカ人の宗教は,確かに穏やかな仏陀のそれと同様の宗教ではなかった」と述べたとおりです。その上,崇拝となると,何が受け入れられるか,受け入れられないかを決めるべきなのは神ご自身ではありませんか。―ミカ 6:8。
宗教はどのように評価されるべきか
19 宗教は人の行動にどのように影響を及ぼすはずですか。
19 大抵の宗教には一連の信条,もしくは教理がありますが,それはしばしば,普通の平信徒の理解を超えた大変複雑な神学を構成する場合があります。しかし,どんな場合でも,因果関係の原理が当てはまります。宗教の教えは各々の信者の人格や日常の行動に影響を及ぼすはずです。ですから,各人の行動は普通,多かれ少なかれ,当人の宗教的な背景を反映します。あなたの宗教はあなたご自身にどんな影響を及ぼしていますか。あなたの宗教は,より親切な人を生み出しますか。より寛大で正直な,より謙遜で寛容な,より同情心に富んだ人を生み出していますか。これは道理にかなった質問です。なぜなら,宗教上の偉大な師の一人であったイエス・キリストは,こう言われたからです。「良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうに,あなた方はその実によってそれらの人々を見分けるのです」― マタイ 7:17-20。
20 宗教と歴史に関して,どんな疑問が生じますか。
20 世界史に目を向けると,確かに考えさせられますし,人類に荒廃をもたらして,言うに言えない苦痛を引き起こしてきた多くの戦争の際,宗教がどんな役割を演じてきたのか疑問に思わないわけにはゆきません。どうしてこれほど多くの人々が宗教の名によって殺したり,殺されたりしてきたのでしょうか。十字軍,異端審問,中東や北アイルランドの紛争,イラン・イラク戦争での殺りく(1980-1988年),インドのヒンズー教徒とシーク教徒との衝突など ― これらすべての出来事は確かに,考える人々に宗教上の信条や倫理に関する疑問を抱かせます。―下に掲げられている囲み記事をご覧ください。
21 キリスト教世界の結んだ実の幾つかの例を挙げてください。
21 キリスト教世界の領域は,この宗教の分野における偽善の点で注目すべきものがあります。二度の世界大戦で,“クリスチャン”である政治指導者たちの命令により,カトリック教徒はカトリック教徒を,プロテスタント信者はプロテスタント信者を殺しました。ところが,聖書は肉の業と霊の実を明らかに対照させています。そして,肉の業についてこう述べています。「それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」。ところが,何世紀もの間,いわゆるクリスチャンはそのようなことを行なってきましたし,多くの場合,僧職者たちはそのような行為を大目に見てきました。―ガラテア 5:19-21。
22,23 それとは対照的に,真の宗教はどんな実を生み出すべきでしょうか。
22 それとは対照的に,明白な霊の実は,「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません」と描写されています。宗教はすべて,このような穏やかな実を生み出しているべきでしょう。しかし,生み出しているでしょうか。あなたの宗教は生み出していますか。―ガラテア 5:22,23。
23 ですから,世界の諸宗教により神を探求する人間の努力を考察する本書は,わたしたちの幾つかの疑問に答えるのに役立つことでしょう。しかし,宗教はどんな標準によって判断されるべきでしょうか。だれの規準によって判断されるべきでしょうか。
『わたしには自分のこの宗教で結構です』
24,25 人は各々自分の宗教に関して,どんな挑戦を受けることになりますか。
24 『わたしには自分のこの宗教で結構です。わたしは他のだれにも何ら危害を加えませんし,またできる限り,力をお貸しします』と言って,宗教に関する話し合いを退ける人は少なくありません。しかし,それでは中途半端ではありませんか。宗教を判断する,わたしたちの個人的な標準は十分なものでしょうか。
25 ある辞書が述べているように,もし宗教が「宇宙の創造者,ならびに統治者として認められる超人的な権力者に対して人間の抱く信仰や畏敬の念の表現」であるとすれば,確かに,自分の宗教は宇宙の創造者,ならびに統治者にとって申し分のないものだろうかと問うべきでしょう。同時に,もしそうであれば,創造者は,受け入れられる行動・崇拝・教義とは何か,また何が受け入れられないかを規定する権利をもお持ちでしょう。それを規定するには,創造者はご自分の意志を人間に啓示しなければなりませんし,またその啓示はすべての人にとって容易に入手できると同時に,容易に利用できるものでなければなりません。さらに,その啓示は,たとえ何世紀もの期間を隔てて与えられていても,常に調和した,一貫したものでなければなりません。このことから,人は各々証拠を調べて,何が神の受け入れられるご意志かを自分で明らかにしなければならないという一つの挑戦を受けることになります。
26 どの聖なる書物が,受け入れられる真の崇拝を判断するための尺度となるはずですか。また,それはどうしてですか。
26 神からの霊感を受けて書かれたと唱えられている最古の書物の一つは聖書です。聖書はまた,全歴史を通じて最も広く頒布され,また最も多くの言語で翻訳された本です。ほとんど2,000年の昔に,聖書の筆者の一人はこう述べました。「この事物の体制に合わせて形作られるのをやめなさい。むしろ,思いを作り直すことによって自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らわきまえ知るためです」。(ローマ 12:2)そのようにわきまえ知るための資料となるのは何でしょうか。同じ筆者はこう述べました。「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」。ですから,霊感を受けて記された聖書は,受け入れられる真の崇拝を判断するための,信頼できる尺度となるはずです。―テモテ第二 3:16,17。
27 (イ)幾つかの世界宗教の聖典を挙げてください。(ロ)それらの聖典の教えは聖書のそれとどのように比べられるはずですか。
27 聖書の最古の部分は,世界の他の宗教書のどれよりも前からあります。トーラー,すなわち聖書中の最初の五つの書,つまり霊感を受けたモーセの記した律法の書は,西暦前15,ないし16世紀にさかのぼります。これと比べて,ヒンズー教の文書であるリグ・ベーダ(賛歌を集大成した書)は西暦前900年ごろ完成されたもので,神からの霊感による書であるとは唱えられていません。仏教の「三蔵」は西暦前5世紀にさかのぼります。天使ガブリエルを通して神から伝えられたと唱えられているクルアーンは,西暦7世紀の著作です。モロニという天使により,米国のジョセフ・スミスに与えられたと言われている,モルモン教の教典は,19世紀の著作です。もし,このような著書の幾つかが,ある人たちが主張するように,神からの霊感を受けて記されたものなら,それらの書が宗教的指導という点で提供する事柄は,霊感を受けて記された最初の資料である聖書の教えと矛盾しないはずです。それらの書はまた,人間の抱く,たいへん興味をそそる疑問の幾つかに答えるはずです。
答えの必要な疑問
28 答えの必要な疑問の幾つかを挙げてください。
28 (1)聖書は,大多数の宗教で教えられている事柄,そして多くの人々が信じている事柄,すなわち人間は不滅の魂を持っており,人間が死ぬと,魂は別の領域,つまり“あの世,”天国,地獄もしくは煉獄へ行く,あるいは輪廻によって元に戻ると教えていますか。
(2)聖書は宇宙の主権者なる主が無名の方であると教えていますか。また,その方は唯一の神であると教えていますか。それとも,唯一の神のうちにある三つの位格,あるいは多くの神々であると教えていますか。
(3)人間を創造して地上で生活させた神の最初の目的は何であったと聖書は述べていますか。
(4)聖書は地球が滅ぼされることになると教えていますか。それとも,単に世の腐敗した体制の終わり,もしくは終結を指し示していますか。
(5)どうすれば,内面の平安や救いを本当に得ることができますか。
29 (イ)真理を探究する努力の指針とすべき基本的な原則とは何ですか。(ロ)聖書はわたしたちの疑問に対するどんな答えを示していますか。
29 各々の宗教はそれぞれ異なった答えを出しますが,「純粋の宗教」を探求する努力を続けるなら,人間が到達するよう神の望んでおられる結論にやがて達するはずです。(ヤコブ 1:27,ア標,欽定)どうしてそう言えますか。なぜなら,「すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように。『あなたが言葉において義なることが証明され,裁かれる際には勝つため』と書かれているとおりです」というのが,わたしたちの基本的な原則だからです。―ローマ 3:4。a
30 次の章で考慮される質問を挙げてください。
30 これで,世界の宗教を調べるための基盤を得たので,霊性を追求する人間の初期の努力を考慮してみましょう。わたしたちは宗教が始まったいきさつについてどんなことを知っていますか。古代人,それも多分原始的な諸民族の間で,どんな崇拝の型が確立されましたか。
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宗教 ― それはどのようにして始まりましたか神を探求する人類の歩み
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2章
宗教 ― それはどのようにして始まりましたか
1,2 宗教が古代から存在してきたこととその多様性に関して,どんなことが観察されていますか。
宗教の歴史は人間の歴史と同じほど古いものです。考古学者や人類学者はそのように述べています。最も“原始的な”文明,すなわち未開文明の世界でさえ,ある形態の崇拝が行なわれていたことを示す証拠が発見されています。実際,「新ブリタニカ百科事典」は,「学者が発見してきた限りでは,ある意味で宗教心のない民族は,どの時代にも,またどこにも決して存在したことがない」と述べています。
2 宗教はまた,古代からあっただけでなく,実に多種多様な形態で存在しています。ボルネオのジャングルの首狩り族,凍りつく北極圏のエスキモー,サハラ砂漠の遊牧民,あるいは世界各地の大主要都市に住む人々であれ,地上のあらゆる民族や国民には,それぞれ神,あるいは神々,ならびに崇拝の方法があります。宗教の多様性には,まさに驚嘆すべきものがあります。
3 世界の諸宗教に関するどんな疑問を考慮する必要がありますか。
3 ですから,当然,種々の疑問が心に浮かんできます。それらすべての宗教はどこから来たのでしょうか。その中には,類似点はもとより,著しい相違点がある以上,宗教はそれぞれ別個に始まったのでしょうか。それとも,同一の源から発達してきたのでしょうか。実際,そもそも宗教はなぜ,またどのようにして始まったのだろうかと問えるかもしれません。これらの疑問に対する答えは,宗教,ならびに宗教上の信条に関する真理を見いだすことに関心のある人々すべてにとって極めて重要な事柄です。
起源に関する疑問
4 多くの宗教の開祖について,どんなことが知られていますか。
4 起源に関する疑問について言えば,様々な宗教を奉ずる人々は,それぞれムハンマド,仏陀,孔子,およびイエスなどの名について考えます。大抵,どの宗教にも,いわゆる“真の信仰”を確立した人として認められる中心人物がいます。中には,因習を打破した改革者もいれば,道徳主義を奉ずる哲学者,さらには私心のない民族の英雄もいます。その多くは,新しい宗教の基礎となった著作や言葉を残しました。やがて,それらの人々の言行が詳述されたり,粉飾されたり,神秘的な独特の趣が付されたりしました。それら指導者の中には神格化された人さえいます。
5,6 多くの宗教はどのようにして起こりましたか。
5 それらの人物は広く知られている主要な宗教の開祖であると考えられているものの,実際に宗教を創設したわけではないことに注目しなければなりません。大抵の場合,それらの開祖は自分たちの教えの源は神からの霊感であると主張してはいますが,その教えは大方既存の宗教的な考えから生じたものです。あるいは,それら開祖は,どのみち不満足なものになった既存の宗教制度を変えたり,改めたりしました。
6 例えば,歴史から正確に知り得る限りでは,仏陀はかつて皇太子だった当時,ヒンズー教の支配する社会にあって自分の周囲の苦しみに満ちた悲惨な状態にがく然としました。こうして,人生の苦悶に満ちた諸問題の解決策を探究した結果,仏教が生まれたのです。同様に,ムハンマドは自分の周囲の宗教的な慣行となっていた偶像崇拝や不道徳な行為に大変悩まされました。後に,神からの特別の霊感を受けたと主張し,その結果,クルアーンが作り出され,それが新たな宗教運動,つまりイスラム教の基礎となりました。プロテスタント主義は,マルティン・ルターがカトリック教会の免罪符の売買に抗議した16世紀初頭に始まった宗教改革の結果,カトリック主義から生じました。
7 宗教に関するどんな疑問が依然として答えを必要としていますか。
7 今日存在する宗教に関する限り,その起源や発達,その開祖や聖典などに関する情報には事欠きません。しかし,それ以前に存在した宗教についてはどうですか。また,それよりもさらにもっと前の宗教についてはどうですか。歴史をはるかに遠くさかのぼると,遅かれ早かれ,宗教はどのようにして始まったのだろうかという疑問にぶつかります。この疑問の答えを見いだすには,個々の宗教の領域を超えて物事を調べなければならないことは明らかです。
多くの学説
8 何世紀にもわたって,人々は宗教に対してどんな態度を取ってきましたか。
8 宗教の起源や発達に関する学問は,比較的新しい研究分野です。何世紀にもわたって,人々は多かれ少なかれ,自分が生まれて育てられた時の周囲の宗教的な伝統を受け入れていました。大抵の人たちは父祖伝来の説明で満足し,自分たちの宗教は真理だと考えていました。何らかの点で疑問を抱くような理由はめったにありませんでしたし,物事がどのように,いつ,またなぜ始まったかについて調査する必要もありませんでした。実際,何世紀にもわたって,交通や通信手段が限られていたため,ほかの宗教制度のことに気づく人さえほとんどいませんでした。
9 宗教はどのようにして,またなぜ始まったのかを知ろうとして,19世紀以来,どんな試みがなされてきましたか。
9 ところが,19世紀中,事態は変化するようになりました。進化論が知識人の社会に広まってゆきました。それと共に,科学的調査の行なわれる時代が到来し,そのために多くの人々が,宗教を含め,既存の諸制度を疑問視するようになりました。中には,現存する宗教のうちに手掛かりを求める努力に限界があることを認めた学者は,初期の文明の遺物や人々が今なお原始的な社会生活を営んでいる世界のへき地に目を向けました。そして,心理学,社会学,人類学などの手法を応用し,宗教がどのようにして,またなぜ始まったのかを知る手掛かりが見つかりはしまいかと努力しました。
10 宗教の起源に関する種々の研究の結果はどうでしたか。
10 その結果はどうでしたか。突如,研究者の人数に匹敵するように思えるほどの数多くの学説が一挙に現われると共に,研究者は各々他の人の言うことに反ばくし,大胆さや独創性で他の人々を打ち負かすことに腐心しました。それら研究者のある人々は重要な結論に達しましたが,他の人々の研究は全く忘れられてしまいました。そのような研究の結果をちょっと見ておくのは,教育的で,啓発的なことです。それは,わたしたちの会う人々の宗教上の態度をよりよく理解するのに助けになります。
11 アニミズムという学説について説明してください。
11 英国の人類学者,エドワード・タイラー(1832-1917年)は,普通,アニミズムと呼ばれる学説を提唱しました。そして,原始民族は夢,幻,幻覚などの経験や死体の生命のない状態のゆえに,肉体には霊魂(ラテン語,アニマ)が宿っているとの結論に達したという考えを持ち出しました。この学説によれば,人々は亡くなった愛する人たちの夢をしばしば見るので,死後も霊魂は生き続け,またそれは肉体を離れて,木や岩や川などに宿るのだと考えました。やがて,死者や,霊魂が宿っていると言われている物体は,神々として崇拝されるようになりました。タイラーによれば,こうして宗教が生まれたのです。
12 アニマティズムという学説について説明してください。
12 もう一人の英国の人類学者,R・R・マレット(1866-1943年)は,改良を加えたアニミズムを提唱し,それをアニマティズムと呼びました。太平洋諸島のメラネシア人やアフリカやアメリカの原住民の信仰を研究したマレットは,原始民族は人格的な霊魂という観念を持つ代わりに,あらゆるものを生かす非人格的な力,もしくは超自然的な力があることを信じており,この信仰により人間の内に畏敬や恐れの感情が呼び起こされ,これが原始宗教の基盤になったのだと結論しました。マレットにとって,宗教とは主に未知なるものに対する人間の情緒的な反応でした。宗教は「考え出されたというよりは,踊っているうちにできた」ものだというのが,そのお気に入りの文句でした。
13 ジェームズ・フレーザーは宗教に関するどんな学説を提唱しましたか。
13 スコットランドの古代民俗学の専門家,ジェームズ・フレーザー(1854-1941年)は1890年に,大きな影響を及ぼした「金枝篇」という本を発表し,その中で宗教は魔術から生じたと論じました。フレーザーによれば,人間は最初,自然界で起きていることをまねて,自分の生活や自分の環境を制御しようとしました。例えば,雷鳴のような太鼓の音に合わせて地面に水をまけば,雨を降らせることができるとか,あるいは人形に止め針を刺せば,敵に危害を加えることができるなどと考えました。その結果,生活の多くの分野で儀式が行なわれたり,呪文が唱えられたり,魔術用の物品が使われたりするようになりました。それが思ったほど功を奏さないと,超自然的な力を支配しようとする代わりに,その力を静めたり,その助けを請い求めたりするようになりました。儀式やまじないは犠牲や祈りとなり,こうして宗教が始まりました。フレーザーの言葉によれば,宗教とは「人間よりも勝った力をなだめる,もしくは慰撫すること」です。
14 ジグムント・フロイトは宗教の起源をどのように説明しましたか。
14 オーストリアの有名な精神分析学者,ジグムント・フロイト(1856-1939年)さえ,自著,「トーテムとタブー」の中で,宗教の起源の説明を試みました。フロイトはその専門職にたがわず,最初期の宗教は理想化された父親像神経症的状態と自ら名づけたものから生じたと説明しました。そして,野生の馬や牛の場合がそうであるように,原始社会では父親が氏族を支配したという学説を立てました。父親を憎むと同時に称賛した息子たちは反逆して,父親を殺しました。そして,父親の力を得るために,『人肉を食べる未開人は犠牲者を食べた』と,フロイトは唱えました。後日,彼らは後悔して,自分たちの行為の償いをするため,儀礼や儀式を考案しました。フロイトの学説では,理想化された父親像が神になり,儀礼や儀式が最初期の宗教になり,打ち殺された父親を食べる行為が,多くの宗教で行なわれている聖餐の伝統になりました。
15 宗教の起源に関して提唱された学説のほとんどはどうなりましたか。
15 ほかにも,宗教の起源の説明を試みた,数多くの学説を引き合いに出そうと思えば,そうすることもできますが,しかしそのほとんどは忘れ去られており,他よりも信用できる,あるいは受け入れられる学説として実際に際立っているものは一つもありません。なぜでしょうか。なぜなら,それらの学説が真実であることを示す歴史的な証拠はこれまでに何もなかったからにすぎません。それらの学説は,次に出される学説にやがて取って代わられる,ある研究者の単なる想像,もしくは憶測の産物にすぎません。
誤った根拠
16 多年,研究が行なわれてきたにもかかわらず,宗教がどのようにして始まったかに関する説明がなされていないのはなぜでしょうか。
16 多くの人はこの問題に多年取り組んできた結果,今では宗教はどのようにして始まったのかという疑問に対する答えを見いだすための何らかの突破口があるとはまず考えられないという結論に達しています。なぜなら,まず第一に,古代の諸民族の骨や遺物は人々が物事をどのように考え,何を恐れ,あるいはなぜ崇拝したかを告げてくれるものではないからです。それらの人工遺物からどんな結論が得られるにせよ,それはせいぜい経験から割り出した推測です。第二に,オーストラリアの原住民などの今日のいわゆる原始民族の宗教的な慣行は必ずしも,古代の民族が行なったり,あるいは考えたりしたことを判断する,信頼できる尺度ではないからです。何世紀もの間に彼らの文化が変化したかどうか,あるいはどのように変化したかについて確かなことはだれにも分かりません。
17 (イ)宗教を研究する現代の歴史家は,どんなことを知っていますか。(ロ)宗教を分析する際,主にどんな事柄に関心があるように思えますか。
17 すべての不明確な事柄のゆえに,「世界宗教 ― 古代から現代までの歴史」という本は,結論として,「宗教を研究する現代の歴史家は,宗教の起源を探るのは不可能であることを知っている」と述べています。しかし,同書は歴史家の努力に関して,「過去には,あまりにも多くの理論家が宗教について単に記述したり説明したりすることではなく,弁解することに関心を抱いていた。もし,初期の形態が妄想に基づいていることが示されたなら,後代のより高度な宗教がひそかに傷つけられはしまいかと思ったのである」と評しています。
18 (イ)多くの研究者は,宗教の起源について,どうして首尾よく説明できませんでしたか。(ロ)宗教について“科学的な”研究を行なった人々の真の意図は,明らかにどのようなものでしたか。
18 宗教の起源について“科学的な”研究を行なった様々な人々が,どうして筋の通った説明を何も述べなかったのかを理解する手掛かりは,この最後の注解の中にあります。論理的な考え方からすれば,正しい前提があってはじめて,正しい結論を導き出すことができます。もし誤った前提から出発するなら,確かな結論に達することはまずないでしょう。“科学的な”研究を行なった人々が,道理にかなった説明を行なうことに再三失敗してきたため,彼らの見方の根底にある前提に対する重大な疑問が提起されています。自分たちの先入観に従って,『宗教について弁解しよう』とした彼らは,神について弁解してきたのです。
19 科学的な研究を首尾よく行なうには,その背後に,どんな基本的な原則がありますか。そのことを示す良い例を挙げてください。
19 この状況は,16世紀以前の天文学者が惑星の運動を説明しようとして多くの方法を試みた時のことと比べられます。多くの学説がありましたが,どれ一つとして本当に満足できるものではありませんでした。なぜですか。なぜなら,それらの学説は,地球が宇宙の中心で,恒星や惑星は地球の周りを運行しているという仮定に基づいていたからです。科学者が,それにカトリック教会が,地球は宇宙の中心ではなく,太陽系の中心である太陽の周りを運行しているという事実を快く受け入れるようになって初めて,真の進歩が見られました。事実を説明しようとする多くの学説が失敗に終わったため,心の広い人たちは新しい学説を持ち出すのではなく,自分たちの研究の前提を再検討するようになり,その結果,成功を収めました。
20 (イ)宗教の起源に関する“科学的な”研究の底流をなしていたのは,どんな間違った前提でしたか。(ロ)ボルテールはどんな基本的な必要を引き合いに出しましたか。
20 宗教の起源に関する研究にも,この同じ原則を当てはめることができます。無神論が起こり,進化論が広く受け入れられたため,神はもちろん存在しないと多くの人が考えています。そして,このような仮定に基づいて,宗教の存在を説明するものは,人間自身の内に,つまり人間の思考過程,人間の必要とするもの,その恐れ,その“神経症的状態”の内にあるはずだと考えます。ボルテールは,「もし神が存在しないとしたら,神を考案する必要があるであろう」と述べました。ですから,人間が神を考案したのだ,と人々は論じます。―28ページの囲み記事をご覧ください。
21 宗教の起源に関する多くの学説が失敗に終わったことからして,道理にかなったどんな結論を引き出せますか。
21 多くの学説が真に満足のゆく答えを示すものとならなかったのですから,今はそのような研究の基礎となっている前提を再検討すべき時ではないでしょうか。同じやり方でむなしく骨を折るよりも,どこかほかのところに答えを求めるほうが,筋道が通っているのではないでしょうか。喜んで心を開く人は,そうするのが道理にかなっていると共に,科学的であることに同意されるでしょう。それに,このような手段の背後にある論理を理解する助けになる丁度良い実例があります。
古来の質問
22 アテネ人が抱いていた,自分たちの神々に関する多くの学説は,彼らの崇拝の方法にどのように影響を及ぼしましたか。
22 西暦1世紀当時,ギリシャのアテネは学問の際立った中心地でした。ところで,アテネ人の中には,エピクロス派やストア派のような思想を異にする多くの学派があり,それぞれ神々に関する独自の理念を持っていました。それら様々な理念に基づいて,数多くの神々があがめられ,色々異なった崇拝の方法が発達しました。その結果,同市は人の造った偶像や神殿で満ちていました。―使徒 17:16。
23 使徒パウロは神に関する全く異なった,どんな見方をアテネ人に紹介しましたか。
23 西暦50年ごろ,アテネを訪れたクリスチャンの使徒パウロは,全く異なった見解をアテネ人に紹介して,こう述べました。「世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられるからです」― 使徒 17:24,25。
24 事実上,パウロは真の崇拝についてどんなことをアテネ人に告げていましたか。
24 言い換えれば,パウロはアテネ人に,「世界とその中のすべてのものを造られた」,まことの神は,人間の想像によって作り上げられた方ではなく,人間の考案した方法で仕えてもらう方でもないことを告げていたのです。真の宗教は,ある心理学的な必要を満たしたり,ある種の恐れを和らげようとしたりする,単なる人間の一方的な努力でできたのではありません。そうではなく,まことの神は人間に思考力や理性の力を付与した創造者ですから,ご自分との満足のゆく関係を人間が持てるようにする方法を備えてくださると考えるのが,道理にかなったことだというほかありません。パウロによれば,これこそ,まさしく神のなさった事柄でした。「(神は)一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ(ました)。……人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」― 使徒 17:26,27。
25 人類の起源に関するパウロの論議の主要な論点について説明してください。
25 パウロの主要な論点,つまり,神は『一人の人からすべての国の人を造られた』という点に注目してください。今日,多くの国の人々が地上のあらゆる場所で生活していますが,科学者は全人類が実際,同一の始祖から出ていることを知っています。この概念は非常に重要です。なぜなら,全人類が同一の始祖から出ているということは,単に生物学的,および遺伝学的に互いに関係している以上のことを意味しているからです。つまり,他の種々の分野でも互いに関係しているのです。
26 パウロの主要な論点を支える言語について,どんなことが知られていますか。
26 例えば,「世界の崇拝に関する歴史」という本が人間の言語について,次のように述べていることに注目してください。「世界の言語をそれぞれ比較研究した人々には,言い分があるものである。すなわち,すべての言語は語族に分類でき,それらのすべての語族はただ一つの共通の源から出発しているようである」。言い換えれば,進化論者がわたしたちに思い込ませようとしているように,世界の諸言語は別個に,また他に依存することなく生じたのではありません。進化論者は,アフリカ,ヨーロッパ,およびアジアの穴居人は最初,ぶうぶう言う声やうなり声を出していたが,やがて独自の言語を発達させたという学説を立てましたが,それは事実ではありませんでした。証拠は,諸言語が『ただ一つの共通の源から出発した』ことを示しています。
27 神や宗教に関する人間の理念はただ一つの共通の源から始まったと考えるのは,どうして道理にかなったことでしょうか。
27 それが言語のような個人的で,特異なまでに人間的なものに当てはまるとすれば,神や宗教に関する人間の理念もやはり,ただ一つの共通の源から始まったはずだと考えるのが,道理にかなったことではないでしょうか。結局,宗教は思考と関係しており,思考は人間の言語能力と関係しています。宗教はすべて,実際にただ一つの宗教から生じたというのではありませんが,理念や概念は宗教的な理念の共通の源,もしくは源泉までたどってゆけるはずです。このことを裏づける証拠がありますか。それに,もし人間の宗教がまさしく単一の源から出たのであれば,それはどんな源でしょうか。どうすれば,それを見いだせるでしょうか。
異なってはいても,類似している
28 世界の諸宗教の共通の源があるとしたら,どうすればそれを見いだせますか。
28 その答えは,言語学の専門家が言語の起源に関する答えを得たのと同様の方法で得られます。語源学者は言語を並べて類似点に注目し,様々な言語を源までたどることができます。同様に,宗教を並べて,教理,伝説,儀礼,儀式,制度その他を調べ,共通の実体を示す,何らかの基本的な一貫した特徴があるかどうか,またもしあれば,その特徴はわたしたちを何に導くものかを確かめることができます。
29 宗教間の多くの相違点は何に起因すると考えることができますか。
29 今日存在する多くの宗教は表面上それぞれ相当異なっているように見えます。しかし,単なる装飾に類するものや後代に付け加えられたものを取り除けば,あるいは風土,言語,人々の生まれついた土地の特殊な事情その他の要素の結果として生じた特異なものを除き去れば,ほとんどの宗教がいかに類似しているかが分かり,驚かされます。
30 ローマ・カトリック教と仏教にはどんな類似点が見られますか。
30 例えば,大抵の人々は,西洋のローマ・カトリック教会と東洋の仏教ほど互いに異なった二つの宗教はほかにはまずあり得ないと考えることでしょう。しかし,言語や文化のせいにすることができるような相違点を除けば,どうなりますか。客観的に見れば,この両者には沢山の共通点があることを認めざるを得ません。カトリック教にも仏教にも儀礼や儀式が染み込んでいます。それには,ろうそく,香,聖水,数珠,聖人の像,聖歌,祈とう書,それに十字印を使うことさえ含まれています。これら両方の宗教には,修道僧や修道女,もしくは尼僧の制度があり,双方とも僧職者の独身制,特別の衣装,聖日,特別の食物などで知られています。ここではすべてを余すところなく列挙してはいませんが,それは論点をよく示す例となります。問題は,非常に異なっているように見える二つの宗教に,どうしてそれほど多くの共通点があるのだろうかということです。
31 他の宗教の間にはどんな類似点が見られますか。
31 これら二つの宗教を比較すると,啓発が得られるように,他の宗教についても同様のことを行なえます。そうすれば,大抵,ある教えや信条はほぼ例外なく,どの宗教にも当てはまることが分かります。大抵の人は,人間の魂が不滅であること,良い人々は皆,天で報いを受けること,邪悪な人は冥界で永劫の責め苦に遭うこと,煉獄,三者一体の神,もしくは多くの神々で成るひとりの神,神の母,もしくは天の女王である女神などに関する教義をよく知っています。しかし,そのほかにも,同様にありふれた多くの神話や伝説があります。例えば,人間が不滅性を得ようとして違法な企てをしたために神の恩寵を失って堕落したこと,罪を償うために犠牲をささげる必要が生じたこと,命の木もしくは不老の泉の探求,人間の間で生活し,超人的な子孫を生み出した神々や半神半人,人類のほとんどを滅ぼす大災害をもたらした洪水などに関する伝説があります。a
32,33 (イ)世界の諸宗教に見られる著しい類似性から,どんな結論を出すことができますか。(ロ)答えを必要とする,どんな疑問がありますか。
32 このすべてからどんな結論を出すことができますか。それらの神話や伝説を信じていた人たちは地理上互いに遠く離れて生活していたことにわたしたちは気づきます。彼らの文化や伝統はそれぞれ異なった特有のものでした。彼らの社会的な習慣は互いに少しも関係を持っていませんでした。しかしそれでも,宗教となると,人々はそのように類似した理念を信じていました。それらの民族はいずれも,これまでに述べた事柄をすべて信じていたわけではありませんが,彼らはすべて,そのような事柄のあるものを信じていました。ここで,それはどうしてだろうかという明確な疑問が生じます。あたかも宗教が各々,多少の差こそあれ,基本的な信条を引き出した,ある共通の源泉があったかのように見えます。時たつうちに,それら基本的な理念は粉飾されたり,改変されたりして,ほかの教えが発達しました。しかし,基本的な輪郭は間違えようがありません。
33 論理的に言って,世界の多くの宗教の基本的な概念に見られる類似性は,それらの宗教が各々全く別個に,また他に依存せずに始まったのでないことを示す強力な証拠です。むしろ,十分古い時代までさかのぼれば,それらの宗教の種々の理念は,ある共通の源から出ているに違いありません。その源とは何でしたか。
初期の黄金時代
34 人間が存在し始めたことに関するどんな伝説が多くの宗教に共通に見られますか。
34 興味深いことですが,多くの宗教に共通に見られる伝説の中には,人類が存在し始めたころは黄金時代で,当時,人間は神と密接な親しい交わりを持ち,病気や死のない,幸福で平和な生活をしていたという伝説があります。詳細な点は違っているものの,かつて完全な楽園<パラダイス>が存在したという同一の概念は,多くの宗教の著作や伝説に見られます。
35 初期の黄金時代に関する古代のゾロアスター教徒の信条について説明してください。
35 古代ペルシャのゾロアスター教の聖典であるアベスタは,アフラ・マズダ(創造者)が言葉を交わした最初の死すべき人間であった「善良な羊飼い,立派なイマ」について述べています。イマはアフラ・マズダから,「わたしの世界を育成し,支配し,見守るよう」命令されました。そうするには,イマはすべての生ける被造物のために,地下の住みかである「バラ」を建てなければなりませんでした。そこには,「横柄さも卑劣さも,愚劣さも暴虐も,貧困も偽りも,薄弱さも醜悪さも,巨大な歯も普通の大きさをしのぐ体もなかった。そこに住む者は悪霊によって汚されるようなことはなかった。彼らは芳香を放つ木々や金の柱の間に住んだ。それらのものは地上で最も大きくて,最も美しい,最良のものであった。彼ら自身,丈の高い,美しい人種であった」とされています。
36 ギリシャの詩人ヘシオドスは“黄金時代”のことをどのように描写しましたか。
36 古代ギリシャ人の中では,ヘシオドスの詩,「仕事と日々」は人間の五つの時代について述べており,その最初の時代は人間が完全な幸福を享受した“黄金時代”でした。彼はこう書きました。
「天廷を歩む不滅の神々は,
最初に最良の人種を造られた。
彼らは神々のように,悩みのない,幸福な魂と共に生き,
苦労や苦痛を免れていた。彼らには悲惨な老齢も忍び寄らず,
いつもごちそうを食べて生活していた。
その手足は少しも変化を知らなかった」。
ギリシャ神話によれば,エピメテウスがオリュンポスの神ゼウスからの贈り物である,美しいパンドラを妻にめとった時,その伝説上の黄金時代は失われました。ある日のこと,パンドラが自分の大きなつぼのふたを開けたところ,突然,悩みや不幸や病気がそこから逃げ去り,人類はそれらのものから決して回復できなくなりました。
37 歴史の始まりの時代の“楽園”に関する古代中国の伝説の記述について説明してください。
37 古代中国の伝説も,西暦前26世紀に100年間支配したと言われている黄帝の治世の黄金時代について述べています。同皇帝は文明に関係のある一切のもの,つまり衣服,住まい,輸送用の乗り物,武器や戦争,土地の管理,製造業,養蚕,音楽,言語,数学,暦などを考案したとされています。同皇帝の治世については,こう言われています。「中国には泥棒もいなければ,戦いもなく,民は謙遜に,また平和に暮らした。時宜にかなった降雨と天気のおかげで,毎年豊作に恵まれた。たいへん驚くべきことに,野獣さえ殺すことをせず,猛きんも危害を加えなかった。要するに,中国の歴史は楽園をもって始まった」。中国人は今日でもなお,自分たちは黄帝の子孫であると主張しています。
38 人間の始まりに関する同じような伝説の記述のすべてから,どんな結論を引き出すことができますか。
38 人類史の初めの幸福と完全さを享受した時代に関する同様の伝説は,他の多くの民族,つまりエジプト人,チベット人,ペルー人,メキシコ人などの宗教にも見いだせます。互いに遠く離れたところで生活し,文化や言語や習慣の全く異なったそれらの民族が皆,自分たちの起源に関する同じ観念を抱いていたのは,たまたまそうなっただけのことでしたか。それらの民族がすべて,自分たちの始まりを同じような仕方で説明することにしたのは,単なる偶然,もしくは偶然の一致にすぎませんでしたか。理屈と経験からして,そういうことはまずあり得なかったでしょう。それどころか,人間とその宗教の始まりに関する真理の幾つかの共通の要素があって,それらすべての宗教に織り込まれていたに違いありません。
39 人間の始まりに関する多くの伝説に見られる共通の要素をまとめると,様々な要素を含む,どんな情景を組み立てることができますか。
39 実際,人間の始まりに関する様々な伝説には皆,それと見分けられる多くの共通の要素があります。それらの要素を一緒にすると,その情景はもっと完全にはっきりと見えるようになります。つまり,神が最初の男女をどのように創造して楽園<パラダイス>に置いたかが分かります。その二人は最初,非常に満ち足りており,非常に幸福でしたが,やがて反逆するようになりました。その反逆のゆえに,完全な楽園<パラダイス>は失われ,結局,労苦や苦痛や苦悩に取って代わられました。やがて,人類が余りにも悪くなったため,神は大洪水を起こして人々を罰し,ただ一家族を除いてすべての者がその洪水によって滅ぼされました。この家族から人々が増えてゆくにつれ,その子孫のある者たちは団結し,神を無視して巨大な塔を建て始めました。神は人々の言語を混乱させ,彼らの企てを挫折させて,人々を地の果てに離散させました。
40 人間の宗教の起源に関する種々の伝説と聖書との関係について説明してください。
40 様々な要素を含む,この情景は,ある人間が純粋に知力を駆使して考え出したものでしたか。そうではありません。基本的に言って,これは聖書の創世記の最初の11の章の中で描かれている情景です。ここでは聖書の信ぴょう性について詳しく論じることはしませんが,人間の初期の歴史に関する聖書の記述が多くの伝説に見られる主要な要素のうちに反映されていることに注目してください。b その記録は,人類がメソポタミアから離散し始めた時,自分たちの記憶や経験や観念をすべて赴く先々に携えて行ったことを明らかにしています。やがて,それらの事柄は詳述され,変えられて,世界のあらゆる場所の宗教の基礎を成す要素となりました。言い換えれば,前の箇所で使われた類推に話を戻しますが,創世記の記述は,世界の様々な宗教に見られる,人間と崇拝の始まりに関する基本的な観念の出所となった非常に明白な最初の源泉です。
41 この本の以下の章を研究する際,どんなことを念頭に置くべきでしょうか。
41 この本の以下の章では,特定の宗教がどのように始まり,どのように発展したかがかなり詳しく論じられています。単に宗教が各々どのように異なっているかだけでなく,どのように類似しているかという点にも注目すれば,啓発が得られることに気づかれるでしょう。また,宗教は各々人間の歴史の時間表や宗教の歴史にどのように合致しているか,宗教の聖典はどのように他のそれと関連しているか,宗教の開祖もしくは指導者は他の宗教的な観念の影響をどのように受けたか,さらに宗教は人間の行動や歴史にどのように影響を及ぼしてきたかという点にも注目できるでしょう。これらの要点を念頭に置いて,神を探求する人間の長年の努力について研究するなら,宗教と宗教上の教えに関する真理をもっとはっきりと理解するよう助けられることでしょう。
[脚注]
a 様々な民族に見られる色々の洪水伝説を比較して詳細に論じた資料を調べたい方は,ニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会が1988年に発行した,「聖書に対する洞察」の第1巻,328,610,および611ページ(英文)をご覧ください。
b この論題に関する詳しい情報をお望みの方は,ものみの塔聖書冊子協会が1989年に発行した,「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」という本をお調べください。
[23ページの拡大文]
科学的調査の行なわれる時代が到来したため,また進化論のために,多くの人々は宗教に疑問をはさむようになりました
[34ページの拡大文]
あたかも各々の宗教の基本的な信条が引き出された共通の源泉があったかのように見えます
[28ページの囲み記事]
人間はなぜ宗教のことを考えるのですか
■ ジョン・B・ノスは自著,「人間の宗教」の中でこう指摘しています。「宗教はすべて,表現の違いこそあれ,人間は自分独りで立っているのではなく,またそうすることはできないと述べている。人間は自分の外の自然や社会の種々の力と極めて重要な関係を持っており,その力に依存してさえいるのである。人は自分が世から離れて立つことのできる力の中心ではないことをぼんやりとであれ,はっきりとであれ,知っている」。
同様に,「世界宗教 ― 古代から現代までの歴史」という本は,こう述べています。「宗教を研究すれば,その重要な特色の一つは,人生の価値を知りたいという渇望,つまり人生は無意味な偶然ではないという信条であることが分かる。そのような意味を探究すれば,人間以上の,より大きな力に対する信仰,そして最終的には人間の命に見合う最高の価値を維持する意図と意志を有する宇宙的な,もしくは超人的な知性に対する信仰に導かれることになる」。
ですから,食物が人間の空腹を満たすのと同様に,宗教は人間の基本的な必要を満たします。空腹な時,見境なく食べると,激しい空腹感は収まるものの,長い間には健康が損なわれることをわたしたちは知っています。健康な生活を送るには,栄養のある,健全な食べ物が必要です。同様に,霊的な健康を保つにも,健全な霊的な食物が必要です。そのようなわけで,聖書は,『人はパンだけによって生きるのではなく,エホバの口から出るすべての言葉によって生きるのである』と述べています。―申命記 8:3。
[39ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
人類はメソポタミアから離散した際,宗教的な観念や記憶を保持して各地へ向かって行きました
バビロン
リュディア
シリア
エジプト
アッシリア
メディア
エラム
ペルシャ
[21ページの図版]
仏陀,孔子,ルターなどの人々は既存の宗教制度を変えましたが,宗教を創設したわけではありません
[25ページの図版]
オーストリアの精神分析学者ジグムント・フロイトは,理想化された父親像に対する恐れから宗教が生まれたと考えました
[27ページの図版]
地球は宇宙の中心であるという前提から,惑星の運行に関する誤った結論が導き出されました
[33ページの図版]
仏教とローマ・カトリック教会 ― この両者にはなぜ多くの共通点があるように見えるのですか
幼子を抱く,中国仏教の慈母観音
幼子イエスを抱く,カトリックの聖母マリア
祈り車と数珠を使うチベットの仏教徒
ロザリオを使うカトリック教徒
[36ページの図版]
中国の伝説は,神話時代の黄帝の治世中の黄金時代について述べています
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神話に見られる共通の特徴神を探求する人類の歩み
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3章
神話に見られる共通の特徴
1-3 (イ)神話はなぜわたしたちの興味を引くのでしょうか。(ロ)この章では何を取り扱いますか。
なぜ神話を考慮するのですか。それは遠い過去から伝わった単なる作り話にすぎないのではありませんか。確かに多くの神話は作り話に基づいていますが,事実に基づいたものもあります。例えば,聖書の述べる世界的な大洪水に関する事実に基づく神話や伝説が世界の各地にあります。
2 神話を考慮する一つの理由は,それが今日でもなお種々の宗教に見られる信条や儀礼の基礎となっているからです。例えば,キリスト教世界の神学の基礎をなす教義となった,霊魂不滅に対する信仰は,古代アッシリアやバビロニアの神話からエジプト,ギリシャ,およびローマ神話を通してキリスト教世界に伝えられた経過をたどることができます。神話は,古代の人々が神をはじめ,人生の意味を探求したことを示す証拠です。この章では,世界の主要な文化の神話に見られる共通のテーマの幾つかを簡単に取り扱います。それらの神話をよく調べる際,創造,大洪水,偽りの神々や半神半人,不滅の魂,および太陽崇拝などが,つぎはぎだらけの神話に見られる共通の特徴として,いつも決まったように現われる点に注目してみましょう。それにしても,どうしてそのように言えるのでしょうか。
3 多くの場合,歴史的な事実の核心となるもの,つまり後代になって誇張されたり,わい曲されたりして,神話を形成する元になった人物や出来事があります。そのような歴史的な事実の一つは,創造に関する聖書の記述です。a
創造に関する事実と作り話
4,5 ギリシャ神話の中で信じられていたことを幾つか挙げてください。
4 創造の神話はたくさんありますが,聖書の創造の記録のような簡明な論理を備えたものは一つもありません。(創世記 1,2章)例えば,ギリシャ神話の提供する記述は野蛮なものがあります。その神話を初めて体系的に書き著わしたのは,西暦前8世紀に「神統記」を書いたヘシオドスでした。彼は神々や世界がどのようにして始まったかを説明し,ウラノス(「天」の意)を生むガイア(「地」の意)のことから始めています。その後のことについて,学者ヤスパー・グリフィンは,「オックスフォード古典世界の歴史」という本の中で次のように説明しています。
5 「ヘシオドスはホメロスの知っていた天空の神々の系譜に関する物語を述べている。最初,ウラノスが最高の存在であったが,彼は子供たちを抑圧したので,ガイアはその子クロノスに父を去勢するように勧めた。次いで,クロノスは妻レアからゼウスの代わりに食べるよう石をもらうまで,自分の子供たちをむさぼり食べた。その子ゼウスはクレタ島で育てられ,その父に自分の兄弟たちを無理やり吐き出させ,それらの兄弟たちや他の助けを得て,父とティタンたちを打ち破り,彼らをタルタロスに投げ落とした」。
6 ヤスパー・グリフィンによれば,ギリシャ神話の内容の大半の源と考えられるのは何ですか。
6 ギリシャ人はこの奇妙な神話をどんな源から得たのでしょうか。同じ著者はこう答えています。「その最終的な起源はシュメール人にあるようである。それら東方の物語には神々の系譜があり,去勢や飲み込むことや石などのモチーフが,部分的に変えられてはいるものの,ヘシオドスとの類似性が偶然の一致ではないことを示すような仕方で出て来るのである」。ですから,他の文化に浸透した多くの神話の源として古代メソポタミアやバビロンに注目しないわけにはいきません。
7 (イ)古代中国の神話に関する情報を得るのは,なぜ容易なことではありませんか。(ロ)中国のある神話は,地と人間の創造をどのように説明していますか。(創世記 1:27; 2:7と比較してください。)
7 中国の民俗宗教の古代神話を明らかにするのは,必ずしも容易なことではありません。というのは,書かれた多くの記録が西暦前213年から同191年の時期に破棄されたからです。b しかし,地がどのようにして形造られたかを述べた物語のような,一部の神話は残っています。オリエント美術の教授アンソニー・クリスティはこう書いています。「混沌<カオス>は鶏の卵のようであったことが分かる。天も地も存在しなかった。その卵から盤古が生まれる一方,その重い要素で地が,また軽い要素で空が造られた。盤古は熊の毛皮,あるいは木の葉のマントを着た小人として描かれている。地と空の間の距離は1万8,000年間,毎日,約3㍍ずつ伸びたので,盤古は同じ割合で大きくなり,その体は間げきを埋めた。彼が死ぬと,その体の異なった部分が自然界の様々な要素になった。……その体の蚤は人類になった」。
8 インカ族の神話によれば,どのようにして種々の言語が生じましたか。
8 南米のインカ族の伝説は,神話上の創造者がどのように話し言葉を各々の国民に与えたかについて,次のように説明しています。「彼は各々の国民にそれぞれ話すべき言語を与えた。……彼は各々に,それに男女に生命と魂を与え,各々の国民を地下に沈ませた。そこで,各々の国民は地下を通って,彼から割り当てられた所に上って来た」。(「南米神話」に引用された,クスコのクリストバル・デ・モリナ著,「インカ族の説話と儀礼」)この場合,バベルでの言語の混乱に関する聖書の記述が,このインカ族の神話の事実上の核心となっています。(創世記 11:1-9)しかし,ここで,聖書の創世記 7章17節から24節に述べられている大洪水に注目してみましょう。
洪水 ― 事実,それとも神話?
9 (イ)聖書は大洪水前の地上の状態について何と述べていますか。(ロ)ノアとその家族は大洪水から救い出されるために何をしなければなりませんでしたか。
9 話はおよそ4,500年前,つまり西暦前2500年ごろにさかのぼりますが,聖書の告げるところによれば,神の反逆した霊の子らが肉体を着けて人間の姿で現われ,『自分たちのために妻をめとっていきました』。交雑の行なわれた,その不自然な関係から,乱暴なネフィリム,つまり「昔の力ある者たち,名ある人々」が生まれました。彼らは自分たちの不法な行動により大洪水前の世に重大な影響を及ぼし,エホバはついにこう言われるほどになりました。「『わたしは,自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。……わたしはこれらを造ったことでまさに悔やむからである』。しかし,ノアはエホバの目に恵みを得(まし)た」。それから,この記述はさらに続き,ノアが自分自身をはじめ,自分の家族と様々な種類の動物を大洪水から救うために講じるべき特定の実際的な処置を示しています。―創世記 6:1-8,13-8:22。ペテロ第一 3:19,20。ペテロ第二 2:4。ユダ 6。
10 大洪水に関する聖書の記述をなぜ神話とみなすべきではありませんか。
10 現代の批評家は大洪水前の出来事に関する創世記の記録に神話というらく印を押します。しかし,イザヤ,エゼキエル,イエス・キリスト,および使徒のペテロやパウロなどの忠実な人々は,ノアの歴史を受け入れ,信じていました。また,古代ギルガメシュ叙事詩をはじめとして,中国やアステカ族,インカ族,およびマヤ族の神話を含め,世界中の非常に多くの神話がそれを反映しているという事実も,その正しさを裏づけています。聖書のその記録を念頭に置いて,これからアッシリア-バビロニア神話,およびそれが洪水に言及している箇所を考慮してみましょう。c ―イザヤ 54:9。エゼキエル 14:20。マタイ 24:37。ヘブライ 11:7。
大洪水と神人ギルガメシュ
11 ギルガメシュ叙事詩に関するわたしたちの知識は,何に基づいていますか。
11 歴史を多分4,000年ほどさかのぼると,ギルガメシュ叙事詩と呼ばれる,有名なアッカド人の神話に遭遇します。この神話に関する,わたしたちの知識は主に,古代ニネベで統治したアシュルバニパルの図書館から出土した楔形文字碑文に基づいています。
12 ギルガメシュとはだれのことですか。彼はなぜ人気がありませんでしたか。(創世記 6:1,2と比較してください。)
12 それは,3分の2は神で,3分の1が人間,つまり半神半人として描かれたギルガメシュの偉業に関する物語です。この叙事詩のある節はこう述べています。「彼はウルクで城壁,大きな塁壁,および天空の神アヌと愛の女神……愛と戦争の我らの貴婦人イシュタルのための祝福されたエアンナの神殿を建てた」。(アッシリア-バビロニアの男神や女神を列挙した,45ページの囲み記事をご覧ください。)しかし,ギルガメシュは決して気持ちの良い相手などではありません。ウルクの住民は,「彼の肉欲はどんな処女をも彼女の愛人のために,また戦士の娘をも,貴人の妻をもそのままにしてはおかない」と言って,神々に苦情を述べました。
13 (イ)神々はどんな処置を講じましたか。ギルガメシュは何をしましたか。(ロ)ウトナピシュティムとはだれのことですか。
13 神々は民の抗議にこたえて,どんな処置を講じましたか。女神アルルはエンキドゥをギルガメシュの人間の対抗者として創造しました。ところが,この二人は敵同士になるどころか,親友になりました。この叙事詩の中では,エンキドゥはやがて死にました。がっくりしたギルガメシュは,「わたしは死んだら,エンキドゥのようになるのではなかろうか。災いがわたしの腹に入った。わたしは死を恐れて,大草原を放浪する」と言って泣きました。彼は不死の秘密を求めて,神々と共に不滅性を与えられていた,大洪水の生存者ウトナピシュティムを捜しに出かけました。
14 (イ)ウトナピシュティムは何をするように命じられましたか。(創世記 6:13-16と比較してください。)(ロ)この叙事詩のギルガメシュの旅はどんな結末を迎えましたか。
14 ギルガメシュはついにウトナピシュティムを見つけ,彼は洪水の話をします。洪水書字板として知られている,この叙事詩の第11書字板にあるように,ウトナピシュティムはその洪水に関して与えられた指示についてこう語っています。「(この)家を壊して,船を造れ! 所有物を手離し,なんじの命を求めよ。……なんじすべて生けるものの種を取って船に乗せよ」。これはノアと大洪水に言及している聖書の記述と多少類似しているように思えませんか。しかし,ウトナピシュティムはギルガメシュに不滅性を付与することはできません。失望したギルガメシュはウルクに帰郷し,この記述は彼の死をもって終わっています。この叙事詩の総合的な主旨は,死の悲哀や不安とあの世のことです。それら古代の人々は真理と希望の神を見いだしませんでした。しかし,大洪水前の時代に関する聖書の明快な記述とこの叙事詩との結びつきはたいへん明らかです。今度は,他の伝説に出て来る大洪水に関する記述を検討してみましょう。
他の文化に見られる洪水伝説
15 シュメールの洪水伝説はわたしたちにとってなぜ興味深いものですか。
15 ギルガメシュ叙事詩の記述よりももっと初期のものは,「夢や呪文による神からの啓示に絶えず注目した,神を恐れる,敬虔な王として描写されている,聖書のノアに相当する人物,ジーウースードラ」のことを述べたシュメール神話です。(「旧約聖書に関係のある古代中近東テキスト」)同資料によれば,この神話は,「これまで明らかにされたシュメール文学の中で聖書資料に最も近く,かつ最も際立った仕方で類似した資料を提出して」います。後に出現したバビロニアやアッシリアの文明は,このシュメール文明の影響を受けました。
16 中国の洪水伝説はどんな源に由来すると考えられますか。
16 「中国 ― 美術史」という本によれば,古代中国の支配者の一人は「大洪水の征服者」,禹で,「禹は民を再び定住させるため,洪水の大水を水路を通して河川や海に流れ込ませた」と言われています。神話学の専門家ジョセフ・キャンベルは中国の「十大帝時代」について次のように書きました。「大洪水で終わりを告げた,この重要な時代まで,初期周時代の神話の中では十人の皇帝が引き合いに出された。したがって,ここで考慮している事柄は,昔のシュメール人の一連の王名表の地方的な変形ではないかと思われる」。次いで,キャンベルは,「メソポタミア起源説を強める」と考えられる中国伝説から他の事項を指摘しました。こうして,わたしたちは多くの神話の同一の基本的な源に戻ることになります。しかし,大洪水の物語はアメリカ大陸の,例えば,西暦十五,六世紀のアステカ時代のメキシコにもあります。
17 アステカ族にはどんな洪水伝説がありましたか。
17 アステカ族の神話は以前の四つの時代について述べており,その最初の時代の地上には巨人が住んでいたとされています。(これも聖書の創世記 6章4節で言及されている巨人を思い起こさせるもう一つの事例です。)その神話には,「上方の水が下方のそれと融合し,水平線を消滅させて,一切のものが時間を超えた広大無辺な大洋になる」という太古の洪水伝説が含まれています。雨と水を支配する神はトラロークでした。しかし,この神の降らせる雨は安価に手に入ったのではなく,「犠牲としてささげられた犠牲者の血と引き換えに」与えられたもので,「犠牲者の涙が降る雨を思わせるところから,降雨を促す」とされました。(「神話 ― 図解百科事典」)もう一つの伝説によれば,第4期には水の神チャルチウィトリクエが支配しましたが,その宇宙は洪水によって滅びうせ,人間は魚になって救われました。
18 南米の神話では,どんな記述が一般に行き渡っていますか。(創世記 6:7,8; ペテロ第二 2:5と比較してください。)
18 同様に,インカ族にも大洪水の伝説がありました。英国の著述家ハロルド・オズボーンはこう述べています。「南米の神話で最もよく目につく特徴は,多分,大洪水に関する物語であろう。……大洪水に関する神話は高地の民族と熱帯の低地の部族の両方の中にたいへん広く見られる。大洪水は普通,創造および創造神の出現[顕現]と結びつけられている。……新しい人種を登場させるための準備として,生存する人類をぬぐい去ることは,時として神罰とみなされている」。
19 マヤ族の洪水伝説について述べてください。
19 同様に,メキシコや中央アメリカのマヤ族にも全世界的な大洪水,つまり「地を覆う水」という意味のハイヨコカブに関連した大洪水の伝説がありました。カトリック司教ラス・カサスは,グアテマラのインディオは「それをブティクと呼んだが,これは大水の洪水という意味の言葉で,最後の審判を意味しており,したがって彼らは別のブティクがまさに起きようとしていることを信じている。それは水ではなく,火による洪水と審判である」と書いています。世界中にはさらに多くの洪水伝説がありますが,すでに引用した幾つかの物語は,伝説の核心,つまり創世記で述べられている歴史的な出来事を確証するのに役立ちます。
あらゆる場所に浸透している霊魂不滅の信仰
20 アッシリア-バビロニアの人々は来世に関するどんな信仰を持っていましたか。
20 しかし,神話はすべて事実,もしくは聖書に根拠があるというわけではありません。人間は神を探求する努力を続けてきたものの,わらをもつかもうとして,不滅性という妄想に駆られてきました。これから本書全体を通して検討しますが,霊魂不滅,もしくはその変化した教えに対する信仰は,何千年もの時代を経て今日まで伝えられてきた遺物です。古代アッシリア-バビロニア文化の時代の人々は来世を信じていました。「新ラルース神話百科事典」はこう説明しています。「地下のアープスーの[地を取り巻いている,真水の満ちた]深淵のかなたに,死後,人間が下って行く,地獄のような住みかがあった。それは『帰らぬ人の地』であった。……その永遠の闇の地方で,『鳥のように羽の衣を着た』,死者の魂 ― エディンム ― は皆,ごちゃ混ぜにされている」。その神話によれば,「大地の王妃」,女神エレッシュキガルがこの地下の世界を支配していました。
21 エジプト人の信仰によれば,死者はどうなりましたか。
21 同様に,エジプト人も霊魂不滅という考えを持っていました。魂は幸福な安息所に到達できるようになる前に,真理の羽で表わされている,真理と正義の女神マートと比べて重さを量ってもらわなければなりませんでした。頭はジャッカルで表わされている神アヌビスか,ハヤブサで表わされているホルスかどちらかが,その計量処置を助けました。オシリスによってよしとされた魂は,神々と天上の喜びを共にすることになりました。(50ページのさし絵をご覧ください。)これはよくあることですが,人々の宗教,生活,および行動を形造っている,バビロニアの霊魂不滅の概念という,共通の特徴がここに見られます。
22 中国には,死者に関するどんな概念がありましたか。死者を助けるために,どんなことが行なわれましたか。
22 中国の古い神話にも,死後の生存に対する信仰や先祖を幸福な状態に保つ必要があるという考えが含まれていました。先祖は,「生きた強力な霊者で,生きている子孫すべての福祉を真に気遣っているものの,もし機嫌をそこねると,怒って処罰を行なうことができると考えられて」いました。死者には,死の道連れを含め,あらゆる助けが与えられなければなりませんでした。ですから,「殷朝のある王たちの場合……あの世で従者になるための,100人から300人あたりの人身供犠が一緒に葬られた。(この慣行は同様の犠牲がささげられたエジプト,アフリカ,日本その他の場所と古代中国との結びつきを示している。)」(ジョン・B・ノス著,「人間の宗教」)これらの例では,霊魂不滅の信仰のために人間が犠牲にされるようになりました。―伝道の書 9:5,10。イザヤ 38:18,19と比べてください。
23 (イ)ギリシャ神話ではハデスとはだれのことで,また何でしたか。(ロ)聖書によれば,ハデスとは何ですか。
23 神話の中で数多くの神々を作り出したギリシャ人もやはり,死者とその行き先のことを気にしていました。その神話によれば,あの陰気な闇の領域の管理を託されたのは,クロノスの子で,ゼウスやポセイドンという神々の兄弟でした。その名はハデスで,彼の領域はその名で呼ばれました。死者の魂はどのようにしてハデスに到達しましたか。d
24 (イ)ギリシャ神話によれば,よみの国ではどんなことが起きていましたか。(ロ)ギリシャ神話のどんな点がギルガメシュ叙事詩に類似していますか。
24 著述家エレン・スイツァーはこう説明しています。「よみの国には驚くべき生き物が……いた。最近死んだ者たちを生ける者の地からよみの国へ運ぶ渡し船をこぐカロンがいた。カロンは渡し船をこいで[ステュクス川を渡る]ための報酬を要求したので,ギリシャ人は多くの場合,死者の舌の下に硬貨を一つ入れて葬り,死者がしかるべき料金を必ず持てるようにした。料金を払えない死者の魂は,川の裏側の一種の無人地帯に引き止められ,幽霊となって生きている人々に現われるために戻ることができた」。e
25 魂に関するギリシャ人の考え方は,だれに影響を及ぼしましたか。
25 魂に関するギリシャ神話は次にローマ人の概念に影響を及ぼし,プラトン(西暦前427年ごろ-347年)などのギリシャの哲学者は,聖書的な根拠がないにもかかわらず,霊魂不滅の教えを自分たちの教理に取り入れた,背教したクリスチャンの思想家たちに強い影響を与えました。
26,27 アステカ族,インカ族,およびマヤ族は死をどのようにみなしましたか。
26 アステカ族,インカ族,およびマヤ族もまた,霊魂不滅を信じていました。彼らにとって死は他の文明に属する人々の場合と同様,一つの神秘でした。これらの人々には,死を甘受するのに助けとなる儀式や信条がありました。考古学者である史家ビクター・W・フォン・ハーゲンが自著,「アメリカ大陸の古代太陽王国」の中で次のように説明しているとおりです。「死者は実は生きており,一つの相から別の相に移ったにすぎなかった。死者は目に見えず,手で触れられず,不死身であった。死者は……氏族の目に見えない成員になった」。―裁き人 16:30; エゼキエル 18:4,20と比べてください。
27 同出典はこう述べています。「[インカ族の]インディアンは不滅性を信じていた。実際,人は決して死なないと考えており……死体は単に死んだと思われただけで生きており,目に見えない力の影響を帯びた」。マヤ族もまた,魂と十三の天と九つの地獄を信じていました。ですから,どこを見ても,人々は死という現実を否定したいと考えており,不滅の魂がよりどころとなってきたことが分かります。―イザヤ 38:18。使徒 3:23。
28 アフリカでは幾つかのどんな信条が広まっていますか。
28 同様に,アフリカの神話にも,死後も存続する魂に言及した言葉が含まれています。死者の魂のことを恐れて生活しているアフリカ人は少なくありません。「新ラルース神話百科事典」はこう述べています。「この信条はもう一つのそれ,つまり死後も魂は引き続き存在するという信条と結びついている。魔術者たちは自分たちの特別の能力を強めるよう魂に願い求めることができる。死者の魂は多くの場合,動物の体に転生したり,あるいは生まれ変わって植物になったりさえすることがある」。その結果,ズールー族はある種のヘビを親族の霊と考えて,これを殺そうとはしません。
29 南アフリカのある部族の伝説について説明してください。(創世記 2:15-17; 3:1-5と比較してください。)
29 東南アフリカのマサイ族はンガイと呼ばれる創造者を信じており,この神はマサイ族の人々各々にその保護者としての守護天使を立てています。戦士が死ぬ瞬間に,この天使はその魂をあの世へ運びます。先に引用した「ラルース」百科事典は,最初の人間ウンクルンクルに関するズールー族の死の伝説を提供しています。その伝説によれば,ウンクルンクルは至上の存在となっていました。彼はカメレオンを遣わして人類に,「人間は死ぬようなことはない!」と伝えさせようとしましたが,そのカメレオンは歩みが遅く,途中で注意をそらされました。それで,ウンクルンクルはトカゲを使って,「人間は必ず死ぬであろう!」という別の知らせを送りました。すると,そのトカゲが最初にそこに着き,「その時以来,人はだれも死を免れられなくなり」ました。この同じ伝説は,異同はあるものの,ベチュアナ族,バスト族,およびバロンガ族の中にもあります。
30 本書を調べれば,魂についてさらにどんなことが分かりますか。
30 神を探求する人間の努力に関する,この研究を続けてゆけば,霊魂不滅に関する神話が人間にとってこれまでも,また依然として今もいかに重要かが,なお一層分かるでしょう。
太陽崇拝と人身供犠
31 (イ)エジプト人は太陽神ラーについて何を信じていましたか。(ロ)それは聖書の述べる事柄とどのように比べられますか。(詩編 19:4-6)
31 エジプトの神話の万神殿には,多数の男神や女神が含まれています。他の多数の古代社会の場合と同様,エジプト人は神を探求する一方,自分たちの日々の命を支えるもの,つまり太陽を崇拝することに引かれました。ですから,彼らは天空の最高の主をラー(アモン・ラー)という名で崇敬しました。この神は毎日,舟に乗って東から西に進み,夜になると,危険な水路をたどって,よみの国を通りました。
32 火の神シウテクートリ(ウエウエテオトル)の祭りの一つについて説明してください。
32 人身供犠はアステカ族,インカ族,およびマヤ族の宗教の太陽崇拝に見られる一つの共通の特色でした。アステカ族は自分たちの様々な神々,とりわけ太陽神テスカトリポカの崇拝では人身供犠をささげて,宗教的な祭りを周期的に絶えず祝いました。火の神シウテクートリ(ウエウエテオトル)の祭りの際,「戦争捕虜は捕獲者たちと一緒に踊り……目もくらむばかりの火の周りで引っ張り回され,次いで炭火の中に投げ落とされ,なお鼓動している心臓を摘出して神々にささげさせるため,まだ生きているうちに引っ張り出され」ました。―「アメリカ大陸の古代太陽王国」。
33 (イ)インカ族の崇拝には何が含まれていましたか。(ロ)聖書は人身供犠について何と述べていますか。(列王第二 23:5,11; エレミヤ 32:35; エゼキエル 8:16と比較してください。)
33 さらに南のインカ族の宗教には独自の供犠と神話がありました。古代インカ族の崇拝では,子供や動物が太陽神インティや創造者ビラコチャにささげられました。
神話の男神や女神たち
34 エジプトで最も際立っている三つ組はだれによって構成されていますか。それらの神々はどんな役割を演じましたか。
34 エジプトの三つ組で最も際立っているのは,聖母の象徴であるイシス,彼女の兄弟で夫であるオシリス,およびこの二人の息子で,普通,ハヤブサで表わされているホルスで構成される三つ組です。イシスは時に子供に乳を与えるエジプト人の彫像で表わされており,その姿は2,000年余の後代に登場した,キリスト教世界の聖母子像をよく思い起こさせます。やがて,イシスの夫オシリスは死者の神として人気を博しました。なぜなら,オシリスは死者の魂があの世で永遠に幸福に生きられるという希望を差し伸べたからです。
35 ハトルとはだれのことでしたか。その年ごとの主な祭りはどのようなものでしたか。
35 エジプトのハトルは,愛と喜び,および音楽と踊りの女神でした。彼女は死者の女王となって,死者が天に到達するよう,はしごで助けました。「新ラルース神話百科事典」が説明しているように,彼女は盛大な祭りをもってほめたたえられ,「とりわけ,彼女の誕生記念日であった元日はそうであった。女性の神官は夜明け前に朝日の光にさらされるよう,ハトルの像をテラスに持ち出すのであった。その後に行なわれた祝祭は,まさしくカーニバルを包み隠す手段であり,その日は歌と酩酊で終わった」と言われています。何千年も後の新年の祝いの場合,物事はすべて多少でも変化しましたか。
36 (イ)西暦前16世紀当時,イスラエルはどんな宗教的背景のもとにありましたか。(ロ)十の災厄にはどんな特別の意味がありましたか。
36 エジプト人の万神殿には,雄牛アピス,雄羊バナデド,カエルのヘクト,雌牛ハトル,およびワニのセベクなどの多数の動物の男神や女神がいました。(ローマ 1:21-23)西暦前16世紀当時,イスラエル人はこのような宗教的背景のもとで奴隷として捕らわれていたのです。イスラエルの神エホバは頑強なファラオの支配下にあった彼らを解放するため,エジプトに対して十の異なった災厄を送らなければなりませんでした。(出エジプト記 7:14-12:36)それらの災厄は要するに,エジプトの神話の神々を卑しめることを意図したものでした。―62ページの囲み記事をご覧ください。
37 (イ)ローマ人の一部の神々はどのような性格の持ち主でしたか。(ロ)それらの神々の行動は,その追随者にどのように影響を及ぼしましたか。(ハ)パウロとバルナバはルステラでどんな経験をしましたか。
37 さて,次に古代ギリシャおよびローマの神々のことを取り上げましょう。ローマは美徳や悪徳と共に多くの神々を古代ギリシャから借り入れました。(43および66ページの囲み記事をご覧ください。)例えば,ウェヌスやフローラは厚かましい売春婦,バッカスは飲んだくれの道楽者,メルクリウスは追いはぎ,そしてアポロは女たらしでした。神々の父ユピテル(ジュピター)は,何と約59人もの女性と姦淫や近親相姦を犯したと伝えられています。(これは,反逆して,大洪水前に女たちと同棲した,み使いたちのことを実によく思い出させるものです。)崇拝者は自分たちの神々の行動を反映させる傾向があるので,ティベリウス,ネロ,およびカリグラなどのローマ皇帝が姦淫や淫行や殺人を犯す,堕落した生活をしたからといって,少しも不思議ではありません。
38 (イ)ローマではどのような崇拝が行なわれていたかを説明してください。(ロ)宗教はローマの兵士にどのように影響を及ぼしましたか。
38 ローマ人は多くの伝承の中から神々を自分たちの宗教に取り入れました。例えば,彼らの太陽神となった,ペルシャの光の神ミトラ(60,61ページの囲み記事をご覧ください)やシリアの女神アタルガティス(イシュタル)の崇拝を熱心に行なうようになりました。彼らはギリシャ人の女猟師アルテミスをディアナに変えましたし,エジプトのイシスの独自の変形を奉じていました。また,ケルト族の三つ組の豊穣の女神をも採用しました。―使徒 19:23-28。
39 (イ)だれがローマ人の神官を支配しましたか。(ロ)ローマ人の宗教儀式の一つを説明してください。
39 ローマ人は幾百もの宮や神殿で公に祭儀を行なうため,様々な神官を持っており,それらの神官はすべて,「国教の長であった大神官[最高の司教]の権威のもとに置かれ」ました。(「ローマ世界の歴史地図」)同歴史地図によれば,ローマ人の儀式の一つは雄牛の供犠で,その儀式の際,「崇拝者は坑の中に立ち,犠牲にされた雄牛の血を頭から浴びせられ,この儀礼を済ませると,罪をはらい清められた汚れのない状態で出て」来ました。
キリスト教の神話ならびに伝説?
40 多くの学者は初期キリスト教の出来事をどのようにみなしていますか。
40 現代のある批評家たちによれば,キリスト教にも神話や伝説が含まれています。実際にそうですか。多くの学者はイエスの処女降誕,イエスの奇跡,およびその復活を神話として退けています。中には,イエスは決して実在しなかったし,その神話はさらに古代の神話や太陽崇拝から持ち込まれたものだと言う人さえいます。神話の専門家ジョセフ・キャンベルはこう述べました。「ゆえに,幾人かの学者は,[バプテスマを施す]ヨハネやイエスは決しておらず,ただ水の神や太陽神だけがいたのではないかと考えている」。しかし,それら同様の学者の多くは無神論者なので,神に対する信仰を一切完全に退けていることを忘れてはなりません。
41,42 初期キリスト教の史実性を支持する,どんな証拠がありますか。
41 それにしても,歴史的な証拠を前にして,そのような懐疑的な見解は消えうせます。例えば,ユダヤ人の歴史家ヨセフス(西暦37年ごろ-100年ごろ)はこう書きました。「ユダヤ人のある人々にとって,ヘロデの軍隊が滅びたことは,神からの復しゅう,それもバプテストという異名で呼ばれたヨハネに対するその処置のゆえにまさしく正当な復しゅうのように思えた。というのは,ヨハネは善人であったにもかかわらず,ヘロデはこれを処刑させたからである」。―マルコ 1:14; 6:14-29。
42 この同じ歴史家はまた,「実際,もし人間と呼べるとすれば,奇跡の人だが,イエスというある人物[が現われた]。……その弟子たちはこれを神の子と呼んでいる」と書いて,イエス・キリストの歴史的存在を確証し,さらにこう続けています。「ピラトは彼に刑を宣告してしまった。……だが,今でも,その名にちなんで『メシア主義者』と呼ばれる者たちの仲間は絶えていない」。f ―マルコ 15:1-5,22-26。使徒 11:26。
43 使徒ペテロにはキリストを信ずるべき,どんな根拠がありましたか。
43 ですから,クリスチャンの使徒ペテロはイエスの変ぼうの目撃証人として全き確信を抱いて,次のように書くことができました。「そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなた方に知らせたのは,巧みに考え出された作り話[ギリシャ語,ミュトス]によったのではなく,その荘厳さの目撃証人となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたし自らこの者を是認した』という言葉が荘厳な栄光によってもたらされた時,イエスは父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼と共に聖なる山にいた時,この言葉が天からもたらされるのを聞きました」― ペテロ第二 1:16-18。g
44 人間の意見と神のみ言葉が衝突するいかなる場合でも,聖書のどんな原則が当てはまるはずですか。
44 このように,人間の“専門家”の意見と神のみ言葉が衝突する場合,わたしたちは先に述べた,次のような原則を当てはめなければなりません。「では,実情はどうなのですか。ある者が信仰を表わさなかったとすれば,その信仰の欠如が,神の忠実さを無力にでもするのでしょうか。断じてそのようなことはないように! むしろ,すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように。『あなたが言葉において義なることが証明され,裁かれる際には勝つため』と書かれているとおりです」― ローマ 3:3,4。
共通の特徴
45 世界の神話には,ある共通のどんな特徴が見られますか。
45 こうして世界の神話の幾つかを簡単に概観してみると分かるのですが,ある共通の特色が示唆されており,その特色の多くの起源はバビロン,つまり大抵の宗教の発祥地であるメソポタミアまでさかのぼってたどることができます。創造に関する事実であれ,半神半人や巨人が地に住んだり,大洪水によって邪悪な者たちが滅ぼされたりした時期であれ,あるいは太陽崇拝や不滅の魂に関する基本的な宗教的概念であれ,そこには共通の特徴が見られます。
46,47 (イ)聖書からすれば,神話の共通の起源や共通の特徴をどのように説明することができますか。(ロ)古代の崇拝のさらにどんな面がこれから取り扱われますか。
46 聖書的な見地からすれば,4,200年以上の昔,大洪水後,神の命令で人間がメソポタミアのバベルから広がったことを思い起こせば,そのような共通の特徴を説明することができます。人々は異なった言語を用い,氏族や部族を構成しながら,離れて行きましたが,以前の歴史や宗教的概念に関する同じ基本的な見解を抱いて出かけて行きました。(創世記 11:1-9)何世紀もたつうちに,そのような見解がそれぞれの文化の中でゆがめられたり,あるいは粉飾されたりした結果,現代に至るまで伝えられている多くの作り話や伝説や神話が出来上がりました。
47 とはいえ,人間はまた,心霊術,シャーマニズム,魔術,先祖崇拝その他の様々な方法で宗教感情を表わしてきました。それらの方法は,神を探求する人類の歩みについて何かを教えていますか。
[脚注]
a 創造について詳しく考察したい方は,ものみの塔聖書冊子協会の発行した,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という本をご覧ください。
b 仏教,道教,および儒教の影響を受けて,もっと後代にできた神話については,6章と7章で論じられています。
c 歴史としての大洪水の証拠についてもっと詳しく論じた資料を調べたい方は,ものみの塔協会の発行した,「聖書に対する洞察」の第1巻,327,328,および609-612ページ(英文)をご覧ください。
d クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,「ハデス」は神話に登場する者としてではなく,人類共通の墓を指す語として10回出て来ます。この語はヘブライ語のシェオールのギリシャ語の同義語です。―「王国行間逐語訳」の詩編 16:10や使徒 2:27と比較してください。―ものみの塔協会の発行した,「聖書に対する洞察」の第1巻,1015,1016ページ(英文)をご覧ください。
e 興味深いことに,ギルガメシュ叙事詩の英雄ウトナピシュティムには,ウルシャナビという船頭がおり,この船頭がギルガメシュに死の海を渡らせて,洪水の生存者に会わせました。
f ハーバード大学出版部版,「ヨセフス」,第9巻,48ページの伝統的本文の脚注による。
g キリスト教に関する情報をさらに得たい方は,10章をご覧ください。
[43ページの囲み記事]
ギリシャとローマの神々
ギリシャ神話の多くの男神や女神は,ローマ神話でも同じような立場を占めていました。下記の一覧表には,その一部が列挙されています。
ギリシャ ローマ 役割
アスクレピオス アエスクラピウス 医神
アテナ ミネルウァ 工芸・戦術・知恵の女神
アフロディテ ウェヌス 愛の女神
(ビーナス)
アポロ アポロ 光明・医術・詩歌の神
アルテミス ディアナ 狩猟と出産の女神
アレス マルス 軍神
ウラノス ウラノス ガイアの息子ならびに夫で,ティタンたちの父
エロス キューピッド 愛の神
ガイア テラ 地の象徴で,ウラノスの母ならびに妻
クロノス サトゥルヌス ギリシャ人にとっては,ティタンたちの
支配者で,ゼウスの父。
同時に,ローマ神話では農耕神
ゼウス ユピテル 神々の支配者
ディオニュソス バッカス ぶどう酒・豊穣・蛮行の神
デメテル ケレス 成育するものの女神
ヒュプノス ソムヌス 眠りの神
プルトン,ハデス プルートー よみの国の神
ヘスティア ウェスタ 炉の女神
ヘパイストス ウルカヌス 神々のための鍛冶屋で,火と金属加工の神
ヘラ ユノ 結婚と女性の守護神。ギリシャ人にとっては,
ゼウスの妹ならびに妻で,
ローマ人にとってはユピテルの妻
ヘルメス メルクリウス 神々のための使者,商業と科学の神,
旅人・盗賊・放浪者の守護神
ポセイドン ネプトゥヌス 海の神で,ギリシャ神話では地震と馬の神
レア オプス クロノスの妻で姉
「ワールドブック百科事典」,1987年版,第13巻に基づく一覧表。
[45ページの囲み記事]
アッシリア-バビロニアの男神と女神
アッシュール ― アッシリア人の国家的な軍神で,豊穣の神。
アヌ ― 天を治める最高神で,イシュタルの父。
イシュタル ― 惑星である金星を神格化したもので,その祭儀の一環として神聖な売春行為がなされた。この女神はフェニキアのアスタルテ,シリアのアタルガティス,聖書のアシュトレテ(列王第一 11:5,33),ギリシャのアフロディテ,ローマのウェヌス(ビーナス)であった。
エア ― 水の神。マルドゥクの父で,洪水についてウトナピシュティムに警告した。
エンリル(ベル)― 空気の主で,後にギリシャ神話のゼウスに対応した。バビロニア人により同化されてマルドゥク(ベル)になった。
シャマシュ ― 光明と正義の太陽神で,ギリシャのアポロの先駆者。
シン ― 月神で,シャマシュ(太陽)とイシュタル(惑星である金星)を含む三つ組の一柱。
タンムズ(ドゥムジ)― 収穫の神で,イシュタルの愛人。
マルドゥク ― バビロニアの神々の第一の神で,「他の神々すべてを同化し,その様々な機能すべてを引き継いだ」。イスラエル人はこれをメロダクと呼んだ。
(「新ラルース神話百科事典」に基づく一覧表)
[60,61ページの囲み記事/図版]
ローマの兵士の神々
ローマは規律正しい軍隊で有名でした。同帝国の団結力はその軍団の士気と戦闘能力に依存していました。宗教は考慮に入れるべき要素の一つでしたか。そのとおりでしたし,また幸いなことに,ローマ人は自分たちが占領していたことを明らかに示す証拠を街道・城塞・導水橋・コロセウム(大円形劇場)・神殿などの形で残しました。例えば,英国北部のノーサンブリアには,西暦122年ごろに築かれた有名なハドリアヌスの城壁があります。発掘調査の結果,ローマ人の駐屯部隊の活動や宗教の役割に関してどんなことが明らかになりましたか。
ハドリアヌス城壁の上で発掘されたローマ人の駐屯地の廃虚の近くにあるハウスステッズ博物館のある展示物の説明文はこう述べています。「ローマの兵士の生活の宗教的側面は三つの部分に分けられていた。まず第一に……神格化された皇帝の祭儀およびユピテル,ビクトリア,マルスなどのローマの守護神の崇拝であった。毎年,それぞれの砦の閲兵場で祭壇がユピテルに献納された。兵士はすべて,神格化された皇帝の誕生日や即位の日や勝利を祝う祭りに参加するよう求められた」。これは従軍牧師・祭壇・国旗などが軍隊内の礼拝に付きものとなっている,今日の軍隊の習慣と実によく似ています。
では,ローマの兵士の生活の宗教的側面の第二の特色は何でしたか。それは,彼らの守護神や特定の部隊の守護霊,「それに故郷から携えて来た神々」を崇拝することでした。
「最後に,個人的に行なわれる祭儀があり,兵士は公式の祭儀に対する責務を果たす限り,自分の望むどの神でも自由に崇拝することができ」ました。このことからすれば,信教の自由が十分認められていたように聞こえますが,「ドルイド教を含む幾つかの宗教は例外であり,ドルイド教の慣行は非人道的なものとみなされた。また,例えば,キリスト教の場合のように,国家に対する忠誠を疑われた宗教も例外で」した。―ルカ 20:21-25; 23:1,2; 使徒 10:1,2,22と比較してください。
興味深いことに,1949年にハドリアヌス城壁にかなり近いカローバーグの湿地でミトラ教の神殿が発見されました。(写真をご覧ください。)考古学者の推定では,それは西暦205年ごろに建てられたもので,その神殿には太陽神の像や祭壇や,一部,「無敵の神ミトラへ」と記したラテン語の碑文があります。
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エジプトの神々と十の災厄
エホバは十の災厄によりエジプトの無力な神々に対して裁きを執行されました。―出エジプト記 7:14-12:32。
災厄 説明
1 ナイル川や他の河川の水が血に変わった。ナイルの神ハピが卑しめられた。
2 かえる。カエルの神ヘクトはこれを防ぐ力がなかった。
3 塵がぶよに変わった。魔術の主トートはエジプトの魔術師を
助けることができなかった。
4 イスラエルが住んでいたゴシェン以外のエジプト全土で発生したあぶ。
どの神も,つまり宇宙の創造者プタハ,あるいは魔術の主トートでさえ
これを防ぐことができなかった。
5 畜類を襲った疫病。神聖な雌牛の女神ハトルも,雄牛アピスも
この災厄を防ぐことができなかった。
6 はれ物。治癒者であるトート,イシス,およびプタハなどの神々も
助けることができなかった。
7 雷と雹。稲妻の制御者レシュプ,および雨と雷の神トートの無力さが
暴露された。
8 いなご。これは作物の保護者である豊穣の神ミンにとって打撃であった。
9 三日間の闇。顕著な太陽神ラー,および太陽の神ホルスが卑しめられた。
10 神の化身とみなされたファラオの子を含む初子の死。時々,雄羊として
表わされた太陽神ラー(アモン・ラー)もこれを阻止することが
できなかった。
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神話とキリスト教
およそ2,000年前にキリスト教が登場した当時,人々は古代ギリシャやローマの神話の神々の崇拝に完全に支配されていました。小アジアではギリシャ語の名称が依然として普及していたことを考えれば,(今日のトルコにある)ルステラの人々が,癒しを行なったクリスチャンのパウロやバルナバの各々を指して,どうしてローマのメルクリウスやユピテルではなく,ヘルメスやゼウスと言って,二人のことを「神々」と呼んだかが分かります。その記述には,「市の前に神殿があるゼウスの祭司は,数頭の雄牛と花輪を門のところに携えて来て,群衆と一緒に犠牲をささげようとするのであった」と記されています。(使徒 14:8-18)パウロとバルナバはやっとのことで,自分たちに犠牲をささげるのを群衆に思いとどまらせました。これは,当時の人々が自分たちの神話をいかに真剣に受け入れていたかを示す好例です。
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神々の住みかとされる,ギリシャのオリュンポス山
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ギルガメシュ叙事詩の一部が楔形文字で記されている粘土板
[50ページの図版]
ジャッカルの頭をした神アヌビスは,左側のはかり皿の上の心臓 ― 魂の重さを一本の羽で表わされている,真理と正義の女神マートと比べて計る。トートはその結果をオシリスに告げ知らせる前に書き板に書く
[55ページの図版]
アステカ族の淡水の女神チャルチウィトリクエ; 犠牲にされた心臓が保存されているとされる空洞のある,フクロウの形をした船
[57ページの図版]
エジプトの三つ組; 左から,ホルス,オシリス,およびイシス
[58ページの図版]
インカ族の太陽崇拝はペルーのマチュ・ピクチュで行なわれていた
この挿入写真の太陽の“つなぎ柱”であるインティ・ワタナは,マチュ・ピクチュで,多分,太陽崇拝に関連して使われたと思われる
[63ページの図版]
タカのホルス,雄牛アピス,およびカエルのヘクトの彫像。エジプトの神々は,ナイルの水が血に変えられたことを含む,エホバから送られた災厄を防ぐことができなかった
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ギリシャの神々で左から,アフロディテ,神々の酒のしゃくをしたガニュメデスを抱えるゼウス,およびアルテミス
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知られていない方を魔術や心霊術によって探求する神を探求する人類の歩み
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4章
知られていない方を魔術や心霊術によって探求する
1 パウロはアレオパゴスの上でアテネ人に何と語りましたか。なぜそう語りましたか。
「アテネの皆さん,わたしは,あなた方がすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚く抱いておられる様子を見ました」。(使徒 17:22)これは,クリスチャンの使徒パウロが,古代ギリシャの都市アテネのアレオパゴス,つまりマルスの丘に集まった群衆に語った言葉です。パウロがそのように述べたのは,それより前に,「その都市に偶像が満ちている」のを見たからでした。(使徒 17:16)何を見たのでしょうか。
2 アテネ人が神々に対して恐れを抱いていたことを何が証明しましたか。
2 確かに,パウロはその国際的な都市でギリシャやローマの多種多様な神々を見ていたに違いありませんし,人々の生活は明らかに神々の崇拝と密接な関係を持っていました。アテネ人は何らかの重要な,もしくは強力な神をあがめるのをたまたま怠ったために,その神が激怒しはしまいかと恐れて,「知られていない神」を自分たちの崇拝に含めることさえしました。(使徒 17:23)このことは,明らかに彼らが神々への恐れを抱いていることを証明しました。
3 神々に対して恐れを抱くことはアテネ人だけに限られていましたか。
3 もちろん,神々,それも特に知られていない神々に対して恐れを抱くことは,1世紀のアテネ人に限られていたわけではありません。その恐れは何千年にもわたり,ほとんど全人類を支配してきました。世界の多くの場所で,人々の生活は,ほとんどすべての面で何らかの神や霊と直接もしくは間接的に関係しています。前の章で既に述べたとおり,古代のエジプト人,ギリシャ人,中国人その他の民族の神話は,神々や霊に関する思想に深く根ざしており,その思想は個人的および国家的な事柄で重要な役割を演じました。中世の時代には,錬金術師,呪術師,および魔法使いに関する話がキリスト教世界の領域の至る所で大流行しました。そして,事態は今日でもほとんど同様です。
現代の儀式と迷信
4 神々や霊と結びついているように思える,民間の慣行の幾つかを挙げてください。
4 人々のする事柄の多くは,当人が気づいているかどうかにかかわりなく,迷信もしくは迷信的な慣行と結びついており,そのあるものは神々あるいは霊と関係があります。例えば,誕生祝いの起源は,人の実際の誕生日を大いに重視する占星術にあることをご存じでしたか。誕生日のケーキについてはどうですか。それはギリシャの女神アルテミスと関係があるようです。その誕生日は,ろうそくを載せた,はち蜜入りの月形のケーキを作って祝われました。あるいは,葬式で黒い服を着用することは,元来,そのような時に潜んでいると言われる邪悪な霊の注意を免れる一つの策略だったことをご存じですか。色の黒い一部のアフリカ人は体を白く塗ったり,他の土地では泣き男が異様な色彩の服を着たりして,それらの霊に気づかれないようにします。
5 読者がご存じの一般的な迷信の幾つかを挙げてください。
5 そのような民間の慣行のほかに,どこでも人々は迷信を信じており,恐れを抱いています。西洋では,鏡を割ったり,黒猫を見たり,はしごの下を歩いたりすること,それに場所によって異なりますが,13日の火曜日や金曜日などはすべて,不吉な事柄の前兆とみなされています。東洋では,日本人が着物を着る場合,左を上にして前を合わせます。なぜなら,遺体にはその逆の合わせ方をするからです。また,昔,日本では家を建てる場合,北東に面する側には窓や戸を付けませんでした。その方向から来ると言われる悪霊が,入口を見つけられないようにするためでした。フィリピンでは,人々は死者を埋葬する前に,“聖”ペテロに死者を歓迎してもらうよう,死者の靴を脱がせて両足のそばに置きます。老人は,人影のように見える月面の“聖”ミカエルが若者の行ないを見守って書き記しているということを指摘して,行儀をよくするよう若者に命じます。
6 今日,人々は心霊術にどの程度関係していますか。
6 しかし,霊や神々に対する信仰は,一見無害に思える習慣や迷信に限られてはいません。未開社会でも現代社会でも,人々は恐ろしい霊を制御したり,なだめたり,あるいは慈悲深い霊の恵みを得たりするために様々な手段に訴えてきました。当然,まず最初に,遠い密林や山地の住民で,病気あるいは他の大変な窮境の際,霊媒や祈とう師や魔術士(魔術を行なう祭司)に相談する人々のことを考えるかもしれません。しかし,大都市や小都市の人々もまた,将来のことを伺ったり,重要な決定をする助けを得たりするために,占星術者,超能力者,占い師,および易者などのところに行きます。中には,名目だけにせよ,何らかの宗教に属している人でさえ,そのような慣行に頼って熱心に助けを求めます。心霊術,黒魔術,および秘術を自分たちの宗教にしている人々も少なくありません。
7 どんな疑問を考慮する必要がありますか。
7 このような慣行や迷信すべてにはどんな源,もしくは起源がありますか。それらは単に神に近づくための異なった道にすぎませんか。また,たいへん重要なこととして,そのような事柄は,これに従う人々に対して何をするものとなりますか。このような疑問に対する答えを得るには,人間の歴史をさかのぼって調べ,初期の人間の崇拝の仕方をかいま見なければなりません。
知られていない方と接触を持つ
8 人間はどんな独特な特質のゆえに下等動物とは別個の存在となっていますか。
8 進化論者の主張に反して,人間には霊的な特性があり,その点で人間は下等動物と異なっており,それよりも勝っています。人間には生まれつき,知られていないものを探求しようとする衝動があります。そして,人生にはどんな意味があるのか,人間は死後どうなるのか,人間は物質界と,いや,実際のところ,宇宙とどんな関係を持っているのかなどという疑問と絶えず取り組んでいます。また,少しでも自らの境遇や人生を制御しようとして,自分自身よりも高度な,もしくはより強力な存在に到達したいという欲求によって動かされています。―詩編 8:3,4。伝道の書 3:11。使徒 17:26-28。
9 ある学者は「霊性」をどのように説明していますか。
9 アイバル・リスナーはこのことについて,自著,「人間,神,および魔術」の中でこう述べています。「人間が自らの歴史を通じて,自分自身以外の存在に達するため不屈の努力を傾けて奮闘してきたことを考えると,ただただ驚嘆させられるばかりである。人間は決して専ら生きるのに必要なもののためだけに自分のエネルギーを振り向けたりはしなかった。人間は到達し難いものにあこがれて,絶えず探し求め,さらに模索してきた。人間固有のこの不思議な衝動が人間の霊性なのである」。
10 人間には神に到達したいという自然の衝動があることを何が示していますか。
10 もちろん,神を信じない人たちは物事をそのように考えるわけではありません。そのような人々は,2章で述べたように,普通,人間の心理的,あるいはそれ以外の必要のゆえに人間にはこの傾向があるのだと言います。しかし,普通の経験からすれば,大抵の人々は危険や絶望的な事態に直面すると,まず最初に神,あるいは何らかのより高度な力に助けを求めるのではありませんか。このことは今日でも昔の時代と全く同様です。ですから,リスナーはさらにこう述べています。「最古の未開民族の中で研究を行なってきた人で,未開民族がすべて神のことを考えていること,つまり至上の存在に対する鋭敏な意識を持っていることを理解できない人は一人もいない」。
11 未知のものに到達しようとする人間の努力は,どんな結果をもたらしましたか。(ローマ 1:19-23と比較してください。)
11 人間が未知のものに到達したいという,持って生まれた欲求を充足させるため,どのように努力したかは,全く別の問題です。遊牧民の狩猟者や牧夫は野獣の力におののきましたし,農民は特に天候や季節の変化に順応しました。密林の住人は砂漠や山地に住む人々とは全く異なった仕方で反応しました。人々はそのような様々な恐れや必要に直面して,当惑させられるほどの様々な宗教的慣行を発達させ,そのような慣行によって慈悲深い神々に訴えたり,恐ろしい神々をなだめたりしたいと考えました。
12 どこでも人々の宗教的な慣行にはどんな共通の特色が見られますか。
12 しかし,それらの宗教的な慣行はたいへん多種多様であるにもかかわらず,ある共通の特色が認められます。その中には,神聖な霊や超自然的な力に対する崇敬や恐怖の念,魔術の使用,しるしや兆しによって将来を占うこと,占星術,その他様々な吉凶判断の方法があります。それらの特色を調べてみると,それが今日の人々をさえ含めて,あらゆる時代の世界中の人々の宗教思想を形成する上で重要な役割を果たしてきたことが分かります。
神聖な霊や超自然的な力
13 どんな事柄は昔の人々を当惑させたと思われますか。
13 初期の時代の人々の生活は神秘で満ちていたようです。人々は不可解で当惑させられるような出来事で取り囲まれていました。例えば,申し分のないほど強健な人が一体どうして突然病気で倒れるのか,普通の季節に一体どうして空から雨が降らないのか,あるいは一見死んだように思える葉のない樹木が一年のある時期に緑に一変し,命にあふれるようになるのは一体どうしてか理解できなかったことでしょう。自分自身の影や心臓の鼓動や息さえも神秘だったでしょう。
14,15 理解や指導がなかったため,人間は説明できない物事をおおかた何のせいにしましたか。(サムエル第一 28:3-7と比較してください。)
14 人間には生まれつき霊的なことを考える性向があるので,それらの神秘的な事柄や出来事をある超自然的な力のせいにするのは,ごく自然なことでした。しかし,正しい指導や理解がなかったために,人間の世界はやがて魂や霊,幽霊や悪霊の満ちる所となりました。例えば,北米のアルゴンキン族のインディアンは人の魂を「彼の影」という意味の“オタチュク”と呼んでおり,東南アジアのマライ人は,人間が死ぬと,魂は鼻孔を通って逃げて行くと信じています。今日,霊や死んだ人の魂が存在することや,ある方法でそのような霊や魂と交信する企てに対する信仰は,ほとんどどこにでも見られます。
15 同様に,自然環境の中の他のもの,すなわち太陽,月,恒星,大洋,川,山々も生きていて,人間の諸活動に直接影響を与えるように見えました。それらのものはそれぞれ独自の世界を占めているように見えたので,霊や神々として神格化されました。その中には慈悲深くて人を助ける者もいれば,邪悪で人を害する者もいました。そして,創造されたものを崇拝することが,ほとんどすべての宗教の中で顕著な位置を占めるようになりました。
16 霊や神々,および神聖な事物を崇拝することは,どのように示されましたか。
16 そのような信仰は,ほとんどすべての古代文明の宗教の中に見いだすことができます。バビロニア人やエジプト人は太陽神や月神,および星座の神々を崇拝しました。動物や野獣も彼らの崇敬の対象になりました。ヒンズー教徒は幾億もの数に上る神々の万神殿で有名です。中国人は神聖な山々や川の神々を常に奉じてきましたし,先祖崇拝を行なうことによって孝行をします。イギリス諸島の古代のドルイドはオークの木を神聖視し,オークに自生するヤドリギに特別の崇敬の念を表しました。後に,ギリシャ人やローマ人が一役買って,霊,神々,魂,悪霊その他,あらゆる種類の神聖な事物に対する信仰が確立されました。
17 創造されたものを崇拝することは,今日でもどのように依然として目立っていますか。
17 今日,ある人々はこのような信仰をすべて迷信とみなすかもしれませんが,それらの考え方は依然として世界中の多くの人々の宗教的な慣行に見られます。ある人々は依然として,ある山や川,奇妙な形をした岩や古木その他,数多くの物が神聖であると考えており,それらを専心の対象として崇拝しています。そして,そのような場所に祭壇や聖堂や神殿を建てます。例えば,ガンジス川はヒンズー教徒にとって神聖な川で,同教徒の最大の願いは,生きているうちにその川で沐浴し,死後,自分の骨灰をその水にまいてもらうことです。仏教徒はインドのブッダガヤーにある霊場にもうでることを特別な経験とみなしています。その霊場の菩提樹の下で仏陀が悟りを開いたと言われています。カトリック教徒はメキシコにあるグアダルーペの聖母マリアのバシリカ聖堂までいざったり,あるいは奇跡的ないやしを求めて,フランスのルルドの霊場の“聖”水で沐浴したりします。創造者ではなく,創造されたものをあがめることは,今日でも依然として目立っています。―ローマ 1:25。
魔術の興隆
18 霊や神々に対する信仰ゆえに,人々は何をするようになりましたか。
18 無生物界は善悪両方の霊で満ちているという信仰が一度確立されると,人々は容易に次の段階,つまり指導や祝福を求めて良い霊と交信すると共に,悪い霊をなだめるよう試みる段階に進みました。その結果,魔術が行なわれるようになり,それは昔も今も,ほとんどあらゆる国民の中で栄えてきました。―創世記 41:8。出エジプト記 7:11,12。申命記 18:9-11,14。イザヤ 47:12-15。使徒 8:5,9-13; 13:6-11; 19:18,19。
19 (イ)魔術とは何ですか。(ロ)多くの人々にとって魔術が信じられるように思えるのはなぜですか。
19 魔術とは,最も基本的な意味では,自然の,あるいは超自然の力を制御,もしくは強制して,人間の命令どおりに行なわせるよう試みることです。初期の種々の社会の人々は日常の多くの出来事の真の原因を知らなかったため,ある魔術的な言葉や呪文を繰り返したり,ある儀式を行なったりすると,ある種の望ましい効果をもたらすことができると考えました。ある儀式は実際に効を奏したので,そのような魔術が信用できるように見えました。例えば,スマトラ西部のメンタワイ諸島の祈とう師 ― 本質的には魔術師もしくは呪術師 ― は下痢で苦しんでいる人々を驚くほど効果的に治すことができたと伝えられています。患者を時々がけの縁の近くにうつぶせに横たわらせて,土をなめさせるのが,その魔術の方法でした。それがどうして効を奏したのでしょうか。そのがけの土には,今日のある下痢の薬に普通に使われている白い粘土鉱物であるカオリンが含まれていました。
20 魔術はどのように人々の生活を支配するようになりましたか。
20 そのような少数の成功例のお陰で,失敗した事例はすべてたちまち消し去られて,魔術による治療者の評判が確立されました。それらの人々はやがて,恐れ敬われる,大いに尊敬される成員,つまり神官,長,魔術士,祈とう師,呪術医,霊媒などになりました。人々は治療,病気の予防,紛失物の捜し方,泥棒の見分け方,魔よけ,あるいは復しゅうの仕方などの問題を持って彼らを訪ねました。ついには,そのような事柄と共に,出産,成年,婚約,結婚,死別,埋葬などの生活上の他の行事を扱う,数多くの迷信的な慣行や儀式が行なわれるようになり,やがて人々の生活はあらゆる面で魔術の力と神秘に支配されました。
雨ごいの踊りとまじない
21,22 “模倣魔術”とはどういう意味ですか。例を挙げて説明してください。
21 魔術的な慣行は民族によって異なり,驚くほど多種多様なものがありますが,その背後の基本的な考え方はたいへん似通っています。まず第一に,類は類を生む,つまり望ましい効果はそれをまねることによって生み出せるという考えがあります。これは模倣魔術と呼ばれることがあります。例えば,雨が不足して作物が危険にさらされると,北アメリカのオマハ族のインディアンは,水を入れた容器の周りを回って踊ります。次いで,一人の人がその水を少し口に含み,小雨かにわか雨に似せて,水を空中に吐きかけます。あるいは,男の人が傷ついた熊のように地面を転がって,首尾よく熊狩りができるようにしたりします。
22 詠唱用の歌やささげ物を含め,もっと手の込んだ儀式を行なった民族もいました。中国人は大きな紙製の,あるいは木製の竜,つまり雨の神を作り,それを持って練り歩いたり,あるいは神々の偶像を日なたに置いて太陽の熱を感じさせれば,雨を降らせることができるかもしれないと考えて,その偶像を神殿から取り出したりしました。東アフリカのヌゴニ族は儀式の一環として雨の神殿の境内に埋めたつぼにビールを注ぎ,「主なるチャタよ,あなたは私たちに対して心を固くされました。私たちに何を行なわせたいとお思いでしょうか。私たちはまさしく滅びうせるに違いありません。あなたに差し上げたビールがございますので,あなたの子供たちに雨をお与えください」と祈ります。それから,残ったビールを飲み,その後,歌ったり踊ったりして,水に浸した木の枝を振ります。
23 魔法や魔法をかけることは,どのようにして発達しましたか。(レビ記 19:31; 20:6,27; 申命記 18:10-13と比較してください。)
23 魔術的な慣行の背後には,人の所有する物件は所有者から離れた後でさえ,引き続き当人に影響を及ぼすという,もう一つの考え方があります。そのために,かつてある人の所有していたある物品に力を及ぼすことにより,その人に魔法をかけることが行なわれました。ヨーロッパ大陸や英国では十六,七世紀当時でさえ,人々はそのような力で人に危害を加え得る魔女や魔法使いのことを依然として信じていました。そして,ある人の像をろうで作り,それに針を刺したり,人の名前を紙片に書いて,それを火で焼いたり,人の衣服の切れ端を埋めたり,あるいは髪の毛や切った爪,汗や,はては排せつ物に対してさえほかの色々なことをしたりする方法がありました。このような,あるいは他の方法がどの程度まで行なわれていたかは,1542年,1563年,および1604年に英国の議会が魔法を行なう者に死罪を科す法令を定めたことからも分かります。このような魔術はあらゆる時代を通じて,ほとんどあらゆる国民の中で様々な仕方で行なわれてきました。
しるしや兆しで占う将来
24 (イ)占いとは何ですか。(ロ)バビロニア人は占いをどのように行なっていましたか。
24 隠された情報を明らかにしたり,しるしや兆しで将来のことを伺ったりするために,多くの場合,魔術が使われます。これは占いとして知られており,この点でバビロニア人は有名でした。「魔術,超自然力信仰,および宗教」という本によれば,「彼らは打ち殺された動物の肝臓や腸を調べたり,火や煙を見たり,宝石の輝きを観察したりして将来を予言する先見術の熟練者であった。彼らは泉から水がさらさら流れる音や植物の形状から出来事を予告した。……大気中のしるし,雨,雲,風,稲妻なども前兆として解釈され,家具や鏡板のひび割れも将来の出来事を予告する手掛かりとなった。……ハエその他の昆虫,それに犬も神秘的な知らせを伝えるものであった」。
25 エゼキエルやダニエルは古代バビロンの占いの慣行にどのように言及していますか。
25 聖書のエゼキエル書は,ある軍事行動の際,「バビロンの王はその分かれ道,二つの道の頭の所で立ち止まった……占いをするためである。彼は矢を振った。テラフィムによって伺いを立てた。肝を調べた」と伝えています。(エゼキエル 21:21)まじない師,魔法使い,および魔術を使う神官もまた,バビロニア朝廷の紛れもない肝要な成員でした。―ダニエル 2:1-3,27,28。
26 ギリシャ人の間で人気のあった占いの一つの形態を挙げてください。
26 東洋および西洋双方の他の国々の人々もまた,多くの形態の占いに手を出しました。ギリシャ人は重大な政治上の出来事をはじめ,結婚,旅行,子供などの個人的な俗事に関しても神託所に助言を求めました。その最も有名なのは,デルフォイの神託所でした。アポロから来ると考えられる答えは,女神官,もしくはピュティアを通して,分かりにくい音で与えられ,神官により解釈されて,あいまいな詩の形に組み立てられました。古典的な一例は,「もしクロイソスがハリュス川を渡るなら,彼は力ある一帝国を滅ぼすであろう」という,リュディアの王クロイソスに与えられた答えです。滅ぼされる,その力ある帝国はこの王自身の帝国でした。クロイソスはハリュス川を渡ってカパドキアに侵攻した時,ペルシャのキュロスの手にかかって敗北を喫しました。
27 ローマ人はどの程度占いに関与しましたか。
27 西洋の占いの技術は,ほとんどなすことすべてに関して兆しや異兆を求めることに取り付かれていたローマ人と共に頂点に達しました。社会のあらゆる階層の人々が占星術,魔法,お守り,易断,その他多くの形態の占いを信じていました。そして,ローマ史の権威エドワード・ギボンによれば,「ローマ世界で流行した様々な崇拝様式を人々はすべて等しく真実であるとみなし」ました。有名な政治家で雄弁家のキケロは鳥の飛び方に兆しを求める専門家でした。ローマ史家ペトロニウスは,ローマの幾つかの町のおびただしい数の宗教や祭儀から考えて,それらの町には人々の数よりも多くの宗教があるに違いないと述べました。
28 古代の中国人は占いをどのように行ないましたか。
28 中国では,西暦前第2千年紀(殷王朝)以降の年代の神託用の骨や貝殻が10万点以上出土しました。殷朝の神官たちはそれらのものを使って,天気から部隊の行動に至るまであらゆる事柄に関して神の指導を求めました。神官たちはそれらの骨に古代の文字で疑問を書き,次いでその骨を熱し,現われたひび割れを調べて,その同じ骨に答えを書き記しました。中には,中国語の書体がこの古代の文字から発達したと考える学者もいます。
29 「易経」には,占いに関するどんな原理が説明されていますか。
29 占いに関する古代中国の最も有名な論文は「易経」で,西暦前12世紀に周の最初の二人の皇帝,文王および周公によって書かれたと言われています。「易経」には対立する二つの力である陰陽(つまり,暗と明,否定的と肯定的,女性と男性,月と太陽,地と天,その他)の相互作用が詳細に説明されており,多くの中国人は今でもこの陰陽が人生のあらゆる事柄の背後の支配的な原理であると信じています。この原理によれば,万物は常に変化しており,恒久的なものは一つもないという状況が示されています。どんな仕事にせよ,成功するには,あらゆる瞬間の変化を意識し,それに調和して行動しなければなりません。ですから,人々は疑問を述べて,くじを引き,次いで「易経」に答えを求めます。「易経」は何世紀にもわたって,易断や土占い,その他の形態の中国の占いすべての基礎となってきました。
天文学から占星術へ
30 初期の天文学の発達について説明してください。
30 太陽,月,恒星,および惑星間の秩序正しさは多年,地上の人々を魅惑するものとなってきました。西暦前1800年のものである恒星の一覧表がメソポタミアで発見されました。バビロニア人はそのような情報に基づいて,月食,星座の出没,および惑星のある種の運行などの天文学上の多くの事象を予言することができました。エジプト人,アッシリア人,中国人,インディアン,ギリシャ人,ローマ人その他の古代諸民族も同様に,空を観察して,天文学上の事象を詳しく記録しました。人々はそのような記録を使って暦を作り,年ごとの活動を規定しました。
31 占星術はどのようにして天文学から生まれましたか。
31 天文学上の観察を行なってゆくうちに,地上のある出来事が天界のある事象と同時に起きるように見えました。例えば,季節の変化は太陽の運行に密接に従っており,潮の干満は月の位相と一致しており,ナイル川は毎年必ず,最も明るい恒星シリウスが昇った後にはんらんしました。それで当然のこととして,天体が地上のそれらの,またその他の事象を引き起こす上で重要な役割を演じているという結論になりました。事実,エジプト人はシリウスのことをナイル川をもたらした者と呼びました。星が地上の出来事に影響を及ぼすという考えから,いち早く天体に頼って将来を予告できるという概念が生じました。こうして,天文学から占星術が生まれました。やがて,王や皇帝は重要な国事に関して星を調べるため,公式の占星術者を置きましたし,一般の人々も同様に自分たちの個人的な運勢に関して星に頼りました。
32 バビロニア人の間では占星術はどのように行なわれましたか。
32 ここでバビロニア人がまたもや登場しました。彼らは神殿が神々の地上の住まいであるように,星は神々の天の住みかであると考えました。こうして,恒星を種々の星座に分類する考え方をはじめ,特定の明るい星やすい星などの食や出現のような天界の変動は地上の不幸や戦争を予示するという信仰が生まれました。メソポタミアで出土した遺物の中には,占星術者が王たちに提供した何百もの報告が見つかりました。例えば,その中には,差し迫った月食はある敵が敗北を喫するしるしであり,ある星座に現われたある惑星は地上に“大いなる憤り”を招くことを意味するなどと述べた報告がありました。
33 イザヤはバビロニア人の「星を見る者たち」について何と言いましたか。
33 さらに,バビロニア人がそのような形態の占いにどれほど頼っていたかは,彼らに対してバビロンの滅亡を予告した預言者イザヤの次のような嘲笑の言葉からも分かります。「さあ,あなたのまじないと,あなたが若い時から労してきたそのおびただしい呪術とをもってじっと立て。……天を崇拝する者たち,星を見る者たち,新月の時にあなたに臨むことに関する知識を授ける者たち,さあ,彼らを立ち上がらせよ,あなたを救わせてみよ」― イザヤ 47:12,13。
34 幼子イエスのもとにやって来た“マギ”とはだれのことでしたか。
34 占星術はバビロンからエジプト,アッシリア,ペルシャ,ギリシャ,ローマ,およびアラビアに伝わりました。東方ではヒンズー教徒や中国人も手の込んだ独自の体系的な占星術を持っていました。福音宣明者マタイが伝えている,幼子イエスのもとにやって来た“マギ”は,「東方からの占星術者たち」でした。(マタイ 2:1,2)中には,これらの占星術者たちはパルチアから来た,占星術のカルデアおよびメディア・ペルシャ学派の人々だったのかもしれないと考える学者もいます。このパルチアはペルシャの一つの州でしたが,後に独立したパルチア帝国となりました。
35 ギリシャ人の時代以降,占星術はどのように発展しましたか。
35 しかし,占星術を今日行なわれているような形に発達させたのはギリシャ人でした。西暦2世紀に,エジプト,アレクサンドリアのギリシャ人の天文学者クラウディオス・プトレマイオスは占星術に関する当時のすべての情報を収集して,今日まで占星術の基本的なテキストとなっている,「テトラビブロス」(「四部書」の意)と呼ばれる書物を著わしました。この書物から,いわゆる出生占星術,つまり出生表,もしくはホロスコープ(十二宮図)を研究して人の将来を予言する体系的な方法が発達しました。その表は人の誕生の瞬間に出生地から見た種々の星座の間の太陽,月,および様々な惑星の位置を示すものです。
36 占星術が立派な学問になったことを示すどんな証拠がありますか。
36 西洋では十四,五世紀までに占星術が広く受け入れられるようになりました。大学では占星術が種々の言語や数学の実用的な知識を必要とする一学問として教えられ,占星術者は学者とみなされました。シェークスピアの作品は,人間社会の営みに対する占星術的な影響を示唆する言葉で満ちています。どこの王宮にも,いつでも相談できる私的な,おかかえの占星術者がおり,また多くの貴族もそうしていました。戦争,建築,事業,あるいは旅行その他,どんな企画であれ,まず星のことを考慮せずに物事を行なうことは,ほとんどありませんでした。占星術は立派な学問になっていました。
37 科学の進歩は占星術にどのように影響を及ぼしてきましたか。
37 科学的な研究の進歩と共に,コペルニクスやガリレオなどの天文学者の著書により,正統な科学としての占星術は大いに信用を落としましたが,今日まで生き延びてきました。(85ページの囲み記事をご覧ください。)バビロニア人により創始され,ギリシャ人の手で発達を遂げ,アラブ人によりさらに拡張を見た,この神秘的な技術は,科学技術の進歩した国々をはじめ,発展途上国のへき地の村々でも,一国の長に対してであれ,一般の人々に対してであれ,今日でも依然として影響を及ぼしています。
顔や手のひらに記されている運命
38 人間の手や顔に関係のある,さらに別の方法がどのようにして生じましたか。
38 将来に関するしるしや兆しを天に求める仕方にはつかみどころがないように思えるとすれば,占いに手を出す人々にとって,もっと直接的で,容易に近づき得る方法がほかにもあります。ユダヤ人の神秘主義に関する13世紀のテキストである「ゾハール」,もしくは「セフェル ハゾハール」(ヘブライ語,「光耀編」の意)はこう断言しています。「宇宙を包んでいる天空には,恒星や惑星によって作り出される多くの模様が見える。それらの模様は隠された事柄や深遠な秘密を明らかにする。同様に,人体を取り囲んでいる皮膚には,人体の星ともいうべき形や特徴がある」。このような原理から,顔や手のひらの予言的なしるしを調べて将来を占ったり,予告したりする,さらに別の方法が生まれました。洋の東西を問わず,このような慣行は依然として広まっています。しかし,その起源は占星術や魔術に根ざしています。
39 人相学とは何ですか。それはどのように用いられてきましたか。
39 人相学とは,目,鼻,歯,耳の形のような顔の特徴を調べて吉凶判断を行なう方法です。1531年にフランスのストラスブールでインダジンのジョンという人が目,鼻,耳その他の様々な形をした,生き生きとした顔の図版を載せ,解釈を述べた,人相学に関する本を出版しました。興味深いことに,その著者は,大きな明るい丸い目は忠誠と優れた健康を意味する一方,落ち込んだ小さい目はそねみや悪意や疑いのしるしであるという根拠として,マタイ 6章22節の,「それで,もし目が純一であれば,あなたの体全体は明るいでしょう」という,イエス・キリストの言葉を引用しました。ところが,1533年に出された「人相学概説」と題する同様の本の中で,著者バルトロメオ・コクレは,大きな丸い目は気まぐれで怠惰な人を表わすと主張しました。
40 (イ)手相術とは何ですか。(ロ)ある人々は手相術の裏づけを示そうとして,どのように聖書に訴えましたか。
40 易者たちによれば,頭部に次いで手は体の他のどんな部位よりも上からの力を反映させるものです。ですから,手の筋を見て,人の性格や運命を判断するのが,人気のある,もう一つの形態の占い,つまり手相術です。これは普通,単に手相占いと呼ばれています。中世の手相術者は自分たちの手相術の裏づけを聖書に求め,「彼すべての人の手を封じたもう。これすべての人にそのみ業を知らしめんがためなり」とか,「長き日々がその右の手にあり,その左の手には富と誉れとあり」というような聖句を提出しました。(ヨブ 37:7; 箴言 3:16,ジェームズ王欽定訳)手のひらの隆起部,つまり宮も考慮されました。なぜなら,それは惑星を表わしているため,当人個人とその将来についてある事柄を明らかにすると考えられていたからです。
41 東洋の人々は占いをどのように行なっていますか。
41 顔や手の特徴を研究して吉凶判断をすることは,東洋ではたいへん人気があります。職業的な易者や顧問が人々の便宜を図っているほかに,素人や自分で占いをする人たちも大勢います。なぜなら,占いに関するあらゆるレベルの出版物が広くどこでも入手できるからです。多くの場合,人々は娯楽の一環として手相占いに手を出しますが,これを真剣に行なう人々も少なくありません。しかし,普通,たった一つの占いの方法だけで満足する人はほとんどいません。人々は深刻な問題に直面したり,重大な決定に迫られたりすると,仏教,道教,神道その他どの宗教を奉じているにせよ,神社仏閣にお参りし,神々にお伺いを立て,次いで占星術者を訪ねて星運を見てもらい,易者に手相や人相を見てもらったりして,あげくの果てに家へ帰ると,亡くなった先祖に伺ったりします。自分たちにとってふさわしいと思える答えをどこかに見いだしたいと願うのです。
単なる無害な楽しみ?
42 人々は将来のことを知りたいという自然な欲求を抱いているために,何をするようになりましたか。
42 だれでも将来はどうなるのかを知りたいと思うのは当然なことです。また,どこの人でも幸運をつかみ,有害なことを避けたいと願うものです。だからこそ,どの時代の人々も霊や神々に導きを仰いできました。そして,そうする際に心霊術,魔術,占星術その他の迷信的な慣行に関係してきました。昔の人々は魔よけやお守りを着けて身の守りにしたり,いやしを求めて,祈とう師や魔術士に頼ったりしました。人々は今日でも依然として“聖”クリストフォルスのメダルを下げたり,“幸運”のお守りを身に着けたり,また降霊術の会に出たり,ウィジャ盤,水晶球,ホロスコープ(十二宮図),タロー・カードなどを所持したりしています。心霊術や迷信に関する限り,人間はほとんど変化していないようです。
43 (イ)多くの人々は心霊術や魔術や占いについてどのように感じていますか。(ロ)迷信的な慣行に関するどんな疑問に答える必要がありますか。
43 もちろん,前述のようなことは迷信にすぎず,それらには実際の根拠は何もないことに気づいている人々は少なくありません。それで,単なる楽しみのためにそうしているにすぎないと付け加えて言うかもしれません。ほかには,魔術や占いは,これに頼らないとすれば,生活で直面する障害のためにひどくおびえてしまいかねない人々に心理的な安心感を与えるので,実際には有益だと主張する人たちさえいます。しかし,それはすべて,単なる無害な楽しみ,もしくは心理的な助けでしょうか。この章で考慮した心霊術的で魔術的な慣行をはじめ,まだ指摘していない他の多くの慣行の源は一体何でしょうか。
44 基本的に言って,そのような慣行すべての基盤について何と言えるでしょうか。
44 心霊術や魔術や占いなどの様々な面をこれまで調べてみて,それらが故人の魂や善霊や悪霊が存在するという信仰と密接に結びついていることに気づきました。ですから,基本的に言って,霊や魔術や占いに対する信仰は,人間の魂の不滅性に関する教理に根ざす一種の多神教に基づいています。このような信仰は自分の宗教の健全な基盤と言えるでしょうか。読者はそのような土台に基づく崇拝を受け入れることができると思われますか。
45 1世紀のクリスチャンは偶像に供えられた食物に関するどんな疑問に直面しましたか。
45 1世紀のクリスチャンも同様の疑問に直面しました。当時のクリスチャンはギリシャ人やローマ人に囲まれていましたが,それらの人々は多くの神々を奉ずると共に,迷信的な儀式を行なっていました。その一つの儀式は,食物を偶像に供えてから,その食物を一緒に食べることでした。まことの神を愛して,その方を喜ばせることに関心を持つ人が,果たしてそのような儀式に参加したでしょうか。使徒パウロがこの疑問に対してどのように答えているかに注目してください。
46 パウロや初期のクリスチャンは神についてどんなことを信じていましたか。
46 「さて,偶像にささげられた食物を食べることについてですが,わたしたちは,偶像が世にあって無きに等しいものであること,また,神はただひとりのほかにはいないことを知っています。多くの『神』や多くの『主』がいるとおり,天にであれ地にであれ神と呼ばれる者たちがいるとしても,わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです」。(コリント第一 8:4-6)パウロや1世紀のクリスチャンにとって真の宗教とは多くの神々を崇拝すること,つまり多神教ではなく,「父なるただひとりの神」だけに専心することでした。聖書は,「それは,人々が,その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者であることを知るためです」と述べて,この神のみ名を明らかにしています。―詩編 83:18。
47 パウロは『天あるいは地の多くの神や多くの主』の正体をどのように明らかにしましたか。
47 しかし使徒パウロは,『偶像は無きに等しいものである』と述べたものの,人々が魔術や占いをしたり,犠牲をささげたりして頼った多くの「神」や多くの「主」は存在しないと言っているのではないということに注目しなければなりません。では,要点は何でしょうか。パウロは同じ手紙の後の箇所で,「諸国民が犠牲としてささげるものは,悪霊に犠牲としてささげるのであって,神にささげるのではない,と言うのです」と記して,その点を明らかにしています。(コリント第一 10:20)そうです,諸国民は自分たちの神々や多くの主を通して,実際には悪霊 ― まことの神に反逆して,自分たちの指導者,悪魔サタンと一体となったみ使い,つまり霊の被造物 ― を崇拝していました。―ペテロ第二 2:4。ユダ 6。啓示 12:7-9。
48 秘術に関係するどんな危険が今日でも依然として存在していますか。どうすれば,それを避けることができますか。
48 人々は迷信や恐れのとりこになった,いわゆる未開民族のことをしばしば哀れに思うものです。そして,血生臭い犠牲や残忍な儀式にうんざりさせられていると言います。それはもっともなことです。ところが,今日でも依然としてブードゥー教やサタン崇拝について,また人身供犠についてさえ耳にします。これらは極端な例かもしれませんが,それでも秘術に対する関心が依然として盛んであることを証明しています。それは“無害な楽しみ”として,また好奇心から始まるかもしれませんが,その結果,しばしば悲劇や死をもたらします。「冷静さを保ち,油断なく見張っていなさい。あなた方の敵対者である悪魔がほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしています」という聖書の警告に聴き従うのは,何と賢明なことでしょう。―ペテロ第一 5:8。イザヤ 8:19,20。
49 この本の以下の章では何が研究の対象になりますか。
49 これまでに,宗教の始まり,古代神話に見られる多様性,様々な形態の心霊術,魔術,および迷信を考慮してきましたから,今度は世界のより正式の主要な宗教 ― ヒンズー教,仏教,道教,儒教,神道,ユダヤ教,キリスト教世界の教会,およびイスラム教に注目してみましょう。それらはどのようにして始まりましたか。どんなことを教えていますか。また,信者にどんな影響を及ぼしますか。これら,および他の疑問が以下の章で考慮されます。
[76ページの拡大文]
ある魔術は効果を発揮するように思えました
[85ページの囲み記事]
占星術は科学的な手法ですか
占星術によれば,太陽,月,恒星,および惑星は地上の営みに影響を及ぼすことができ,人の誕生時のそれら天体の配置は人の生活の中である役割を演じるとされています。しかし,科学上の発見は占星術にとって侮り難い挑戦となっています。
■ コペルニクス,ガリレオ,およびケプラーなどの天文学者の研究により,地球は宇宙の中心ではないことが明確に実証されました。また,今では,ある星座の中にあるように見える恒星が多くの場合,実際には一つのグループに拘束されているのでないことが知られています。そのあるものは宇宙空間のはるかかなたにあり,他のものは比較的近くにあるようです。ですから,様々な星座の黄道十二宮上の特性は純粋に想像の産物です。
■ 天王星,海王星,および冥王星などの惑星は望遠鏡が発明されるまでは発見されなかったので,初期の占星術者には知られていませんでした。では,それより何世紀も前に作られた占星術用の図表は,それらの惑星の“影響”をどのように説明したのでしょうか。さらに,今日,科学的研究により,惑星はすべて基本的には無生物である岩石やガスの塊で,宇宙空間を猛烈な速度で飛んでいることが知られている以上,どうして惑星によってその“影響”に「善し悪し」があり得るのでしょうか。
■ 遺伝学は,人間の人格的特性が誕生時ではなく,父親からの何百万もの精子のうちの1個が母親からのたった1個の卵細胞と結合する受胎の時に形成されることを示しています。ところが,占星術によれば,人のホロスコープ(十二宮図)は誕生の瞬間により決められます。このような約9か月の相違のために,占星術の言葉で示される全く異なった性格が人に付けられるはずです。
■ 地球に限定された観測者から今見える,星座の間を通る太陽の運行のタイミングは,占星術の図表や時間表が作られた2,000年前のそれより約1か月遅れています。ですから,占星術によれば,6月末か7月初めに生まれた人は,かに座生まれの(非常に神経質で,むら気で,内気な)人とされます。ところが,実際には,その時点で太陽は双子座に位置しているので,その人は話し好きで,しゃれが上手で,おしゃべりな人であるはずです。
明らかに,占星術には土台とすべき,合理的,もしくは科学的な根拠がありません。
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割れた鏡,黒猫,およびある数は迷信の元となっています。「四」という漢字の一つの読み方は,中国語でも日本語でも「死」の読み方と同じです
[74ページの図版]
左はメキシコ,グアダルーペの聖母マリアのバシリカ聖堂で,ここでカトリック教徒は奇跡的ないやしを求めて祈ります。
右は英国のストーンヘンジで,ここでは古代のドルイドが太陽を崇拝したと言われています
[80ページの図版]
ある人々は魔術士や呪術医に診てもらいます
[81ページの図版]
他の人々は降霊術の会に出たり,ウィジャ盤,水晶球,タロー・カードを使ったり,易者に見てもらったりします
[82ページの図版]
べっ甲に記された文字や陰陽の記号を使う,東洋の占いには,長い歴史があります
[87ページの図版]
誕生時の太陽,月,惑星,および恒星の位置が人の生活に影響を及ぼすと考えて,ホロスコープ(十二宮図)を見てもらう人々は少なくありません
[90ページの図版]
帰依者は容器を振って,運勢を示す棒を出させ,お告げの言葉とその解釈を得ます
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ヒンズー教 ― 解放の道の探求神を探求する人類の歩み
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5章
ヒンズー教 ― 解放の道の探求
「ヒンズー教社会では,朝,まず最初に近くの川で,あるいは川や小川が近くになければ,家で水浴をするのが宗教上の習慣である。そうすれば神聖にされる,と人々は信じている。次いで,食事をせずに,地元の神殿にもうでて,花や食べ物を地元の神にささげる。中には,偶像を洗い,赤や黄色の粉を付けて,それを飾る人もいる。
「家族のお気に入りの神を崇拝する場所はほとんどすべての家の一隅にあり,そのための部屋のある家さえある。ある地方で人気のある神は,象の神ガネーシャである。とりわけ,この神は障害物を取り除く者として知られているので,人々はこの神に幸運を祈り求める。ほかには,クリシュナ,ラーマ,シバ,ドゥルガーその他の神々が専心の対象として第一の地位を占めているとされる所もある」― タラ・C,ネパール,カトマンズ。
1 (イ)ヒンズー教の幾つかの習慣について述べてください。(ロ)西洋人の人生観とヒンズー教徒のそれとが違う点を幾つか挙げてください。
ヒンズー教とはどんな宗教ですか。それは動物崇拝,ガンジス川での水浴,カースト制度による差別というような極端に単純化された単なる西洋的な概念ですか。あるいは,それ以上の事が関係していますか。確かに,そのとおりです。ヒンズー教は西洋の価値観とは全く異質の,人生に関する異なった理解の仕方に基づいた教えです。西洋人は人生を一連の年代的な出来事の歴史として考えます。ヒンズー教徒は人生を人間の歴史などほとんど重視されない,自ら反復を繰り返す,一種の循環と見ています。
2,3 (イ)ヒンズー教を定義するのはどうして困難な事柄ですか。(ロ)インドの一著述家はヒンズー教と多神教についてどのように説明していますか。
2 ヒンズー教を定義するのは容易なことではありません。それは,明確な信条も神官の階級制度も統治機関もないからです。しかし,スワーミー(教師)やグル(霊的な師)は確かにいます。ある歴史書はヒンズー教の一般的な定義について,「それは古代の(最も聖なる)経典であるベーダが編さんされて以来,今日まで出現した信仰や制度すべての複合体である」と述べています。別の歴史書は,「ヒンズー教はビシュヌ神,シバ神,あるいは女神シャクティ,もしくはその化身,相,配偶者,または子孫の信奉,もしくは崇拝であると言えよう」と述べています。このような定義には,ラーマやクリシュナ(ビシュヌの化身)やドゥルガー,スカンダ,およびガネーシャ(それぞれシバの妻ならびに子ら)の祭儀が含まれます。ヒンズー教には3億3,000万柱の神々があるとされていますが,それでもヒンズー教は多神教ではないと言われています。それはなぜでしょうか。
3 インドの著述家A・パルタサラティはこう説明しています。「ヒンズー教徒は多神教を信じているわけではない。ヒンズー教はただひとりの神について語る教えである。……ヒンズー教の万神殿の異なった神々や女神は,現象界の唯一最高神の力や機能の単なる表象にすぎない」。
4 “ヒンズー教”という言葉には,どれほど広い範囲の物事が含まれていますか。
4 ヒンズー教徒はしばしば自分たちの信仰のことを永遠の法,もしくは秩序を意味するサナタナ・ダルマと呼びます。実際,ヒンズー教aという言葉は,古代ヒンズー人の複雑な神話を背景として何千年もの期間に発達し,栄えた多数の宗教や宗派(サンプラダーヤ)を説明する,広い意味で使われる用語です。その神話は非常に複雑なので,「新ラルース神話百科事典」は,「インドの神話は植物の繁茂した,脱出不可能な密林であり,一度足を踏み入れるや,日の光もはっきりとした方向感覚も皆,消滅してしまう」と述べています。とはいえ,この章では,その信仰の特色や教えの幾つかを取り扱います。
ヒンズー教の古代のルーツ
5 ヒンズー教はどれほど広く行き渡っていますか。
5 ヒンズー教はほかのある主要な宗教ほど広く行き渡っていないかもしれませんが,それでも1990年までに,ほとんど7億人もの追随者,つまり世界人口のおよそ8分の1(13%)の人々の忠誠心を集めました。しかし,その大半の人々はインドにいます。それで,ヒンズー教はどのようにして,またなぜインドに集中するようになったのだろうかと問うのはもっともなことです。
6,7 (イ)一部の歴史家によれば,ヒンズー教はどのようにしてインドに達しましたか。(ロ)ヒンズー教は洪水伝説をどのように提供していますか。(ハ)考古学者マーシャルによれば,アーリア人が到来する以前のインダス渓谷では,どんな形態の宗教が行なわれていましたか
6 ヒンズー教のルーツは3,500年余の昔,北西方向から集団で移動して,今では主にパキスタンとインドに位置するインダス渓谷に下って来た,皮膚の色の薄いアーリア人である,と一部の歴史家は語っています。彼らはそこからガンジス川流域の平野に広がり,インドを横切って行きました。一部の専門家によれば,それら移住者の宗教的な考え方は古代イラン人やバビロニア人の教えに基づいていたと言われています。多くの文明に共通で,ヒンズー教にも見いだされる,一つの一貫した特徴は洪水伝説です。―120ページの囲み記事をご覧ください。
7 しかし,アーリア人が到来する以前のインダス渓谷では,どんな形態の宗教が行なわれていましたか。考古学者ジョン・マーシャル卿は,「ある彫像は妊娠した女性の小立像で,大半はハイカラーと頭飾りを着けた女性の裸体像である“大母神”」について述べ,「次は,両方の足の裏を合わせて(ヨーガの姿勢で)座り,陰茎を勃起させて(リンガ[男根]崇拝を思い起こさせる姿で),(“獣の主”というシバ神の別称を表わす)動物に囲まれた,“即座に歴史的なシバの原型と認められる男神”である。男根や外陰部を表わした石像はたくさんあり……それはシバとその配偶神のリンガとヨーニ[女陰像]崇拝を指し示している」と書いています。(「世界宗教 ― 古代から現代までの歴史」)シバは今日まで,豊じょうの神,つまり男根,もしくはリンガの神としてあがめられています。この神を運んでいるのは雄牛のナーンディーです。
8,9 (イ)ヒンズー教のある学者はマーシャルの説とどのように意見を異にしていますか。(ロ)ヒンズー教や“キリスト教”であがめられているものに関して,どんな反論がなされていますか。(ハ)ヒンズー教の聖典の基礎となっているのは何ですか。
8 ヒンズー教の学者スワミ・サンカラナンダはマーシャルの解釈と意見を異にして,あるものはシバリンガとして知られる,それらのあがめられた石は,元々,「空の火,つまり太陽,および太陽の火,つまり光線」の象徴であったと述べています。(「先史時代のリグベーダ・インダス文明」)そして,「性崇拝は……宗教的祭儀として始まったわけではない。それは後代の産物であり,元の祭儀の堕落したものなのである。自分たちが理解するには,つまり自分たちのレベルでは高尚すぎる理想を引き下げるのは人々である」と論じ,ヒンズー教に関する西洋人の批判に対する反論として,異教の男根の象徴である十字架がキリスト教であがめられていることからすれば,「クリスチャンは……性崇拝の信奉者である」と述べています。
9 時がたつにつれて,信条や神話やインドの伝説は書き記され,今日のヒンズー教の聖典が形成されました。それら聖なる著作は膨大なものですが,ヒンズー教の教理を統一する試みはなされていません。
ヒンズー教の聖典
10 ヒンズー教の最古の著作の幾つかを挙げてください。
10 最も古い著作は,リグ・ベーダ,サーマ・ベーダ,ヤジュル・ベーダ,およびアタルバ・ベーダとして知られる,祈りや賛歌を集大成したベーダです。これは数世紀にわたって作成され,西暦前900年ごろ完成されました。後に,ブラーフマナやウパニシャッドを含め,他の著作がベーダに付け加えられました。
11 (イ)ブラーフマナとウパニシャッドにはどんな相違点がありますか。(ロ)ウパニシャッドにはどんな教理が説明されていますか。
11 ブラーフマナは,家庭ならびに公共の儀式や供犠をどのように行なうべきかを明記し,その深い意味をたいへん詳しく述べており,西暦前300年ごろに書き記されました。また,ベーダンタとしても知られ,西暦前600年から同300年ごろに書き記されたウパニシャッド(文字通りには,「教師のそばの座席」)は,ヒンズー教哲学にしたがって,あらゆる思想や行動の理由を述べた論文です。これらの著作には,サンサーラ(魂の転生)やカルマ(業: 前世の所業が人の現世の状態の原因であるという信条)の教理が説明されています。
12 ラーマとはだれのことですか。その物語はどこにありますか。
12 別の一連の著作は,神々や女神をはじめ,ヒンズー教の英雄に関するヒンズー教の多数の神話を含むプラーナ,つまり寓話的な長編の物語です。また,ヒンズー教のこの膨大な書庫には,ラーマーヤナやマハーバーラタの叙事詩が含まれています。その最初の叙事詩はA・パルタサラティによれば,「聖伝文学に見られる登場人物すべてのうちで最も輝かしい存在……主ラーマ」に関する物語です。ラーマーヤナは,西暦前4世紀ごろの作品で,ヒンズー教徒にとって最も人気のある種々の著作の一つです。それはヒンズー教徒から模範的な息子,兄弟,および夫とみなされている英雄ラーマ,つまりラーマチャンドラの物語です。彼はビシュヌの七番目のアバターラ(化身)とされており,その名はしばしばあいさつの言葉として唱えられています。
13,14 (イ)ヒンズー教のある筋によれば,バガバッド・ギーターとは何ですか。(ロ)シュルティやスムリティは何を意味していますか。マヌ・スムリティとは何ですか。
13 クリシュナ心象国際協会の創設者バークティベダーンタ・スワミ・プラブーパーダによれば,「バガバッド・ギーター[マハーバーラタの一部]は道徳律に関する最高の教えである。バガバッド・ギーターの教えは宗教の最高の方法ならびに道徳律の最高の方法となっている。……ギーターの最後の教えは,クリシュナに身をゆだねよ,という道徳律や宗教全体に関する最後の言葉である」と言われています。―「バガバッド・ギーター」。
14 一部の人々から「インドの霊的な知恵の珠玉」とみなされているバガバッド・ギーター(神々しい歌)は,「最高の人格神,主シュリー・クリシュナと彼が自己開発という技術を教えた親友で帰依者であるアルジュナとの間の」戦場での会話です。とはいえ,バガバッド・ギーターはヒンズー教の膨大な聖なる書庫のほんの一部分にすぎません。そのような著作(ベーダ,ブラーフマナ,およびウパニシャッド)のあるものはシュルティ,つまり「聞かれた」ものとみなされ,それゆえ直接啓示された聖典と考えられました。叙事詩やプラーナなどの他の著作はスムリティ,つまり「記憶された」ものであり,したがって,啓示により得たにせよ,人間の著者によって作成されたものです。その一例は,カースト制度の基盤を説明するほかに,ヒンズー教の宗教的ならびに社会的な法について述べているマヌ・スムリティです。このようなヒンズー教の著作から幾つかのどんな信条が生まれましたか。
教えと行動 ― アヒンサー(不殺生)とバルナ(四姓)
15 (イ)アヒンサーの教えを定義し,ジャイナ教徒がそれをどのように適用しているかを説明してください。(ロ)ガンジーはアヒンサーの教えをどのようにみなしましたか。(ハ)シーク教徒はヒンズー教徒やジャイナ教徒とどのように異なっていますか。
15 他の宗教と同様,ヒンズー教にも,考え方や日常の行動に影響を及ぼす,ある基本的な概念があります。一つの際立った概念はアヒンサー,つまり非暴力です。この点で非常に有名なのは,マハトマ(大聖者)として知られたモハンダス・ガンジー(1869-1948年)です。(113ページの囲み記事をご覧ください。)この哲学に基づいて,ヒンズー教徒は他の生き物を殺傷しないことになっており,これが雌牛やへびやさるなどのある種の動物を崇敬する,一つの理由となっています。アヒンサーと命に対する敬意とを説くこの教えの厳格な唱道者は,(西暦前6世紀に創始された)ジャイナ教の追随者で,彼らははだしで歩き,どんな昆虫をも誤って呑み込まないようにするため,マスクを着用します。(104ページの囲み記事と108ページの写真をご覧ください。)これとは対照的に,シーク教徒は自分たちの戦士の伝承で知られており,この教徒の間の一般的な名字であるシングはライオンを意味しています。―100,101ページの囲み記事をご覧ください。
16 (イ)大抵のヒンズー教徒はカースト制度をどのように見ていますか。(ロ)ガンジーはカースト制度について何と言いましたか。
16 ヒンズー教の広く一般に知られている一面はバルナ,つまり社会を種々の階級に厳格に分けているカースト制度です。(113ページの囲み記事をご覧ください。)仏教徒やジャイナ教徒はこの制度を退けているものの,この制度のためにヒンズー教社会が依然として階層化されていることを認めないわけにはいきません。しかし,米国その他の場所で人種差別が存続しているのと同様,カースト制度はインド人の精神に深く食い込んでいます。それはある意味で,程度はさほどひどくないまでも,英国や他の国で今日,なお同様に見られる一種の階級意識なのです。(ヤコブ 2:1-9)ですから,インドの人は厳格なカースト制度の中に生まれるので,そこから逃れる道はほとんどありません。その上,普通のヒンズー教徒は逃れる道を求めようとはせず,その状況を前もって決められた,逃れられない人生の定め,つまり前世の自分の業,すなわちカルマの結果とみなします。それにしても,カースト制度はどのようにして始まったのでしょうか。ここでもまた,話をヒンズー教の神話に戻さなければなりません。
17,18 ヒンズー教の神話によれば,カースト制度はどのようにして始まりましたか。
17 ヒンズー教の神話によれば,元々人間の最初の父親の理想像であるプルシャの体の部位に基づく,四つの主要なカーストがありました。リグ・ベーダの賛歌はこう述べています。
「彼らがプルシャを分けた時,幾つの部分を作ったのか。
彼らはその口と両腕を何と呼んでいるか。その両股と両足を何と呼んでいるか。
その口はブラーフマナ[バラモン: 最高のカースト]で,その両腕からラジャナが作られた。
その両股はバイシャとなり,その両足からシュードラ[スードラ]が生み出された」―「世界の聖書」。
18 こうして,最高のカーストである,司祭僧のブラーフマナはプルシャの口,つまりその最高の部位から生じたと考えられました。統治,もしくは武人階級(クシャトリヤ,またはラジャナ)はその両腕から出て来ました。バイシャと呼ばれる,商人や農夫の階級は,その両股から生じました。それより低いカーストであるシュードラ,あるいはスードラ,つまり労働者階級は,体の一番低い部分である,その両足からできました。
19 ほかにどんなカーストが存在するようになりましたか。
19 何世紀もたつうちに,さらに低いカースト,つまり賤民,もしくは不可触賤民,あるいはマハトマ・ガンジーがもっと優しくハリジャン,つまり「ビシュヌ神に属する人たち」と呼んだ人々が存在するようになりました。1948年以来,インドの不可触賤民の身分は法律で禁じられましたが,不可触賤民はいまだに非常に苦しい生活に甘んじています。
20 カースト制度には,ほかにどんな面がありますか。
20 やがて,インド社会のほとんどすべての職業や職人制度に合うカーストができたため,その数は増大しました。あらゆる人をそれぞれの社会的な地位に引き止めておく,この古来のカースト制度は,実際には人種的な制度でもあって,「[明るい色の皮膚の]アーリア人として知られる種族から,[暗い色の皮膚の]前ドラビダ人の種族に至るまで種々様々な人種を含んで」います。バルナ,つまりカーストは「色」という意味で,「最初の三つのカーストはアーリア人,つまり最もきれいな民族であり,暗い色の皮膚の原住民で構成されている四番目のカーストは非アーリア人である」とされています。(「神話伝説双書 ― インド」,ドナルド・マッケンジー著)カルマという宗教上の教えで強化されたカースト制度のために,何億もの人々が果てしない貧困と不公正のうちに閉じ込められているのは,インドの生活の一つの事実です。
人を失望させる存在の循環
21 ガルーダ・プラーナによれば,カルマは人の運命にどのように影響を及ぼしますか。
21 ヒンズー教徒の倫理や行為に影響を及ぼす,もう一つの根本的な信条で,最も重要なものの一つは,カルマの教えです。これは,行為はすべて,肯定的,あるいは否定的な結果をもたらすという原理で,転生した,もしくは輪廻した魂の各々の存在を定めます。それはガルーダ・プラーナが次のように述べているとおりです。
「人は自分自身の運命の作り手であるが,胎児の生活の時でさえ,前世の業の力の影響を受ける。人は山塞に閉じこもろうと,海に浮かんで静かにしていようと,母親のひざにしっかり抱かれていようと,母親の頭上に高く差し上げられていようと,自分自身の以前の所業の結果を免れて逃げ去ることはできない。……何であれ,ある特定の年齢,あるいは時に人に起きる予定の事柄は,その時,またその日に必ず当人に追いつくものである」。
ガルーダ・プラーナはさらにこう続けています。
「人が生前に得た知識,前世で慈善のためにただで与えた富,および以前の化身の際に行なった業は,寄留しているその魂よりも先へ進んで行く」。
22 (イ)死後の魂にとって選択の余地があるかどうかに関して,ヒンズー教とキリスト教世界の見解にはどんな相違がありますか。(ロ)聖書は魂に関して,どんなことを教えていますか。
22 この信条は何に依存していますか。カルマの教えにとって肝要なのは霊魂不滅の考え方で,魂に関するヒンズー教徒の見解をキリスト教世界のそれと異にしているのは,このカルマです。ヒンズー教徒は,各人の魂,ジーバ,もしくはプラーンbは何度も輪廻を経験し,そして多分,“地獄”をも通って行くと考えています。魂は,ブラーフマナ,あるいはブラーマン(ヒンズー教の神ブラフマーと混同しないこと)とも呼ばれる“最高の実在者”と結合するために努力しなければなりません。一方,キリスト教世界の教理によれば,教派によって,魂には天国,地獄,煉獄,もしくはリンボを選択する余地があります。―伝道の書 9:5,6,10。詩編 146:4。
23 カルマはヒンズー教徒の人生観にどのように影響を及ぼしていますか。(ガラテア 6:7-10と比較してください。)
23 カルマを信ずる結果,ヒンズー教徒は宿命論的な見方をする傾向があります。人の現在の身分や状態は前世の業の結果ですから,それは善かれ悪しかれ,当然の報いであると考えます。ヒンズー教徒はより良い記録を作るよう努力すれば,次の世での生活をもっと耐えやすいものにすることができます。ですから,西洋人よりももっと容易に自分の宿命を甘受します。ヒンズー教徒はそれをすべて,前世の業との関係における因果の法則の働きと見ます。それは想像上の前世で自分のまいたものを刈り取るという原理です。もちろん,このすべては,人間には,人間,動物,あるいは植物のいずれであれ,別の形の命に移って行く不滅の魂があるという前提に基づいています。
24 解脱とは何ですか。ヒンズー教徒はどのようにして解脱を達成できると考えていますか。
24 では,ヒンズー教信仰の究極の目標は何ですか。それは,再生と様々な存在を繰り返す過酷な運命の車輪から解放される,もしくは自由にされることを意味する解脱(モクシャ)を達成することです。ですから,それは,肉体を備えた存在から,体のためではなく,“魂”のために脱出することです。「長い一連の輪廻からの解脱,もしくは解放がヒンズー教徒すべての目標であるゆえ,人生の最大の出来事は実に死なのである」と,ある解説者は述べました。解脱は,様々なマールガ,つまり道に従うことによって達成できます。(110ページの囲み記事をご覧ください。)この宗教的な教えの多くの部分は,霊魂不滅という古代のバビロン的な概念に何と堅く結びついているのでしょう。
25 命に関するヒンズー教の見方は聖書の見解とどのように異なっていますか。
25 それにしても,聖書によれば,肉体的命をこのように侮り,軽べつすることは,人類に対するエホバ神の本来の目的に全く反しています。エホバ神は最初の人間の夫婦を創造した時,二人が地上で幸福と喜びのうちに生存するよう,お定めになりました。聖書の記述はこう述べています。
「そうして神は人をご自分の像に創造してゆき,神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。さらに,神は彼らを祝福し,神は彼らに言われた,『子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ』。……そののち神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」。(創世記 1:27-31)
聖書は地に平和と公正がもたらされる時代,つまり各々の家族が自分自身のきちんとした住まいを持ち,完全な健康と命が人間の永遠の定めとなる時代が迫っていることを預言しています。―イザヤ 65:17-25。ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-4。
26 今や,どんな疑問が答えを必要としていますか。
26 次に答えを必要とする疑問は,ヒンズー教徒が良いカルマを達成するために喜ばせなければならない神々とはだれかということです。
ヒンズー教の神々の万神殿
27,28 (イ)ヒンズー教のトリムールティを構成しているのはどの神々ですか。(ロ)その各々の妻,もしくは配偶者はだれですか。(ハ)ヒンズー教の他の幾柱かの神々や女神の名を挙げてください。
27 ヒンズー教には何億柱もの神々があると言われていますが,実際に礼拝されているのは,ヒンズー教内の様々な分派にとって注目の的になった,幾柱かのお気に入りの神々です。最も際立った神々のうちの三柱は,ヒンズー教徒がトリムールティと呼んでいる,三位一体,つまり三つ組の神々の中に含まれています。―ヒンズー教の他の神々については,116,117ページの囲み記事をご覧ください。
28 この三つ組の神々は創造者ブラフマー,維持者ビシュヌ,および破壊者シバで構成されており,その各々は少なくとも一人の妻,もしくは配偶者を持っています。ブラフマーは知識の女神サラスバティーと結婚しています。ビシュヌの妻はラクシュミーです。一方,シバの最初の妻はサティでしたが,彼女は自殺しました。彼女は犠牲の火に身を投じた最初の女性だったので,最初の殉死寡婦となりました。以来,何世紀もの間にヒンズー教徒の幾千人もの未亡人が神話上の彼女の模範に倣って,夫を火葬にする積みまきの上で我が身を犠牲にしました。もっとも,この慣行は今では法律で禁じられています。シバにはまた,幾つかの名や称号で呼ばれる,もう一人の妻がいます。優しい姿の彼女はパールバティー,およびウマー,それに金色の方ガウリーとして知られていますが,ドゥルガーやカーリーと呼ばれる彼女は怖い女神です。
29 ヒンズー教徒はブラフマーのことをどのようにみなしていますか。(使徒 17:22-31と比較してください。)
29 ブラフマーはヒンズー教の神話の中心的な存在ですが,普通のヒンズー教徒から崇拝される重要な地位を占めているわけではありません。創造者ブラフマーと呼ばれてはいるものの,実際,この神に奉献された神殿はごくわずかしかありません。しかし,ヒンズー教の神話では,物質宇宙の創造の業が最高の存在,最高の源,もしくは最高の実在,つまりOM,あるいはAUMという聖なる音節文字で特定されているブラフマン,もしくはブラーマンに割り当てられたとされています。この三つ組の神々の三柱すべては,その絶対存在の一部と考えられ,他の神々すべてはその異なった姿で現われたものとみなされています。それで,どの神が最高神として崇拝されるにせよ,その神はすべてを包含する存在と見られています。ですから,ヒンズー教徒は幾億柱もの神々を公然と崇敬していますが,大抵の人は,男性,女性,あるいは動物をさえ含め,数多くの姿を取ることができる,唯一まことの神を認めています。そのようなわけで,ヒンズー教の学者は,ヒンズー教は多神教ではなく,実際には一神教であると即答します。しかし,後代のベーダ思想では,絶対者という概念は捨てられ,非人格的な神聖な原理,もしくは実体で置き換えられています。
30 ビシュヌの権化の幾つかを挙げてください。
30 太陽や宇宙の慈悲深い神ビシュヌは,ビシュヌ派の追随者にとって崇拝の対象として中心的な存在となっています。この神はラーマ,クリシュナ,および仏陀を含め,十の権化,もしくは化身となって現われます。c もう一つの権化はビシュヌ・ナーラーヤナで,これは,「その足もとに座している妻,女神ラクシュミーと共に宇宙の海原に浮かんで,とぐろを巻いた蛇シェーシャ,もしくはアナンタの上で眠っている人間の姿で表わされており,一方,神ブラフマーはビシュヌのへそから生えているハスから起き上がっている」とあります。―「世界宗教百科事典」。
31 シバとはどんな神ですか。
31 普通,マヘーシャ(最高の主),およびマハーデーバ(偉大な神)と呼ばれているシバは,ヒンズー教第二の最大の神で,この神を崇拝する分派がシバ派と呼ばれています。この神は,「偉大な苦行者,ヒマラヤ山麓に座って瞑想にふけるヨーガ修業者の師」として説明されており,また「豊じょうをもたらす,最高の造物主マハーデーバとしての色情的性格」でも有名です。(「世界宗教百科事典」)シバはリンガ,つまり男根像を用いて崇拝されています。―99ページの写真をご覧ください。
32 (イ)女神カーリーはどんな姿をしていますか。(ロ)英語のある言葉は,どのようにこの女神の崇拝に由来していますか。
32 他の多くの世界宗教と同様,ヒンズー教にも魅力的な,あるいは恐ろしい存在ともなり得る,最高の女神がいます。気持ちのよいほうの姿をしたこの女神はパールバティー,およびウマーとして知られています。そのものすごい性格は,血の犠牲を喜ぶ,血に飢えた女神ドゥルガー,もしくはカーリーとして表わされています。また,母神カーリー・マー(黒い地の母)でもあるこの女神はシャクティ派の主神で,死骸やへびや頭がい骨の飾りを着けた,腰まで裸の姿で描かれています。昔,タギとして知られた信者たちにより絞殺された人間の犠牲者がこの女神にささげられたので,英語の“thug”(「殺し屋」)という言葉がこのタギという語から来ました。
ヒンズー教とガンジス川
33 ガンジス川はヒンズー教徒にとってなぜ神聖な川ですか。
33 ヒンズー教の神々の万神殿について語るには,その最も神聖な川 ― ガンジス川 ― に触れないわけにはゆきません。ヒンズー教の神話の多くは,敬虔なヒンズー教徒がガンガー・マー(母なるガンガー)と呼ぶ,ガンジス川と直接関係しています。(123ページの地図をご覧ください。)ヒンズー教徒は,この川の108もの異なった名称を含んでいる祈りの言葉を暗唱しています。ガンジス川がヒンズー教徒からそれほどあがめられているのはなぜでしょうか。それは,この川が人々の日々生き延びる努力や彼らの古代の神話とたいへん密接に結びつけられているからです。ヒンズー教徒はこの川がかつて天の川として天にあったと考えています。では,どのようにして一筋の川になったのでしょうか。
34 ヒンズー教の神話のある説明によれば,ガンジス川はどのようにして存在するようになりましたか。
34 多少の相違はありますが,大抵のヒンズー教徒はこう説明するようです。マハーラージャ・サガラには6万人の息子がいましたが,ビシュヌの現われであったカピラの火で殺されてしまいました。女神ガンガーが彼らの魂を清めて,呪いを解くために天から下って来ない限り,その魂は地獄に行くはめに陥りました。すると,サガラのひ孫バギーラタが,神聖なガンガーが地に降りて来るのを許してもらうようブラフマーに執り成しました。ある記述はさらにこう続いています。「ガンガーはこう答えた。『わたしはあまりにも力のある奔流なので,地の土台を粉々に壊すかもしれません』。そこで,[バギーラタ]は千年間罪滅ぼしの苦行をした後,すべての苦行者のうちの最大の苦行者シバ神のもとに行き,ヒマラヤの岩と氷の中で地の上方に高く立っていただくよう説得した。シバは頭の上で髪をむしろ状に編み上げており,ガンガーが天空から岩の中に大音響を立てて落下するのを許し,その岩は地を脅かすような衝撃を静かに吸収した。その後,ガンガーはちょろちょろと静かに地に流れ出て,山々から流れ下り,平野を横切って,水,すなわち命を乾いた地にもたらした」―「大洋から天空へ」,エドマンド・ヒラリー卿著。
35 ビシュヌの追随者はこの川がどのようにして存在するようになったと説明しますか。
35 ビシュヌの追随者はガンジス川がどのようにして始まったかを多少違った仕方で説明します。古代の本文ビシュヌ・プラーナによれば,彼らの説明は次のとおりです。
「この地域[ビシュヌの聖なる座]から,すべての罪を除き去るガンジス川が流れ出る。……彼女はビシュヌの左足の親指のつめから出ている」。
あるいは,ビシュヌの追随者はサンスクリット語でこう言います。「ビシュヌ・パダブジャ・サンブータ」。これは,「ビシュヌのハスのような足から生まれた」という意味です。
36 ガンジス川の水の効力について,ヒンズー教徒はどんなことを信じていますか。
36 ヒンズー教徒は,ガンジス川には信者を解放し,浄化し,清め,いやす効力があると信じています。ビシュヌ・プラーナはこう述べています。
「この川の水で沐浴することにより浄められ,ケサバ[ビシュヌ]に専心している聖人は,最終的に解放される。この神聖な川について人々が聞き,これを求めたり,見たり,触れたり,そこで沐浴したり,あるいはこれを賛美したりすれば,この川は日々すべての人間を浄める。また,遠くに住んでいる者たちでさえ……『ガンガー,ガンガー』と唱えれば,三代前の前世まで犯した罪から解かれる」。
ブラーフマンダプラーナはこう述べています。
「ガンガーの浄い流れで,真心をこめて一度沐浴する者たち,その部族はガンガーにより,何十万回もの危険から守られる。幾世代にもわたって蓄積された悪も滅ぼされる。人はガンガーで沐浴するだけで,直ちに浄められるのである」。
37,38 何百万ものインド人がガンジス川に群がるのはなぜですか。
37 インド人は花をささげたり,祈りを唱えたり,司祭僧からティラク,つまり額に付ける赤や黄色の印をもらったりして,プージャー,つまり礼拝をするため,この川に群がり,それから水浴するために歩いて水の中に入って行きます。水は下水や化学物質や死体などでひどく汚染されていますが,多くの人々はその水を飲みます。ガンジス川にはそれほど霊的な魅力があるため,水が汚染されていようといまいと,何百万ものインド人の念願は,自分たちの“聖なる川”で少なくとも一度は沐浴することなのです。
38 中には,愛する人の遺体を川辺に運び,積みまきの上で火葬にして,その灰を川にまき捨てる人もいます。そうすれば,故人の魂には永遠の至福が保証されると考えられています。あまり貧しくて火葬用の積みまきを買えない人々は,白い布で覆われた遺体をそのまま川に流し,死体は腐肉を食べる鳥に襲われるままに,あるいはただ腐れるままにされます。このことから,すでに考慮した事柄に加えて,ヒンズー教は死後の命について何と教えているのだろうかという疑問が生じます。
ヒンズー教と魂
39,40 ヒンズー教の一注解者は魂について何と述べていますか。
39 バガバッド・ギーターは次のように述べて,一つの答えを与えています。
「肉体を与えられた魂がこの体の中で,少年時代から青年時代へ,そして老年時代へと移行し続けるように,人が死ぬ時,魂は別の体に移って行く」― 2章13節。
40 一ヒンズー教徒はこの節についてこう注解しています。「すべて生きて存在しているものは一個の魂であるゆえ,その各々はあらゆる瞬間に体を変えて,ある時は子供,ある時は青年,ある時は老人として現われる。しかし,同じ霊なる魂があって,それは何ら変化しない。この個々の魂は一つの体から別の体へと転生し,ついにはその体そのものを変える。魂は次に生まれ変わる時,確かに ― 物質的なもの,あるいは霊的なものであれ ― 別の体を持つので,死のためにアルジュナが嘆く理由はなかった」。
41 聖書によれば,魂に関してどんな相違点を区別しなければなりませんか。
41 この注解の中の「すべて生きて存在しているものは一個の魂である」という言葉に注目してください。この言葉は聖書が創世記 2章7節で次のように述べている事柄と合致しています。
「それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった」。
しかし,ある重要な相違点を区別しなければなりません。人はすべての機能や能力を備えた,生きた魂ですか。それとも,身体的な機能とは別個の魂を持っていますか。つまり,人は魂ですか。それとも,魂を持っていますか。次の引用文はヒンズー教の概念をはっきり示しています。
42 魂に関する理解の点で,ヒンズー教と聖書の教えはどのように異なっていますか。
42 バガバッド・ギーターの2章17節はこう述べています。
「体全体に行き渡っているのは,破壊できないものである。不滅の魂を滅ぼすことはだれにもできない」。
次いで,この句はこう説明されています。
「体はいずれも皆,個々の魂を持っており,魂があることを示すしるしは個人的な意識であると考えられる」。
ですから,聖書によれば,人間は魂ですが,ヒンズー教の教えによれば,人は魂を持っています。それで,ここに,これらの見方の結果として生じた教えに非常な影響を及ぼしている大きな相違点があります。―レビ記 24:17,18。
43 (イ)霊魂不滅の教えの起源はどこにありますか。(ロ)その帰結となっているのはどんな教えですか。
43 霊魂不滅に関する教えは,結局のところ,古代バビロンの宗教知識という,よどんで腐った水の池に由来します。この教えは必然的に,多くの宗教の教えの特色とされる輪廻,天国,地獄,煉獄,リンボなどの“死後の生命”という考えに基づく教えにつながります。特に興味深いのは,地獄に関するヒンズー教の概念です。
地獄に関するヒンズー教の教え
44 ヒンズー教が責め苦を意識する地獄について教えているということは,どうして分かりますか。
44 バガバッド・ギーターのある句はこう述べています。
「ヤナールダナよ,家族のおきてが破られるならば,人々は確かに地獄に住むことになる」― 1章44節,「ハーバード・オリエント双書」,第38巻,1952年。
ある注解はこう述べています。「地上の生活で非常に罪深い者たちは,地獄のような惑星で様々な処罰を受けなければならない」。しかし,キリスト教世界の永遠の地獄の火とは微妙に違う面があり,「この処罰は……永遠のものではない」と記されています。では,厳密に言って,ヒンズー教の地獄とはどんな所ですか。
45 ヒンズー教の地獄の責め苦はどのように描写されていますか。
45 マールカンデーヤ・プラーナの一節は,罪人の運命について次のように説明しています。
「その後,ヤマ[死者の神]の密使たちが恐ろしいわなで彼を素早く縛り,むちで打たれることにおびえる彼を南のほうに引いて行く。それから,彼はヤマの密使たちにより引いて行かれ,クサー[植物],いばら,あり塚,ピンや石などがあって起伏が多く,所々炎で真っ赤に燃えていたり,坑だらけになっていたり,太陽の熱で燃え立っていたり,陽光で燃えていたりする地面を通りながら,恐ろしい不吉な悲鳴を上げる。罪人は恐ろしい密使たちにより引いて行かれ,何百匹ものジャッカルに食べられながら,恐ろしい道を通ってヤマの家に行く。……
「その体が焼かれると,彼は極めて激烈な感覚を経験する。そして,体を打たれたり,切られたりすると,大変な痛みを感ずる。
「こうして,体が滅ぼされると,その者は歩いて別の体に入って行くが,自分自身の有害な行為のゆえに永遠の苦悩に遭う。……
「その後,罪を洗い流してもらうため,もう一つのそのような地獄に連れて行かれる。罪人はすべての地獄を通った後,獣のような生き物の姿になる。次いで,うじ,昆虫,はえ,猛獣,ぶよ,象,樹木,馬,雌牛などを経て,他の様々な罪深い惨めな生き物をも経て人間となる時,せむしか醜い人,あるいは小人,もしくはチャンダーラ・プッカーサとして生まれる」。
46,47 聖書は死者の状態について何と述べていますか。どんな結論を引き出せますか。
46 この説明と聖書が死者について次のように述べている事柄とを比較してみてください。
「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである」― 伝道の書 9:5,6,10。
47 もちろん,聖書が述べているように,人間は魂を持っているのではなく,魂であるとすれば,死後,意識を持って存在することはありません。至福もありませんし,苦しむこともありません。“あの世”に関する不合理で厄介な事態はすべて消えうせます。d
ヒンズー教の対抗者
48,49 (イ)復習として,ヒンズー教の教えを幾つか挙げてください。(ロ)一部の人々はなぜヒンズー教の妥当性を疑問視してきましたか。(ハ)ヒンズー教思想に挑戦したどんな人が現われましたか。
48 こうして,ヒンズー教について手短ながら考察したところからすれば,これは一神教に基づく多神教,つまり音節文字OM,もしくはAUMで表わされるブラーフマナ,つまり最高の存在,最高の源,もしくは最高の実在とその様々な面,あるいは現われを伴う信仰であることが分かります。それはまた,寛容を説き,動物を優しく扱うことを勧める宗教です。
49 一方,カルマやカースト制度の不公正,それに偶像崇拝や神話に見られる不一致などのヒンズー教の幾つかの要素のために,一部の考え深い人々はこの信仰の妥当性を疑問視してきました。そのような疑問を抱いた人の一人が西暦前560年ごろ,インド北東部に現われました。その人とはガウタマ・シッダールタでした。彼は一つの新しい信仰を確立しました。その教えはインドでは栄えませんでしたが,次の章で説明されているように,ほかの場所で盛んになりました。その新しい信仰は仏教でした。
[脚注]
a ヒンズー教という名称はヨーロッパで考案されたものです。
b サンスクリット語のアートマンの訳語は多くの場合,「魂」ですが,「霊」のほうが,もっと正確な訳語です。―「ヒンズー教辞典 ― 神話,民間伝承,およびその発展,紀元前1500年-紀元1500年」,31ページ,ならびにニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会が1986年に発行した小冊子,「死に対する勝利 ― それはあなたにも可能ですか」(英文)をご覧ください。
c 十番目の将来の権化は,「四方八方に死と破壊を降り注がせる,流星のような剣を持って,大きな白馬に乗った堂々たる青年として描かれている」,カールキー・アバターラの権化です。「その到来により,義が地上に再び確立され,清浄と無垢の時代が戻り」ます。―「インドの宗教」,「ヒンズー教辞典」。―啓示 19:11-16と比較してください。
d 死者の復活に関する聖書の教えは,霊魂不滅の教理と何の関係もありません。10章をご覧ください。
[100,101ページの囲み記事/図版]
シーク教 ― 改革宗教
三振りの剣と一つの輪で象徴されるシーク教は,1,700万以上の人々の奉じる宗教で,そのほとんどはパンジャブ州に住んでいます。人工湖の中に据えられている,シーク教の黄金寺は,シーク教の聖都アムリツァールにあります。シーク教徒の男子は青,白,あるいは黒のターバンで,容易にそれと分かります。その着用は,頭髪を長く伸ばすのと同様,彼らの宗教上の主要な慣行の一つとされています。
ヒンディー語のシクとは,「弟子」という意味です。シーク教徒は創始者グル・ナーナクの弟子で,10人のグル(ナーナクと9人の後継者)の教えの追随者です。その教えはシーク教の聖典,グル・グラント・サーヒブに収められています。この宗教は,グル・ナーナクがヒンズー教とイスラム教の最良の部分を取って,合同宗教を作ろうとした西暦16世紀初頭に始まりました。
ナーナクの布教の主旨はかいつまんで言えば,「ただひとりの神がおられ,その方はわたしたちの父であられるゆえに,わたしたちはすべて兄弟でなければならない」ということです。イスラム教徒と同様,シーク教徒もただひとりの神を信じており,偶像の使用を禁じています。(詩編 115:4-9。マタイ 23:8,9)彼らは不滅の魂,輪廻,およびカルマを信ずる,ヒンズー教の伝承に従っています。シーク教の礼拝場はグルドワーラーと呼ばれています。―詩編 103:12,13; 使徒 24:15と比較してください。
グル・ナーナクの偉大な戒めの一つは,「常に神を覚えて,そのみ名を復唱しなさい」という言葉です。神のことは「真実な方」と言われていますが,名は述べられていません。(詩編 83:16-18)もう一つは,「自分のもうけるものを不運な者と分かち合いなさい」という戒めです。これと調和して,シーク教の寺院にはどこでも,ランガル,つまり無料の台所があって,そこではどんな人でも無料で食べられます。旅人が泊まれる無料の部屋さえあります。―ヤコブ 2:14-17。
最後のグル,ゴービンド・シング(1666-1708年)はカールサと呼ばれるシーク教徒の友愛団体を設立しました。その団員は五つのKとして知られる教えに従いました。その頭文字で始まる言葉は次のとおりです。kesh,調髪をしない髪,霊性の象徴; kangha,髪に差したくし,秩序と修業の象徴; kirpan,剣,威厳・勇気・自己犠牲のしるし; kara,鋼鉄の腕輪,神との一致の象徴; kachh,下着用パンツ,道徳的抑制の象徴として着用された,慎みのしるし。―「世界宗教百科事典」,269ページをご覧ください。
[図版]
インド,パンジャブ州,アムリツァールのシーク教の黄金寺
[図版]
青いターバンは偏見のない,空のように広い精神を表わす
白いターバンは模範的な生活を営む聖人のような人を意味する
黒いターバンは1919年にシーク教徒が英国から受けた迫害を思い出させる
他の色は好みの問題
[図版]
儀式的な展示の際,シーク教の僧は神聖な武器の由来を述べる
[104ページの囲み記事/図版]
ジャイナ教 ― 自己否定と非暴力の宗教
古代インドの卍印で表わされるこの宗教は,インド人の裕福な王子ナータプッタ・バルダマーナにより西暦前6世紀に創始されました。同王子はバルダマーナ・マハービーラ(「偉人」,もしくは「偉大な英雄」という意味の称号)の名でもっとよく知られています。彼は自己否定と苦行の生活をするようになり,知識を求めて裸で出かけて,「誕生,死,および再生の循環からの解放を求めて,中央インドの村々や各地の平野を巡り」ました。(「人間の宗教」,ジョン・B・ノス著)彼は極端な自己否定と自己鍛錬,およびアヒンサー,つまりあらゆる生き物に対する非暴力の厳格な実践によってのみ魂を救済できると考えました。そして,歩く道にいるかもしれない何らかの昆虫を静かに掃いて取り除くことができるよう,柔らかなほうきを携えるほど極端にアヒンサーを当てはめようとしました。また,そのように命を尊重したのは,自分自身の魂の清浄さと忠誠さを守るためでもありました。
今日,その追随者は自分たちのカルマを改善する努力の一環として,自己否定に徹し,他のすべての生き物を尊重する同様の生活を送っています。ここでもまた,霊魂不滅に対する信仰が人間の生活に強力な影響を及ぼしていることが分かります。
今日,この宗教の信者は400万人近くいますが,そのほとんどはインドのボンベイやグジャラート地方に住んでいます。
[図版]
インド,カルナータカにある聖ゴマテスワラの高さ17㍍の像の足もとで礼拝するジャイナ教徒
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ヒンズー教用語の簡単な手引き
アーシュラム ― 聖堂,もしくはグル(霊的な師)の教える場所
アートマン ― 霊; 不死のものと結びつけられており,しばしば魂と誤訳されている。「ジーバ」の項をご覧ください
アバターラ ― ヒンズー教の神が姿を取って現われたもの,つまり化身
アヒンサー ― 非暴力; 何ものも殺傷しないこと。ヒンズー教の菜食主義および動物尊重の基盤
ウパニシャッド ― 初期ヒンズー教の神聖な詩書。また,ベーダ巻末のベーダーンタとしても知られている
OM,AUM ― 瞑想にふける時に使われる,ブラーフマナを表わす象徴的な文字; その響きは神秘的な霊気とみなされ,神聖なマントラとして使われる
ガート ― 川辺の階段,もしくは踊り場
カルマ ― 行為はすべて,転生する魂の次の世での肯定的,あるいは否定的な結果を招くという原理
クシャトリヤ ― 専門職,統治,および武人階級で,カースト制度第二の階級
グル ― 教師,もしくは霊的な師
サードゥー ― 聖者; 苦行者,もしくはヨーギ
サンサーラ ― 永遠不滅の魂の転生
ジーバ(もしくはプラーン,プラーニ)― 個人の魂,もしくは存在
シャクティ ― 女性の性力,もしくは神の妻,特にシバ神の配偶者
ジャパ ― 神名の一つを繰り返し唱えてなされる礼拝; 回数を数えるために,マラ,つまり108個の数珠玉のあるロザリオ(数珠)が使われる
シュードラ(スードラ)― 主要な4カーストのうちの最も低い労働者階級
シュラッダー ― 先祖をたたえ,故人の魂がモクシャに達するのを助けるために執り行なわれる重要な儀式
スワーミー ― 教師,もしくは高位の霊的な師
ダルマ ― 万物の究極的な法; 行為の正邪を決める規範
ティラク ― 自分のすべての活動で主を覚えていることを表わす,額の印
トリムールティ ― ブラフマー,ビシュヌ,およびシバで構成されるヒンズー教の三つ組の神
バイシャ ― 商人や農夫階級; カースト制度第三のグループ
バクティ ― 救いをもたらす,神への専心
パラマートマン ― 世界霊,普遍的なアートマン,もしくはブラーフマナ
ハリジャン ― 不可触賤民の成員; マハトマ・ガンジーが同情して彼らに付した名称で,「神に属する人々」の意
ビンディ ― 既婚女性が額に付ける赤い印
プージャー ― 礼拝
ブラーフマナ(バラモン)― カースト制度最高の司祭僧階級; 同時に究極的実在者。116ページをご覧ください
ベーダ ― ヒンズー教最初期の神聖な詩書
マーヤー ― 幻想としての世界
マハトマ ― 高い,あるいは偉大なの意のマハと霊の意のアートマンから来た語で,ヒンズー教の聖人
マハント ― 聖なる人,もしくは教師
マントラ ― 魔術的な効力があるとされる神聖な祭文で,ある宗派に加入する際に使われるものであり,祈りや呪文を唱える際にも繰り返される
モクシャ,もしくはムクティ(解脱)― 再生の循環からの解放; 魂の旅路の果て。また,最高実在者ブラーフマナと個人との合一を意味する涅槃(ニルバーナ)としても知られている
ヨーガ ― 結ばれる,もしくは結びつけるという意味の語源ユージの変化形; 人が普遍的な天帝と結ばれることが関係している。一般的には,姿勢や呼吸の制御の関係する瞑想法として知られている。ヒンズー教では少なくとも四種類のヨーガ,もしくは道が認められている。110ページをご覧ください
[図版]
左から,ヒンズー教のマハント; 立ったまま瞑想にふけるサードゥー; ネパールのグル
[110ページの囲み記事]
解脱(モクシャ)に達する四つの道
ヒンズー教の信仰によれば,魂の解脱(モクシャ),もしくは解放を達成するための少なくとも四つの道があります。それはヨーガ,あるいはマールガ,つまり解脱への道として知られています。
1. カルマ・ヨーガ ―「行為道,もしくはカルマ・ヨーガ,行為の行法。基本的には,カルマ・マールガは人生における自分の身分にしたがって自分のダルマを履行することを意味している。アヒンサー,およびアルコール飲料や肉を断つことなどのある種の義務を果たすことはすべての人に求められているが,各人の特定のダルマは,人のカーストや命の段階により左右される」―「アジアの偉大な宗教」。
カルマは厳密にカーストの限界内で働きます。人は前世のカルマによって定められたカースト以外の人と結婚したり,食事をしたりすると,カーストの純粋さは保たれません。ですから,カーストは不公正な差別ではなく,前世における化身の遺産とみなされています。ヒンズー教哲学では男女は必ずしも平等ではありません。人々はカースト,性,および実際のところ皮膚の色によって分けられています。普通,皮膚の色が明るくなるほど,カーストが高くなります。
2. ジュニヤーナ・ヨーガ ―「知識道,もしくはジュニヤーナ・ヨーガ,知識の行法。行為道,生活のあらゆる場合に関する定められた義務を伴うカルマ・マールガとは対照的に,ジュニヤーナ・マールガには自己と宇宙を知る哲学的,ならびに心理学的道がある。存在するが,行なわないことが,ジュニヤーナ・ヨーガの鍵である。[下線は本書。]最も重要なこととして,この道の修行者はこの世で解脱(モクシャ)できることである」。(「アジアの偉大な宗教」)それには,内省的なヨーガ,世から退くこと,および禁欲生活が関係しています。これは自制や自己否定の表現です。
3. バクティ・ヨーガ ―「今日のヒンズー教の最も人気のある形態の伝承。これは専心の道,バクティ・マールガである。カルマ・マールガとは対照的に……この道は比較的容易で,もっと伸び伸びとした方法であり,いかなるカースト,性,あるいは年齢の人でも行なえる。……[これは]人間の感情や欲求をヨーガの苦行によって克服するのではなく,むしろそれを自由に表わすようにさせる方法である。……[これは]専ら神聖な存在に対する専心で成り立っている」。そして,伝統的に3億3,000万もの神々が崇敬を受けています。この伝承によれば,知ることは愛することです。事実,バクティとは,「自分の選んだ神に対する感情的な愛着」という意味です。―「アジアの偉大な宗教」。
4. ラージャ・ヨーガ ―「特別の姿勢を取ること,呼吸法,および正しい思考法の規則的反復」などの方法。(「人間の宗教」)それには8段階があります。
[113ページの囲み記事/図版]
マハトマ・ガンジーとカースト制度
「非暴力はわたしの信仰の第一条であり,またわたしの信条の最後の一条である」― マハトマ・ガンジー,1922年3月23日。
インドが英国からの独立(1947年に認められた)を達成するのを助けるため非暴力による指導を行なって有名になったマハトマ・ガンジーはまた,幾百万もの仲間のヒンズー教徒の境遇を改善する運動を起こしました。インド人の教授M・P・レジが説明しているように,「ガンジーはアヒンサー(非暴力)が基本的な倫理的価値であると宣言し,非暴力とはすべての人の尊厳と福祉を考慮することであると解釈した。そして,ヒンズー教の経典の教えがアヒンサーに反する場合,経典の権威を否定して,不可触賤民の身分や階層化されたカースト制度を全廃するため勇敢に奮闘し,生活のあらゆる分野で女性が平等な地位を得られるよう,その向上を図り」ました。
ガンジーは不可触賤民の境遇に関してどんな見方をしていましたか。ジャワーハルラール・ネールにあてた1933年5月2日付の手紙に一部こう記されています。「ハリジャン運動は単なる知的な努力を傾けるには余りにも大きな運動です。世の中にこれほど悪いものはありません。ですが,わたしは宗教を,したがってヒンズー教を捨てることはできません。もしヒンズー教がわたしの期待に背くなら,わたしの人生はわたしにとって重荷になるでしょう。わたしはヒンズー教を通してキリスト教,イスラム教その他,多くの宗教を愛しています。……それにしても,わたしはヒンズー教の不可触賤民を黙認することはできません」―「ガンジーの本質」。
[図版]
ヒンズー教の指導者,ならびにアヒンサーの教師として尊敬されたマハトマ・ガンジー(1869-1948年)
[116,117ページの囲み記事/図版]
ヒンズー教 ― 幾柱かの男神と女神
アグニ ― 火の神
アディティ ― 神々の母; 天空の女神; 無限者
カーリー ― シバの黒い色をした配偶者(シャクティ)で,血に飢えた破壊の女神。しばしば長い赤い舌を出した姿で描かれている
ガネーシャ ― シバの象頭の子神,邪魔物の主,幸運の神。また,ガナパティおよびガジャナナとも呼ばれる
ガンガー ― シバの妻のひとりで,ガンジス川を擬人化した女神
クリシュナ ― ビシュヌの8番目の遊び好きな化身で,バガバッド・ギーターの神。その愛人たちはゴピス,つまり乳搾り女であった
サラスバティー ― 知識の女神で,創造者ブラフマーの配偶者
シバ ― 豊穣,死,および破壊の神; トリムールティ(三神一体)の一成員。三つ叉の“やす”や男根によって象徴されている
シャシティー ― 出産の際に女性と子供を守る女神
ソーマ ― 神,ならびに薬剤; 命の万能薬
ドゥルガー ― シバの妻,もしくはシャクティで,カーリーと同一視されている
ナーンディー ― シバの車,つまり輸送手段であった雄牛
ナタラージャ ― 炎の輪で囲まれた,踊る姿のシバ
パールバティー,もしくはウマー ― シバの配偶者である女神で,女神ドゥルガーもしくはカーリーの姿を取ることもある
ハヌマン ― 猿の神で,ラーマの熱烈な追随者
ビシュヌ ― 命の維持者なる神; トリムールティの第三の成員
ヒマラヤ ― 雪のある所の意で,パールバティーの父
ブッダ(仏陀)― 仏教の創始者ゴータマ; ヒンズー教徒はゴータマのことをビシュヌの化身(アバターラ)とみなしている
ブラーフマナ,もしくはブラーマン(バラモン)― 宇宙のあらゆる場所に浸透している最高実在者で,OM,もしくはAUMの音で表わされている。(上記の記号をご覧ください。)また,アートマンとも呼ばれる。一部のヒンズー教徒はブラーフマナを非人格的神聖な原理,もしくは究極的存在とみなしている
プラジャーパティ ― 宇宙の創造者,被造物の主,神々,悪霊その他すべての生き物の父。後にブラフマーとして知られた
ブラフマー ― 創造神,宇宙創造の原理。トリムールティ(三つ組)の神々の一柱
プルシャ ― 宇宙人; 主要な四カーストはその体から作られた
マーナサ ― へびの女神
マヌ ― 人間の先祖; 洪水による滅びから大魚により救われた
ミトラ ― 光の神。ローマ人にもミトラとして知られていた
ラーダー ― クリシュナの配偶者
ラーマ,ラーマチャンドラ ― ビシュヌ神の7番目の化身。叙事詩物語ラーマーヤナはラーマとその妻シータの話を述べている
ラクシュミー ― 美と幸運の女神; ビシュヌの配偶者
[クレジット]
(「神話 ― 図解百科事典」の一覧表による)
[図版]
左上から右回りに,ナタラージャ(踊るシバ),サラスバティー,クリシュナ,ドゥルガー(カーリー)
[120ページの囲み記事]
洪水に関するヒンズー教の伝説
「朝,彼らは身を洗う水をマヌ[人間の先祖で,最初の律法授与者]のもとに運んで来た。……彼が身を洗っていると,一匹の魚[ビシュヌの化身マツヤ]がその両手の中に入った。
「その魚は彼に次のような言葉を語った。『我を飼え。我なんじを救わん!』『なんじいずこより我を救わんや』。『洪水これらすべての生き物を運び去らん。我なんじをその洪水より救わん!』『我いかになんじを飼わんや』」。
その魚は自分の世話の仕方をマヌに教えました。「すると,その魚は言った,『かくかくの年に洪水来たらん。なんじ船を用意して我に(我が助言に)留意せよ。洪水起きなば,なんじ船に入るべし。我なんじを洪水より救わん』」。
マヌが魚の指図に従うと,その魚は洪水の間,船を「北の山々に引いて行った。その後,魚はこう言った。『我なんじを救えり。船を木につなげ。ただし,なんじ山上にいる間,水に殺されぬようにせよ。水が退く時,なんじ徐々に降りるべし!』」― シャタパタ・ブラーフマナ。創世記 6:9-8:22と比較してください。
[123ページの地図/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ヒマラヤ山脈に端を発して,カルカッタと,バングラデシュの三角州に達するガンジス川は全長2,400㌔に及ぶ
インド
カルカッタ
ガンジス川
[図版]
シバの頭上のガンガー・マーは,その髪の中を通って降りる
バラナシ,もしくはベナレスのガンジス川の階段で沐浴する信心深いヒンズー教徒
[96ページの図版]
シバとパールバティーの子である,ヒンズー教の象頭の幸運の神ガネーシャ
[99ページの図版]
ヒンズー教徒があがめているリンガ(男根の象徴)。シバ(豊じょうの神)は1本の男根の中にあり,もう1本の男根の周りには四つの頭がある
[108ページの図版]
昆虫が口に入って殺されないようにするため,ムカ・バストリカ,つまりマスクを着用したジャイナ教徒の尼僧
[115ページの図版]
主にベンガル地方で行なわれているへび崇拝。マーナサはへびの女神
[118ページの図版]
ビシュヌのへそから生えているはすの上の四つの頭のあるブラフマーと共に,とぐろを巻いた蛇アナンタの上にいるビシュヌとその妻ラクシュミー
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仏教 ― 神なしに行なわれる悟りの探求神を探求する人類の歩み
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6章
仏教 ― 神なしに行なわれる悟りの探求
1 (イ)仏教は西洋の社会にどのように姿を現わしてきましたか。(ロ)西洋でこのような事態が生じてきた原因としてどんな事柄が挙げられますか。
20世紀初頭のころ,アジア以外の所ではほとんど知られていなかった仏教が,今日では一つの世界宗教としての役割を担っています。実際,自分たちの近所でも仏教が盛んになっているのを知って,たいへん驚いている西洋人は少なくありません。難民の国際的な規模の移動が,その大きな原因の一つとなっています。アジアの人々のかなり大きな共同体が西ヨーロッパ,北アメリカ,オーストラリアその他の場所で確立されてきました。新しい土地に根を下ろす移民はしだいに増える一方,それらの人々は自分たちの宗教をも持ち込んでいます。同時に,仏教に初めて接する西洋人も増えています。それと共に,伝統的な教会の何でも許容する態度や霊的な衰退のため,この“新しい”宗教に改宗する人々も出てきました。―テモテ第二 3:1,5。
2 今日,仏教の信奉者はどこにいますか。
2 ですから,「ブリタニカ年鑑1989年版」によれば,世界の仏教徒の総数はおよそ3億人で,西ヨーロッパと北アメリカ双方にそれぞれおよそ20万人,中南米には50万人,そしてソ連には30万人いると言われています。しかし,仏教の帰依者のほとんどはやはり,スリランカ,ミャンマー(ビルマ),タイ,日本,韓国,および中国大陸にいます。それにしても,仏陀とはだれのことですか。この宗教はどのようにして始まりましたか。仏教には,どんな教えや慣行がありますか。
信頼できる出典に関する疑問
3 仏陀の生活について教えている,どんな資料を入手できますか。
3 「世界宗教 ― 古代から現代までの歴史」という本は,「仏陀の生涯について知られている事柄は,大半が古代インドの言語であるパーリ語で書かれた,極めて膨大で詳細な正典の証言に基づいている」と述べています。これは,西暦前6世紀にインドの北部で生活した,この宗教の開祖ガウタマ・シッダールタについて教えている当時の資料が一つもないことを意味しています。それで,当然,問題が生じます。しかし,さらに重大なのは,“正典”はいつ,またどのようにして作成されたかという疑問です。
4 仏陀の真正な教えは最初,どのようにして保存されましたか。
4 仏教の伝承によれば,ガウタマの死後まもなく,何が師の真正な教えかを決めるために,500人の修行僧の会議が開かれました。このような会議が実際に行なわれたかどうかは,仏教学者や歴史家の間で盛んに論議される問題となっています。しかし,注目すべき重要な点は,真正な教えとして決められた事柄が書き記されずに,弟子たちにより記憶されたということです。聖典が実際に書き記されるまでには,相当の時間待たなければなりませんでした。
5 パーリ語の経典はいつ書き記されましたか。
5 西暦4,および6世紀のスリランカ年代記によれば,それらパーリ語の最初期の“正典”は西暦前1世紀のバタガーマニー・アバヤ王の治世中に書き記されました。仏陀の生涯に関する他の記述は多分,西暦1世紀,もしくは当時からおよそ1,000年後の西暦5世紀まで文書の形にされませんでした。
6 “正典”はどのように批判されていますか。(テモテ第二 3:16,17と比較してください。)
6 ですから,「アビンドン現代宗教辞典」はこう評しています。「その“伝記”の起源は後代に属している上,伝説や神話上の事柄で満ちており,最古の正典は明らかに種々の修正や多くの付け足しを含む,長年にわたる口承に基づいて作成されたものである」。ある学者は,「記録された教えのたった一語でも,無条件にガウタマ自身の言葉とみなすことはできない」とさえ主張しています。
仏陀の懐妊と誕生
7 仏教の経典によれば,仏陀の母はどのようにして彼をみごもりましたか。
7 パーリ語の正典の一部である闍陀伽<ジャータカ>と,仏陀の生涯に関する西暦2世紀のサンスクリット語の経典である仏所行讃<ブッダチャリタ>からの次のような抜粋を考慮してください。まず,仏陀の母,女王マハー・マーヤーが夢の中で,どのように彼をみごもるかに関する物語から始めます。
「四人の守護天使がやって来て,彼女を寝いすごと持ち上げて,これをヒマラヤ山脈へ連れ去った。……その後,それらの守護天使の妻たちがやって来て,彼女をアノタッタ湖に連れて行き,人間の汚れをことごとく取り除くため,沐浴をさせた。……ほど近いところに銀の丘があり,その中に黄金の大邸宅があった。彼女らはそこで神聖な寝いすを頭部を東に向けて広げ,その上に彼女を横たえた。さて,未来の仏陀は見事な白い象になっていたので……彼は銀の丘を上り,そして……その母の寝いすの周りを自分の右のわき腹をこれに向けて三度歩き回り,彼女の右のわき腹を打ちながら,その胎に入ったようであった。こうして,真夏の祭りの際に,その懐妊が起きた」。
8 仏陀の未来についてどんなことが予言されましたか。
8 女王がその夢を王である夫に告げると,王は64人の高名な司祭僧を召集し,彼らに食事をさせ,服を着させて,夢を解き明かすよう頼みました。これがその答えでした。
「偉大な王よ,ご心配なさらぬように。……あなたはご子息に恵まれましょう。そして,彼は家の生活を続けるなら,全世界の君主になるが,家の生活をやめて,世捨て人になるなら,仏陀となって,この世のおびただしい罪と愚行を後退させることになりましょう」。
9 仏陀の未来に関する宣言に続いて,どんな途方もない出来事が起きたと言われていますか。
9 その後,32の奇跡が起きたと言われています。
「すると,一万世界が皆,突如揺れ動き,振動し,震えた。……すべての地獄の火が消えた。……人間の間では病が絶えた。……すべての楽器が演奏されずに楽の音を響かせた。……大海では水が甘くなった。……一万世界全体がこの上なく荘厳な花輪の一つの巨大な塊になった」。
10 仏教の聖典は仏陀の誕生をどのように説明していますか。
10 その後,仏陀はルンビニーの木立ちと呼ばれたサーラ樹の園で異常な仕方で生まれました。女王がその木立ちの一番高いサーラ樹の枝をつかもうとすると,その木は彼女の手の届くところまでかがんでくれました。彼女はその枝をつかんで立ちながら,出産しました。
「彼は説教用の座席から降りる説教師,もしくは階段を下る男のように,両手両足を張り伸ばして,母の胎内のどんな不浄なものにも汚されずに,その母の胎から出て来た……」。
「[未来の仏陀]は生まれるや否や,両足を完全に地上にしっかりと据え,白い天蓋が頭上で支えられて,北へ大またに七歩歩み,世界の四分の一を各々調べて,類例のない語調でこう叫ぶ。全世界で,わたしは第一で,最善で,第一級の者である。これはわたしの最後の誕生であり,わたしは決して生まれ変わらない,と」。
11 聖典に見られる仏陀の生涯に関する物語について,一部の学者はどんな結論を出していますか。
11 さらに,仏陀の幼年時代や若い女性の賛美者たちとの出会い,その流浪の旅など,その生涯のまさにあらゆる出来事に関する同様に手の込んだ物語もあります。大抵の学者がそのような物語をすべて神話や伝説として片付けているのも,多分,驚くには当たらないでしょう。大英博物館の一役員は,「伝説や奇跡があまりにも多いため……仏陀の歴史的な生涯は復元しようがない」と述べたほどです。
12,13 (イ)仏陀の生涯に関する伝統的な物語について述べてください。(ロ)仏陀が生まれた時のことに関しては,どんなことが一般に受け入れられていますか。(ルカ 1:1-4と比較してください。)
12 このように神話であるにもかかわらず,仏陀の生涯に関する伝統的な物語が広く流布されています。スリランカのコロンボで出された「仏教入門書」には,次のような簡単な物語が載せられています。
「紀元前623年5月の満月の日にネパール地方で,インドの釈迦<シャカ>族のゴータマ・シッダッタaという名の王子が生まれた。その父はスッドーダナ王で,母は女王マハー・マーヤーであった。彼女はその子を産んで数日後に死んで,マハー・パジャーパティー・ゴータミーが養母になった。
「彼は16歳で,いとこの美しいヤソーダラー王女と結婚した。
「結婚後,王宮の門外の人々の人生の浮き沈みを知らぬが仏で,13年近くぜいたくで幸福な生活を送った。
「時たつにつれて,真理が徐々に分かってきた。そして,その人生の転機となった29歳の年に息子ラーフラが生まれた。彼は我が子を邪魔物とみなした。というのは,例外なくすべての者が誕生,病気,そして死を免れられないことに気づいたからである。こうして,悲しみが普遍的なものであることを知ったため,人類共通のこの病をいやす万能薬を探すことにした。
「そこで,王宮での歓楽を捨て,ある夜,家を出て……髪を切り,苦行者の質素な衣を身にまとい,真理探求者として放浪した」。
13 この伝記の以上の幾つかの詳細な点は,明らかに“正典”にある途方もない物語とは著しい対照をなしています。それで誕生の年以外,上記の事柄は一般に受け入れられています。
悟り ― どのようにして得られたか
14 ガウタマの人生の転機とは何でしたか。
14 前述の「その人生の転機」とは何でしたか。それは,彼が生まれて初めて一人の病人と老人と死者を見たことでした。その経験から,彼は人生の意味を考えさせられ,なぜ人間は生まれて,結局は苦しんで,年老いて,死んでしまうのだろうかと思い悩みました。その後,真理を求めて世を捨てた,ある聖人に出会ったと言われています。こうして,ガウタマは家族や所有物や王子としての名を捨てて,ヒンズー教の教師やグル(「導師」の意)に答えを求めて,次の6年間をむなしく過ごしました。物語によれば,彼は瞑想や断食やヨーガ,および極端な禁欲生活を続けましたが,霊的な平安も悟りも得られませんでした。
15 ガウタマはどのようにして,ついに悟りの境地に達したとされていますか。
15 やがて彼は極端な禁欲生活が以前行なっていた放縦な生活同様に無意味であることに気づきました。そこで,それまで行なっていた極端な生活様式を避けて,自ら中道と呼んだ道を取り入れました。そして,答えは自分自身の意識のうちに見いださなければならないと決意し,インドボダイジュ(菩提樹)の下に座って瞑想にふけりました。彼は悪魔マーラからの攻撃と誘惑に抵抗し,4週間(ある人々によると7週間)しっかりと瞑想を続け,ついにあらゆる知識と理解を超越して,悟りの境地に達したとされています。
16 (イ)ガウタマは何になりましたか。(ロ)仏陀に関して,どんな異なった見方がありますか。
16 このような過程を経て,ガウタマは仏教用語で仏陀,つまり覚者,もしくは悟りを開いた者になりました。彼は究極的な目標である涅槃(ニルバーナ),つまり欲望や苦しみから解放された,完全な平安と悟りの境地に達していました。彼はまた,シャーキャムニ(釈迦牟尼: 「シャーキャ族の賢人」の意)として知られるようになり,しばしば自分自身をタターガタ(如来: 「こうして[教えるために]来た者」の意)と呼びました。しかし,この論題に関する見方は仏教の様々な分派によって様々に異なります。中には,ガウタマのことを悟りに達する道を自分で見いだして,追随者に教えた,厳密な意味での人間と見る人もいます。また,仏陀の教え,もしくは道であるダルマ(法: パーリ語,ダマ)を説いたり,復興させたりするために世に来た一連の仏陀の最後の方と見る人たちもいれば,ボーディサットバ(菩薩),つまり悟りの境地に達したものの,悟りを追い求める他の人々を助けるために涅槃に入るのを遅らせた者と見る人たちもいます。いずれにせよ,仏教のあらゆる学派にとってこの事,つまり悟りが最重要な事柄なのです。
悟り ― それは何か
17 (イ)仏陀は最初の説法をどこで,まただれに説きましたか。(ロ)四聖諦について簡単に説明してください。
17 悟りの境地に達した仏陀は,当初の多少のためらいを克服した後,新たに発見した真理,つまりダルマ(法)を他の人々に教えるため旅に出かけました。仏陀の最初の,そして多分最も重要な説法は,ベナレスという都市の鹿の園で5人のビク(比丘),つまり弟子もしくは修行僧たちに話したものです。その中で,人は救われるには,官能的な放縦の生き方や苦行の道を共に避けて,中道に従わなければならないと説きました。それから,四聖諦(「優れた四つの真理」の意: 次のページの囲み記事をご覧ください)を理解して,これに従わなければなりません。この四聖諦は次のように簡単に要約できます。
(1)生存はすべて苦しみである。
(2)苦しみは欲望,もしくは渇望から生ずる。
(3)欲望の消失は苦しみの終わりを意味する。
(4)欲望の消失は,八正道に従って,自分の行為,思惟(思考),および信念を制御することにより達成される。
18 仏陀は悟りの源について何と述べましたか。(ヨブ 28:20,21,28; 詩編 111:10と比較してください。)
18 中道と四聖諦に関するこの説法は悟りの真髄を具現しており,仏陀の教えすべてを要約したものとみなされています。(これと対照をなすものとして,マタイ 6:25-34; テモテ第一 6:17-19; ヤコブ 4:1-3; ヨハネ第一 2:15-17と比較してください。)ガウタマは神からの霊感によってその説法を行なったとは主張せず,それは「タターガタ(如来)の見いだした」言葉であるとしました。仏陀は臨終の際,「ただ真理のうちに救いを求めよ。自分自身以外のだれかに助けを求めてはならない」と,弟子たちに語ったと言われています。ですから,仏陀によれば,悟りは神からではなく,正しい思惟と良い行為を伸ばす個人的な努力によりもたらされます。
19 仏陀の音信は当時,なぜ歓迎されましたか。
19 この教えが当時のインド社会でなぜ歓迎されたかを理解するのは,難しいことではありません。この教えによれば,ヒンズー教のブラーフマナ(バラモン),もしくは司祭者のカーストが助長した貪欲で腐敗した宗教的な慣行と共に,ジャイナ教徒の禁欲的な苦行や他の密教的な祭儀も非とされました。また,供犠や祭礼,幾百万もの男神や女神,生活のあらゆる面で民衆を支配し,隷従させてきた厄介なカースト制度をも廃するものとなりました。要するに,仏陀の道に喜んで従う者にはすべて解放が約束されたのです。
仏教の影響は広がる
20 (イ)仏教の「三宝」とは何ですか。(ロ)仏陀の伝道活動はどれほど広範囲に及びましたか。
20 仏陀の教えを受け入れた5人のビク(比丘)は,最初のサンガ,つまり僧団を構成しました。こうして,仏教の「三宝」,すなわち仏陀,ダルマ(法),およびサンガ(僧団),つまり悟りへの道を歩むよう民衆を助けるものとされた仏・法・僧が整いました。こうして,準備のできたガウタマ・仏陀はガンジス渓谷をくまなく巡って伝道し,社会のあらゆる階層や身分の人々がその話を聞いて,弟子になりました。仏陀は80歳で入滅する時までには,有名になり,たいへん尊敬されました。そして,弟子たちに対し,「構成されたものは皆,本来,朽ちるものである。自分自身の救いのために熱心に努力するように」という最後の言葉を残したと伝えられています。
21 (イ)仏教の拡張を図る器となったのはだれですか。(ロ)その尽力の結果,どうなりましたか。
21 仏陀の入滅後,約200年たった西暦前3世紀に,仏教最大の擁護者で,インドの大半を支配下に置いたアショーカ皇帝が現われました。行なわれた征服による殺りくや動乱を悲しんだ皇帝は仏教を奉じて,国家的な支持を与えました。そして,宗教的な記念碑を建て,会議を召集し,仏陀の教えに従って生活するよう民衆に勧めました。アショーカ帝はまた,仏教の宣教師をインド全土はもとより,スリランカ,シリア,エジプト,そしてギリシャにまで派遣しました。仏教は主にアショーカ帝の尽力によりインドの一宗派から世界宗教へと成長しました。同帝のことを仏教の第二の開祖とみなす人たちがいるのももっともなことです。
22 仏教はどのようにしてアジアの至る所で確立されましたか。
22 仏教はスリランカから東はミャンマー(ビルマ),タイ,およびインドネシアの他の地方へ,また北はカシミール,および中央アジアへと広まりました。これらの地方から,早くも西暦1世紀には仏教の修行僧が険しい山脈や砂漠を越えて,自分たちの宗教を中国に持ち込みました。仏教は中国から韓国や日本へはほんの一またぎで広まりました。仏教はまた,インドの北隣のチベットにも伝わり,地元の信条と混じり合って,ラマ教として出現し,同地の人々の宗教,および政治生活の双方を支配しました。西暦6,ないし7世紀までには,仏教は西南アジア,および極東全域で確立されていました。しかし,インドではどうでしたか。
23 インドでは仏教はどうなりましたか。
23 仏教は他の土地では影響力を広げましたが,元のインドでは徐々に衰退してゆきました。哲学的形而上学的な研究に深く関係した修行僧は,一般の追随者との接触を失うようになりました。その上,王族からの保護を失うと共に,ヒンズー教の概念や慣行が取り入れられたため,インドの仏教は急速に消滅してゆき,ガウタマの生まれたルンビニーや“悟り”を開いた場所であるブッダガヤーなどの仏教の聖地は廃虚と化しました。仏教は13世紀までにその発祥地インドから事実上姿を消してしまいました。
24,25 20世紀には,仏教に関してさらにどんな状況が見られますか。
24 20世紀になって,仏教は別の面で変化しました。中国大陸,モンゴル,チベット,および東南アジア諸国の政治上の激変は仏教に壊滅的な打撃を与えました。幾千もの僧院や寺院が破壊され,幾十万人もの修行僧や尼僧が追放されたり,投獄されたり,殺されたりさえしました。とはいえ,仏教の影響力はそれらの国々の人々の考え方や習慣に依然として根強く残っています。
25 ヨーロッパや北米では,自己の内面に“真理”を求める仏教の考え方が広く人々に訴えるようで,瞑想を行なうことが西洋の生活のけんそうから逃れる方法とされています。興味深いことに,「現代仏教」という本の序文の中で,亡命したチベットのダライ・ラマは,「今日,仏教は西洋人に自分たちの生活の精神面のことを思い起こさせる役割を演じているのかもしれない」と書いています。
仏教の多種多様な道
26 仏教はどのように分かれていますか。
26 仏教は普通,単一の宗教としてうんぬんされますが,実際には思想上幾つかの学派に分かれています。仏陀とその教えの本質に関する様々な解釈に基づいて,それぞれの学派には各々独自の教理,実践,および経典がありますし,それらの学派はさらに数多くの集団や宗派に分かれており,その多くは地元の文化や伝承の強い影響を受けています。
27,28 上座部(テーラバーダ)仏教はどのように説明できるでしょうか。(フィリピ 2:12; ヨハネ 17:15,16と比較してください。)
27 スリランカ,ミャンマー(ビルマ),タイ,カンプチア(カンボジア),およびラオスでは,仏教の上座部(テーラバーダ; 「長老の派」の意)という派,つまり小乗(ヒーナヤーナ; 「劣った乗り物」の意)仏教が栄えました。一部の人々はこれを保守的な学派とみなしています。この学派では,世を捨て,修行僧としての生活をして,僧院で瞑想と研究に専念することにより知恵を得,自分の救いを達成することが強調されています。
28 それらの幾つかの国では,頭をそり,サフラン色の長服を着た一群の若者が,自分たちを支える役目のある一般信徒から日々の糧を受ける,たく鉢用の鉢を持って,はだしで歩く姿をよく見かけます。少なくとも人生の一時期を僧院で過ごすのは男性の習慣です。僧院生活の究極目標は,霊的な完全性に達し,再生の痛みや苦しみから解放された人である阿羅漢になることです。仏陀はその道を示したので,それに従うのは各人の務めです。
29 大乗(マーハーヤーナ)仏教の幾つかの特徴を挙げてください。(テモテ第一 2:3,4; ヨハネ 3:16と比較してください。)
29 普通,中国大陸,韓国,日本,およびベトナムで見られるのは大乗(マーハーヤーナ; 「大きな乗り物」の意)仏教という学派です。このように呼ばれているのは,「人が洞くつ,僧院,家のいずれに住もうと,真理と救いの道は万人のためであり……世捨て人のみのものではない」という仏陀の教えが強調されているためです。仏陀は愛と情けが非常に大きいゆえに,だれからも救いを差し控えたりはなさらないというのが大乗仏教の基本的な概念で,人間にはすべて仏陀の性質があるゆえに,人は皆,仏陀,もしくは悟りを開いた者,つまり菩薩になることができると教えられています。悟りは厳しい自己修養によってではなく,仏陀に対する信仰とすべての生き物に対する情けによってもたらされるのです。これは明らかに,実利的な考えを持つ一般大衆に一層訴えるものがあります。しかし,この一層自由な態度ゆえに,数多くの集団や祭儀が発達しました。
30 仏教の浄土宗の帰依者はどんな目標を追い求めますか。(マタイ 6:7,8; 列王第一 18:26,29と比較してください。)
30 中国や日本で発展した大乗(マーハーヤーナ)仏教の数多くの宗派の中に浄土宗と禅宗があります。前者の信条の中心となっているのは,浄土,つまり西方の極楽,すなわち神々や人間の住む,喜びにあふれる地で生まれ変わることを追随者に約束した阿弥陀仏の救いの力に対する信仰です。その浄土から容易に涅槃(ニルバーナ)に入れます。「南無阿弥陀仏」(「阿弥陀仏を信心いたします」の意)という念仏を時には1日に何千回も繰り返すことにより,帰依者は悟りを得る,もしくは西方の極楽で生まれ変わるために自分自身を清めます。
31 仏教の禅宗の特色を挙げてください。(フィリピ 4:8と比較してください。)
31 仏教の禅宗(中国の禅<チャン>学派)という名称は,瞑想を実践することから来ています。禅<チャン>(中国語),および禅(日本語)は,「瞑想」という意味のサンスクリット語ディヤーナを音写したものです。この行法によれば,研究も良い業も儀礼もほとんど無価値とされています。ただ,「片方の手の打つ音とは何か」とか,「何もない所に何を見いだすか」というような測り知れない難問を考えることによってのみ悟りが得られます。禅宗の神秘的な性格は生け花,書道,墨絵,詩歌,園芸などの芸術の形で表われており,これらの芸術は西洋でも好まれています。今日では,西洋の多くの国に禅の瞑想センターがあります。
32 チベット仏教はどのように行なわれていますか。
32 最後に,チベット仏教,つまりラマ教があります。この形態の仏教は,意味のある,もしくは意味のない一連の音節語であるマントラ,つまり真言,もしくは神を長い朗唱の中で唱える祈りが際立っているので,マントラヤーナ(マントラ乗; 真言乗)と呼ばれることがあります。この形態の仏教では知恵や情けが強調される代わりに,儀式,祈り,魔術,および心霊術による礼拝が強調されています。祈りは数珠や祈り車の助けにより,1日に何千回も繰り返されます。複雑な儀式はラマ(師僧),つまり僧院の指導者から,ただ口頭で教えられて学ぶことができます。それらラマの中で最もよく知られているのは,ダライ・ラマやパンチェン・ラマです。ラマが亡くなると,次の霊的な指導者となるための,そのラマの化身と言われる子供が,捜し出されます。しかし,このラマという語は,一般的にはすべての修行僧にも当てはまります。修行僧の数は,ある推定によれば,一時期,全人口のおよそ5分の1にも達しました。ラマはまた,教師,医師,土地所有者,および政治家としての役割をも果たしました。
33 仏教の諸教派はキリスト教世界のそれとどのように似ていますか。(コリント第一 1:10と比較してください。)
33 仏教のこれら主要な諸教派は,さらに多くの教団もしくは宗派に分かれています。中には,マーハーヤーナ(大乗)仏教の法華経だけに仏陀の確かな教えが収められていると説いた日本の日蓮や多数の追随者を率いている台湾省のヌン・チン・ハイのような特定の指導者に帰依することを説く宗派もあります。この点で,仏教は多くの宗派や分派のあるキリスト教世界とあまり違いがありません。事実,仏教徒と称する人々が道教,神道,先祖崇拝などの慣行やキリスト教世界のそれにさえ加わっているのを見るのは珍しいことではありません。b それらすべての仏教諸派の信条や慣行は,仏陀の教えに基づいているとされています。
三蔵と他の仏教経典
34 仏教の教えを考慮する際,何を銘記しなければなりませんか。
34 仏陀の教えとされている教説は口承で伝えられ,仏陀の入滅後,何世紀かの後にやっと文字に記されるようになりました。ですから,その教説はせいぜい後代の追随者が仏陀の言行と考えたものを表わしているにすぎません。このことは,当時までに仏教がすでに多くの学派に分裂していたという事実により,一層複雑な様相を呈しています。したがって,経典の本文が異なれば,仏教の見解もまたかなり異なります。
35 仏教最初期の聖典を挙げてください。
35 仏教最初期の経典の本文は西暦前1世紀ごろ,仏陀の土語と関係があるとされるパーリ語で書き記されました。これは上座部(テーラバーダ学派)により真正な本文として受け入れられています。この経典集成は31書で成っており,「三つの籠」,あるいは「三つの集蔵物」という意味のティピタカ(サンスクリット語,トリピタカ),つまり「三蔵」と呼ばれ,次のような三つの部類に区分されています。ビナヤ・ピタカ(「律蔵」)はおもに男性の修行僧と女性の僧のための規則や規定を扱っています。スッタ・ピタカ(「経蔵」)には仏陀やその主な弟子たちの述べた説法や例え話や格言が収められており,最後にアビダッマ・ピタカ(「論蔵」)は仏教の教理に関する注解でできています。
36 大乗(マーハーヤーナ)仏教の経典にはどんな特徴がありますか。
36 一方,大乗(マーハーヤーナ)仏教の諸書は主にサンスクリット語,中国語,およびチベット語で記されており,それは大部なものです。中国語の本文だけで5,000巻以上に達し,その中には,各々独自の仏陀の世界をつかさどり,幾百万年とも知れぬ期間生きているとされる,ガンジス川の砂のようにおびただしい数の仏陀たちに関する物語のような初期の書にはない様々な考えが含まれています。それらの本文の「特徴は多様性,途方もない空想,多彩な登場人物,極端な繰り返しである」と,ある筆者が評しているのも決して誇張ではありません。
37 大乗(マーハーヤーナ)仏教の諸書により,どんな問題が持ち出されましたか。(フィリピ 2:2,3と比較してください。)
37 言うまでもないことですが,そのような極めて空想的な論文を理解できる人はほとんどいません。その結果,後代のそのような事情のために仏教は仏陀が当初意図したものとはほど遠い教えとなりました。「律蔵」(ビナヤ・ピタカ)によれば,仏陀は自分の教えが単に知識階級だけでなく,あらゆる人々に理解されることを望みました。そのために仏陀は,自分の教えをヒンズー教の聖なる死語ではなく,一般民衆の言語で説くよう強調しました。ですから,これらの書は正典ではないとする上座部(テーラバーダ)仏教徒の反論に対して,大乗(マーハーヤーナ)仏教の信奉者は,ガウタマ・仏陀は最初,教育のない純朴な人々を教えたのであって,学識のある賢い人々のためには後代の大乗仏教の経典に記されている教えを明らかにされたのだと答えています。
業(カルマ)や輪廻(サンサーラ)の循環
38 (イ)仏教とヒンズー教の教えはどのように比べられますか。(ロ)魂に関する仏教徒の概念は理論と実践ではどうなっていますか。
38 仏教は人々をヒンズー教の束縛からある程度自由にしましたが,仏教の基本的な考え方は依然として業(カルマ)や輪廻(サンサーラ)に関するヒンズー教の教えを受け継いだものです。仏陀が最初に説いた時の仏教は,不滅の魂の存在を否定し,個人のことを「肉体的,ならびに精神的な力,もしくはエネルギーの結合したもの」とする点で,ヒンズー教と異なっています。c とはいえ,仏教の教えは依然として,人類はすべて無数の再生(サンサーラ)を繰り返しながら,生存から生存へとさすらい,過去と現在の行為の結果(カルマ)に苦しめられるという考え方を中心にしています。たとえ,悟りやこの循環からの解放という仏教の音信が魅力的に思えようと,中には,その土台はどれほど確かなものだろうか,また苦しみはすべて人の前世の行為の結果であるというどんな証拠があるのかと尋ねる人々がいます。それに,実際,何らかの前世があるというどんな証拠がありますか。
39 仏教のあるテキストはカルマの法をどのように説明していますか。
39 業(カルマ)の法則に関するある説明は次のとおりです。
「カンマ[カルマのパーリ語の同義語]はそれ自体一つの法則である。ところが,法則を定める者がいるのは当然だということにはならない。重力のように,自然法則は法則を定める者を必要としない。カンマの法則もまた,法則を定める者を要するものではない。それは独立した外的な支配力の干渉なしに独自の分野で作用する」―「仏教便覧」。
40 (イ)自然法則の存在は何を示唆していますか。(ロ)聖書は因果関係についてどのように説明していますか。
40 これは論理的に確かな推論ですか。自然法則が法則を定める者を必要としないというのは,本当でしょうか。ロケットの専門家ウェルナー・フォン・ブラウン博士はかつてこう述べました。「宇宙の自然法則はきわめて精確であるため,我々は宇宙船を造って月に飛行させ,その飛行を1秒の何分の1もの精度で計画することもたやすくできる。これらの法則はだれかによって定められたに違いない」。聖書もまた,因果関係の法則について述べて,「神は侮られるような方ではありません。何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」と言っています。(ガラテア 6:7)聖書は,この法則にはそれを定める者は必要ではないなどとは言わずに,「神は侮られるような方ではありません」と指摘して,この法則はその作り主であられるエホバにより作用するようにされたことを示唆しています。
41 (イ)業(カルマ)の法則と裁判所の法律はどのように比較されますか。(ロ)業(カルマ)と聖書の約束とを比較してください。
41 その上,聖書は,「罪の報いは死で」,「死んだ者は自分の罪から放免されている」と述べています。裁判所さえ,どんな犯罪のためであれ,だれも二重の危険に遭わされてはならないということを認めています。では,死ぬことにより,すでに自分の罪のために償いをした人が,一体どうして生まれ変わって,結局自分の過去の行為ゆえに新たに苦しまなければならないのでしょうか。さらに,過去のどんな行為のために自分が処罰されているのかが分からないなら,どうして悔い改めて改善できるでしょうか。これは公正な処置と考えられますか。それは,仏陀の最も際立った特質とされている慈悲と調和していますか。それとは対照的に,聖書は,「罪の報いは死です」と述べた後,こう続けています。『神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命です』。そうです,聖書は,神が腐敗,罪,および死をことごとく除去し,全人類のために自由と完全性とをもたらしてくださることを約束しています。―ローマ 6:7,23; 8:21。イザヤ 25:8。
42 ある仏教学者は再生をどのように説明していますか。
42 ここに,仏教学者ウァルポラ・ラフラの再生に関する説明を載せます。
「人間は肉体的,ならびに精神的な力,もしくはエネルギーの結合したものにほかならない。いわゆる死とは,肉体の機能の完全な停止状態のことである。肉体の機能が完全に停止すると共に,その力やエネルギーもすべて全く働きをやめるのであろうか。仏教によれば,そうではない。存在し,存続し,ますます多くなろうとする意志,意欲,欲求,渇望は,生命全体,存在全体を動かす,否,世界全体をさえ動かす,すさまじい力である。これは世界最大の力,最大のエネルギーである。仏教によれば,この力は肉体の機能の完全な停止と共にその働きをやめるのではなく,引き続き別の形態で現われて,再生と呼ばれる再存在をもたらすのである」。
43 (イ)生物学的に言えば,人の遺伝的な作りはどのようにして決まりますか。(ロ)再生を支持するどんな“証拠”が出されることがありますか。(ハ)そのような“証拠”は普通の経験と調和しますか。
43 受胎の瞬間に,人は遺伝子の50%を二親の各々から受け継ぎます。ですから,前世のだれかに100%似た人になることはできません。実際,既知のどんな科学上の原理をもってしても再生の過程は支持できません。再生の教理を信ずる人たちは,自分の知らない顔や出来事や場所などを思い起こすことがあると主張する人々の経験をよく引き合いに出しますが,それは道理にかなっていますか。昔の事を思い出せる人はその時代に生きていたに違いないと言うには,将来のことを予告できる人は ― そう主張する人は少なくないが ― その将来にすでに生きているに違いないと言えなければなりません。しかし明らかに,そうではありません。
44 「霊」に関する聖書の教えと再生に関する仏教の教理とを比較してください。
44 聖書は仏陀よりも400年以上も前に生命力について語っていました。聖書は,人が死ぬと,どうなるかについて説明し,「そのとき,塵はかつてそうであったように地に帰り,霊もこれをお与えになったまことの神のもとに帰る」と述べています。(伝道の書 12:7)「霊」という言葉は生き物,つまり人間および動物のすべてを生かしている生命力を意味するヘブライ語ルーアハを訳したものです。(伝道の書 3:18-22)しかし,重要な違いは,ルーアハは非人格的な力だということです。それはそれ自体の意志や人格を持っていませんし,亡くなった人の何らかの性格も持っていません。人が死ぬと,霊はその人から別の人に移るのではなく,「これをお与えになったまことの神のもとに帰る」のです。言い換えれば,その人の将来の命の見込み ― 復活の希望 ― は完全に神のみ手にあります。―ヨハネ 5:28,29。使徒 17:31。
涅槃(ニルバーナ)― 到達できない境地に到達する?
45 涅槃(ニルバーナ)に関する仏教の概念はどのようなものですか。
45 このことから悟りと救いに関する仏陀の教えが思い起こされます。仏教用語では,救いの基本的な考え方は,業(カルマ)と輪廻(サンサーラ)の法則から解放されること,それに涅槃(ニルバーナ)に到達することです。では,涅槃とは何ですか。仏教の経典によれば,それについて描写したり,説明したりすることは不可能で,ただ経験することができるだけです。それは,人が死んだ後に行く天ではなく,今,ここですべての人が達し得る状態です。その言葉自体は「吹き消す,消滅させる」という意味であるとされています。ですから,中には,涅槃をすべての欲情や欲望の消失,つまり苦痛,恐れ,困窮,愛,もしくは憎しみなどの感覚から自由にされた存在,とこしえの平安,安息,および不変の状態と定義する人もいます。とりわけ,それは個人の存在の消失であると言われています。
46,47 (イ)仏教の教えによれば,救いの源は何ですか。(ロ)救いの源に関する仏教の見方は,どうして普通の経験に反していますか。
46 悟りや救い ― 涅槃(ニルバーナ)の極致 ― は何らかの神,もしくは外的な力によりもたらされるのではなく,善行や正しい考え方の点で自ら努力して自分自身の内面からもたらされるものであると仏陀は説きました。このことから次のような疑問が生じます。完全なものが不完全なものから生じ得るのだろうか。人間の普通の経験は,ヘブライ人の預言者エレミヤが語ったように,『地の人の道はその人に属していない。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではない』ことを教えていないだろうか。(エレミヤ 10:23)簡単な日常の事柄においてでさえ,自分の行為を完全に制御できる人が一人もいないのなら,だれでも自分の永遠の救いを全く自分一人で達成できると考えることは道理にかなっているだろうか。―詩編 146:3,4。
47 流砂にはまり込んだ人が自力でそこから脱出できるとはまず考えられないのと同様,全人類は罪と死に閉じ込められており,このもつれた状態から抜け出すことができる人は一人もいません。(ローマ 5:12)ところが,救いは全く自分自身の努力にかかっていると仏陀は説きました。「自己に頼れ。外的な助けに頼ってはならない。真理をともしびとして固守せよ。ただ真理のうちに救いを求めよ。自分以外のだれにも助けを期待してはならない」というのが,弟子たちに対する別れの勧告でした。
悟りか,それとも幻滅か
48 (イ)涅槃(ニルバーナ)などの仏教の複雑な考え方の影響について,ある本はどのように述べていますか。(ロ)ある地方では仏教の教えに対する関心が近年高まってきましたが,その結果,どうなりましたか。
48 このような教理はどんな影響を及ぼしますか。真の信仰と専心の生活をするよう信者を鼓舞しますか。「現代仏教」という本は,一部の仏教国では,「修行僧さえ自分たちの宗教組織の中の崇高な人物のことをほとんど考えない。一般に,涅槃(ニルバーナ)に到達することは絶望的なまでに現実離れした野望と考えられており,瞑想を実践する者はほとんどいない。三蔵(ティピタカ)を気まぐれに勉強する以外,博愛的で和やかな影響を社会に与える存在となることに専念している」と伝えています。同様に,「世界大百科事典」(日本語)は,仏教の教えに対する関心が近年回復してきたことについて注解し,こう述べています。「仏教研究が専門化するにつれて,民衆を導く思想としての本来の役目からかけはなれていく危険性を多分に含み,この点を思うと,近年の盛んな仏教研究が生きた信仰としての生命の復活を示すものとはかならずしもいえないので,むしろ宗教が煩雑な学問的研究の対象となるときは,信仰としての生命はしばしば衰えている場合が多いことを考えればなおさらである」。
49 多くの人々にとって仏教はどんな教えとなりましたか。
49 知識と理解は悟りと救いをもたらすというのが仏教の根本的な概念です。ところが,仏教の様々な学派の複雑な教理は,結局のところ,大抵の信者には到底理解できない,前述のような「絶望的なまでに現実離れした」状況を招いてしまいました。それら信者にとって,仏教は善行をし,幾つかの儀式や簡単な戒律を守るだけの教えと化してしまいました。仏教は,人間はどこから来たのか,人間はなぜ存在しているのか,また人間と地球は将来どうなるのかというような人生の難問題と取り組んではいません。
50 一部の誠実な仏教徒の経験からすれば,どんな疑問が浮かんできますか。(コロサイ 2:8と比較してください。)
50 中には,今日,行なわれているような仏教の複雑な教理や厄介な儀式などのために混乱が生じたり,幻滅を感じさせられたりしていることを認める誠実な仏教徒もいます。また,仏教の種々の教団や協会が人道的な努力を払って,多くの人々の苦悩を軽減させてきた国も幾つかあるようです。しかし,仏教はすべての人々に対して真の悟りや解放をもたらす源になるという本来の約束を果たしてきましたか。
神なしに悟りが得られるか
51 (イ)ある逸話は仏陀の教えについてどんなことを伝えていますか。(ロ)仏陀の教えには,明らかにどんな重大な手落ちがありますか。(歴代第二 16:9; 詩編 46:1; 145:18と比較してください。)
51 仏陀の生涯に関する物語によれば,ある時,仏陀とその弟子たちはとある森の中にいました。仏陀は木の葉を一つかみすくって,「あなた方に教えたことはこの手にある木の葉と比較できるが,あなた方に教えなかったことはこの森の木の葉の量と比較できる」と,弟子たちに言いました。もちろん,これは仏陀が教えたのは自分の知っている事柄のほんの一部分にすぎないことを暗に示した言葉です。しかし,一つの重大の手落ちがあります。ガウタマ・仏陀は神についてほとんど一言も述べませんでした。また,自分が神であると主張したことは一度もありませんでした。実際,「神がいるとしても,わたしの日常の事柄を顧みているなどとはとても信じられない」,また,「人間を助けられる,もしくは助けようとする神々などはいない」と,弟子たちに語ったと言われています。
52 (イ)神に関する仏教の見解を述べてください。(ロ)仏教は何を無視していますか。
52 この意味では,まことの神を探求する人間の努力の点で仏教の役割は極めて小さいと言わなければなりません。「世界宗教百科事典」は,「初期の仏教は神に関する疑問を考慮しなかったようであり,確かに神に対する信仰を教えなかったし,要求もしなかった」と述べています。人は各々自分で自分の救いを求め,悟りを求めて自分の思考,もしくは意識に注意を向けるべきであることが強調されているので,仏教は無神論でないとすれば,実際には不可知論です。(145ページの囲み記事をご覧ください。)ヒンズー教の迷信やその途方もない多数の神秘的な神々による束縛を振り捨てようとするあまり,仏教はもう一方の極端に走りました。絶対者に関する根本的な概念を無視しました。しかし,万物はその方のご意志によって存在し,動いているのです。―使徒 17:24,25。
53 神なしに悟りを求めることについては何と言えますか。(箴言 9:10; エレミヤ 8:9と比較してください。)
53 このような自己中心的で独立した考え方のために,結果として仏教は伝説,伝承,複雑きわまりない教理,および多くの学派や宗派により何世紀にもわたって考案されてきた解釈などの全く錯そうした迷路の観を呈しています。人生の複雑な諸問題の簡単な解決策になると考えられたものが,結局,大抵の人々には到底理解できない宗教的,哲学的体系となりました。それどころか,仏教の普通の信奉者は偶像や聖遺物,神々や悪霊,霊や先祖などを崇拝したり,ガウタマ・仏陀の教えた事柄とはほとんど関係のない他の多くの儀式や慣行を行なったりすることにただ汲々としています。明らかに,神なしに悟りを求める努力はうまくいっていません。
54 次の章では,東洋の他のどんな宗教思想家の教えを考慮しますか。
54 ガウタマ・仏陀が悟りに至る道を探求していたのと大体同じ時期に,アジア大陸の別の場所には何百万もの人々に影響を及ぼすようになった考えを抱いていた二人の哲学者が住んでいました。それは後代の中国人その他の人々から崇敬された二人の聖人,つまり老子と孔子でした。この二人はどんなことを教えましたか。また,神を探求する人間の努力にどのような影響を及ぼしましたか。これは次の章で考慮いたしましょう。
[脚注]
a これは彼の名のパーリ語のつづりの翻字です。サンスクリット語からの翻字はガウタマ・シッダールタです。しかし,その生まれた年は西暦前560年,563年,あるいは567年などと様々の説がありますが,大抵の権威者は560年とするか,その誕生を少なくとも西暦前6世紀としています。
b “クリスマス”をはでに祝う日本の仏教徒は少なくありません。
c 無我(アナタ)などの仏教の教理では,不変もしくは永遠の魂の存在は否定されます。しかし今日,大抵の,それも特に極東の仏教徒は不滅の魂の転生を信じています。先祖崇拝を行なったり,死後の地獄の責め苦を信じたりしていることは,その点を明らかに証明しています。
[139ページの囲み記事]
仏陀の四聖諦
仏陀は基本的な教えをいわゆる四聖諦の中で詳述しました。次に,T・W・リス・デビッズ訳,「ダマチャッカパバッターナ・スッタ」(「義の王国の土台」; 日本語では「転法輪経」)を一部引用します。
■ 「ビク(比丘)よ,これが苦しみに関する優れた真理である。誕生も苦痛を伴い,衰えることも苦痛であり,病気も苦痛であり,死も苦痛である。不快な者と結ばれることも苦痛であり,快い者と別れることも苦痛である。満たされざる渇望もまた,苦痛である。……
■ 「ビク(比丘)よ,これが苦しみの根源に関する優れた真理である。真に,それは再び生存をもたらし,官能的な喜びを伴い,ここかしこに満足を求める,その渇望である。すなわち,欲望の満足を求める妄執,生に対する妄執,成功に対する妄執である。……
■ 「ビク(比丘)よ,これが苦しみの消滅に関する優れた真理である。真に,それは何の欲望も残らない,渇望そのものの消滅であり,この渇望を捨て去ること,除去すること,それから自由にされること,もはやそれを抱かないことである。……
■ 「ビク(比丘)よ,これが悲しみの消滅に導く道に関する優れた真理である。それは実にこの優れた八正道である。すなわち,正しい見解,正しい願望,正しい言葉,正しい行為,正しい生活法,正しい努力,正しい想念,および正しい熟考である」。
[145ページの囲み記事]
仏教と神
「仏教は人格神なしに完全な善と知恵に達する道,“啓示”なしに最高の知識……請け戻す者なしに請け戻し得ること,つまり人は皆,自分自身の救い主であるゆえの救いを説く教えである」―「仏教とは何か」という本に引用された,ビク(比丘)・スブハドラ著,「仏教の音信」の一節。
では,仏教徒は無神論者であろうか。ロンドンの仏教支部の出した「仏教とは何か」という本は,「無神論者が人格神という概念を退ける者を意味するのであれば,我々は無神論者である」と答え,さらにこう述べている。「成長期の人間は,自分は決して見ないであろうし,またどこに住んでいるのかも分からない,しかしある時点で無から宇宙を創造された偉大な遠い実在者に関する概念を頭に入れることができるように,宇宙が不変の法則によって導かれているという考え方を容易に頭に入れることができる。その宇宙には敵意,不公正,機会の不平等,際限のない苦しみや闘争が充満しているのである」。
このように,仏教は理論上,神もしくは創造者に対する信仰を唱道してはいないが,今日,仏教の行なわれている国のほとんどに仏教寺院や仏舎利塔があり,仏陀や菩薩の像や聖遺物が信心深い仏教徒の祈りや供え物や献身の対象とされている。自分が神であるなどとは決して唱えなかった仏陀が,あらゆる意味で神となったのである。
[142ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
仏教は西暦7世紀までに,インドから東アジア全域に広まった
インド
ベナレス
ブッダガヤー
西暦前3世紀 スリランカ
西暦前1世紀 カシミール
中央アジア
西暦 1世紀 中国
ミャンマー
タイ
カンプチア
ジャワ
西暦 4世紀 朝鮮半島
西暦 6世紀 日本
西暦 7世紀 チベット
[131ページの図版]
世界各地の仏教寺院はそれぞれ様式が異なっている
中国大陸北部,承徳<チョントー>
日本,甲府市
米国,ニューヨーク市
タイのチアンマイ
[133ページの図版]
パキスタン,ガンダーラの石の浮き彫りに見られるマーヤーの夢の中の未来の仏陀は,マーヤー妃を妊娠させるため,その右のわき腹に入ろうとしている,後光で囲まれた,白い象として描かれている
[134ページの図版]
米国,ニューヨーク市の仏教寺院の修行僧と崇拝者たち
[141ページの図版]
様式化された身振りを示す仏陀の像
涅槃(ニルバーナ)に達する様子
教えているところ
瞑想しているところ
誘惑に抵抗しているところ
[147ページの図版]
東京で見られた,仏陀の誕生日を祝う行列。後尾の白い象が仏陀の象徴
[150ページの図版]
中国語の妙法蓮華経(10世紀)のある箇所は,火や洪水から人を救う,菩薩クアン・インの力について説明している。右側の菩薩クシティガルバは韓国で14世紀ごろ人気があった
[155ページの図版]
地獄の責め苦を描いた,京都の仏教の巻き物
[157ページの図版]
左上から右回りに,タイ,バンコクの男根像; スリランカ,カンディの仏陀の歯の聖遺物; シンガポールやニューヨークの仏陀の像の前でそれぞれ礼拝する今日の仏教徒
[158ページの図版]
家族の仏壇の前で祈る仏教徒の婦人と寺院での礼拝に加わる子供たち
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道教と儒教 ― 天の道の探求神を探求する人類の歩み
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7章
道教と儒教 ― 天の道の探求
道教,儒教,および仏教は中国,および極東の三大宗教です。しかし仏教とは異なって,道教と儒教は世界宗教とはならず,基本的に言って,中国,およびどこでも中国文化が影響を及ぼしてきた所で存続してきました。中国大陸のこれらの宗教の信奉者の現在の人数に関する公式の数字は入手できませんが,道教と儒教は共に,過去2,000年にわたって世界人口のおよそ4分の1の人々の宗教生活を支配してきました。
1 (紹介の言葉も含めて)(イ)道教と儒教はどこで,またどの程度行なわれていますか。(ロ)その教えを調べるため,これからどの時期に注意を向けますか。
「百花斉放; 百家争鳴」。これは中華人民共和国の毛沢東が1956年に行なった話の中で使われて有名になった言葉ですが,実際には,中国の学者が西暦前5世紀から同3世紀までの中国の戦国時代を描写するのに使ってきた表現を言い替えた言葉です。そのころまでに,力のあった周王朝(西暦前1122年ごろ-256年)は衰えて,相互の結びつきの緩やかな,戦争に明け暮れる国々で成る封建制度の国家に化したため,一般民衆は大変苦しめられました。
2 (イ)どうして「百家」と呼ばれる様々な思想の学派が生じましたか。(ロ)「百家」のように出現した諸学派のうち,どれが存続しましたか。
2 戦争のもたらした混乱や苦しみのために伝統的な支配階級の権威は弱まり,一般民衆はもはや特権階級の気まぐれな考えやたくらみに追従して満足したり,その結果を黙って甘受したりすることはなくなりました。その結果,長い間抑えられていた考え方や願望が「百花」のように一斉に開花し,様々な思想の学派が生活をある程度常態に戻す手だてとして,政治,法律,社会秩序,行動,および倫理,それに農業,音楽,および文学などに関するそれぞれの考え方を発展させました。それら諸学派は「百家」として知られるようになりました。その大半は永続する影響を及ぼしませんでしたが,二つの学派が非常に際立った存在となり,2,000年以上にわたって中国の人々の生活に影響を及ぼし,やがて道教や儒教として知られるようになりました。
「道」とは何か
3 (イ)中国語の「道」に関し,中国人はどんな概念を持っていますか。(ロ)中国人は創造者の代わりに,何が万物の原因であると考えましたか。(ヘブライ 3:4と比較してください。)
3 道教(英語,Taoism)や儒教が中国人をはじめ,日本,韓国その他,周辺諸国の人々に永続する重大な影響を及ぼすようになった理由を理解するには,中国語の「道<ダオ>」に関する中国人の基本的な概念をある程度理解する必要があります。この中国語それ自体は,「道,道路,もしくは通路」という意味で,語義を拡張すると,「方法,原理,もしくは教理」をも意味します。中国人にとって,宇宙に認められる調和や秩序正しさは「道<ダオ>」,つまり一種の神意,もしくは宇宙に存在し,これを支配している法の表われでした。言い換えれば,中国人は宇宙を支配する創造者なる神を信ずる代わりに,神慮,つまり天の意志,もしくは万物の原因としての天それ自体を信じていました。
4 中国人は「道」に関する概念をどのように人間社会の営みに当てはめましたか。(箴言 3:5,6と比較してください。)
4 「道<ダオ>」に関する概念を人間社会の営みに当てはめた中国人は,何事でもそれをすべき自然で正しい道があり,何事でも,まただれでも,各々そのあるべき正しい場所や機能があると考えました。ですから,例えば,もし支配者が民を正しく扱い,天にかかわる供犠を守って,自分の義務を履行するなら,国家は平和と繁栄を享受すると考えました。同様に,民が進んで「道<ダオ>」,つまり道を求め,それに従うなら,すべてが調和し,平和になり,効を奏するのです。しかし,もし人々が道に逆らったり,抵抗したりすれば,結果は混乱と災いに終わると考えました。
5 (イ)道教は「道」に対してどんな取り組み方をしていますか。(ロ)儒教は「道」に対してどんな取り組み方をしていますか。(ハ)どんな疑問に答える必要がありますか。
5 「道<ダオ>」に従って進み,その流れを妨げないことが,中国人の哲学的な宗教思想の中心的な要素の一つです。また,道教と儒教は,同一の概念の二通りの異なった表現であるとも言われています。道教は神秘的な取り組み方をしており,元の形の道教の場合には社会を避け,自然に戻って,無為,静穏,守勢に徹することを説きます。人々がくつろいで座り,何もせずに,自然の成り行きに任せれば,万事うまく行くというのが,この教えの基本的な考え方です。他方,儒教は実用主義的な取り組み方をして,すべての人が各自自分の予定の役割を演じて,自分の義務を果たせば,社会秩序は保たれると説きます。そして,そのために,支配者と被支配者,父と子,夫と妻などの人間や社会のあらゆる関係を体系化し,そのすべてのための指針を示しています。このことから,当然,これらの二つの制度がどのようにして存在するようになったのか,その開祖はだれか,その教えは今日どのように行なわれているか,また神を探求する人間の努力に関して言えば,これらの制度は何を行なってきたかというような疑問が生じます。
道教 ― その哲学的な始まり
6 (イ)道教の開祖についてはどんなことが知られていますか。(ロ)道教の開祖はどうして老子として知られるようになりましたか。
6 初期のころの道教は宗教というよりはむしろ一種の哲学でした。その開祖である老子は当時の混乱と騒動に不満を感じ,社会を避けて自然に戻ることにより安らぎを得ようとしました。西暦前6世紀に生きていたと言われているこの人物については,あまりよく知られていません。その年代さえも確かではありません。その名は普通,「年取った主人」という意味の老子と呼ばれています。なぜなら,伝説によると,彼を身ごもった母があまり長い期間その子を宿していたため,彼が生まれた時,その髪の毛はすでに白くなっていたからです。
7 老子について「史記」からどんなことを学べますか。
7 老子に関する唯一の公式の記録は,人々から敬われた西暦前2ないし1世紀の宮廷史家,司馬遷の著わした「史記」に収められています。その資料によれば,老子の本名は李耳でした。彼は中国,中部の洛陽の帝室古文書館の館員でした。しかし,さらに重要なこととして,その記述は老子についてこう告げています。
「老子はその生涯のほとんどの期間,周に住んでいた。そして,周の衰亡を予見した時,去って,辺境の地に赴いた。関所の役人,尹喜は言った,『隠棲なさるのを喜んでおられるのですから,私のために書物を1冊著わしていただけないでしょうか』。そこで,老子は5,000語余りの言葉で記された,2編から成る1冊の書物を著わし,“道<ダオ>”と“力[もしくは徳]”に関する概念について論じた。その後,老子は去って行った。彼がどこで亡くなったかはだれも知らない」。
8 (イ)老子はどんな書物を作成したと言われていますか。(ロ)その書物にはなぜ様々の異なった解釈が施されていますか。
8 この記述を疑問視する学者は少なくありません。いずれにしても,作成されたその書物は「道徳経」として知られており,道教の主要な教本とみなされています。その文体は謎のような短い句の形をしており,中にはわずか二,三語の短い句もあります。それゆえ,また老子の時代以来,意味の相当変化した文字もあるため,この書物には様々の異なった解釈が施されています。
「道徳経」を概観する
9 老子は「道徳経」の中で「道」,つまり道についてどのように述べていますか。
9 老子は「道徳経」の中で「道<ダオ>」,つまり自然の究極の道について詳述し,それをあらゆる段階の人間の活動に当てはめました。この「道徳経」を概観してみるため,ジア・フー・フェンおよびジェーン・イングリッシュ共編の現代訳の一部を次に引用します。「道<ダオ>」,つまり道に関してはこう記されています。
「霊妙な仕方で形造られ,
天地が生ずる前に生まれたもの[があった]。……
それは万物の母であろう。
わたしはその名を知らない。
それを道<ダオ>と呼べ」― 25章。
「すべてのものは道<ダオ>から生ずる。
すべてのものは徳<テ>によって育成される。
すべてのものは物質から形造られる。
すべてのものは環境によって形成される。
ゆえに,万物は皆,道<ダオ>を敬い,
徳<テ>を尊ぶ」― 51章。
10 (イ)道教の目標とは何ですか。(ロ)道教のこの考え方は人間の行為にどのように当てはめられていますか。
10 このような謎めいた章句から,どんなことを推論できますか。道教徒にとって,道<ダオ>とは物質宇宙の生成の原因である,ある神秘的な宇宙的力です。道教の目標は,道<ダオ>を探求し,世を捨てて,自然と一体になることです。この概念は人間の行為に関する道教の考え方にも反映しています。この理想が「道徳経」の中で表現されている箇所を次に掲げます。
「あふれるほど満たすよりも思いとどまるほうが勝っている。
刃を研ぎすぎると,刃先はたちまち切れなくなる。
金やひすいを沢山蓄えても,だれもそれを守れない。
富や称号を請求しても,災害が付いて来る。
仕事をしたら,隠棲せよ。
これは天の道である」― 9章。
11 道教の理想はどのように説明できますか。
11 これら二,三の例から,道教は少なくとも最初は,基本的に言って哲学の一学派であったことが分かります。道教徒は当時の封建制度による過酷な支配のもたらした不公正,苦悩,荒廃,および無用なものに反発して,平安と調和を見いだす道は,一般民衆を支配した王や大臣たちのいなかった古代の伝統に戻ることだと考えました。彼らの理想は自然と一緒になって,静穏な,いなかの生活を送ることでした。―箴言 28:15; 29:2。
道教の第二の聖人
12 (イ)荘周とはだれのことですか。(ロ)荘周は老子の最初の教えにどんなことを付け加えましたか。
12 老子の哲学は荘周,もしくは「荘師」という意味の荘子(西暦前369-286年)によって,さらに一歩前進させられました。この荘子は老子の最も傑出した後継者とみなされました。荘子は自著,「荘子」の中で,道<ダオ>,つまり道について詳述しているだけでなく,「易経」の中で最初に展開された,陰陽に関する考え方をも説明しています。(83ページをご覧ください。)荘子の考え方では,何ものも真に永遠,もしくは絶対ではなく,あらゆるものは正反対の二つの事象の間で流転しています。荘子は秋水編の中で次のように書いています。
「宇宙では何ものも永遠ではない。あらゆるものは長く生きても,結局は死ぬからである。ただ,始めも終わりもない道<ダオ>のみが永久に存続する。……人生は全速力で疾駆する駿馬に例えられよう。それは瞬時に絶えず変化してやまない。人は何をすべきか,あるいはすべきではないかということは,実際,少しも重要なことではない」。
13 (イ)荘子の詳しい説明によれば,道教は人生に関するどんな見方を示していますか。(ロ)人々は荘子のどんな夢のことをよく覚えていますか。
13 このような無為の哲学のために,道教の考え方では,だれであれ,自然により動かされているものに干渉するために行なうことはすべて,何にもならない。遅かれ早かれ,一切のものは反対の状態に戻る。どんなに耐え難い状況でもやがてより良い状況になり,どんなに快い状況でもやがて消滅してしまう。(これとは対照的な,伝道の書 5:18,19をご覧ください。)荘子の見た,ある夢は,人生に関するこの哲学的な見方を示す典型的な例で,一般の人々はこの夢で荘子のことをよく覚えています。
「かつて荘周は自分がチョウになって,独り楽しく,好きなことをして,ひらひらと軽やかに飛び回る夢を見た。彼は自分が荘周であることを知らなかった。突然,目を覚ましたところ,彼は紛れもない荘周その人であった。が,果たして,自分がチョウになった夢を見た荘周だったのか,それとも自分が荘周になった夢を見たチョウだったのか分からなかった」。
14 どんな分野も道教の影響を反映していますか。
14 この哲学の影響は,後代の中国人の芸術家が発達させた詩や絵画の形式にも認められます。(171ページをご覧ください。)しかし,道教は長い間目立たない哲学のままでとどまってはいませんでした。
哲学から宗教へ
15 (イ)道教徒は自然に魅惑されたため,どんな考えを抱くようになりましたか。(ロ)道徳経のどんな言葉がそのような考えを助長しましたか。
15 自然と一体になろうと努めた道教徒は,不老や生気回復力を得ようとする考えに取り付かれるようになりました。そして,道<ダオ>,つまり自然の道と調和した生き方をすれば,人は多分,どうにかして自然の秘密を探り出し,身体的な害,病気,および死をさえ免れるようになれるかもしれないと考えました。老子はこのようなことを問題にしませんでしたが,「道徳経」のある章句はそのような考えを示唆しているように見えました。例えば,16章はこう述べています。「道<ダオ>と一体になっていれば,永遠に存在する。また,体は死ぬが,道<ダオ>は決して過ぎ去ることがない」。a
16 荘子の著作はどのように道教の魔術的な信仰をあおりましたか。
16 荘子もまた,次のような空論を助長しました。例えば,「荘子」に出て来る対話の中で,ある神秘的な人物が別の人にこう尋ねました。「あなたは高齢であられるのに,なお子供のような顔の色つやをしておられるのはどうしてでしょうか」。相手の人は,「道<ダオ>を学んできたのだ」と答えました。道教の別の哲学者について,荘子はこう書きました。「さて,列子は風に乗ることができたし,涼しいそよ風を受けて楽しく帆走し,15日間出かけて行っては戻ったりしていた。幸福な生活を営めるようになる人間の中で,このような人はまれである」。
17 初期の空論が高じたため,道教徒は何を行なうようになりましたか。その結果,どうなりましたか。(ローマ 6:23; 8:6,13と比較してください。)
17 このような作り話で想像力をかき立てられた道教徒は,瞑想,食養生,および肉体の腐敗や死を遅らせ得ると考えられた呼吸法などを試してみるようになりました。やがて,雲に乗って飛んだり,意のままに現われたり姿を消したりすることができ,また露や魔法の果物を食べて,聖なる山々や遠い孤島で数えきれない年月にわたって生きたという不死の人間に関する伝説が流布されるようになりました。中国の歴史によれば,西暦前219年に,秦の始皇帝は,不死の人間が住むという伝説の蓬莱の島を探して,不死の薬草を持ち帰らせるため,少年少女3,000人を乗せた船団を送り出しました。言うまでもなく,彼らはその霊薬を持って帰っては来ませんでしたが,伝承によれば,その島々に住みつき,後にそこが日本として知られるようになりました。
18 (イ)“不老不死の妙薬”の背後には道教のどんな考え方がありますか。(ロ)道教では,ほかにどんな魔術的な慣行が編み出されましたか。
18 漢王朝(西暦前206年-西暦220年)の時代中,道教の魔術的な慣行は新たな頂点に達しました。武帝は公式の国教としては儒教を奨励しましたが,肉体の不滅に関する道教の考えにすっかり魅惑され,特に錬金術により“不老不死の妙薬”を混ぜ合わせて作ることに熱中しました。道教の考え方では,生命は相対立する陰陽(女性と男性)の精力が結合する結果であるとされています。ですから,錬金術士は鉛(暗い,つまり陰)と水銀(明るい,つまり陽)とを融合させることにより,自然の過程を模倣して,その結果,不滅の妙薬ができると考えました。道教徒はまた,ヨーガに似た行法,呼吸制御法,飲食を節する食養生,および人の活力を強化して寿命を延ばせると考えられた性交技法などを編み出しました。道教の一式の用具の中には,それを使えば,姿を見えなくしたり,武器から身を守ったり,あるいは水上を歩いたり,宇宙空間を飛行したりすることができるとされる魔法の護符もありました。また,悪い霊や野獣を寄せ付けないようにするために建物や戸口の上に付ける,大抵,陰陽の印の付いた魔法の封印もありました。
19 道教はどのように組織化されましたか。
19 道教は西暦2世紀までに組織化されました。ある張陵という人が中国西部で道教の秘密結社を結成し,魔術による治療と錬金術を行ないました。その結社の成員は各々米5斗bを料金として徴収されたので,この運動は五斗米道として知られるようになりました。老子から個人的に啓示を受けたと主張した張は,第一の“天師”になりました。張はついに命の霊薬を作ることに成功し,江西省の竜虎山から,虎にまたがって,生きたまま天に昇ったと言われています。幾世紀もの長期間続いた道教の代々の“天師”は張陵から始まっており,その各々は張の化身とされました。
仏教の挑戦を受けて立つ
20 仏教の影響を相殺しようとする道教による試みはどのようになされましたか。
20 唐王朝(西暦618-907年)の時代の7世紀までに仏教が中国人の宗教生活に食い込んできました。その対抗手段となった道教は,中国に根づいた宗教として勢力を伸ばし,老子は神格化され,道教の書物の正典化が図られました。それに,神殿や男女修行僧の僧院が建てられ,男女修行僧の集団が大体仏教の型に準じて設立されました。その上,種々の男神や女神,妖精,八仙(「八人の不死の人」の意)のような中国民間伝承の不死の人間,竈神(炉床の神),城隍神(都市の神々),門神(入口の守護神)などの多くの神々が道教の万神殿に入れられました。その結果,道教は仏教,伝統的な迷信,心霊術,および先祖崇拝などの諸要素を混合した宗教となりました。―コリント第一 8:5。
21 道教はやがて何に,またどのように変身しましたか。
21 時たつうちに,道教は徐々に堕落して偶像崇拝や迷信を奉ずる制度と化してしまい,人々は各々地元の寺院で,ただ自分の好きな男神や女神を崇拝して,悪から身を守ってもらい,地上で幸運をつかむのを助けてもらうよう祈願しました。葬式を執り行なったり,墓や家や商売に適した場所を選んだり,死者と交信したり,悪い霊や幽霊を寄せ付けないようにしたり,祭りを祝ったりするほか,他の多種多様な儀式を行なうのに僧が雇われました。ですから,神秘的な哲学の一学派として始まったものが,古代バビロンの偽りの信条のよどんだ池から取り出された考えである不死の霊,地獄の火,半神半人などに対する信仰の泥沼にあえぐ宗教に変身してしまいました。
中国の他の際立った聖人
22 どんな思想を唱道する学派が中国の人々を支配するようになりましたか。どんな疑問を考慮する必要がありますか。
22 ここまでで,道教が起こり,発展し,腐敗したいきさつをたどってきましたが,これは戦国時代の中国で咲いた「百花」のほんの一つにすぎないことを思い起こさなければなりません。やがて際立った存在になった,実際,人々を支配するようになった,もう一つの学派は儒教でした。それにしても,儒教がそのように際立った存在になったのはなぜでしょうか。確かに,孔子は中国人の聖人すべての中でも中国以外の所で最もよく知られた人物ですが,孔子とは一体だれのことですか。孔子は何を教えましたか。
23 「史記」には,孔子に関するどんな個人的な詳細な事柄が記されていますか。
23 孔子に関しても,司馬遷の著書,「史記」を再び調べてみましょう。老子に関する簡単な描写とは対照的に,孔子に関しては長い伝記があります。次に,孔子の個人的な詳細な事柄に関する説明を中国人の学者,林語堂の翻訳から少し引用します。
「孔子は魯の国の昌平郷,陬邑で生まれた。……[その母は]尼丘の丘で祈り,その祈りに対する答えとして,魯の襄公の第22年(紀元前551年)に孔子を産んだ。彼は生まれた時,その頭に人目を引く渦巻きがあったため,『丘』と呼ばれた。その字は仲尼で,姓は孔であった」。c
24 孔子の若い時代には,どんなことがありましたか。
24 孔子は生まれて間もなく,父に先立たれましたが,母は貧しかったのに,どうにかその子に正式の教育を受けさせました。彼は少年のころ,歴史や詩や音楽に対する強い関心を現わしました。儒教の「四書」の一つである「論語」によれば,孔子は15歳の時に学問の研究に専念し,17歳で祖国,魯の政府の小役人の職を与えられました。
25 孔子はその母の死からどのような影響を受けましたか。(伝道の書 9:5,6; ヨハネ 11:33,35と比較してください。)
25 こうして経済事情が改善されたらしく,19歳で結婚し,翌年,息子をもうけました。しかし,20代の半ばにその母が亡くなりました。その死は大変大きな影響を与えたようで,古来の伝統を綿密に守っていた孔子は公職を退いて,亡き母をその墓前で27か月間悼み,中国人に孝行の古典的な手本を残しました。
教師としての孔子
26 孔子はその母の死後,どんな仕事に取り組みましたか。
26 その後,孔子は家族を後にし,教師の仕事としての遊説の旅に上りました。彼の教えた論題には,音楽,詩,文学,市政学,倫理学,および科学,もしくは当時それとみなされていたものが含まれました。孔子はかなり名を上げたに違いありません。一時期,そのもとに3,000人もの大勢の門人がいたと言われているからです。
27 教師としての孔子に関しては,どんなことが知られていますか。(マタイ 6:26,28; 9:16,17; ルカ 12:54-57; ヨハネ 4:35-38と比較してください。)
27 東洋では孔子は主に傑出した教師として敬われています。事実,山東省,曲阜<チュイフー>にある,その墓の墓碑では,彼は簡単に,「古代のいと聖なる師」と呼ばれています。西洋の一著述家は孔子の教え方についてこう記しています。「彼は『人生に関する自分の考え方を吸収しようとしていた者たちを同伴して,一つの場所から別の場所へと巡って行った』。一行の旅がどれほどの距離の場合でも,いつでも彼は牛車に乗った。その動物の歩みは遅かったので,門弟たちは歩いて付いて行くことができた。その講義の論題はしばしば旅の途上での出来事から思いついた事柄だったようである」。これとは別ですが,興味深いことに,イエスも後期には同様の方法を取られました。
28 中国の著述家,林語堂によれば,孔子はどうして大いに尊敬される教師になりましたか。
28 孔子が東洋人の中でも大いに尊敬される教師になったのは,彼自身,それも特に歴史や倫理学の優れた研究者だったことによります。林語堂は,「孔子は当時の最大の賢人だったというよりも,むしろ最も博学な学者で,古典や古代の学問について教えることのできた当時ただ一人の人物だったゆえに,人々は彼に引き付けられた」と書いています。この好学心を儒教が他の思想の学派に対して勝利を収めた主要な理由として指摘した林は,この問題を次のように要約しました。「儒教の教師には教えるべき明確な事柄があり,孔子の門弟たちには学ぶべき明確な事柄,つまり歴史的な学問があったが,他の学派は単に勝手な意見を吹聴するのを余儀なくされたのである」。
「天がわたしを知っている!」
29 (イ)孔子の一生の念願は何でしたか。(ロ)その念願をどのようにして果たそうとしましたか。結果はどうでしたか。
29 孔子は教師として成功したにもかかわらず,その教える業を一生の仕事とは考えませんでした。孔子は支配者たちが自分やその門弟たちを雇って政府の役職に就け,倫理および道徳に関する自分の考え方を当てはめさえすれば,当時の苦悩する世界を救済できると考えました。そのために,最も親しかった何人かの少数の弟子たちを伴って,故国,魯を去り,政府や社会秩序に関する自分の考え方を採用する賢い支配者を見つけるため,諸国を巡って旅をしました。結果はどうでしたか。「史記」はこう述べています。「ついに彼は魯を去り,斉で見捨てられ,宋と衛では追い出され,陳と蔡の間では食糧が欠乏して困窮した」。14年間の流浪の末,落胆して魯に戻りましたが,完全に失意してしまったわけではありませんでした。
30 儒教の基盤となっているのはどんな著作ですか。
30 晩年の孔子は著作と教育に専念しました。(177ページの囲み記事をご覧ください。)そして,自分の微賤な身分を確かに嘆いたようですが,こう述べました。「わたしは天に向かって不平を言わない。人にも不平をこぼさない。わたしはこの地上で研究を続行し,上なる天と接触している。天がわたしを知っている!」そして,ついに西暦前479年,73歳で亡くなりました。
孔子の思想の真髄
31 孔子は社会秩序の確立を図る方法として,何を説きましたか。
31 孔子は学者,ならびに教師として秀でていましたが,その影響は決して学問の世界だけに限られていたわけではありませんでした。実際,孔子が目指したのは,単に処世訓,もしくは道徳について教えるだけでなく,当時,封建領主間の絶え間ない戦争で分裂していた社会の平安と秩序を回復することでした。その目標を達成するため,孔子は,皇帝から一般庶民に至るまで,すべての人がそれぞれ社会の中で果たすべく期待されている役割を果たし,ふさわしく生活しなければならないと説きました。
32,33 (イ)孔子は礼に関するどんな概念を持っていましたか。(ロ)礼を実践すると,どんな結果になると,孔子は考えましたか。
32 この概念は儒教では礼として知られています。礼とは適正,礼儀,および物事の秩序を意味し,その適用範囲を広げると,儀礼,儀式,および敬礼を意味します。孔子は,「この重要な礼とは何か」という問いに答えて,次のように説明しました。
「人々が生きるためのよりどころとしている事柄すべての中で最も大事なのは礼である。礼なくしては,宇宙の諸霊の正しい崇拝の仕方,あるいは王や大臣,支配者や被支配者,長老や年少者の正しい地位を確立する方法,または男女,親子,兄弟間の倫理的な関係を確立する方法,もしくは家族内の種々の関係のあり方を識別する方法は分からない。それゆえに,君子は礼を大いに重視するのである」。
33 ですから,それは真の君子が自分の社会的な交渉すべてを遂行する際のよりどころとすべき処世訓です。孔子は,万人が努力してそうする時,「家族,国家,および世界の万事が正しくなる」と述べましたが,それこそ,道<ダオ>,つまり天の道が行なわれる時なのです。しかし礼を表わすには,どうすべきですか。ここで,儒教のもう一つの中心的な概念である仁,つまり人間愛,もしくは慈愛という考えを取り上げてみることにしましょう。
34 仁に関する儒教の概念について述べてください。それは社会悪に対処する上で,どのように役立ちますか。
34 礼は外的な規則による抑制を強調しますが,仁は人間性,もしくは内なる人と関係があります。儒教の,それも特に孔子の主立った弟子,孟子の表現したこの概念は,人間の性は基本的には善であるということです。ですから,すべての社会悪の解決策は自己修養で,これは教育と知識から始まります。「大学」の第1章は次のように始まっています。
「真の知識を勝ち得ると,意志は誠実なものとなり,意志が誠実であれば,心は正しくなる。……心が正しければ,個人の生活は錬磨され,個人の生活が錬磨されれば,家族生活は調整される。家族生活が調整されれば,国民生活は秩序正しくなり,国民生活が秩序正しければ,この世は平和になる。皇帝から庶民に至るまで,人はすべて,個人の生活を錬磨することを基本,もしくは土台とみなさなければならない」。
35 (イ)礼と仁の原理はどのように要約できますか。(ロ)人生に関する中国人の見方はこのすべてをどのように反映していますか。
35 ですから,孔子によれば,礼を守り行なえば,人々はあらゆる状況で正しく振る舞うことができるようになり,仁を培えば,人々は他の人を皆,親切に扱うようになります。その結果,理論的には,社会は平和で,調和が保たれます。礼と仁の原理に基づく儒教の理想は,次のように要約できるでしょう。
「父は親切を示し,子は孝行を尽くし,
長兄は優しさを,年若い者は謙遜さと敬意を示し,
夫は義にかなった行状を,妻は従順を示し,
長老は人情のある思いやりを示し,年少者は敬意を表し,
支配者は情け深さを,大臣や臣民は忠節を示す」。
このすべては,大抵の中国人や中には他の東洋人も,なぜ家族のきずな,勤勉さ,教育,および自分の立場をわきまえて行動することなどを非常に重視するかを理解する助けになります。儒教のそれらの概念は何世紀にもわたって教え込まれたため,善かれ悪しかれ,中国人の意識に深く刻み込まれてきました。
国教になった儒教
36 儒教はどのようにして国教としての地位を得ましたか。
36 儒教の台頭と共に,「百花斉放」の時代は終わりを告げました。漢王朝の歴代の皇帝は,王権を確固たるものにするのに必要な格好の方式を支配者に対する忠節を説く儒教の教えのうちに見いだしました。道教に関連して既に言及した武帝のもとで,儒教は国教の地位に格上げされ,儒教の経典に精通した者のみが国の官僚として選抜され,政府の役職に就きたいと思う者は皆,儒教の経典に基づく国家試験に合格しなければならなくなり,また儒教の儀式や儀礼が帝室の宗教になりました。
37 (イ)儒教はどのようにして一種の宗教になりましたか。(ロ)実際,儒教はなぜ単なる哲学以上のものですか。
37 こうした事態の変化は,中国社会における儒教の地位を引き上げるのに大いに役立ちました。漢王朝歴代の皇帝は孔子の墓前で犠牲をささげる伝統を作り出しましたし,孔子には種々の敬称が与えられました。その後,西暦630年に唐の皇帝,太宗は,同帝国内のすべての省や郡に国立孔子廟を建立し,定期的に犠牲をささげるよう命じました。孔子は事実上,神の地位に格上げされ,儒教は道教や仏教とほとんど見分けられないようになりました。―175ページの囲み記事をご覧ください。
東洋の知恵の遺産
38 (イ)1911年以来,道教と儒教はどうなりましたか。(ロ)しかし,これらの宗教の基本的な概念については依然として何と言えますか。
38 中国の王朝支配が終わりを告げた1911年以来,儒教や道教は大いに批判され,迫害をさえ受けるようになりました。道教はその魔術的,迷信的な慣行ゆえに信用を失い,また儒教は人々,特に女性を服従させておくため,奴隷のような物の見方を奨励する,封建主義的な教えという烙印を押されました。しかし,こうして公式に非難されたにもかかわらず,これらの宗教の基本的な概念は中国人の脳裏に非常に深く入っているため,依然として多くの人々をしっかりと支配しています。
39 ある新聞の報告は,中国大陸における宗教の迷信的な慣行について何と述べていますか。
39 例えば,1987年にカナダのグローブ・アンド・メール紙は,「沿岸地方で盛んになった,北京<ペキン>ではまれな中国の宗教儀式」という見出しで,無神論に基づく支配が中国大陸で40年近く行なわれた後でも,葬式,寺院での礼拝,および数多くの迷信的な慣行はいなかの地方で依然として普通に行なわれていると伝えました。その報告は,「大抵の村には,先祖の墓から新しい家や居間の家具に至るまで,あらゆる物事の一番縁起のよい場所を決めるために風と水の力の読み方を知っている,普通,年配の住人である“風水”先生がいる」と述べました。
40 台湾省ではどんな宗教的な慣行が見られますか。
40 道教や儒教は,ほかにも伝統的な中国文化が存続している所ならどこにでもあります。台湾省には,張陵の子孫と称して,道教の僧(道士)を任命する権能を持つ“天師”を勤める,ある男の人がいます。また,天上聖母として一般に知られている,人気のある女神,媽祖は同島と船員や漁師の守護聖人として崇拝されています。一般庶民は大抵,河川や山々や星の霊,あらゆる職業の守護神,および健康や幸運や富の神々に供え物や犠牲をささげることに余念がありません。d
41 儒教は今日,宗教としてどのように行なわれていますか。
41 儒教についてはどうですか。その宗教としての役割は国家的な記念碑としての地位に格下げされました。中国大陸の孔子の生地である曲阜<チュイフー>では,国が孔子の廟とその屋敷を観光名所として維持しています。「中国再建」誌によれば,そこでは,「孔子崇拝の儀式の再演」が行なわれています。それに,シンガポール,台湾省,香港<ホンコン>および東アジアの他の場所の人々は今でも孔子の誕生日を祝っています。
42 儒教や道教はまことの神を探求する努力の点で,どのように不十分なものとなっていますか。
42 儒教や道教を調べてみると,人間の知恵や推論に基づく制度は,それがどれほど論理的で,善意に基づくものであっても,まことの神を探求する努力の点では結局,不十分であることが分かります。なぜでしょうか。なぜなら,一つの肝要な要素,すなわち人格神の意志や要求が考慮されていないからです。儒教は善を行なうよう動機づける力として人間性を頼りにし,道教は自然そのものを頼りにしていますが,これは誤った信頼です。なぜなら,それは創造者ではなく,むしろ創造されたものを崇拝することにほかならないからです。―詩編 62:9; 146:3,4。エレミヤ 17:5。
43 中国人の宗教的な伝統は,まことの神を探求する点で,どのように人々に不利な働きをしてきましたか。
43 一方,先祖崇拝や偶像崇拝の伝統,宇宙を意味する天に対する崇敬の念,および自然の霊に対する尊崇の気持ち,それにそのような崇拝と結びついている儀礼や儀式が中国人の考え方に非常に深く根づいてきたため,そのようなことが無言の真理として受け入れられています。人格的な神,もしくは創造者について中国人と話し合うのは非常に難しい場合が少なくありません。なぜなら,そのような概念は中国人にとって非常に異質なものだからです。―ローマ 1:20-25。
44 (イ)理性のある考え深い人たちは自然の道に見られる驚異に対して,どのように反応してきましたか。(ロ)わたしたちは何をするよう励まされていますか。
44 自然が偉大な驚異と知恵で満ちており,わたしたち人間が理性や良心という驚くべき能力を付与されていることは否定すべくもありません。しかし,仏教に関する章で指摘したように,自然界に見られる驚異に接した,理性のある考え深い人たちは,設計者,もしくは創造者が存在するに違いないという結論に達してきました。(151ページをご覧ください。)そういう事情ですから,創造者を探求するよう努力すべきなのは当然なことではないでしょうか。実際,創造者はそうするよう次のように勧めておられます。「あなた方の目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それは,その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれる」。(イザヤ 40:26)そうすれば,創造者,すなわちエホバ神とはだれかということだけでなく,その方はわたしたちの将来のために何を備えておられるかということも分かるでしょう。
45 次の章では東洋のほかのどんな宗教を考慮しますか。
45 東洋の人々の宗教生活で主要な役割を演じてきた仏教,儒教,および道教のほかに,もう一つの宗教,日本人の独特の宗教,つまり神道があります。それはどのように異なっていますか。その源は何ですか。それは人々をまことの神に導きましたか。このことは次の章で考慮いたしましょう。
[脚注]
a 林語堂はこの句をこう訳しています。「道<ダオ>と一致していれば,その人は永遠に存在し,全生涯にわたり害から守られる」。
b 1斗(中国)は乾量の単位で,約8.8㍑。
c 「孔子」のことを英語で“Confucius”と言いますが,この語は「孔夫子,つまり孔師」という意味の中国語“K'ung-fu-tzu”(クン・フー・ツー)のラテン語の翻字から来ています。16世紀に中国にやって来て,孔子をローマ・カトリック教会の“聖人”の列に加えるようローマ法王に推薦したイエズス会の修道士たちが,このラテン語化された名称を造り出しました。
d 台湾省の天道と呼ばれる道教徒の一教団は自分たちの宗教を道教,儒教,仏教,キリスト教,およびイスラム教の五つの世界宗教を融合したものであると唱えています。
[175ページの囲み記事]
儒教 ― 哲学,それとも宗教?
孔子は神についてほとんど何も述べていないため,儒教は単なる哲学であって,宗教ではないと考える人は少なくありませんが,孔子の言行は彼が宗教心の持ち主だったことを示唆しています。このことは次の二つの点から分かります。第一に,孔子は中国人により天と呼ばれている宇宙最高の霊的な力に対する敬虔な恐れを抱いており,その天をあらゆる徳と道徳的な善の源とみなし,その意志が万物を導いていると感じていました。第二に,天の崇拝と亡くなった先祖の霊に関係のある儀礼や儀式を綿密に執り行なうことを大いに重視しました。
孔子はこのような考え方を決して一種の宗教として唱道しようとはしませんでしたが,代々の中国人にとって,それは宗教とは一体どういうものかを示す事柄となりました。
[177ページの囲み記事/図版]
儒教の四書五経
四書
1. 大学 君子の教養の基礎で,昔の中国の学童が最初に勉強した教本
2. 中庸 節度を守って人間の本性を陶冶することに関する論説
3. 論語 儒教思想の主要な源と考えられる,孔子の言辞の集成
4. 孟子 孔子の最高の門弟,孟子の著述,および言辞の集成
五経
1. 詩経 初期の周時代(西暦前1000-600年)の日常生活を描写したものを含む305編の詩集
2. 書経 殷王朝(西暦前1766-1122年)をはじめとして,17世紀にわたる中国の歴史を扱った史書
3. 易経 陽の記号 ― と陰の記号 – – をいずれか,あるいはその両方を色々6本組み合わせてできる64組,もしくは64卦の意味の解釈に基づく占いの書
4. 礼記 儀式や儀礼に関する規則集
5. 春秋 孔子の生国,魯の西暦前721-478年の歴史を扱った史書
[図版]
上は五経で,左は180ページに引用されている大学(四書の一つ)の一部
[163ページの図版]
「道<ダオ>」『人の歩むべき道』
[165ページの図版]
水牛の背に乗る道教の哲学者,老子
[166ページの図版]
台湾省の「天上聖母」,媽祖のための道教の寺院
[171ページの図版]
霧でかすんで見える山々,静かな川,傾いた枝振りの木々,隠棲する学者 ― 自然と調和した生活という道教の理想を反映する中国の風景画の一般的な画題
[173ページの図版]
左は長寿の神と共にいる不老不死の八仙を表わした古い道教の彫像。
右は葬儀を執り行なっている,盛装した道教の僧
[179ページの図版]
中国の第一級の聖人である孔子は,道徳および倫理の教師として敬われています
[181ページの図版]
韓国,ソウルの14世紀の儒教教育の中心地,成均館で音楽に合わせて行なわれる祝祭の多年受け継がれてきた儒教の儀式
[182ページの図版]
左から示されていますが,仏教徒,道教徒,あるいは儒教徒のいずれを問わず,典型的な中国人は家では先祖に敬意を表し,富の神を崇拝し,祭日には寺院で犠牲をささげます
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神道 ― 日本における神の探求神を探求する人類の歩み
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8章
神道 ― 日本における神の探求
「父は神主でしたから,私たちは毎朝,朝食前に神棚に水や御飯を供えるよう教えられていました。お参りが終わると,御飯を下げて,それをいただきました。そうすることにより,神々に守っていただけると信じていました。
「家を購入する時には,祈とう師に見てもらって,以前の古い家との関係から見た新しい家の縁起のよい方角を確かめました。祈とう師は3か所の鬼門について私たちに警告し,父の定めた清めの方法に従うよう勧めました。それで,毎月1回,それらの方角を塩で清めました」― 真由美。
1 (紹介の部分も含める。)神道は主にどこで行なわれていますか。その信者にとって何が関係している場合もありますか。
神道は主に日本人の宗教です。「日本宗教事典」は,『神道の成立は日本の民族文化のそれとほぼ一体であって,かつて一度もこの民族社会を離れて営まれたことがない宗教文化だという事情がある』と述べています。しかし,日本の企業活動や日本文化の影響は今や非常に広範囲に及んでいるので,日本の歴史や日本人の人格を形成してきた宗教的な要素とは何かを知ることに関心を抱くのはもっともなことです。
2 神道は日本人の生活にどの程度影響を及ぼしていますか。
2 神道の信者数は神道側の数字では,日本の人口の約4分の3に当たる9,100万人以上であると言われていますが,ある調査では,神道を実際に信じていると唱えているのは,成人人口のわずか3%の200万人にすぎないことが示されました。しかし,神道の研究家,菅田正昭氏は,「神道は日本人の日常生活にあまりにも深く組み込まれてきたため,人々はその存在にさえほとんど気づいていないほどである。日本人にとって,この宗教は,いつも周囲にあって目立たない存在である,自分たちの呼吸している空気よりもなお目立たない存在である」と述べています。宗教に関心がないと言う人たちでさえ,交通安全のための神道のお守りを買ったり,神道の伝統にのっとって結婚式を挙げたり,神道の年中行事のためにたくさんのお金をつぎ込んだりしています。
それはどのようにして始まったのか
3,4 日本人の宗教は最初,どのようにして神道として知られるようになりましたか。
3 「神道」という名称は,日本に伝来されつつあった仏教と日本固有の宗教とを区別するため,西暦6世紀に作り出されました。日本の宗教の研究家,ひろ さちや氏はこう説明しています。「もちろん,仏教の伝来以前にも,“日本人の宗教”はありました。しかし,それは潜在意識的なもので,慣習や“習俗”で成り立っていました。ところが,仏教が伝来することによって,人々は外国の宗教だった仏教とは異なった日本人の宗教がその“習俗”によって成り立っていることに気づきました」。この日本人の宗教はどのように発展したのでしょうか。
4 原始の神道,つまり“日本人の宗教”が出現した年代を確定するのは難しいことです。「講談社日本百科事典」(英文)は,水稲農耕が行なわれるようになると共に,「水稲農業には十分組織された安定した地域共同体が必要であり,後に神道で非常に重要な役割を演じた農業儀礼が発達した」と説明しています。それら初期の人々は数多くの自然の神々のことを思いつき,その神々を敬いました。
5 (イ)神道は死者に関するどんな見方をしていますか。(ロ)死者に関する神道の見方は聖書のそれとどのように比べられますか。
5 このような崇敬の念に加えて,死霊に対する恐れから,これをなだめるための儀礼が生まれ,そのような儀礼から祖霊崇拝が発達しました。神道の信条によれば,死霊には依然として人格があり,死亡直後には死穢を持っています。遺族が故人を祀ると,霊はすべての恨みを取り除かれるほどに清められて,穏やかな慈悲深い性格を帯びてゆきます。やがて,その祖霊は祖神,もしくは氏神の地位にまで高められます。このように,霊魂不滅の信仰はさらにもう一つの宗教の基本原理となっており,その信徒の態度や行為を規定していることが分かります。―詩編 146:4。伝道の書 9:5,6,10。
6,7 (イ)神道の信者は自分たちの神々をどのようにみなしましたか。(ロ)神体とは何ですか。それはなぜ神道では重要ですか。(出エジプト記 20:4,5; レビ記 26:1; コリント第一 8:5,6と比較してください。)
6 自然の神々や祖神は空中に“浮かんで”おり,また空中に充満している霊であると考えられました。祭りの際には,人々は,その時のために神聖なものにした特定の場所に下るよう神々に呼び求めました。神々は木や石,鏡や剣などの崇拝の対象,つまり神体に一時的に宿るとされ,祈とう師,もしくは巫子が神々の降臨を呼び求める儀式を執り行ないました。
7 やがて,祭りのために一時的に清められた,神々の“降臨地”はもっと恒常的な形を取るようになり,人々は自分たちを祝福してくれそうな慈悲深い神々のために神社を建てました。最初,人々は神々の像を刻んだりせず,神々の霊が宿るとされたご神体を崇拝しました。富士山などの一つの山全体でさえ,神体になり得たのです。やがて,あまりにも多くの神々ができたため,日本人は“八百万の神”という表現を作り出しました。この表現は今では“無数の神々”という意味で使われています。というのは,神道の神々の数は絶えず増えているからです。
8 (イ)神道の神話によれば,天照大神はどのようにして作り上げられ,光を照らすことを余儀なくされましたか。(ロ)天照大神はどのようにして国家神になりましたか。歴代の天皇はこの女神とどのように結びつけられていますか。
8 神道の儀式は神社を中心にして営まれたので,各氏族はそれぞれ自分たちの守護神を祭りました。ところが,西暦7世紀に国家を統一した天皇の一族は,自分たちの太陽神,天照大神を国家神,ならびに神道の神々の中の中心的な神に格上げしました。(191ページの囲み記事をご覧ください。)やがて,天皇はその太陽神直系の子孫であるという神話が持ち出されました。この信条を強化するため,神道の2冊の主要な文書である古事記と日本書紀が西暦8世紀に編さんされました。これらの書物は,天皇の一家を神々の子孫として高めた神話を利用して,天皇の支配権を確立するのに寄与しました。
祭りと儀式の宗教
9 (イ)ある学者は神道のことをなぜ“ないないづくし”の宗教と呼んでいますか。(ロ)神道は教えに関してどれほど厳密な宗教ですか。(ヨハネ 4:22-24と比較してください。)
9 しかし,神道の神話に関するこれら2冊の書物は,霊感を受けて記された経典だとは考えられませんでした。興味深いことに,神道には開祖として知られる人物,もしくは聖典として知られる書物はありません。神道信者で学者の佐伯彰一氏はこう説明しています。「神道は,まるでないないづくしの宗教なのだ。明確な教義がなく,精緻な神学がない。守るべき戒律というものもないに等しく……わたしは代々神道を奉じてきた家で育てられながら,まともな宗教教育といったものを受けた覚えがない」。(下線は本書。)神道の信者にとって,教理,戒律,また時には自分の崇拝するものさえ重要ではありません。神道の一研究者は,「同一神社においても祭神は過去においてしばしば入れ替わり,その神を祭り祈る人々にそれがさだかに知られていないことさえある」と述べています。
10 神道の信者にとって極めて重要なのは,どんな事柄ですか。
10 では,神道の信者にとって極めて重要なのは,どんな事柄ですか。日本文化に関するある著書は,「元来,神道は小さな生活共同体の和とその生活を促進する行為を『善し』,妨げる行為を『悪し』とみなした」と述べています。神々,自然,および地域共同体との和合が最高の価値とみなされました。地域共同体と和合した穏やかな関係を乱すものはすべて,その倫理的価値にかかわりなく悪とされました。
11 祭りは神道における崇拝や日常生活でどんな役割を果たしていますか。
11 神道には正式の教理,もしくは教えというものがないので,儀式や祭りが地域共同体との和合を促進する方法とされています。「日本宗教事典」は,「神道で一番大切なのは,われわれが祭りをするかどうかなのである」と説明しています。(193ページの囲み記事をご覧ください。)氏神を中心にした祭りで祝宴を共にすることにより,米作地域共同体内の人々の協力精神が助長されました。主要な祭りは米作と関係がありましたが,今でもそうです。春になると,村人は“田の神”に自分たちの村にお下りになるよう祈り求めて豊作祈願をし,秋には,神々に収穫を感謝します。また,祭りでは,みこしを担いで神々を運び,酒や食べ物を共にして神々と親しい交わりを持ちます。
12 神道では,はらい清めるためのどんな儀式が執り行なわれていますか。それは何のためですか。
12 ところで,神道の信者は,神々と結ばれるには,すべての道徳的な汚れや罪をはらい清めなければならないと考えています。ここで儀式が登場します。人,あるいは物をはらい清める方法は二つあります。一つはお祓で,もう一つは禊です。祓では,物品,もしくは人をはらい清めるため,神主が紙あるいは亜麻布を先に結びつけた常緑樹の榊の枝を振り動かしますが,禊では水が使われます。はらい清めるためのこれらの儀式は神道という宗教にとって非常に重要であるため,日本人の一権威者は,「この儀礼なしには,神道は[宗教として]成立しないといっても過言ではないであろう」と述べています。
神道の順応性
13,14 神道はどのように他の宗教に順応してきましたか。
13 このように,祭りや儀礼は神道と共に存続してきましたが,神道それ自体は宗教として長年の間に変貌を遂げてきました。どんな変貌を遂げてきたのでしょうか。神道の一研究者は,その変化を着せ替え人形のそれに例えています。仏教が伝わった時には,神道は仏教の教えの衣装をまとい,人々が道徳規準を必要とした時には,儒教のそれをまといました。神道は極めて順応性に富むものであることを示してきました。
14 神道はその歴史のごく初期に習合,つまりある宗教の諸要素を別の宗教に融合させることを行ないました。儒教や日本で「陰陽道」として知られていた道教は神道に浸透していましたが,神道と混合した主要な要素は仏教でした。
15,16 (イ)神道の信者は仏教に対してどのように反応しましたか。(ロ)神道と仏教の融合はどのようにして起きましたか。
15 仏教が中国や韓国を経て日本に入って来た時,日本人は自分たちの宗教の伝統的な慣行を神道,つまり「神々の道」と名づけました。しかし,新しい宗教が伝来すると共に,日本は仏教を受け入れるか否かで分裂しました。仏教徒を支持する側は,『近隣諸国すべてがこの道に従って崇拝を行なっている。日本はどうして違ったことをすべきなのか』と主張しました。仏教徒に反対する側は,『もし我々が近隣の神々を崇拝するなら,我々の神々の怒りを買うことになる』と反論しました。意見の対立が何十年も続いた後,仏教徒を支持する側が勝利を収め,聖徳太子が仏教を奉じた西暦6世紀の終わりまでに,この新しい宗教は根を下ろしました。
16 仏教は田舎の地域共同体に広まるにつれて,人々の日常生活の中にしっかり定着した存在となっていた,地元の神道の神々と相対するようになりました。この二つの宗教は共存するために妥協しなければなりませんでした。山々で自己修養を行なっていた仏教の修行僧はこの二つの宗教の融合を助長しました。山々は神道の神々の宿る所とみなされていたので,修行僧が山の中で苦行を行なった結果,仏教と神道を混合する考えが生じ,さらに神宮寺,つまり“神社寺院”a が建立されるようになりました。やがて,仏教が宗教理論を形成する点で率先し,この二つの宗教は融合しました。
17 (イ)神風とはどういう意味ですか。(ロ)神風は日本が神国であるという信仰とどのように結びつけられましたか。
17 一方,日本は神国であるという信仰が根を下ろしつつありました。蒙古人が13世紀に日本に襲来した時,神風に対する信仰が起こりました。蒙古人は圧倒的な艦隊を伴って九州を2回襲いましたが,2回とも嵐で妨害されました。日本人はその時の嵐,つまり風を神道の神からのものとみなしたので,彼らの神々は大いに名を上げました。
18 神道はほかの宗教とどのように張り合いましたか。
18 神道の神々に対する確信が強まるにつれて,それら神々こそ根本にある神々とみなされるようになりましたが,仏陀たち(「悟りを開いた者たち」の意)や菩薩たち(「悟りに到達するよう他の人々を助ける未来の仏陀たち」の意。136,137,144ページをご覧ください)は,単に神々が仮の姿で現われたものとみなされました。神道対仏教のこの紛争の結果,神道の様々な学派が起こりました。その中には,仏教を強調する学派もあれば,神道の諸神を高める学派もありましたし,さらに後期の形態の儒教を利用して自分たちの教えを飾った学派もありました。
天皇崇拝と国家神道
19 (イ)復古神道の信奉者の目標は何でしたか。(ロ)本居宣長の教えはどんな考え方をもたらしましたか。(ハ)神は何をすることをわたしたちに勧めておられますか。
19 多年にわたる妥協の末,自分たちの宗教が中国の宗教思想により汚されてきたと神道の国学者は考えました。そこで,彼らは古代の日本人の道に戻ることを主張しました。そして,18世紀の学者で,第一級の国学者の一人であった本居宣長が復古神道を興しました。日本文化の起源を探求した宣長は,古典,それも特に「古事記」と呼ばれる神道の書物を研究しました。そして,太陽の女神,天照大神の優越性を説きましたが,自然現象の起こる理由は神々にあることを漠然と示すにとどまりました。さらに,宣長の教えによれば,神慮は不加測のものであるだけでなく,人間がそれを知ろうとするのは不敬なこととされました。何も尋ねずに,神慮に服従せよ,というのが宣長の考え方でした。―イザヤ 1:18。
20,21 (イ)神道の一国学者はどのようにして“中国”の影響を神道から一掃しようとしましたか。(ロ)平田哲学からどんな運動が確立されるようになりましたか。
20 その追随者の一人,平田篤胤は宣長の考えを拡張し,神道を清めて,“中国”の影響を一掃しようとしました。篤胤は何をしましたか。何と,神道と背教した“キリスト教”神学とを融合させたのです。篤胤は「古事記」で言及されている天御中主神を“キリスト教”の神になぞらえ,宇宙をつかさどるこの神を男性的素因と女性的素因を表わすと考えられる高御産巣日神(「高くて,産み出す神」の意)と神産巣日神(「神聖で,産み出す神」の意)という二柱の下位の神々を有する神として描写しました。(「日本の宗教」)そうです,篤胤はローマ・カトリック教会の三者一体の神に関する教えを取り入れたのです。もっとも,その教えは決して神道の教えの主流とはなりませんでした。しかし,篤胤がいわゆるキリスト教を神道と混ぜ合わせたため,ついにキリスト教世界の一神教が神道の思想に接ぎ木されました。―イザヤ 40:25,26。
21 平田理論は“尊皇”運動の基盤となり,その結果,封建的軍事独裁者,つまり将軍が倒され,1868年に王政復古が行なわれました。王政が確立されると共に,篤胤の弟子たちは神祇官に任じられ,神道を国教にする運動を推し進めました。そして,当時の新憲法のもとで,太陽の女神である天照大神の直系の子孫とみなされた天皇は,「神聖で侵すべからざる」方であると考えられました。こうして,天皇は国家神道の最高神になりました。―詩編 146:3-5。
神道の“聖典”
22,23 (イ)天皇は二つのどんな詔勅を発布しましたか。(ロ)これらの詔勅はなぜ神聖視されましたか。
22 神道にはその古代の記録や儀式や祈とうを記した「古事記」や「日本紀」,および「延喜式」がありましたが,国家神道には聖なる文書が必要でした。1882年に明治天皇は軍人勅諭を発布しましたが,その勅諭は天皇から出されたので,日本人はそれを聖典とみなし,それは軍人が毎日黙想するための基礎資料となりました。その勅諭は,神なる天皇に対する恩義に報い,自分の責務を果たすべき個人の義務は他のだれに対する義務よりも大事であることを強調するものでした。
23 1890年10月30日に天皇が教育勅語を発布した時,神道の聖典がさらに付け加えられました。その勅語は,「学校教育の基本とされるとともに,国家神道の事実上の聖典となった」と,国家神道の研究者,村上重良氏は説明しています。この勅語は,神話上の天皇の先祖とその臣民との“歴史的な”関係が教育の基本であることを明らかにしました。日本人はこれらの詔勅をどう見ましたか。
24 (イ)人々が教育勅語をどうみなしていたかを示す一例を挙げてください。(ロ)国家神道はどのように天皇崇拝をもたらしましたか。
24 越野あさのさんはこう述懐しています。「私が少女のころ,[学校の]教頭先生は白木の箱を目の高さにささげて持ち,恭しい態度で演壇に上ると,校長先生がその箱を受け取り,教育勅語が記されている巻き物を取り出しました。その勅語が読まれ,最後に『御名御璽』という結びの言葉が聞こえるまで,私たちは頭を低く垂れていなければなりませんでした。本当に何度も聞かされたので,その言葉は覚えてしまいました」。1945年まで,神話に基づく教育制度により,国民全体が天皇に献身するよう慣らされました。国家神道は超宗教とみなされ,別の教理を説く,他の13の神道諸派は,教派神道の名のもとに一括されました。
日本の宗教的な使命 ― 世界制覇
25 日本の天皇は人々からどのようにみなされましたか。
25 国家神道には偶像も用意されました。正人さんという,あるお年寄りは,当時のことを回想してこう言いました。「毎朝,太陽に向かって拍手を打ち,次に宮城のある東のほうを向いて,天皇を拝みました」。天皇は臣民から神として崇拝されました。天皇は太陽の女神の直系の子孫であるという理由で,政治的,また宗教的に最高の存在とみなされました。日本人の一教授は,「天皇は現人神で,この世に現われた神です」と述べました。
26 天皇が崇敬された結果,どんな教えが登場しましたか。
26 その結果,「この現象界の中心地は帝[天皇]の国である。我々はこの中心地からこの偉大な精神を世界中に広げなければならない。……大日本を世界中に拡張し,全世界を神々の国に高めることは現代の急務であり,また我々の永遠不変の目標である」という教えが説かれるようになりました。(「現代神道の政治哲学」,D・C・ホルトム著)実際,日本では政教分離が行なわれていなかったのです。
27 軍国主義者は日本の天皇崇拝をどのように利用しましたか。
27 ジョン・B・ノスは自著,「人間の宗教」の中で次のように注解しています。「日本軍は機を逸することなく,このような見方を利用し,征服することが日本の聖なる使命であるという考えを戦意高揚を図る話に含めた。宗教のあらゆる価値観を吹き込まれた国家主義の当然の結果を確かにそのような言葉のうちに見ることができる」。主に天皇の神性に関する神道の神話,および宗教と国家主義の結合とに基づく,何と不幸な悲劇の種が日本人や他の民族のためにまかれたのでしょう。
28 神道は日本人の戦争努力を推し進める点で,どんな役割を演じましたか。
28 国家神道とその天皇制のもとにあった一般の日本人は,天皇を崇拝する以外に何ら選択の道がありませんでした。『何も問わずに,神慮に服従せよ』という本居宣長の教えが,日本人の考え方に浸透しており,その考え方を支配していました。国民は1941年までに神道の旗じるしのもと,“現人神”に一命をささげて,第二次世界大戦のための戦争努力を推し進めるよう総動員されました。人々は,『日本は神国だから,危急の際には神風が吹くのだ』と考えました。軍人とその家族は自分たちの氏神に戦勝祈願を行ないました。
29 第二次世界大戦後,多くの人々はどうして信仰を失うようになりましたか。
29 その“神国”が1945年に原爆で広島と長崎の大半が消滅するという二度の大変な打撃を被って敗れた時,神道は重大な危機に直面しました。無敵の神聖な支配者とみなされていた当時の天皇は,一夜にして敗北した単なる人間天皇と化し,日本人の信仰は打ち砕かれました。国民の期待に背いて,神風は吹かなかったのです。「日本宗教事典」はこう述べています。『原因の一つは……[国民の]期待が裏切られた結果に終わったことにある。しかも[戦いに敗れた]事実から生じた神義論的な疑問に対して,宗教的に高度で適切な説明が神社界から何ら行なわれなかったために,いわゆる「神も仏もあるものか」という宗教的に未熟な反発だけが一般の風潮となった』。
真の和合を図る道
30 (イ)第二次世界大戦中の神道の経験からどんな教訓を学ぶことができますか。(ロ)わたしたちの崇拝に関して,自分の理性の力を行使するのは,どうして肝要なことですか。
30 国家神道が取った道は,人は各々自分の信奉する伝統的な信仰を調べる必要があることを強調しています。軍国主義を支持した神道の信奉者は,日本の近隣諸国の人々との和合を図る道を求めて来たのかもしれません。もちろん,それは世界的な規模での和合を助長しませんでしたし,一家のかせぎ手や若者が戦場で殺されたのですから,自国内でも和合をもたらしませんでした。人はだれかに命をささげる前に,だれに,また何のためにそうするのかを確かめなければなりません。クリスチャンの一教師は,以前,皇帝崇拝にふけっていたローマ人に対して,「わたしは……あなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」と言いました。ローマ人のクリスチャンがだれに献身すべきかを選択するために理性の力を用いなければならなかったのと同様,わたしたちもだれを崇拝すべきかを決めるために自分の理性の力を行使するのは肝要なことです。―ローマ 12:1,2。
31 (イ)神道の大抵の信者にとっては,どんなことがなされれば,十分だったのでしょうか。(ロ)どんな疑問に答える必要がありますか。
31 神道の普通の信奉者にとって,特に唯一の神の実体を明らかにすることは,その宗教の重要な要素ではありませんでした。日本宗教史の教師,逵 日出典氏は,「庶民にとっては神も仏もない。五穀豊穣・疫病除去・家内安全といった願いを聞いてくれるならば,神であってもよし,仏であってもよいのである」と述べています。しかし,その結果,人々はまことの神とその祝福にあずかれたでしょうか。歴史の答えは明らかです。
32 次の章では何が検討されますか。
32 神話を自分たちの信仰の基盤として神を探求した,神道の信奉者たちは,単なる人間,つまり自分たちの天皇を太陽の女神,いわゆる天照大神の子孫である神にしました。しかし,神道が存在するようになるよりも何千年も前に,まことの神はメソポタミアにいたセム人の信仰の人にご自身を啓示しておられました。次の章では,その重大な出来事とその結果について検討いたします。
[脚注]
a 日本では神道の宗教建造物は神社,仏教のそれは寺院と呼ばれています。
[191ページの囲み記事]
神道の神話の太陽の女神
神道の神話によれば,大昔のこと,伊弉諾命が,「その左の目を洗ったところ,太陽の女神,天照大神を産み」ました。後に,海原の神,須佐之男命が天照大神をあまりびっくりさせたので,彼女は「天の岩屋戸に隠れ,丸石で入口をふさいだため,世界は闇になり」ました。そこで,神々は天照大神をその岩屋戸から出させる計略を考え,ときをつくるおんどりを集め,大きな鏡を作り,また榊に玉や布の吹き流しを取り付けました。その後,天鈿女命が踊りだし,足で桶を踏んでどんどんと鳴らしました。彼女は夢中になって踊るあまり,衣服を脱ぎ捨てたため,神々がどっと笑いだしました。そのすべての物音のために好奇心をそそられた天照大神は,外をのぞくと,鏡に映った自分の姿を見ました。彼女がそこに映った自分の姿に引き寄せられて岩屋戸から出たとたん,手力男命(「力の神」の意)が彼女の手をつかんで,外に引き出すと,「世界はもう一度,太陽の女神の光で明るく照らされ」ました。―「新ラルース神話百科事典」。―創世記 1:3-5,14-19; 詩編 74:16,17; 104:19-23と比較してください。
[193ページの囲み記事]
神道 ― 祭りの宗教
日本人の年中行事にはたくさんの祭りがあります。次に,その主要な祭りの幾つかを掲げます。
■ 正月,1月1-3日; 新年の祝い。
■ 節分,2月3日; 「鬼は外,福は内」と叫びながら,家の内外に豆をまく。
■ ひな祭り,3月3日; 女の子のためのひな人形の祭りで,ひな壇が設けられ,古代の天皇家の様子が表わされる。
■ 端午の節句,5月5日; 男の子のための祭りで,こいのぼり(力を象徴する,こいの吹き流し)がさおの先に付けられて翻る。
■ 月見; だんごや作物の初なりを供えて,中秋の満月を観賞する。
■ 神嘗祭; 天皇が10月に新米をささげる儀式。
■ 新嘗祭; 皇室により11月に祝われ,皇室神道の大神官としての天皇による新米の味見が行なわれる。
■ 七五三; 神道を奉ずる家族により11月15日に行なわれる祝い。七,五,三,つまり七歳,五歳,三歳という年は重要な過渡期とみなされており,子供たちはきれいな着物を着て,氏神の神社にもうでる。
■ 4月8日の仏陀の誕生日や7月15日(陰暦)のお盆を含め,仏教の多くの祭りもある。「先祖の霊をあの世に送る」ため,ちょうちんを海や川に流すことにより,お盆は終わる。
[188ページの図版]
神々の恵みを願い求めている神道の帰依者
[189ページの図版]
神道,つまり“神々の道”
[190ページの図版]
富士山のように,一つの山全体が神体,つまり崇拝の対象とみなされる場合もあります
[195ページの図版]
みこしを担ぐ,神道の信奉者たちと,上は京都の葵祭りで,タチアオイ(葵)の葉を身に着ける信者
[196ページの図版]
紙や亜麻の布切れを先に結びつけた榊の枝を振り動かして,人や物をはらい清めれば,その安全が保証されるとみなされています
[197ページの図版]
左の神棚の前で祈り,同時に仏壇の前で祈っても,日本人は矛盾しているとは感じません
[198ページの図版]
かつて天皇(壇上)は太陽の女神の子孫として崇拝されました
[203ページの図版]
自分の買った絵馬,つまり祈願用の木製の横額を神社で取り付けている若い女性
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ユダヤ教 ― 経典や伝承による神の探求神を探求する人類の歩み
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9章
ユダヤ教 ― 経典や伝承による神の探求
1,2 (イ)歴史や文化に影響を及ぼした著名なユダヤ人を何人か挙げてください。(ロ)中には,どんな疑問を抱く人がいるかもしれませんか。
モーセ,イエス,マーラー,マルクス,フロイト,およびアインシュタイン ― これらの人物すべての共通点は何ですか。それは,彼らが皆ユダヤ人であると共に,人類の歴史や文化に様々な仕方で影響を及ぼしたということです。ユダヤ人が何千年にもわたって注目に値する民族だったことは明白な事実です。聖書それ自体,そのことを示す証拠です。
2 他の古代の宗教や文化とは違って,ユダヤ教は神話ではなく,歴史に根ざした宗教です。それにしても,ユダヤ人は世界の50億人以上の人口のうち1,800万人ほどのほんの少数者にすぎないのに,なぜその宗教に関心を抱くべきなのだろうかといぶかる向きがあるかもしれません。
ユダヤ教に関心を抱くべき理由
3,4 (イ)ヘブライ語聖書は何により成り立っていますか。(ロ)ユダヤ人の宗教とそのルーツを考慮すべき幾つかのどんな理由がありますか。
3 一つの理由は,ユダヤ人の宗教には歴史を4,000年ほどさかのぼるルーツがあると共に,ほかの主要な宗教が多かれ少なかれ,ユダヤ教の聖典に負うところがあるということです。(220ページの囲み記事をご覧ください。)1世紀のユダヤ人であったイエス(ヘブライ語,エーシューア)により創設されたキリスト教のルーツはヘブライ語聖書にあります。また,クルアーン(コーラン)のある箇所を読むと,分かりますが,イスラム教もヘブライ語聖書に多くを負っています。(クルアーン,スーラ 2:49-57; 32:23,24)ですから,ユダヤ人の宗教を調べれば,ほかの何百もの宗教や宗派のルーツを調べることになります。
4 第二の極めて重要な理由は,ユダヤ人の宗教がまことの神を探求する人類の歩みの中の肝要なつながりを示しているということです。ヘブライ語聖書によれば,ユダヤ人の父祖アブラムはおよそ4,000年前に既にまことの神を崇拝していました。a それで,ユダヤ人とその信仰はどのようにして生じたのだろうかと問うのは筋の通ったことです。―創世記 17:18。
ユダヤ人はどのようにして生じたか
5,6 手短に言って,ユダヤ人とその名称の起源にはどんないきさつがありますか。
5 一般的に言えば,ユダヤ人はセム語族の古代ヘブライ語派の人々の子孫です。(創世記 10:1,21-32。歴代第一 1:17-28,34; 2:1,2)およそ4,000年前のこと,ユダヤ人の父祖アブラムは,シュメール地方のカルデア人の繁栄した主要都市であったウルから,神が,「わたしはこの地をあなたの子孫に与える」と述べておられた,カナンの地に移住しました。b (創世記 11:31-12:7)アブラムは創世記 14章13節で「ヘブライ人アブラム」と呼ばれていますが,その名は後にアブラハムと改められました。(創世記 17:4-6)ユダヤ人はこのアブラムの家系から出ており,アブラムの家系はその子イサク,次いでその孫ヤコブから始まっており,このヤコブは名をイスラエルと改められました。(創世記 32:27-29)イスラエルには十二部族の基となった12人の息子がいました。それらの息子のうちの一人がユダで,やがてこの名から「ユダヤ人」という名称ができました。―列王第二 16:6,ユダヤ。
6 時たつうちに,「ユダヤ人」という語は,ユダの子孫だけでなく,イスラエル人すべてを指して使われるようになりました。(エステル 3:6; 9:20)ローマ人がエルサレムを完全に破壊した西暦70年には,ユダヤ人の系図の記録も滅ぼされたため,今日のユダヤ人で自分がどの部族の出身者かを確定できる人は一人もいません。それにしても,古代のユダヤ人の宗教は何千年もの間に発達し,また変化してきました。今日,ユダヤ教はイスラエル共和国とディアスポラ(世界の至る所にある離散の地)の何百万人ものユダヤ人により行なわれています。その宗教の基盤となっているのは何ですか。
モーセ,律法,および国民
7 神はアブラハムに対してどんな誓いをお立てになりましたか。それはなぜですか。
7 西暦前1943年に,c 神はアブラムをご自分の特別の僕として選び,アブラムが息子イサクを進んで犠牲にしようとして示した忠実さゆえに,たとえその犠牲が完全にささげ尽くされたわけではなかったにせよ,神は後にアブラムに対して厳粛な誓いをお立てになりました。(創世記 12:1-3; 22:1-14)神はその誓いの中でこう言われました。「わたしは自らにかけて誓う,と主[ヘブライ語,יהוה,YHWH]は言明される。あなたがこのことを行ない,あなたの子,あなたの恵まれた者を差し控えなかったので,わたしはわたしの祝福をあなたに授け,あなたの子孫を天の星のように数多くする。……地のすべての国の民はあなたの子孫[「胤」,ユダヤ]によって自らを祝福するであろう。あなたがわたしの命令に従ったからである」。こうして誓って述べられたこの誓いの言葉は,アブラハムの子に,またその孫に対して繰り返し語られ,その後,ユダの部族,さらにはダビデの家系のうちに存続しました。人間を直接扱う人格神に関するこの厳密な一神教の概念は,当時の古代世界では特異な事柄でしたが,その概念がユダヤ人の宗教の基盤となりました。―創世記 22:15-18; 26:3-5; 28:13-15。詩編 89:4,5,29,30,36,37(詩編 89:3,4,28,29,35,36,新世)。
8 モーセとはだれでしたか。彼はイスラエルでどんな役割を演じましたか。
8 神はアブラハムに対するご自分の種々の約束を果たすため,アブラハムの子孫と特別の契約を設けることにより,一国家の土台を据えられました。この契約は,偉大なヘブライ人の指導者で,神とイスラエルとの仲介者であったモーセを通して制定されました。モーセとはだれでしたか。モーセはユダヤ人にとってどうしてそんなに重要な人物なのですか。聖書の出エジプト記の記述によれば,モーセは,イスラエルの他の人々と共に捕らわれて奴隷の身となっていたイスラエル人の両親の間にエジプトで生まれました。(西暦前1593年)彼は約束の地であるカナンに主の民を導いて自由を得させるために「主が選び出された」人物でした。(申命記 6:23; 34:10)モーセはイスラエルの預言者,裁き人,指導者,ならびに歴史家であった上に,神がイスラエルにお与えになった律法契約の仲介者としてのたいへん重要な役割をも果たしました。―出エジプト記 2:1-3:22。
9,10 (イ)モーセを通して伝えられた律法はどのようなものでしたか。(ロ)“十戒”は生活のどのような面を包含するものでしたか。(ハ)律法契約はどんな義務をイスラエル人にもたらしましたか。
9 イスラエルに授けられた律法は,“十の言葉”,つまり“十戒”と日常生活のための指示や指針の総合的な便覧とも言うべき600以上の法律でできていました。(211ページの囲み記事をご覧ください。)律法には俗事と聖なる事柄 ― 神の崇拝と共に身体的,ならびに倫理的な要求が関係していました。
10 この律法契約,つまり宗教的な憲法は,族長たちの信仰に形と実体を付与しました。その結果,アブラハムの子孫は神への奉仕に献身した一国民となりました。こうして,ユダヤ人の宗教は具体的な形を取るようになり,ユダヤ人は自分たちの神の崇拝や奉仕のために組織された一国民となりました。出エジプト記 19章5節と6節で,神は彼らに,「もしわたしに忠実に従い,わたしの契約を守るなら……あなた方はわたしにとって祭司の王国,ならびに聖なる国民となる」と約束なさいました。ですから,イスラエル人は神の目的のために仕える“選ばれた民”になり得たのです。しかし,その契約の約束の成就は,『もし従うなら』という条件を守るかどうかにかかっていました。献身したその国民には今や,自分たちの神に対する義務がありました。ゆえに,後代になって(西暦前8世紀),神はユダヤ人に対して,「あなた方はわたしの証人 ― 主[ヘブライ語,יהוה,YHWH]は言明される ― わたしの選んだ,わたしの僕」と言うことがおできになりました。―イザヤ 43:10,12。
祭司,預言者,および王のいる国民
11 祭司職や王権はどのようにして生じましたか。
11 イスラエル国民がなお砂漠にいて,約束の地に向かっていたころ,モーセの兄弟アロンの家系に祭司職が設けられました,また,運搬用の大きな天幕,つまり幕屋がイスラエル人の崇拝と犠牲のための中心的な場所となりました。(出エジプト記 26-28章)やがて,イスラエル国民は約束の地カナンに到着し,神が命じておられたとおり,その地を征服しました。(ヨシュア 1:2-6)やがて,地的な王権が確立され,西暦前1077年にユダの部族出身のダビデが王になりました。その支配と共に,王権と祭司職の双方が新しい国家的な中心地であるエルサレムで確立されました。―サムエル第一 8:7。
12 神はダビデに対してどんな約束をなさいましたか。
12 ダビデの死後,その子ソロモンは,幕屋に取って代わる壮大な神殿を建立しました。神はダビデと契約を結んで,王権がその家系に永遠にとどまることを約束しておられたので,油そそがれた王,つまりメシアがいつかダビデの家系から来るものと理解されていました。預言は,このメシアなる王,もしくは「胤」を通して,イスラエルとすべての国の人々が完全な支配権の益を享受するようになることを示唆していました。(創世記 22:18,ユダヤ)この希望は根づき,ユダヤ人の宗教のメシア的な性格は明確な形を取りました。―サムエル第二 7:8-16。詩編 72:1-20。イザヤ 11:1-10。ゼカリヤ 9:9,10。
13 神はイスラエルの堕落した状態を矯正するためにだれをお用いになりましたか。一例を挙げてください。
13 ところが,ユダヤ人はカナン人や周囲の他の国民の偽りの宗教の影響を自ら受けるにまかせ,その結果,神との契約関係を破りました。エホバは彼らを矯正し,立ち返るよう導くため,ご自分の音信を民に伝える預言者を次々に遣わされました。こうして,預言がユダヤ人の宗教のもう一つの独特な特色となり,ヘブライ語聖書の相当の部分を占めています。事実,ヘブライ語聖書の18の書に預言者の名が付されています。―イザヤ 1:4-17。
14 イスラエルの預言者の正しさは種々の出来事によりどのように立証されましたか。
14 それら預言者の中でも際立っていたのはイザヤ,エレミヤ,およびエゼキエルで,この3人は皆,偶像崇拝のゆえに国民が間もなく受けようとしていたエホバからの処罰について警告しました。その処罰は西暦前607年に起きました。というのは,イスラエルが背教したため,同607年にエホバは当時の最も優勢な世界強国であったバビロンがエルサレムとその神殿を破壊し,その国民を捕囚として連れ去るのを許されたからです。それら預言者の予告していた事柄は正しかったことが証明され,またイスラエルが西暦前6世紀の大半を占める70年間,流刑に処せられたことは,歴史の記録に残る事柄となりました。―歴代第二 36:20,21。エレミヤ 25:11,12。ダニエル 9:2。
15 (イ)新たな崇拝様式はユダヤ人の間にどのように根づきましたか。(ロ)会堂はエルサレムで行なわれる崇拝にどんな影響を及ぼしましたか。
15 西暦前539年に,ペルシャ人キュロスはバビロンを破り,ユダヤ人が祖国に再び定住してエルサレムの神殿を再建することを許しました。残りの者はそれにこたえ応じたものの,ユダヤ人の大半はバビロニア社会の影響のもとにとどまりました。その後,ユダヤ人はペルシャ文化の影響を受けました。したがって,ユダヤ人の共同社会が中東や地中海沿岸地方の至る所に出現しました。その各々の地域共同体には,会堂,つまり各々の町のユダヤ人のための会衆の中心的な場所が関係する,新たな崇拝様式が生まれました。当然のこととして,この取り決めにより,エルサレムの再建された神殿はあまり重視されなくなりました。遠く広がったユダヤ人は,今や確かにディアスポラ(離散した者)となりました。―エズラ 2:64,65。
ギリシャの衣装をまとって現われたユダヤ教
16,17 (イ)どんな新たな勢力が西暦前4世紀の地中海沿岸世界をふうびしましたか。(ロ)ギリシャ文化を広める器となったのはだれでしたか。どのようにしてそうなりましたか。(ハ)こうして,ユダヤ教は世界の舞台にどのような姿で現われましたか。
16 西暦前4世紀までに,ユダヤ人社会は流動化していたので,地中海沿岸世界やそれ以外の地域をも包含しようとしていた非ユダヤ系文化の大波の犠牲になりました。その大水はギリシャから出て来たので,ユダヤ教はギリシャ思想の衣装をまとって現われました。
17 西暦前332年にギリシャの将,アレクサンドロス大王は電撃的な速さで中東を征服してエルサレムに入城した時,ユダヤ人から歓迎されました。d アレクサンドロスの後継者たちは同大王のギリシャ化計画を続行し,帝国内のあらゆる場所にギリシャ語やギリシャの文化や哲学を染み込ませました。そのために,ギリシャ文化とユダヤ文化は融合するようになり,驚くべき結果がもたらされることになりました。
18 (イ)ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳が必要になったのはなぜでしたか。(ロ)ユダヤ人はギリシャ文化の特にどんな面から影響を受けましたか。
18 ディアスポラのユダヤ人はヘブライ語ではなく,ギリシャ語を話すようになりました。それで,西暦前3世紀初頭にかけて,ヘブライ語聖書のギリシャ語への最初の翻訳が始められ,そのセプトゥアギンタ訳を通して,多くの異邦人がユダヤ人の宗教に対して敬意を抱き,それをよく知るようになり,中には改宗する人さえ出ました。e 一方,ユダヤ人はギリシャ思想に親しみ,中にはユダヤ人にとっては全く新奇な存在である哲学者になった者さえいました。その一例は西暦1世紀のアレクサンドリアのフィロンで,彼はあたかもユダヤ教とギリシャ哲学が両方とも同一の究極的真理を表現するものであるかのように,その哲学用語を使ってユダヤ教を説明しようとしました。
19 ユダヤ人の一著述家はギリシャ文化とユダヤ文化が結合した時期についてどのように述べていますか。
19 ギリシャ文化とユダヤ文化の間で思想の交換が行なわれたこの時期のことを要約したユダヤ人の著述家マックス・ディモントは,こう述べています。「プラトンの思想,アリストテレス論理学,およびユークリッド幾何学で思想を豊かにされたユダヤ人の学者は,新しい道具を用いてトーラーと取り組んだ。……そして,ユダヤ人特有の啓示にギリシャ的理念を加味するようになった」。ギリシャ帝国,次いで西暦前63年にエルサレムを併合したローマ人の支配下で起きた出来事は,さらに重要な変化をもたらす道を開くものとなりました。
ローマ人による支配を受けたユダヤ教
20 西暦1世紀当時,ユダヤ人の間にはどんな宗教事情が見られましたか。
20 西暦1世紀当時のユダヤ教は特異な段階を迎えていました。マックス・ディモントによれば,ユダヤ教は「ギリシャ的思考とローマの剣」のはざまに立たされていました。政治的な圧制のため,またメシアに関する預言,特にダニエルの預言の解釈ゆえに,ユダヤ人の期待は高まりました。ユダヤ人は分派で分けられていました。パリサイ人は神殿での犠牲よりも口伝律法を重視しました。(221ページの囲み記事をご覧ください。)サドカイ人は神殿や祭司職の重要性を強調しました。それから,エッセネ派や熱心党やヘロデ党の人々がいました。これらの人々は皆,宗教的にも哲学的にも争い合っていました。ユダヤ人の指導者はラビ(「主人,教師」の意)と呼ばれ,律法に関する自分たちの知識のゆえに名声を高め,新しい型の精神的な指導者になりました。
21 西暦一,二世紀当時のユダヤ人はどんな出来事のために徹底的な影響を受けましたか。
21 しかし,特にイスラエルの地では,ユダヤ教内部および外部の分裂は続き,ついにローマに対する公然たる反逆が引き起こされ,西暦70年にローマ軍はエルサレムを攻略して,その都を荒廃させ,神殿を灰じんに帰させて,その住民を四散させました。やがて,エルサレムへのユダヤ人の立ち入りはお触れにより完全に禁止されました。神殿もなければ,国土もなく,また民はローマ帝国の至る所に追い散らされたため,ユダヤ教が生き残るには,新たな宗教的表現を必要としました。
22 (イ)エルサレムの神殿を失ったため,ユダヤ教はどのような影響を受けましたか。(ロ)ユダヤ人は聖書の内容をどのように分類していますか。(ハ)タルムードとは何ですか。それはどのようにして出来上がりましたか。
22 神殿が破壊されると共に,サドカイ人は消滅し,パリサイ人の擁護した口伝律法が新たなラビ的ユダヤ教の中心を成すものとなりました。一層熱心な研究,祈とう,ならびに敬虔な業が,神殿での犠牲や巡礼に取って代わりました。ですから,ユダヤ教はどこでも,いつでも,またいかなる文化的環境のもとでも実践できるようになりました。ラビたちはその口伝律法を文字に記し,その本文に関する注解を付記して,それにさらに注解を加え,そのすべてが集大成されて,タルムードとして知られるようになりました。―220,221ページの囲み記事をご覧ください。
23 ギリシャ思想の影響で重点の置き方がどのように変わりましたか。
23 こうした様々な影響はどんな結果をもたらしましたか。マックス・ディモントは自著,「ユダヤ人,神,および歴史」の中で,パリサイ人はユダヤ人のイデオロギーや宗教の炎を燃やし続けたものの,「炎それ自体はギリシャの哲学者によって点火されたのである」と述べています。タルムードの内容はおおかた高度に律法主義的なものですが,その例証となる事柄や解説は明らかにギリシャ哲学の影響を反映するものでした。例えば,霊魂不滅などのギリシャの宗教的概念がユダヤ的な用語で表現されました。確かに,この新しいラビ時代に ― 当時までに律法主義的哲学とギリシャ哲学とが混合してできた ― タルムードに対する崇敬の念がユダヤ人の間で高まり,ついに中世にはタルムードが聖書そのものよりも崇敬されるようになりました。
中世のユダヤ教
24 (イ)中世にはユダヤ人の中にどんな二つの主要な地域共同体が現われましたか。(ロ)その両者はユダヤ教にどのように影響を及ぼしましたか。
24 中世(西暦500-1500年)になって,ユダヤ人の二つの独特な地域共同体が現われました。一方はスペインでイスラム教の支配下で繁栄した,セファルディック系ユダヤ人で,他方は中部および東部ヨーロッパのアシュケナジ系ユダヤ人です。これら両地域共同体からラビ的な学者が出て,その著作や思想が今日まで伝えられているユダヤ教の宗教的解釈の基盤となりました。興味深いことに,現代のユダヤ教で行なわれている習慣や宗教的慣行の多くは実際,中世の時期に始まったものです。―231ページの囲み記事をご覧ください。
25 やがて,カトリック教会はヨーロッパのユダヤ人に対してどのように反応しましたか。
25 12世紀には,様々な国でユダヤ人追放の波が起こりました。イスラエル人の著述家アバ・イーバンが「我が民族 ― ユダヤ人の物語」の中で,「カトリック教会の一方的な影響を受けるようになった国では……どこでも,話は同じで,恐るべき堕落,拷問,殺りく,および追放が起きた」と述べているとおりです。ついに,1492年,またもやカトリックの支配を受けるようになったスペインは先例に従って,その領土からユダヤ人すべての追放を命じました。こうして,15世紀末までに,ユダヤ人は西ヨーロッパのほとんど全域から追放され,東ヨーロッパ,および地中海沿岸諸国に逃れました。
26 (イ)何がユダヤ人に幻滅感を抱かせるようになりましたか。(ロ)ユダヤ人の間でどんな主要な分裂が生じましたか。
26 圧制や迫害が起きた何世紀もの間に,世界の様々な場所のユダヤ人の中に自称メシアが起こり,皆,多かれ少なかれ受け入れられたものの,結局は幻滅に終わりました。17世紀までには,ユダヤ人をもう一度鼓舞し,その暗黒時代から彼らを導き出すため,主導権を取る新たな運動が必要となりました。18世紀半ばには,ユダヤ民族を彼らの抱いていた絶望感から救う答えになるような動きが現われました。それは,日ごとの信心と活動のうちに表現される神秘主義と宗教的歓喜とを結びつけたハシディズム(敬虔主義)でした。(226ページの囲み記事をご覧ください。)これとは対照的に,大体時を同じくして,ドイツ系のユダヤ人,哲学者モーゼス・メンデルスゾーンはもう一つの解決策,ハスカラ,つまり啓もうの道を提唱し,それは歴史的に見て“現代ユダヤ教”とみなされるものを生み出す運動となりました。
“啓もう”運動からシオニズム(シオン主義)へ
27 (イ)モーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ人の見解にどのように影響を及ぼしましたか。(ロ)多くのユダヤ人はどうして個人的なメシアに関する希望を退けましたか。
27 モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786年)によれば,ユダヤ人はタルムードによる束縛された生き方から脱却して西洋文化に従うなら,受け入れられるということでした。当時,メンデルスゾーンは異邦人世界から最も尊敬されたユダヤ人の一人になりました。しかし19世紀に,特に“キリスト教”のロシアで再び爆発した過激な反セム主義は,前述の運動の信奉者を幻滅させるものとなり,その後,多くの人々はユダヤ人の政治的亡命を求めることに注意を集中しました。そして,ユダヤ人をイスラエルに連れ戻す個人的なメシアを求める考えを退け,ほかの方法でユダヤ人国家を樹立しようと努力するようになりました。後に,それがシオニズム(シオン主義)という概念になりました。つまり,一権威者が述べているように,「ユダヤ人のメシア信仰……の世俗化」が起きたのです。
28 20世紀のどんな出来事がユダヤ人の見解に影響を及ぼしましたか。
28 ナチの引き起こした大虐殺<ホロコースト>(1935-1945年)の際,ヨーロッパのおよそ600万人ものユダヤ人が殺害されるに至って,シオニズム運動は最終的にはずみがつき,世界的な規模で多大の同情を集めました。シオニズム信奉者たちの夢は1948年に実現して,イスラエル国家が樹立されると共に,現代のユダヤ教の時代が始まり,今日のユダヤ人は何を信じているのだろうかという疑問が生じました。
神はただおひとりであられる
29 (イ)簡単に言えば,現代のユダヤ教とはどんな教えですか。(ロ)ユダヤ人としての身分はどのように表わされますか。(ハ)ユダヤ人の祭りや習慣の幾つかを挙げてください。
29 簡単に言えば,ユダヤ教は一民族の宗教です。ですから,改宗者はユダヤ人の宗教に属する者であると共に,ユダヤ民族の一員となります。ユダヤ教は最も厳密な意味での一神教であると共に,神は特にユダヤ人との関係において人間の歴史に介入なさる方であるとされています。ユダヤ教の崇拝には,幾つかの年ごとの祭りや様々な習慣が関係しています。(230,231ページの囲み記事をご覧ください。)ユダヤ人すべてに受け入れられている信条や教義などというものはありませんが,申命記 6章4節(ユダヤ)に基づく,「イスラエルよ,聞け,我らの神なる主,主はただひとりであられる」という祈りであるシェマの中で言い表わされているように,神がただひとりであられることに関する告白が,会堂で行なわれる崇拝の中心を成しています。
30 (イ)ユダヤ人は神についてどのように理解していますか。(ロ)神に関するユダヤ人の見方とキリスト教世界のそれとはどのように食い違っていますか。
30 ただひとりの神に対するこの信仰は,キリスト教とイスラム教に受け継がれました。ラビ,J・H・ヘルツ博士によれば,「絶対的一神教に関するこの崇高な宣言は,すべての多神教に対する一種の宣戦布告であった。……同様に,シェマはキリスト教の三位一体という信条を神の単一性を犯す考えとして排除するもの」です。f しかし,ここで,来世という問題に関するユダヤ人の信仰について調べてみましょう。
死,魂,および復活
31 (イ)霊魂不滅に関する教理はどのようにしてユダヤ人の教えの中に入り込みましたか。(ロ)霊魂不滅に関する教えはどんなジレンマを引き起こしましたか。
31 人間には体が死んだ後に生き残る不滅の魂があるというのが,現代のユダヤ教の基本的な信条の一つです。しかし,これは聖書に由来していますか。「ユダヤ百科事典」は,「霊魂不滅に関する教理がユダヤ教に入ったのは,多分,ギリシャの影響を受けたためであろう」と,率直に認めています。しかし,そのために,この同じ出典が,「基本的に言って,復活と霊魂不滅に関する二つの信条は相容れない。一方は末の日の集団的な復活,すなわち地の中で眠っている死者が墓から起きて来ることを指しており,他方は体が死んだ後の魂の状態を指している」と述べているように,教理上のジレンマが生じました。ユダヤ教の神学では,このジレンマはどのように解決されましたか。「人は各々死ぬ時,魂は別の領域で依然として生き続け(こうして,天国や地獄に関する信条すべてが作り出され),その体はこの地上ですべての死者の体が復活させられるのを待ちながら,墓に横たえられると考えられた」のです。
32 聖書は死者について何と述べていますか。
32 大学講師アーサー・ヘルツベルグは,「[ヘブライ語]聖書そのものの中では,人間の生活領域はこの世である。末の日に死者が最終的に復活させられるという,培われつつある概念があるだけで,天国や地獄に関する教理などはない」と書いています。これは聖書的な概念を簡潔,正確に説明した言葉です。すなわち,聖書には,「死んだ者は何も知らない……あなたの行こうとしているシェオル[人類共通の墓]には,行動も推論も学習も知恵もないからである」と記されています。―伝道の書 9:5,10。ダニエル 12:1,2。イザヤ 26:19。
33 ユダヤ人は元々,復活に関する教理をどのようにみなしましたか。
33 「ユダヤ百科事典」によれば,「ラビ時代には,死者の復活に関する教理はユダヤ教の中心的な教理の一つとみなされており」,「霊魂不滅……に対する信仰とは区別されるべきである」と指摘されています。g しかし,今日,霊魂不滅の考えはユダヤ教のすべての宗派により受け入れられているものの,死者の復活はそうではありません。
34 聖書の見解とは対照的に,タルムードは魂をどのように描写していますか。後代の著述家はどんな注解を述べていますか。
34 聖書とは対照的に,ヘレニズムの影響を受けたタルムードには,不滅の魂に関する解説や物語,それに不滅の魂を描写した箇所さえたくさんあります。後代のユダヤ教の神秘主義文献であるカバラは,輪廻(魂の転生)について説くことさえしていますが,これは基本的に言って,古代ヒンズー教の教えです。(5章をご覧ください。)現代のイスラエルで,これはユダヤ教の教えとして広く受け入れられており,またハシディズム(敬虔主義)の信仰や文学でも重要な役割を果たしています。例えば,マルティン・ブーバーは自著,「ハシディーム(敬虔者)の物語 ― 後代の師たち」の中に,リズヘンスクのラビであるエリメレクの学派の魂に関する次のような話を含めています。「贖罪の日に,ラビ・アブラハム・エホシュアはアボダー,つまりエルサレム神殿での大祭司の典礼聖歌を復唱する祈とうを朗唱し,『かくて,彼は語れり』という一節に来ると,決してそのようには言わず,『かくて,我は語れり』と言うのであった。彼は自分の魂がエルサレムの大祭司の体に入った時のことを忘れてはいなかったのである」。
35 (イ)改革派ユダヤ教は霊魂不滅の教えに関してどんな立場を取ってきましたか。(ロ)聖書は魂に関してどんな明確な教えを述べていますか。
35 改革派ユダヤ教は復活に対する信仰を退けることさえしてきました。そして,その言葉を改革派の祈とう書から除去して,霊魂不滅に対する信仰だけを認めています。「主なる神は地面の塵で人を形造り,命の息をその鼻孔に吹き込まれた。すると,人は生きた魂となった」と述べる創世記 2章7節(ユダヤ)が明らかにしている聖書の考えのほうが,実際,はるかに明確です。体と霊もしくは生命力が結合すると,「生きた魂」になります。h (創世記 2:7; 7:22。詩編 146:4)逆に,罪人である人間が死ぬと,魂は死にます。(エゼキエル 18:4,20)ですから,人は死ぬと,意識のある存在ではなくなり,その生命力は,これをお与えになった神に戻ります。(伝道の書 3:19; 9:5,10; 12:7)死者のための真の聖書的な希望は復活 ― ヘブライ語,テヒヤト ハンメティム,つまり“死者の生き返り”― なのです。
36,37 聖書時代の忠実なヘブライ人は将来の命について何を信じていましたか。
36 この結論に驚かされるユダヤ人は少なくないかもしれませんが,復活は何千年にもわたって,まことの神の崇拝者たちの真の希望となってきました。約3,500年前,苦しんだ忠実なヨブは,神によりシェオル,つまり墓から起こしていただく将来の時代について語りました。(ヨブ 14:14,15)預言者ダニエルもまた,「日々の終わり」に起こしていただけるという確信を抱いていました。―ダニエル 12:2,12(13,ユダヤ; 新世)。
37 それら忠実なヘブライ人が,あの世に生き残る,不滅の魂を持っていると信じていたなどと言える根拠は聖書にはありません。明らかに彼らには,宇宙の恒星を数えて制御しておられる主権者なる主が,復活の時に自分たちのことをも思い起こしてくださるということを信ずる十分の理由がありました。それらの人々はこの方とそのみ名に対して忠実でしたから,この方も彼らに対して忠実であられるのです。―詩編 18:26(25,新世); 147:4。イザヤ 25:7,8; 40:25,26。
ユダヤ教と神のみ名
38 (イ)神のみ名の使用に関して,何世紀もの間にどんなことが起きましたか。(ロ)神のみ名が使われたことを示すどんな根拠がありますか。
38 ユダヤ教では,神のみ名は文字に記された形で存在するものの,それはあまりにも神聖なので発音すべきではないと教えられています。i その結果,過去2,000年にわたって,その正確な発音は分からなくなってしまいました。しかし,それが常にユダヤ人の取ってきた立場だったというわけではありません。約3,500年前,神はモーセにこう話されました。「あなたはイスラエル人にこう話すがよい。あなた方の父たちの神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神なる主[ヘブライ語,יהוה,YHWH]が,わたしをあなた方のもとに遣わされた。これは永久にわたしの名,未来永劫わたしの呼称」。(出エジプト記 3:15。詩編 135:13)その名,および呼称は何でしたか。タナッハのその脚注は,「YHWHという名(伝統的には,アドーナーイ,つまり“主”と読まれる)は,ここではハーヤー,つまり“ある”という意味の語根と結びつけられている」と述べています。ですから,この句には神の聖なるみ名,つまり四文字語<テトラグラマトン>,すなわちヘブライ語の子音文字,YHWH(ヤハウェ)があります。この語のラテン語化された形は何世紀にもわたって英語ではJEHOVAHとして知られています。
39 (イ)神の名はどうして重要ですか。(ロ)ユダヤ人はなぜ神の名を発音しなくなりましたか。
39 み名の使用を重視する見方は古代からすれば徹底的に変化してきましたが,ユダヤ人は常に神ご自身のみ名を大いに重視してきました。A・コーヘン博士が「万人のタルムード」という本の中で,「ご自身をイスラエル民族に啓示された神の“独特の名”(シェーム ハメフォーラーシュ),すなわち四文字語<テトラグラマトン>,JHVHには特別の崇敬の念が付された」と述べているとおりです。神の名は崇敬されました。なぜなら,それは神ご自身を表わし,特徴づけるものだったからです。結局,ご自分の名を告げ知らせ,それを使うようご自身の崇拝者たちにお命じになったのは,ほかならぬ神ご自身でした。そのみ名がヘブライ語聖書に6,828回出ているということは,その点を強調しています。しかし信心深いユダヤ人は,神ご自身のみ名を発音するのは不敬なことだと考えています。j
40 神の名の使用に関して,あるユダヤ人の権威者は何と述べていますか。
40 ラビ,A・マルモルスタインは,み名を発音することを禁じた古代のラビ的な(聖書に基づいていない)命令に関して自著,「神に関する古代のラビ的教理」の中で次のように書いています。「[神の名の使用に関する]この禁令がユダヤ人の間で全く知られていない時代があった。……エジプトでもバビロニアでも,ユダヤ人は日常の会話やあいさつの中で神のみ名,つまり四文字語<テトラグラマトン>を使うことを禁じた律法を知らなかったし,守ってもいなかった。ところが,西暦前3世紀から西暦3世紀まで,そのような禁令があり,部分的に守られていた」。初期のころ,そのみ名を使うことは許されていただけでなく,コーヘン博士が述べているように,「俗人さえみ名を自由に,また公に使うことが推奨された時代があった。……イスラエル人を[非ユダヤ人]から区別したいという願いに基づいてそのように勧められたのだとされて」いるのです。
41 あるラビによれば,どんな影響のために神のみ名の使用が禁じられるようになりましたか。
41 では,どんな事柄のために,神の名の使用が禁じられるようになりましたか。マルモルスタイン博士は,「ユダヤ人の宗教に対するヘレニズム[ギリシャの影響]による反対,および祭司や貴族らの背教のために,聖所[エルサレムの神殿]における四文字語<テトラグラマトン>の発音を禁ずる規則が導入され,確立された」と答えています。ユダヤ人は神の名をみだりに口にすることを極力避けようとするあまり,話の中でその名を使うことを完全に禁止し,まことの神を見分ける手だてとなるものをなくさせ,その効果を弱めました。宗教的な反対や背教の圧力が一緒に加えられたため,ユダヤ人の間で神の名は使われなくなってしまいました。
42 聖書の記録は神の名の使用に関してどんなことを示していますか。
42 しかし,コーヘン博士が述べているように,「聖書時代には,日常の話の際,[神の名]の使用にためらいを感ずることはなかった」ようです。族長アブラハムは「名指しで主に呼びかけ」ました。(創世記 12:8)ヘブライ語聖書の筆者のほとんどは,マラキが執筆に携わった西暦前5世紀に至るまで,自由に,しかし敬意を込めて,み名を使いました。―ルツ 1:8,9,17。
43 (イ)ユダヤ人が神の名を使用したかどうかに関しては,どんなことがあまりにも明白ですか。(ロ)ユダヤ人が神の名の使用をやめたことが直接もたらした影響の一つは何ですか。
43 古代ヘブライ人が確かに神の名を使ったり発音したりしたことは,あまりにも明白です。マルモルスタインは後代に生じた変化に関して次の点を認めています。「この当時,つまり[西暦前]3世紀の前半に神のみ名の使用に関して起きた重大な変化に注目しなければならないのである。その変化はユダヤ教の神学的,哲学的教えに多大の変化をもたらし,その影響はまさしく今日に至るまで感じられている」。神の名が見失われたために生じた影響の一つは,キリスト教世界の三位一体の教理が容易に発展できる神学的真空状態を作り出すことが無名の神という概念により助長されたことです。k ―出エジプト記 15:1-3。
44 神のみ名が隠されたために生じた他の影響の幾つかを挙げてください。
44 神の名を使用しないなら,まことの神の崇拝の重要性は減少します。ある注解者が次のように述べたとおりです。「不幸なことに,神のことが『主』と述べられる時,その句は正確ではあっても,生彩のない,冷ややかなものである。……YHWH,もしくはアドーナーイを『主』と訳出されると,元の本文にとって全く異質的で,抽象的,形式的,かつ疎遠な響きが旧約聖書の多くの章節に加えられる結果になるということを覚えておく必要がある」。(「古代イスラエルにおける神に関する知識」)ヤハウェ,もしくはエホバという荘厳で重要なみ名が,元のヘブライ語本文には明らかに何千回も出ているのに,多くの聖書翻訳から除かれたことを知るのは何と残念なことでしょう。―イザヤ 43:10-12。
ユダヤ人は今なおメシアを待ち望んでいるか
45 メシアの到来を信ずるべき,どんな聖書的根拠がありますか。
45 2,000年以上の昔のユダヤ人が抱いていた,メシアに関する希望の源泉となったヘブライ語聖書には,数多くの預言があります。サムエル第二 7章11節から16節は,メシアがダビデの家系から出ることを示唆しています。イザヤ 11章1節から10節は,メシアが全人類に義と平和をもたらすことを預言していました。ダニエル 9章24節から27節は,メシアが現われてから死んで断たれるまでの出来事を年代順に示しています。
46,47 (イ)ローマの支配下で生活したユダヤ人は,どんなメシアを期待していましたか。(ロ)メシアに関するユダヤ人の願望にはどんな変化が生じましたか。
46 「ユダヤ百科事典」が説明しているとおり,1世紀当時までに,メシアに対する期待が高まりました。メシアは,「異教徒から課せられたくびきを打ち砕いて,回復されたイスラエル王国を治めるために,神により起こされるものと,ローマ時代のユダヤ人が信じていた,カリスマ的な力を付与される,ダビデの子孫」として現われると期待されていました。しかし,ユダヤ人が期待していた戦闘的なメシアはやって来ませんでした。
47 それでも,「ユダヤ教が生き残ることができたのは,確かにメシアに関する約束と将来に対する不動の信仰に相当負うところがある」と,「新ブリタニカ百科事典」が述べているように,メシアに関する希望は,数多くの困難な試練に遭遇したユダヤ民族をいつも団結させる点で肝要でした。しかし,18世紀から19世紀にかけて,現代ユダヤ教が興るにつれて,多くのユダヤ人は受け身の態度でメシアを待ち望むのをやめました。ついには,ナチの引き起こした大虐殺<ホロコースト>のために,多くのユダヤ人は辛抱強さと希望を失い,メシアに関する音信を不利な事柄とみなして,その音信を単に繁栄と平和の新時代を意味するものとして解釈し直すようになりました。以来,例外はあるものの,ユダヤ人は全体として個人的なメシアを待望しているとは,まず言えなくなりました。
48 ユダヤ教に関して,当然,どんな疑問を提起できますか。
48 こうして,メシアに対する信仰のない宗教への変身が生じたため,重大な疑問が提起されています。メシアが一個人として現われることを信じていたユダヤ教は,何千年にもわたって間違っていましたか。どんな形態のユダヤ教が神を探求する点で助けになりますか。それはギリシャ哲学というわなのある古代ユダヤ教ですか。あるいは,過去200年間発展してきた,メシアに対する信仰のないユダヤ教の一派ですか。それとも,メシアに対する希望を忠実に,また正確に保持している,さらに別の道がありますか。
49 誠実なユダヤ人は何をするように勧められていますか。
49 これらの疑問を念頭に置いて,キリスト教世界が描き出してきたイエスではなく,ギリシャ語聖書のユダヤ人の筆者たちが紹介しているナザレのイエスに関する主張を調べて,メシアに関する問題を再検討するよう,誠実なユダヤ人の方々にお勧めします。これら両者の主張には大きな相違があります。「我らの神なる主,主はただひとりであられる」という純粋の教えを大切にしているユダヤ人なら,明らかにだれも受け入れることのできない,聖書に基づかない三位一体という教理により,キリスト教世界の宗教諸団体はユダヤ人にイエスを退けさせることを助長してきました。(申命記 6:4,ユダヤ)ですから,ギリシャ語聖書のイエスをよく知るために,偏見のない心で次の章を読まれるよう,お勧めいたします。
[脚注]
a 「参照資料付き 新世界訳聖書」の創世記 5章22-24節,および22節の最初の脚注と比較してください。
b この章の引照句は,ほかに注記がない場合はすべて,ユダヤ出版協会の学者の訳した「聖書の新訳」,つまり現代語のタナッハ版(1985年)から引用されています。
c ここに示されている年代計算は,典拠としての聖句に基づいています。(ものみの塔聖書冊子協会の発行した,「聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です」と題する本の研究3,「時の流れの中で出来事の年代を算定する」の章をご覧ください。)
d 1世紀のユダヤ人史家,ヨセフ・ベン・マッティティヤフー(フラビウス・ヨセフス)によれば,アレクサンドロスがエルサレムに到着した時,ユダヤ人は彼のために城門を開けて,アレクサンドロスによる征服を“ギリシャの王”によるものと明示している,200年以上も前に記されたダニエル書の預言を彼に示しました。―「ユダヤ古代誌」,第11巻,8章5節。ダニエル 8:5-8,21。
e マカベア家(西暦前165年から同63年まで続いたハスモン家)の時代中,ヨハンネス・ヒルカノスなどのユダヤ人の指導者は,征服することにより大規模な改宗を強制的に行なうことさえしました。興味深いことに,西暦初頭のころ,地中海沿岸世界の人口の10%はユダヤ人でした。この数字はユダヤ教への改宗の及ぼした衝撃のほどをはっきりと示しています。
f 「新ブリタニカ百科事典」によれば,「キリスト教の三位一体の信条は……他の二つの古典的な一神教[ユダヤ教とイスラム教]とは別のもので」,「クリスチャンの聖書には,とりわけ三位一体なる神に関する主張など何も含まれていない」にもかかわらず,三位一体は教会により編み出されました。
g この教理は,聖書的な権威のほかに,ミシュナ(サンヘドリン 10:1)の中で信仰箇条の一つとして教えられており,マイモニデスの信仰の13箇条の最後にも含まれています。20世紀に至るまで,復活を否定することは異端とみなされてきました。
h 「聖書は人間が魂を持っているとは言っていない。『ネフェシュ』とは人そのもの,食物を欲するその必要,その血管の中の血それ自体,その存在そのものである」― ヘブライ・ユニオン大学,H・M・オーリンスキー博士。
i 聖書のタナッハ版で,英語の本文中にヘブライ語の四文字語(テトラグラマトン)が出て来る出エジプト記 6章3節をご覧ください。
j 「ユダヤ百科事典」はこう述べています。「み名,YHWHを発音しないようにする考え方は……『なんじの神,YHWHのみ名をみだりに口にすべからず』という意味の第三の戒め(出エジプト 20:7; 申命 5:11)を誤解したために生じたが,この句は実際には,『あなたはあなたの神,YHWHの名にかけて偽って誓ってはならない』という意味なのである」。
k 米国,ジョージア大学の宗教とヘブライ語の準教授ジョージ・ハワードは次のように述べています。「時たつうちに,これら二者[神とキリスト]はより密接な統一体とされ,ついに多くの場合,この二者は区別することができなくなった。こうして,四文字語(テトラグラマトン)が除去されることにより,初期の何世紀かの教会を悩ました,後代のキリスト論的,三位一体論的論争を大いに助長したと言えよう。いずれにしても,四文字語が除去されたため,1世紀の新約聖書時代に存在したのとは異なる神学的風土が作り出されたようである」―「聖書考古学レビュー」誌,1978年3月号。
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セファルディック系ユダヤ人とアシュケナジ系ユダヤ人が二つの地域共同体を形成しました
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十戒,崇拝と行為を律する規定
“十戒”について聞いたことのある人は数え切れないほどいますが,一度も読んだことのない人も少数ながらいますから,“十戒”の主な句を次に掲げます。
■ 「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。
■ 「あなたは自分のために,刻んだ像,もしくは上は天にあり,下は地にあり,また地の下の水の中にあるものに似たいかなるものも作ってはならない。あなたはそれらに身をかがめたり,それらに仕えたりしてはならない。……[西暦前1513年もの初期の時代に,この禁令は偶像崇拝を退ける点で特異なものでした。]
■ 「あなたはあなたの神,主[ヘブライ語,יהוה]の名にかけて偽って誓ってはならない。……
■ 「安息日を覚えて,これを神聖に保つように。……主は安息日を祝福して,これを神聖にされたのである。
■ 「あなたの父母を敬いなさい。……
■ 「あなたは殺人をしてはならない。
■ 「あなたは姦淫を犯してはならない。
■ 「あなたは盗んではならない。
■ 「あなたは隣人に対して偽りの証言をしてはならない。
■ 「あなたは隣人の家……妻……男性,もしくは女性の奴隷……牛,もしくはろば,または隣人のものであるどんなものもむさぼってはならない」― 出エジプト記 20:3-14。
宗教上の信条や崇拝に直接関係のある戒めは最初の四つだけですが,他の戒めは正しい行為と創造者との正しい関係とのかかわりを示すものでした。
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神からの特異な律法があったにもかかわらず,イスラエルは異教徒の隣人の行なっていた子牛崇拝を模倣しました(金の子牛,ビブロス出土)
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ヘブライ人の聖典
ヘブライ語聖典は“Tanakh”をもって始まります。この“Tanakh”という名称は,ユダヤ人のヘブライ語聖書のTorah(「律法」),Nevi'im(「預言者」),およびKethuvim(「諸書」)という三つの分類の仕方から来ており,これら三つの部分を示す各々の語の頭文字を合わせて,“TaNaKh”という言葉が作られました。これらの書は西暦前16世紀から同5世紀にかけて,ヘブライ語とアラム語で書き記されました。
ユダヤ人はこれらの書が,漸減してゆく,程度の異なる霊感を受けて記されたと信じていたので,それらをこのような重要性の順序に従って配列しました。
トーラー ―「モーセ五書」,または「五書<ペンタチューク>」(「ペンタチューク」は「五つの巻き物」という意味のギリシャ語から来た用語),もしくは「律法」のことで,創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,および申命記でできています。しかし,「トーラー」という語はユダヤ人の聖書全体,それに口伝律法やタルムード(次のページをご覧ください)を指して使われることもあります。
ネヴィイーム ―「預言者」と呼ばれる書のことで,これは,ヨシュアから大預言者イザヤ,エレミヤ,およびエゼキエルに至るまでの預言者とホセアからマラキまでの12人の“小”預言者の書を指しています。
ケトゥヴィーム ―「諸書」のことで,詩編,箴言,ヨブ記,ソロモンの歌,および哀歌などの詩書でできており,さらにこの書には,ルツ記,伝道の書,エステル記,ダニエル書,エズラ記,ネヘミヤ記,歴代誌第一,および第二も含まれています。
タルムード
異邦人の見解からすれば,“タナッハ”,つまりユダヤ人の聖書はユダヤ人の教典の中でも最も重要なものとみなされますが,ユダヤ人の見解はそれとは異なっています。ラビ,アディン・シュタインザルツの次のような注解に同意するユダヤ人は少なくないでしょう。「聖書がユダヤ教の隅石であるとすれば,タルムードは精神的知的構築物全体を支えて,その土台からそそり立つ,中心的な柱である。……ユダヤ人の生活の理論や実践に及ぼした影響の点で比較できる著作はほかにはない」。(「本質的なタルムード」)では,タルムードとは何ですか。
神はシナイ山でモーセに成文律法,つまりトーラーを与えただけでなく,その律法を履行する方法に関する明確な解説をもモーセに啓示なさり,その解説は口頭で伝えられることになっていたと,正統派のユダヤ人は信じています。それが口伝律法と呼ばれました。したがって,タルムードとは,その口伝律法に関する後代の注解や解説が西暦2世紀から中世に至るまで,ラビによって収集され,書き記されて,まとめられたものです。
タルムードは普通,次のように二つの主要な部分に分けられています。
ミシュナ: タンナイム(教師たち)と呼ばれたラビたちの解説に基づいて,聖書の律法を補う注解を編集したもので,西暦2世紀末から3世紀初頭にかけて書き記されました。
ゲマラ(元はタルムードと呼ばれた): さらに後代(西暦3世紀から6世紀にかけて)ラビたちによるミシュナに関する注解を編集したものです。
このように二つに分けられた主要な部分に加えて,タルムードには中世に至るまでラビによってなされたゲマラに関する注解も含まれていると言えるでしょう。それらラビの中で傑出していたのはラビ・ラシ(ソロモン・ベン・イサク,1040-1105年)とラビ・ランバム(マイモニデスとしてもっとよく知られているモーゼス・ベン・マイモン,1135-1204年)でした。ラシはタルムードの難解な文体をずっと理解しやすいものに直し,ランバムはタルムードを編さんし直して,簡潔な版(「ミシュネー・トーラー」)を作り,こうしてユダヤ人がだれでもタルムードを利用できるようにしました。
[図版]
下はイランの“エステルの墓”として知られる所から出土した古代のトーラー; 右は聖書の節に基づく,ヘブライ語とイディッシュ語の賛歌
[226,227ページの囲み記事/図版]
ユダヤ教 ― 様々な意見で分かれている宗教
ユダヤ教の様々な分派の間には意見の大きな相違があります。ユダヤ教では伝統的に宗教的実践が強調されています。信条よりも,むしろそのような事柄を巡る論争のために,ユダヤ人の間には重大な緊張が生じ,ユダヤ教の三つの大きな分かれが形成されてきました。
正統派ユダヤ教 ― この派はヘブライ語による“タナッハ”が霊感を受けて記された経典であるということを受け入れるだけでなく,シナイ山で成文律法を受けたモーセが,同時に口伝律法をも神から受けたと信じています。正統派のユダヤ人はこれら両方の律法の戒めをきちょうめんに守っており,メシアがこれから現われて,イスラエルに黄金時代をもたらすと信じています。この正統派集団には意見の相違があるため,様々な分派が現われました。その一例がハシディズム(敬虔主義)です。
ハシディーム(「敬虔者」の意)― この派の人々は超正統派の人たちとみなされています。これはバアル・シェム・トブ(「良い名の主人」の意)として知られる,イスラエル・ベン・エリエゼルにより,18世紀半ばに東ヨーロッパで起こされた運動で,人々は,音楽や舞踏を強調し,神秘的な喜びをもたらす教えに従っています。輪廻を含め,その教えの多くは,カバラとして知られる,ユダヤ教の神秘主義的な文献に基づいています。今日,この派の人々はレバ(「ラビ」を意味するイディッシュ語),もしくはツァディック,つまり追随者から最高度に義なる者,または聖人とみなされている人たちによって導かれています。
ハシディームは今日,主に米国やイスラエルにいます。それらの人々は18,および19世紀当時の東ヨーロッパの主に黒い特異な衣装を身に着けているので,その姿は特に現代の都市の環境の中ではたいへん異様に映ります。今日,それらの人たちは様々の著名なレバに従う種々の分派に分かれています。非常に活発なグループの一つはルバヴィチ派で,この派の人たちはユダヤ人の中で精力的に人々を改宗させています。幾つかのグループは,イスラエルをユダヤ人の国家として回復させる権威を持っているのはメシアだけであると信じており,世俗のイスラエル国家に反対しています。
改革派ユダヤ教(“自由主義派”および“進歩派”としても知られる)― この運動は19世紀初頭に西ヨーロッパで始まりました。この運動は,ユダヤ人は異邦人から離れるのではなく,むしろ西洋文化を吸収すべきであると考えた,18世紀のユダヤ人の知識人,モーゼス・メンデルスゾーンの考えに基づいています。改革派ユダヤ人は,トーラーが神から啓示された真理であるということを否定し,食事や浄さや衣服に関するユダヤ教の律法を時代遅れなものとみなしています。これらの人々は,“世界的な兄弟関係の行き渡るメシアの時代”と呼ぶ時期が来ることを信じており,近年,伝統的なユダヤ教の教えに戻ってきました。
保守派ユダヤ教 ― この派は,伝統的なユダヤ教の慣行をあまりにも多く退けすぎたと考えられる改革派ユダヤ教からの分かれとして1845年にドイツで始まりました。保守派ユダヤ教は,モーセが口伝律法を神から与えられたという考えは受け入れず,ユダヤ教を新時代にあてはめようとしたラビたちが口伝律法を考案したのだと考えました。保守派のユダヤ人は,聖書的な戒律やラビの律法が「現代のユダヤ人の生活上の要求にこたえ応じる」ものであれば,それに従います。(「ユダヤ人の知識の書」)これらの人々は典礼文にヘブライ語や英語を用いており,食事に関する厳格な律法(カシュルート)を守っています。礼拝の際,男女は一緒に座ることが許されていますが,これは正統派では許されていません。
[図版]
左はエルサレムの“嘆きの壁”のそばのユダヤ人で,上はエルサレムを背景にして祈るユダヤ人
[230,231ページの囲み記事/図版]
幾つかの重要な祭りや習慣
ユダヤ人の祭りの大半は聖書に基づいており,大抵,様々な収穫に関連した季節的な祭りや歴史的な出来事に関係のある祭りです。
■ シャバット(安息日)― ユダヤ暦の週の第七日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)はその週を神聖なものにする日とみなされ,この日を特別に守ることが崇拝の肝要な事柄の一部とされており,ユダヤ人は会堂に行って,トーラーの朗読と祈りに加わります。―出エジプト記 20:8-11。
■ ヨム・キプール ― 断食と内省を特色とする,贖罪の日の厳粛な祭りで,ユダヤ人の新年祭であるローシュ ハシャーナーと共に始まる「十日間のざんげ」をもって最高潮を迎えます。新年祭はユダヤ人の政暦では9月に当たります。―レビ記 16:29-31; 23:26-32。
■ スコット(右上)― 仮小屋,もしくは幕屋,あるいは取り入れの祭りで,収穫,もしくは農耕年の大半の終わりが祝われ,10月に行なわれます。―レビ記 23:34-43。民数記 29:12-38。申命記 16:13-15。
■ ハヌカ ― 献納の祭りで,西暦前165年12月に,シリア・ギリシャの支配下にあったユダヤ人がマカベア家により独立を回復したこととエルサレムの神殿が再び献納されたことを祝います。普通,八日間,ろうそくの火をともすのが特徴です。
■ プリム ― くじの祭り。西暦前5世紀にユダヤ人がペルシャでハマンとその集団殺りく計画から守られたことを祝う祭りで,2月の終わりか,3月の初めに祝われます。―エステル 9:20-28。
■ ペサハ ― 過ぎ越しの祭り。イスラエルがエジプトでの捕らわれから解放されたこと(西暦前1513年)を記念するために設けられたもので,ユダヤ人の祭りの中で最も古い,最も大規模な祭りです。(ユダヤ暦)ニサン14日に行なわれており,普通,この日は3月の終わりか,4月の初めに当たります。ユダヤ人の家族は各々集まって,過ぎ越しの食事,つまりセデルにあずかります。その後の七日間,パン種は食べません。この期間は無酵母パン(マッツォート)の祭りと呼ばれています。―出エジプト記 12:14-20,24-27。
ユダヤ人の幾つかの習慣
■ 割礼 ― 生後,八日目に行なわれる,ユダヤ人の男の子にとって重要な儀式で,多くの場合,アブラハムの契約とも呼ばれています。割礼はアブラハムに対する神の契約のしるしだったからです。ユダヤ教に改宗する男子もやはり割礼を受けなければなりません。―創世記 17:9-14。
■ バル・ミツバ(下)― 文字通りには,「戒めの子」という意味のもう一つのユダヤ人の重要な儀式で,この「語はそれが宗教的,また法的に成熟したこと,およびこの身分が13歳と一日目の少年に正式に付与される特別の時であることを表わして」います。これは西暦15世紀に初めてユダヤ人の習慣になりました。―「ユダヤ百科事典」。
■ メズザー(右上)― ユダヤ人の家は人が入る戸口の右側の側柱にメズザー,つまり巻き物を入れる入れ物が取り付けられているため,普通,見分けるのが容易です。事実,メズザーは,申命記 6章4節から9節と11章13節から21節の言葉が書き込まれた小さな羊皮紙です。それが巻かれて,小さな入れ物に入れられ,その入れ物が住まいとして使われる各々の部屋の入口ごとに取り付けられています。
■ ヤムルカ(キッパー; 男性がかぶる小さな丸帽子)―「ユダヤ百科事典」によれば,「正統派ユダヤ人は……会堂の内外いずれでも頭に着用するかぶり物をユダヤ教の伝統に対する忠誠のしるしとみなして」います。礼拝の際に頭を覆うことは,タナッハのどこにも述べられていないので,タルムードは,これを習慣上の任意の事柄としています。ハシディズムを信奉するユダヤ人の女性はいつでも頭覆いを着用するか,あるいは頭をそって,かつらをかぶるかします。
[206ページの図版]
ユダヤ人の父祖アブラム(アブラハム)は,およそ4,000年前にエホバ神を崇拝しました
[208ページの図版]
ダビデの星 ― イスラエルとユダヤ教の象徴ですが,聖書とは無関係です
[215ページの図版]
ヘブライ語本文を書き写しているユダヤ人の書士
[222ページの図版]
安息日を祝う,ハシディズムを信奉するユダヤ人の家族
[233ページの図版]
聖句箱,つまり祈りの言葉を記した巻き物を入れた入れ物を額や腕に着けた信心深いユダヤ人
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キリスト教 ― イエスは神に通ずる道でしたか神を探求する人類の歩み
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10章
キリスト教 ― イエスは神に通ずる道でしたか
これまでに,ユダヤ教に関する章を除けば,かなりの程度まで神話に基づいている幾つかの主要な宗教を考慮してきました。今度は,人間を一層神に近づけると言われている,もう一つの宗教 ― キリスト教 ― を調べてみましょう。キリスト教の基盤は何ですか。神話,それとも歴史的な事実ですか。
1 (イ)キリスト教世界の歴史はどうしてキリスト教に関する重大な疑問を一部の人々に抱かせますか。(ロ)キリスト教世界とキリスト教との間にはどんな区別が設けられていますか。
戦争,異端審問所,十字軍,および宗教的偽善を伴うキリスト教世界aの歴史は,キリスト教の大目的に寄与してきませんでした。信心深いムスリム(イスラム教徒)や他の人々は,キリスト教を退ける根拠として西洋,つまり“キリスト教”の世界の道徳的腐敗や退廃を指摘します。確かに,いわゆるキリスト教諸国は道徳上の指導原理を失い,いわば不信仰,貪欲,および放縦などの暗礁に乗り上げて難破しています。
2,3 (イ)初期クリスチャンの行ないと現代のキリスト教世界の人々のそれとの間にはどんな対照が見られますか。(ロ)幾つかのどんな疑問に答えなければなりませんか。
2 エレイン・ペイゲルス教授は自著,「アダム,エバ,および蛇」の中で,原初のキリスト教の規準が何でも許容する今日の習俗とは異なっていたことを証明して,「最初の4世紀間の多くのクリスチャンは性的慎み深さを誇りとし,一夫多妻や多くの場合,離婚をも避けたが,ユダヤ教の伝統では離婚は認められていた。また,クリスチャンは同時代の異教徒の間で普通に受け入れられていた結婚関係外の性的慣行,つまり売春や同性愛を含めた慣行を拒んだ」と述べています。
3 ですから,キリスト教世界の歴史と同世界の現代の道徳状態はイエス・キリストの教えを本当に反映しているだろうかと問うのは妥当なことです。イエスとはどんな人でしたか。イエスは人間が神に一層近づくのを助けましたか。イエスはヘブライ人の預言の約束のメシアでしたか。これらの問いはこの章で考慮する疑問の幾つかです。
イエス ― その信用証明書となったのは何か
4 この研究では,キリスト教およびそのルーツと世界の幾つかの主要な宗教との間にはどんな明白な相違があることに注目してきましたか。
4 この本の初めのほうの章では,世界の主要な宗教のほとんどすべての中で神話が演じてきた顕著な役割を考察しました。しかし,前の章でユダヤ教の起源を取り上げた際,神話ではなく,まずアブラハムとその祖先や子孫に関する歴史的な事実から考察し始めました。同様に,キリスト教とその創始者イエスについても,神話ではなく,まず歴史的な一人物のことから考察してみましょう。―237ページの囲み記事をご覧ください。
5 (イ)イエスはご自分がアブラハムの約束の「胤」であることを証明するどんな信用証明書を3通持っておられましたか。(ロ)だれがクリスチャン・ギリシャ語聖書を書き記しましたか。
5 普通,新約聖書として知られるクリスチャン・ギリシャ語聖書(241ページの囲み記事をご覧ください)の最初の節には,「アブラハムの子,ダビデの子,イエス・キリストについての歴史の書」と記されています。(マタイ 1:1)これは,以前,ユダヤ人の収税人で,イエスの伝記を著わした,その直弟子マタイの述べた当てにならない主張ですか。いいえ,そうではありません。続く15節までの箇所には,ヤコブに至るまでのアブラハムの子孫の家系が明確に記されています。そのヤコブは,「マリアの夫ヨセフの父となり,このマリアから,キリストと呼ばれるイエスが生まれ」ました。ですから,イエスは実際,アブラハム,ユダ,およびダビデの子孫でしたし,そのような子孫として,創世記 3章15節の,またアブラハムの「胤」であることを示す信用証明書を3通持っておられました。―創世記 22:18; 49:10。歴代第一 17:11。
6,7 イエスの出生地にはなぜ重大な意義がありましたか。
6 メシアなる胤のもう一通の信用証明書となったのは,その出生地でした。イエスはどこで生まれましたか。マタイは,イエスが「王ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムで生まれた」と語っています。(マタイ 2:1)医師ルカの記述もこの事実を確証しており,イエスの将来の養父となる人について,「ヨセフも,ダビデの家また家族の一員であったので,ナザレの都市を出て,ガリラヤからユダヤに入り,ベツレヘムと呼ばれるダビデの都市に上った。約束どおり彼に嫁ぎ,今は身重になっていたマリアと共に登録をするためであった」と記されています。―ルカ 2:4,5。
7 イエスがナザレその他どこかの町ではなく,ベツレヘムで生まれるのは,どうして重要なことでしたか。それは,ヘブライ人の預言者ミカが西暦前8世紀に述べた次のような預言のゆえでした。「そして,ベツレヘム・エフラタ,ユダの幾千の中に入るには小さすぎる者よ,イスラエルにおいて支配者となる者があなたの中からわたしのために出る。その者の起こりは遠い昔から,定めのない昔の日からである」。(ミカ 5:2)ですから,イエスはご自分の出生地により,ご自身が約束の胤,ならびにメシアであることを示す,もう一通の信用証明書をお持ちでした。―ヨハネ 7:42。
8 イエスが成就なさった預言を幾つか挙げてください。
8 事実,イエスはヘブライ語聖書のさらに多くの預言を成就し,ご自分が約束のメシアであることを示す信用証明書をすべて持っていたことを証明なさいました。読者も聖書のそれらの預言の幾つかを調べることができます。(245ページの囲み記事をご覧ください。)b しかし,今,イエスの音信と宣教について簡単に検討してみましょう。
イエスの生活はその道を指し示す
9 (イ)イエスは公の宣教をどのように開始されましたか。(ロ)イエスが神の是認を得られたことはどうして分かりますか。
9 聖書の記述によれば,イエスは地元の会堂やエルサレムの神殿での集まりに出席したりして,当時のユダヤ人の普通の若者と同じように育てられました。(ルカ 2:41-52)彼は30歳になった時,公の宣教を開始されました。まず,ヨルダン川で悔い改めの象徴としてのバプテスマをユダヤ人に施していた,いとこのヨハネのもとに行きました。ルカの記述はこう告げています。「さて,民が皆バプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。そして,祈っておられると,天が開け,聖霊がはとのような形をとって彼の上に下り,また天から声があった。『あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した』」― ルカ 3:21-23。ヨハネ 1:32-34。
10,11 (イ)イエスが宣べ伝えたり教えたりする際に用いられた方法の特徴を幾つか挙げてください。(ロ)イエスはみ父の名の重要性をどのように示されましたか。
10 やがて,イエスは神の油そそがれたみ子として宣教に着手されました。そして,ガリラヤやユダヤの至る所へ行って,神の王国の音信を宣べ伝えると共に,病人をいやしたりして数々の奇跡を行なわれました。しかし,報酬を受けたり,富や権力拡大を求めたりはなさいませんでした。実際,受けるよりも与えるほうが幸福であると言われました。また,宣べ伝える方法をご自分の弟子たちに教えられました。―マタイ 8:20; 10:7-13。使徒 20:35。
11 イエスの音信とそれを伝える方法を分析してみると,そのやり方とキリスト教世界の説教師の多くのそれとは明らかに異なっていることが分かります。イエスは安っぽい感情表現や地獄の火などの脅迫手段で一般大衆を操ったりはなさいませんでした。それどころか,人の心や思いに訴えるため,分かりやすい論法や日常生活に基づく,たとえ話や例えを使われました。有名な山上の垂訓はイエスの教えや教え方を示す一つの顕著な実例です。その講話に含まれている模範的な祈りの中で,イエスは神のみ名を神聖なものにすることを第一にして,クリスチャンが優先させるべき事柄の順位を明らかにしておられます。(258,259ページの囲み記事をご覧ください。)― マタイ 5:1-7:29; 13:3-53。ルカ 6:17-49。
12 (イ)イエスはご自分の教えや行動でどのように愛を表わされましたか。(ロ)クリスチャンの愛が本当に実践されたなら,世界はどのように異なった所となるでしょうか。
12 イエスはご自分の追随者や一般大衆を扱う際,愛や同情心を表わされました。(マルコ 6:30-34)そして,神の王国の音信を宣べ伝える際にも,愛と謙遜さを個人的に実際に示されました。ですから,ご自分の生涯の最後の何時間かの間に,弟子たちに次のように言うことがおできになりました。「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)ゆえに,実際問題としてキリスト教の真髄は,原則に基づく自己犠牲的な愛です。(マタイ 22:37-40)これは,実際上,クリスチャンは自分の敵の悪い業は憎みますが,そのような敵をも愛すべきであるということを意味しています。(ルカ 6:27-31)ちょっと次のことを考えてみてください。もし,すべての人がそのような種類の愛を本当に実践したなら,この世界は何と異なった場所になることでしょう。―ローマ 12:17-21; 13:8-10。
13 イエスの教えはどんな点で孔子や老子や仏陀のそれと異なっていましたか。
13 しかし,イエスの教えた事柄は,孔子や老子の教えた事柄のような倫理,もしくは哲学よりもはるかに勝っていました。その上,イエスは仏陀のように,人は知識や悟りの道によって自己の救いを達成できるなどとは教えませんでした。それどころか,神を救いの源として指し示して,「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くためではなく,世が彼を通して救われるためなのです」と言われました。―ヨハネ 3:16,17。
14 イエスはどうして,「わたしは道であり,真理であり,命です」と言うことがおできになったのでしょうか。
14 イエスはご自分の言葉や行ないの中でみ父の愛を表わすことにより,人々を神に一層引き寄せられました。これは,イエスが次のように言うことがおできになった一つの理由でした。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません。……わたしを見た者は,父をも見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。……わたしは去って行き,そしてまたあなた方のもとに戻って来る,とわたしが言ったのを,あなた方は聞きました。もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです」。(ヨハネ 14:6-28)確かに,イエスは「道であり,真理であり,命」でした。なぜなら,当時のユダヤ人をご自分のみ父,つまり彼らのまことの神エホバに帰るよう導いておられたからです。ですから,イエスが来られると共に,神を探求する人類の歩みに突如はずみが付けられました。なぜなら,神が最高の愛を示して,人間を父なるご自分に導くため,イエスを光と真理の信号として地に遣わされたからです。―ヨハネ 1:9-14; 6:44; 8:31,32。
15 (イ)神を見いだすには,何をしなければなりませんか。(ロ)この地上には神の愛を示すどんな証拠がありますか。
15 宣教者であったパウロは後日,イエスの宣教とその模範に基づいて,アテネのギリシャ人に次のように言うことができました。「そして,[神は]一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからで(す)」。(使徒 17:26-28)そうです,もし神を探求しようと進んで努力するなら,人は神を見いだすことができます。(マタイ 7:7,8)神は無限なまでに変化に富んでいるように思える生物を支える地球を備えて,ご自身とご自分の愛とを明らかにされました。また,人が義にかなっているかどうかにかかわりなく,全人類の必要とするものを供給しておられます。神はまた,書き記されたみ言葉,聖書を人類に備えてくださいましたし,人を請け戻すための犠牲としてご自分のみ子を遣わされました。c その上,神はご自分に近づく道を見いだすのを助けるため,人々の必要とする助けを備えておられます。―マタイ 5:43-45。使徒 14:16,17。ローマ 3:23-26。
16,17 真のクリスチャンの愛はどのようにして明らかにされなければなりませんか。
16 もちろん,クリスチャンの愛は単なる言葉ではなく,もっと重要なこととして,行為によって明らかにされなければなりません。そのようなわけで,使徒パウロはこう書きました。「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません」― コリント第一 13:4-8。
17 イエスはまた,天の王国,つまり柔順な人類に対する神の支配についてふれ告げるのがどんなに重要なことかを明らかにされました。―マタイ 10:7。マルコ 13:10。
クリスチャンは皆,福音宣明者
18 (イ)イエスの山上の垂訓の中では,どんなことが強調されましたか。(ロ)クリスチャンには各々どんな責任がありますか。(ハ)イエスはご自分の弟子たちにどのように宣教の備えをさせましたか。彼らはどんな音信を宣べ伝えることになりましたか。
18 イエスは山上の垂訓の中で群衆に対して,自分の言葉と行動によって他の人々に光を照らす責任があることを強調し,次のように言われました。「あなた方は世の光です。都市が山の上にあれば,それは隠されることがありません。人はともしびをともすと,それを量りかごの下ではなく,燭台の上に据え,それは家の中にいるすべての人の上に輝くのです。同じように,あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」。(マタイ 5:14-16)イエスはご自分の弟子たちが巡歴する奉仕者として旅をする際,宣べ伝えたり教えたりする仕方を知っておくようにするため,彼らを訓練されました。それに,どんな音信を伝えることになりましたか。イエスご自身が宣べ伝えた音信,つまり義をもって地を支配する,神の王国の音信でした。それは,イエスがある時,「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」と説明されたとおりです。(ルカ 4:43; 8:1; 10:1-12)イエスはまた,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と述べて,これが終わりの日を見分けるのに役立つしるしの一部であることを指摘されました。―マタイ 24:3-14。
19,20 (イ)真のキリスト教は常に,宣べ伝える業を伴う,活発な宗教として存在してきましたが,それはなぜですか。(ロ)ここで,どんな基本的な疑問に答えなければなりませんか。
19 西暦33年,復活させられたイエスは最後に昇天する前に,弟子たちにこうお命じになりました。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。(マタイ 28:18-20)キリスト教が実に当初から,神話に根ざしたギリシャやローマの当時の支配的な宗教の信奉者を怒らせたり嫉妬させたりした,改宗を図る,活発な宗教であった理由の一つはここにあります。エフェソスでパウロが受けた迫害は,その事実をはっきりと示した良い例です。―使徒 19:23-41。
20 ここで,次のような疑問が生じます。神の王国の音信は死者に関して何を提供しましたか。キリストは死者のためのどんな希望を宣べ伝えましたか。ご自分の信者たちの“不滅の魂”のために“地獄の火”からの救いの道を差し伸べておられましたか。それとも,何を説かれましたか。―マタイ 4:17。
永遠の命の希望
21,22 (イ)イエスは死んだラザロの状態を何に例えられましたか。(ロ)マルタは亡くなった兄弟のためにどんな希望を抱いていましたか。
21 イエスの友ラザロが死んだ時,イエスが言ったり行なったりされたことを考慮すると,イエスの宣べ伝えた希望に対する恐らく最も明快な洞察が得られるでしょう。その死をイエスはどのようにみなされましたか。ラザロの家に向かって出かける際,イエスは弟子たちに,「わたしたちの友ラザロは休んでいますが,わたしは彼を眠りから覚ましにそこへ行きます」と言われました。(ヨハネ 11:11)イエスはラザロの死んだ状態を眠りに例えられました。熟睡すると,人は何も意識しません。このことは,伝道の書 9章5節の『生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もない』というヘブライ語の表現と合致します。
22 ラザロは死んで四日たっていましたが,ラザロの魂が天,地獄,もしくは煉獄にいるということについてイエスが一言も言われなかったのは,実に注目すべきことです。ベタニヤに着いたイエスをラザロの姉妹マルタが出迎えた時,イエスは彼女に,「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。彼女はどのように答えましたか。ラザロはすでに天にいると言いましたか。マルタは,「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と答えました。これは明らかに,復活,つまりこの地上で生き返ることが当時のユダヤ人の希望だったことを示しています。―ヨハネ 11:23,24,38,39。
23 イエスはどんな奇跡を行なわれましたか。それを見た人たちはどんな影響を受けましたか。
23 イエスはこうお答えになりました。「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」。(ヨハネ 11:25,26)その要点を証明するため,イエスはラザロの遺体が納められていた洞くつに行き,その姉妹のマリアやマルタ,および隣人たちの見ている所で,生きて出て来るよう,ラザロをお呼びになりました。その記述はこう続いています。「それゆえ,マリアのところに来ていて,イエスの行なったことを見たユダヤ人の中の多くの者が彼に信仰を持った。……それで,イエスがラザロを記念の墓から呼び出して死人の中からよみがえらせた時に一緒にいた群衆は,証しをしつづけた」。(ヨハネ 11:45; 12:17)彼らは自らその奇跡を見たので,それが現実に起きたことを信じて,そのことについて証言しました。イエスの宗教上の反対者たちもその出来事を信じていたに違いありません。というのは,その記録によれば,祭司長やパリサイ人たちは,「この人が多くのしるしを行なう」ので,イエスを殺そうとたくらんだからです。―ヨハネ 11:30-53。
24 (イ)ラザロは四日間どこにいましたか。(ロ)聖書は不滅性について何と述べていますか。
24 ラザロは死んでいた四日間,どこへ行きましたか。どこにも行きませんでした。墓の中で無意識で,眠って,復活を待っていました。イエスは彼を奇跡的に死人の中からよみがえらせて祝福されました。しかし,ヨハネの記述によれば,ラザロはその四日間,天,地獄,もしくは煉獄にいたことについては何も言いませんでした。なぜですか。なぜなら,そのような場所に旅することができるような不滅の魂など持っていなかったからにすぎません。d ―ヨブ 36:14。エゼキエル 18:4。
25 (イ)聖書が永遠の命について述べる場合,何を指してそう述べていますか。(ロ)約束された神の王国の到来は何にかかっていますか。
25 ですから,永遠の命について語ったイエスは,ご自分の王国で共に治める不滅の霊の共同支配者に変えられて天で受ける命か,その王国の支配権eのもとで楽園<パラダイス>となる地上で人間として受ける永遠の命のいずれかを指しておられました。(ルカ 23:43。ヨハネ 17:3)神の約束によれば,神は比喩的な仕方で従順な人類と共に地上で住むことにより,この地球には豊かな祝福がもたらされます。もちろん,このすべては,イエスが実際に遣わされて,神によって是認されるかどうかにかかっています。―ルカ 22:28-30。テトス 1:1,2。啓示 21:1-4。
神からの是認 ― 現実に起きたことで,神話ではない
26 弟子ペテロ,ヤコブ,およびヨハネのいるところで,どんな驚くべき事柄が起きましたか。
26 イエスは神の是認をお受けになりましたが,どうしてそれが分かりますか。まず第一に,イエスがバプテスマをお受けになった時,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」という声が天から聞こえてきました。(マタイ 3:17)後日,そのように是認されたことを示す証拠となるものが,他の証人たちの前で与えられました。元,ガリラヤ出身の漁師だった弟子,ペテロ,ヤコブ,およびヨハネはイエスに伴って,ある高い山(多分,標高2,814㍍のヘルモン山)に行きました。すると,そこで,次のような驚くべき事柄が弟子たちの眼前で起きました。「そして[イエスは]彼らの前で変ぼうされ,その顔は太陽のように輝き,その外衣は光のようにまばゆくなった。そして,見よ,モーセとエリヤが彼らに現われ,イエスと語り合っていた。……見よ,明るい雲が彼らを影で覆った。そして,見よ,その雲の中から声があって,『これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい』と言った。これを聞くと,弟子たちはうつ伏して非常に恐れた」― マタイ 17:1-6。ルカ 9:28-36。
27 (イ)その変ぼうは弟子たちにどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)イエスは神話上の人物ではありませんでしたが,どうしてそれが分かりますか。
27 見聞きできる仕方で神からもたらされた,このような証拠は,ペテロの信仰を非常に強めるものとなったので,彼は後に次のように書きました。「そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなた方に知らせたのは,巧みに考え出された作り話[ギリシャ語,ミュトイス,神話]によったのではなく,その荘厳さの目撃証人となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたし自らこの者を是認した』という言葉が荘厳な栄光によってもたらされた時,イエスは父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼と共に聖なる山にいた時,この言葉が天からもたらされるのを聞きました」。(ペテロ第二 1:16-18)ユダヤ人の弟子であったペテロ,ヤコブ,およびヨハネは実際にイエスの変ぼうの奇跡を見,天からの神の是認の声を聞きました。彼らの信仰は,神話でも,“ユダヤ人のぐう話”でもなく,自分たちの見聞きした事実に基づいていました。(237ページの囲み記事をご覧ください。)― マタイ 17:9。テトス 1:13,14。f
イエスの死ともう一つの奇跡
28 西暦33年にイエスはどのように偽って告発されましたか。
28 西暦33年にイエスは捕縛され,ユダヤ人の宗教上の権威者たちによって審理され,自らを神のみ子と呼んで冒とくしたとして偽って告発されました。(マタイ 26:3,4,59-67)それらのユダヤ人はローマの世俗の当局者がイエスを処刑するほうがよいと考えたようで,彼をピラトのもとに送り,この度はカエサルに対する税の支払いを禁じたり,自分が王であると言ったりしたとして,またもや偽って彼を告発しました。―マルコ 12:14-17。ルカ 23:1-11。ヨハネ 18:28-31。
29 イエスはどのようにして死なれましたか。
29 イエスは支配者たちのもとに次々に回された後,ローマ総督ポンテオ・ピラトは宗教的感情に駆り立てられた暴徒の執ようさに屈して最も安易な方法を取り,イエスに死刑を宣告しました。その結果,イエスは杭に付けられて恥辱の死を遂げ,その遺体は墓に納められました。しかし三日もたたないうちに,ある出来事が起こり,そのためにそれまで悲しみに暮れていたイエスの弟子たちは,喜びにあふれた信者,そして熱心な福音宣明者に一変しました。―ヨハネ 19:16-22。ガラテア 3:13。
30 宗教指導者たちは人をだます企てを阻止するため,どんな処置を講じましたか。
30 イエスの追随者たちが策略を講ずるのではなかろうかと考えた宗教指導者たちは,ピラトのもとに行って,次のように要請しました。「『閣下,わたしどもは,あのかたり者が,まだ生きていた時分に,「三日後にわたしはよみがえらされる」と言ったのを思い出しました。それで,三日目まで墓の守りを固めるように命令してください。弟子たちがやって来て彼を盗み出し,「彼は死人の中からよみがえらされたのだ!」などと民に言いふらすようなことのないためです。この最後のかたりは,最初のものより悪い結果になってしまうでしょう』。ピラトは言った,『あなた方には警備隊がある。行って,あなた方の知る限りの方法で守り固めるがよい』。それで彼らは出かけて行き,石に封印をし,また警備隊を置いて墓の守りを固めた」。(マタイ 27:62-66)墓はどれほどしっかり守り固められていましたか。
31 忠実な婦人たちがイエスの墓に行った時,何が起きましたか。
31 イエスの死後,三日目のこと,3人の婦人が遺体に香油を塗るため,その墓に行きました。彼女たちは何を知りましたか。こう記されています。「そして,週の最初の日の朝とても早く,記念の墓に来た。その時,太陽はすでに昇っていた。そして彼女たちは,『記念の墓の戸口から,だれがわたしたちのために石を転がしのけてくれるでしょうか』と言い合っていた。ところが,見上げると,その石は,非常に大きなものであったのに,すでに転がしのけてあったのである。記念の墓の中に入ると,ひとりの若者が白の長い衣をまとって右側に座っているのが見え,彼女たちはぼう然とした。その者は彼女たちに言った,『ぼう然とすることはありません。あなた方は,杭につけられたナザレ人のイエスを捜しています。彼はよみがえらされました。ここにはいません。見なさい,彼を横たえた場所です。しかし,行って,弟子たちとペテロに,「彼はあなた方に先立ってガリラヤに行きます。彼が話したとおり,あなた方はそこで彼を見るでしょう」と言いなさい』」。(マルコ 16:1-7。ルカ 24:1-12)宗教指導者たちが特別の警備隊を置いたにもかかわらず,イエスはみ父により復活させられていたのです。これは神話,それとも歴史的な事実ですか。
32 どんな確かな理由があったので,パウロはイエスが復活させられたことを信じましたか。
32 この出来事から約22年後,クリスチャンの以前の迫害者だったパウロは,キリストが復活させられたことを信ずるようになったいきさつについて書き,次のように説明しました。「というのは,わたしは,最初の事柄の中で,次のことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,さらに,ケファに現われ,次いで十二人に現われたことです。そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっていますが,死の眠りについた人たちもいます。そののち彼はヤコブに,次いですべての使徒たちに現われました」。(コリント第一 15:3-7)そうです,パウロには復活させられたイエスのために自分の命をかけるだけの事実に基づく根拠がありましたし,その根拠には復活させられたイエスをじかに見た,およそ500人の目撃証人の証言も含まれていました。(ローマ 1:1-4)パウロはイエスが復活させられたことを知っていましたし,またそのように述べるだけのもっと強力な理由さえありました。それは,さらにこう説明しているとおりです。「しかし,すべての者の最後として,あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように,わたしにも現われてくださいました」― コリント第一 15:8,9。使徒 9:1-19。
33 初期クリスチャンはどうして自分たちの信仰のために進んで殉教者になれましたか。
33 初期クリスチャンは古代ローマの闘技場で進んで殉教の死を遂げました。それはなぜですか。なぜなら,自分たちの信仰が神話ではなく,歴史的な現実の事柄に基づいていることを知っていたからです。イエスは預言の中で約束されていたキリスト,もしくはメシアであり,また神により地に遣わされて,神の是認を得,忠誠を保つ神のみ子として杭の上で死なれ,死人の中から復活させられたことは,現実の事柄でした。―ペテロ第一 1:3,4。
34 使徒パウロによれば,イエスの復活がクリスチャンの信仰にとってそれほど肝要なのはなぜですか。
34 その復活についてパウロが何を信じていたか,またそれがクリスチャンの信仰にとってなぜ肝要かを理解するために,コリント人にあてたパウロの第一の手紙の15章全体をお読みになるようお勧めいたします。その音信の真髄は次のような言葉の中に表わされています。「しかしながら,今やキリストは死人の中からよみがえらされ,死の眠りについている者たちの初穂となられたのです。死がひとりの人[アダム]を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」― コリント第一 15:20-22。
35 神は地球と人類のためにどんな祝福を約束しておられますか。(イザヤ 65:17-25)
35 ですから,キリスト・イエスの復活には,やがて全人類に益をもたらす,一つの目的があります。g その復活により,イエスがやがてメシアに関する残りの預言を成就する道が開かれました。目に見えない天からなされる,イエスの義にかなった支配は間もなく,清められた地に及ぼされるに違いありません。その時には,聖書で「新しい天と新しい地」として描写されているものが存在しており,神はそこで,「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」という言葉のとおりになるでしょう。―啓示 21:1-4。
背教と迫害は予期されていた
36 西暦33年のペンテコステの際,何が起きましたか。どんな結果になりましたか。
36 イエスの死と復活の後,間もなく,それら初期クリスチャンの宣べ伝える業に力とはずみを加えるものとなった,もう一つの奇跡が起きました。西暦33年のペンテコステの日に,神はエルサレムで集まっていたおよそ120人のクリスチャンにご自分の聖霊,つまり活動する力を天から注がれました。その結果ですか。「そして,さながら火のような舌が彼らに見えるようになってあちらこちらに配られ,彼ら各々の上に一つずつとどまり,彼らはみな聖霊に満たされ,霊が語らせるままに異なった国語で話し始めた」のです。(使徒 2:3,4)その時,エルサレムにいた,外国語を話すユダヤ人は,それら無知な人々とされていたガリラヤのユダヤ人が外国の言葉で話すのを聞いて驚嘆しました。その結果,多くの人々が信じました。それらユダヤ人の新たな信者が故郷に戻るにつれて,キリスト教の音信は野火のように広まりました。―使徒 2:5-21。
37 あるローマの支配者たちは新しいキリスト教に対してどのように反応しましたか。
37 しかし,ほどなく不穏な形勢が現われました。ローマ人は一見無神論のように思える,偶像のない,この新たな宗教を恐れるようになりました。皇帝ネロを皮切りに,歴代の皇帝は西暦初頭の3世紀の間,クリスチャンに恐ろしい迫害を加えました。h 囚人が野獣に投げ与えられるのを見ようと群がる,血に飢えた暴徒や皇帝の欲望を満足させるため,多くのクリスチャンは大円形演技場で死ぬ定めに追いやられました。
38 初期クリスチャンの会衆を当惑させるどんな状態が預言されていましたか。
38 初期の当時のもう一つの憂慮すべき要素は,使徒たちが預言していた事柄でした。例えば,ペテロはこう述べました。「しかしながら,民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです」。(ペテロ第二 2:1-3)背教です! それは真の崇拝からの離脱,つまりギリシャの哲学や思想の浸透した当時のローマ世界の宗教的な傾向と妥協することでした。それはどのようにして生じましたか。この疑問やこれに関連した種々の疑問に対する答えは次の章で考慮されます。―使徒 20:30。テモテ第二 2:16-18。テサロニケ第二 2:3。
[脚注]
a ここで使われている“キリスト教世界”という言葉は,キリスト教を奉じていると主張する宗教諸団体により支配されている宗派的活動領域を指しており,“キリスト教”という言葉は,イエス・キリストにより教えられた,神を崇拝し,神に近づく方法の原初の形態を指しています。
b ニューヨークの法人 ものみの塔聖書冊子協会が1988年に発行した,「聖書に対する洞察」の第2巻,385-389ページ(英文)の「メシア」の項もご覧ください。
c 贖いとその重要性に関する聖書の教えは,15章で明確に述べられています。
d 「不滅の魂」という表現は聖書のどこにも出て来ません。「不滅」,または「不滅性」と訳されているギリシャ語は3回だけ出て来ますが,いずれも着ける,もしくは取得する,新しい霊の体を指しており,もって生まれたものではありません。それはキリストと,天の王国でキリストと共に共同支配者となる油そそがれたクリスチャンとに当てはまります。―コリント第一 15:53,54。テモテ第一 6:16。ローマ 8:17。エフェソス 3:6。啓示 7:4; 14:1-5。
e この王国の支配権についてもっと詳しく考慮したい方は,15章をご覧ください。
f 幻の中の「モーセ」と「エリヤ」は,イエスのうちに成就した“律法と預言者たち”を象徴していました。変ぼうについてもっと詳しく知りたい方は,1988年発行,「聖書に対する洞察」の第2巻,1120,1121ページ(英文)をご覧ください。
g イエスの復活について詳しく考慮したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1989年に出版した,「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」と題する本の78-86ページをご覧ください。
h ローマ人の伝記作者スエトニウス(西暦69年ごろ-140年)は,ネロの治世中,「新しい有害な宗教的信条を奉ずる一派であるクリスチャンに……処罰が課せられた」と記録しています。
[237ページの囲み記事/図版]
イエスは神話上の人物でしたか
「キリスト教の創始者の生涯の物語は,人間の悲しみや想像や希望の産物 ― クリシュナ,オシリス,アッティス,アドニス,ディオニュソス,およびミトラなどの伝説に比べられるような神話であろうか」と,歴史家ウィル・デュラントは問いかけて,キリストがかつて実在したという事実を否定するようなことは,「極めて辛らつな異邦人,もしくは草創期のキリスト教の敵対者であったユダヤ人の中でも起きなかったようである」と答えています。―「文明物語: 第3部 ― カエサルとキリスト」。
ローマ人の歴史家スエトニウス(西暦69年ごろ-140年)は自分の著わした史書,「十二皇帝伝」の中で皇帝クラウディウスに関し,「ローマのユダヤ人がクレスツス[キリスト]に唆されて,絶えず騒動を引き起こしたため,皇帝は同市から彼らを追放した」と述べました。これは西暦52年ごろに起きました。(使徒 18:1,2と比較してください。)スエトニウスがキリストの存在に関する疑問を何も表明していないことに注目してください。初期クリスチャンは,事実に即したそのような根拠に基づき,命を危うくする迫害にもめげず,自分たちの信仰について非常に活発に告げ知らせました。神話に基づいて命の危険を冒したとはまず考えられないでしょう。イエスの死と復活は彼らの生涯中に生じており,その一部の人々はそれらの出来事の目撃証人となっていたのです。
歴史家デュラントは次のように結論しています。「二,三人の無学な人々が一世代のうちに,これほど強力で魅力的な人物,これほど高潔な倫理的価値体系,およびこれほど人を鼓舞する人類の兄弟関係に関する見解を考え出すということは,福音書の中のどんな記述よりもはるかに信じ難い奇跡であろう」。
[図版]
イエスは古代パレスチナのこのガリラヤ地方で宣べ伝えて,数々の奇跡を行なわれました
[241ページの囲み記事/図版]
だれが聖書を書きましたか
クリスチャンの聖書は,多くの人々が旧約聖書と呼ぶヘブライ語聖書の39冊の書(220ページの囲み記事をご覧ください)と,多くの場合,新約聖書と呼ばれるクリスチャン・ギリシャ語聖書の27冊の書で成り立っています。i ですから,聖書は,1,600年もの歴史の流れの中で(西暦前1513年から西暦98年まで),およそ40人の人々により書き記された66冊の書でできた小型の書庫です。
ギリシャ語聖書には4冊の福音書,つまりイエスの生涯とイエスの宣べ伝えた良いたよりに関する記述が含まれています。そのうちの2冊の書はキリストと直接交わった追随者,収税人マタイおよび漁師ヨハネにより,また他の2冊は初期の信者,マルコおよび医師ルカにより,それぞれ書き記されました。(コロサイ 4:14)これらの福音書の次に来るのは「使徒たちの活動」の書,つまりルカの編さんした初期クリスチャンの宣教者の活動に関する記述です。次に,個々の様々なクリスチャンや諸会衆あての使徒パウロの14通の手紙があり,さらにヤコブ,ペテロ,ヨハネ,およびユダの手紙が収められています。巻末には,ヨハネの記した「啓示」の書があります。
多種多様な背景を持ち,また時代や文化を異にして生活した,それほど多くの人々が,これほど調和した書物を作り出し得たということは,聖書が単なる人知の所産ではなく,神の霊感による書であることを示す強力な証拠です。聖書それ自体,『聖書全体は神の霊感を受けた[字義,「神が息を吹き込んだ」]もので,教えるのに有益です』と述べています。ですから,聖書は神の聖霊,もしくは活動する力の影響を受けて書き記されたものなのです。―テモテ第二 3:16,17,行間訳。
[図版]
ポンテオ・ピラトの名(第二列,“IVS PILATVS”)がラテン語で刻まれた,この古代ローマの不完全な碑文は,聖書の述べるとおり,彼がパレスチナの有力な人物であったことを確証しています
[脚注]
i カトリックの聖書には,ユダヤ人やプロテスタントの教会員からは正典とみなされない外典を構成する,幾つかの付加的な書が含まれています。
[245ページの囲み記事]
聖書預言の中のメシア
預言 出来事 成就
創世記 49:10 ユダの部族に生まれる マタイ 1:2-16。ルカ 3:23-33
ミカ 5:2 ベツレヘムで生まれる ルカ 2:4-11。ヨハネ 7:42
イザヤ 7:14 処女から生まれる マタイ 1:18-23。ルカ 1:30-35
ホセア 11:1 エジプトから呼び出される マタイ 2:15
イザヤ 61:1,2 任命される ルカ 4:18-21
イザヤ 53:4 わたしたちの病を担う マタイ 8:16,17
詩編 69:9 エホバの家に対して熱心である マタイ 21:12,13。
イザヤ 53:1 人に信じてもらえない ヨハネ 12:37,38。
詩編 41:9; 109:8 一人の使徒が彼を裏切る マタイ 26:47-50。
ゼカリヤ 11:12 銀30枚で裏切られる マタイ 26:15; 27:3-10。
イザヤ 53:8 審理され,有罪とされる マタイ 26:57-68;
イザヤ 53:7 訴える者たちの前で沈黙する マタイ 27:12-14。
詩編 69:4 いわれもなく憎まれる ルカ 23:13-25。
イザヤ 53:12 罪人たちと共に数えられる マタイ 26:55,56; 27:38。
詩編 69:21 酢と胆汁が与えられる マタイ 27:34,48。
詩編 22:1 神に見捨てられる マタイ 27:46。マルコ 15:34
イザヤ 53:9 富んだ人と共に葬られる マタイ 27:57-60。
[258,259ページの囲み記事/図版]
イエスと神のみ名
イエスは弟子たちに祈り方を教えて,こう言われました。「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」― マタイ 6:9,10。
イエスはみ父の名の極めて重要な意味を知っておられ,そのみ名を重視されました。ですから,宗教上の敵に対して次のように言われました。「わたしが父の名において来ているのに,あなた方はわたしを迎えません。だれかほかの者が自らの名において到来すれば,あなた方はその者を迎えるでしょう。……わたしはあなた方に言いましたが,あなた方は信じません。わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします」― ヨハネ 5:43; 10:25。マルコ 12:29,30。
イエスはみ父への祈りの中でこう言われました。「『父よ,み名の栄光をお示しください』。すると,天から声があった,『わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す』」。
その後,ある時,イエスは次のように祈られました。「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました。……そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」― ヨハネ 12:28; 17:6,26。
ユダヤ人だったイエスはみ父のエホバ,もしくはヤハウェという名のことをよく知っておられたはずです。というのは,次のような聖句をご存じだったからです。「『あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。……それで,あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『そして,わたしは神である』」― イザヤ 43:10,12。
ですから,ユダヤ人は一国民としてエホバの証人になるよう選ばれました。ユダヤ人であったイエスもやはりエホバの証人でした。―啓示 3:14。
1世紀までに,大方のユダヤ人は明らかにされた神のみ名をもはや発音しなくなったようです。しかし,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳を使っていた初期のクリスチャンは,ギリシャ語本文に使われていたヘブライ語の四文字語<テトラグラマトン>を見ることができたということを証明する写本があります。それは,宗教およびヘブライ語の教授ジョージ・ハワードが次のように述べているとおりです。「教会が使用したり引用したりしたセプトゥアギンタ訳に神の名のヘブライ語形が含まれていた時,新約聖書の筆者たちは引用箇所に四文字語<テトラグラマトン>を含めたに違いない。しかし,セプトゥアギンタ訳の中で神の名のヘブライ語形が[後に]除去され,ギリシャ語の代用語が好まれるようになると,その名は新約聖書中のセプトゥアギンタ訳の引用箇所からも除去された」。
ですから,1世紀のクリスチャンはイエスがご自分の敵に対してヘブライ語聖書を引用なさったマタイ 22章44節のような聖句の意味をはっきりと理解していたに違いないとハワード教授は論じています。ハワードはこう述べています。「1世紀の教会は,『主はわたしの主に言われた』……という,不正確であるばかりか,あいまいな,後代の訳の読み方ではなく,多分,『ヤハウェはわたしの主に言われた』という読み方をしたであろう」。―詩編 110:1。
イエスが神の名を使われたことは,その死後,何世紀かたってから,もしイエスが奇跡を行なったとすれば,それは「彼が神の“秘密”のみ名を自由に使いこなしたからにほかならない」として非難したユダヤ人の言葉により証明されています。―「ユダヤ人の知識の書」。
イエスは確かに神の特異なみ名をご存じでした。ですから,当時のユダヤ人の伝統をものともせずに,確かにみ名を使っておられたに違いありません。イエスは人間の伝統によって神の律法が左右されるようなことを許されませんでした。―マルコ 7:9-13。ヨハネ 1:1-3,18。コロサイ 1:15,16。
[図版]
ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の聖句の中にヘブライ語の神のみ名が記されていることを示すパピルス写本の断片(西暦前1世紀)
[238ページの図版]
イエスは人々を教える際,中でも,種まき,収穫,漁,真珠を捜すこと,まじった羊,ぶどう園などの様々な例えをお用いになりました(マタイ 13:3-47; 25:32)
[243ページの図版]
イエスは神の力によって,あらしを静めることを含め,数多くの奇跡を行なわれました
[246ページの図版]
四文字語<テトラグラマトン>,つまり英語の四子音文字,YHWH(Jehovah,エホバ)
[251ページの図版]
ラザロが生き返らされたことに関する記述は,彼が不滅の魂を持っていたことを指摘していませんし,示唆してさえいません
[253ページの図版]
ペテロ,ヤコブ,およびヨハネは,神がイエスを是認されたことが神話ではないことを知っていました。彼らは変ぼうの際に,そのことを見聞きしました
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背教 ― 神に通ずる道がふさがれる神を探求する人類の歩み
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11章
背教 ― 神に通ずる道がふさがれる
1,2 (イ)キリスト教世界の歴史の最初の400年間は,なぜ重要な期間ですか。(ロ)イエスは選択に関するどんな真理を表現されましたか。
キリスト教世界の歴史の最初の400年間は,なぜ極めて重要な期間ですか。その理由は,子供の人生の最初の数年間が重要な時期であるのと同様です。というのは,その数年間は子供の将来の人格の基礎を据える発育期なのです。キリスト教世界の初期の何世紀かの期間は,何を明らかにするものとなりましたか。
2 この疑問に答える前に,イエス・キリストが次のように表現された,一つの真理を思い起こしてみましょう。「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです」。便宜主義の道は広いものですが,正しい原則の道は狭いものです。―マタイ 7:13,14。
3 キリスト教が始まった時,どんな二つの歩み方が可能でしたか。
3 キリスト教が始まった時,俗受けしない,その信仰を奉ずる人たちにとって,取り得る道は二つありました。つまり,妥協を排する,キリストと聖書の教えや原則を固守するか,それとも当時の世と妥協する,安易な広い道に引かれるかのどちらかでした。これから見てゆきますが,最初の400年間の歴史は,大多数の人々がやがてどの道を選んだかを示しています。
哲学の誘惑
4 歴史家デュラントによれば,異教のローマは初期の教会にどのように影響を及ぼしましたか。
4 歴史家ウィル・デュラントはこう説明しています。「教会はキリスト教時代以前の[異教の]ローマで普通に行なわれていた種々の宗教的習慣や儀礼 ― 異教の祭司のストラその他の祭服,香や清めのための聖水の使用,ろうそくをともすことや祭壇の前で絶えずともす明かり,聖人崇拝,バシリカ建築,教会法の基礎となったローマ法,最高の司教を意味するPontifex Maximus(「最大の司教」の意)という称号,および4世紀にはラテン語 ― を取り入れた。……やがて,ローマ人の長官よりもむしろ司教のほうが諸都市の秩序の源,および権力の座を占める者となり,首都大司教,もしくは大司教が地方長官を押しのけないとすれば,同長官を支持し,司教区会議が地方議会に代わることになった。ローマ教会はローマ国家の足跡に従ったのである」―「文明物語: 第3部 ― カエサルとキリスト」。
5 異教のローマ世界と妥協する態度は,初期キリスト教の著作の言葉とどのような対照を示していますか。
5 ローマ世界と妥協する,このような態度は,キリストや使徒たちの教えとは際立った対照をなしています。(下の囲み記事をご覧ください。)使徒ペテロは次のように助言しました。「愛する者たちよ……わたしは……思い出させるためにあなた方の明せきな思考力を呼び起こしているのです。それはあなた方が,聖なる預言者たちによってあらかじめ語られたことばと,あなた方の使徒たちを通して与えられた主また救い主のおきてを思い出すためです。したがって,愛する者たちよ,あなた方はこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人々の誤りによって共に連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように用心していなさい」。パウロははっきりとこう助言しました。「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか。また,光が闇と何を分け合うのでしょうか。……『「それゆえ,彼らの中から出て,離れよ」と,エホバは言われる。「そして汚れた物に触れるのをやめよ」』。『「そうすればわたしはあなた方を迎えよう」』」。―ペテロ第二 3:1,2,17。コリント第二 6:14-17。啓示 18:2-5。
6,7 (イ)初期教会の“教父たち”はギリシャ哲学の影響をどのように受けましたか。(ロ)ギリシャの影響は特にどの教えにはっきりと現われましたか。(ハ)パウロは哲学に関するどんな警告を与えましたか。
6 このような明確な訓戒があったにもかかわらず,2世紀の背教したクリスチャンは,異教ローマの宗教の外面的な飾りを身に着けました。彼らは聖書的な純粋な起源から離脱し,かえって異教ローマの衣装や称号で自らを装い,ギリシャ哲学に染まりました。ハーバード大学のウルフスン教授は「キリスト教の厳しい試練」という本の中で,「哲学を教え込まれた異邦人」が2世紀に大挙してキリスト教に入ったと説明しています。それらの人々はギリシャ人の知恵を称賛し,ギリシャ哲学と聖書の教えの中に類似点を見いだしたと考えました。ウルフスンはさらにこう述べています。「彼らは時々,聖書が直接の啓示によってユダヤ人に与えられた神からの特別の贈り物であるように,哲学は人間の理性によってギリシャ人に与えられた同様の賜物であるという趣旨の自分たちの考えを様々な仕方で述べている」。そして,さらにこう続けています。「教会の教父たちは……アカデメイア,リュケイオン,およびストア[それぞれ哲学上の論議が行なわれた中心地]で作り出されたあいまいな専門語で表わされた,哲学者たちの教えが,聖書それ自体の中でその考えを述べるのに好んで使われている平凡な言葉遣いの背後に,どのように秘められているかを体系的に示す仕事に取りかかった」。
7 このような態度が取られたため,ギリシャ哲学とその用語が,それも特に三位一体の教理や霊魂不滅に対する信仰の分野で,キリスト教世界の教えに浸透する道が開かれました。ウルフスンが述べているように,「[教会の]教父たちは哲学的専門用語の山の中に二つの格好な専門語,一つは三位一体の三者各々の特殊性という現実を明示する言葉,もう一つはそれら三者に共通な基本的一致を明示する言葉を見いだそうとするようになった」のです。ところが,「三者一体の神という概念は人間の理性では解明できない秘義である」ことを認めざるを得ませんでした。それとは対照的に,パウロはコロサイやガラテアのクリスチャンにあてて,「気をつけなさい。もしかすると,人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがってキリストにしたがわない哲学<フィロソフィー>[ギリシャ語,フィロソフィアス]やむなしい欺きにより,あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません」と書き送った時,そのように「良いたより」が汚染されたり,『ゆがめられ』たりする危険があることをはっきりと認識していました。―コロサイ 2:8。ガラテア 1:7-9。コリント第一 1:22,23。
復活は無効になる
8 人間はどんな謎と絶えず戦ってきましたか。大抵の宗教はその謎をどのようにして解こうとしてきましたか。
8 この本の随所で述べられているように,人間は,死をもって終わりを告げる,限られた,短い命という謎と絶えず戦ってきました。ドイツの著述家ゲルハルト・ハームが自著,「ケルト人 ― 闇の中から出て来た民族」の中で,「宗教とは,とりわけ墓のかなたのより良い生活,再生,あるいはその両方に関する約束によって,いつかは死ななければならないという事実に人々が甘んじられるようにするための一つの方法である」と述べているとおりです。宗教はほとんどすべて,人間の魂は不滅で,死後,来世への旅をする,もしくは転生して別の生き物に変わるという信条に依存しています。
9 スペインの学者ミゲール・デ・ウナムーノは復活に関するイエスの信仰についてどんな結論を出しましたか。
9 今日,キリスト教世界の宗教団体もほとんどすべて,そのような信条に従っています。20世紀のスペインの著名な学者ミゲール・デ・ウナムーノはイエスについて次のように書きました。「彼は[ギリシャの]プラトン風の魂の不滅性ではなく,むしろ[ラザロの場合のような(248-250ページをご覧ください)]ユダヤ風の肉体の復活を信じていたのである。……このことを示す証拠は,誠実な仕方で解釈を述べている本なら,どれにでも見いだせる」。そして,「霊魂不滅は……異教の哲学的教義である」と結論しました。(「キリスト教の苦悩」)キリストは明らかにそのような考えを持っておられなかったにもかかわらず,その「異教の哲学的教義」はキリスト教世界の教えに浸透したのです。―マタイ 10:28。ヨハネ 5:28,29; 11:23,24。
10 霊魂不滅に対する信仰はどんな種々の結果をもたらしましたか。
10 ギリシャ哲学の及ぼした巧妙な影響は,使徒たちの死後に起きた背教の主要な要因でした。霊魂不滅に関するギリシャ人の教えは,魂の様々な行き先,つまり天国,地獄の火,煉獄,楽園<パラダイス>,リンボなどが必要であることを示唆しました。a 聖職者階級にとって,そのような教えを巧みに扱うことにより,自分たちの羊の群れを服従させたり,来世に対する恐れを抱かせて贈り物や寄付をさせたりすることが容易になりました。このことを考えると,キリスト教世界の独立した聖職者階級はどのようにして起こったのだろうかという,もう一つの疑問が生じます。―ヨハネ 8:44。テモテ第一 4:1,2。
僧職者階級が形成されたいきさつ
11,12 (イ)背教が起きたことを示す,もう一つのどんなしるしがありましたか。(ロ)エルサレムにいた使徒や長老たちはどんな役割を果たしましたか。
11 背教が生じたことを示す,もう一つの事柄は,イエスや使徒たちが教えたようにクリスチャンはすべて一般的な奉仕の務めに携わるという考え方が後退して,キリスト教世界で発達した専属聖職制および教階制に取って代わられたことです。(マタイ 5:14-16。ローマ 10:13-15。ペテロ第一 3:15)イエスの死後,1世紀中,使徒たちは,エルサレムにいた霊的に資格のある他のクリスチャンの長老たちと共に,クリスチャンの会衆に助言を与えたり,会衆を指導したりするために奉仕しました。他の人に対して優越感を抱いて威張る人はいませんでした。―ガラテア 2:9。
12 西暦49年に,それらの人々は一般のクリスチャンに影響を及ぼす問題を解決するため,エルサレムで会合することが必要になりました。聖書の記述によれば,率直な討議が行なわれた後,「使徒や年長者たち[プレスビュテロイ],また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。……そして,彼らの手によってこう書き送った。『使徒や年長者の兄弟たちから,アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たちへ: あいさつを送ります』」と記されています。明らかに,使徒や長老たちは,広範囲にわたって存在したクリスチャンの諸会衆を管理する,一つの統治機関としての役割を演じました。―使徒 15:22,23。
13 (イ)初期のクリスチャン会衆を各々直接監督するためのどんな取り決めがありましたか。(ロ)会衆の長老たちにはどんな資格が求められましたか。
13 さて,エルサレムにあった,その統治集団はすべてのクリスチャンに対する全般的な監督を行なうための初期キリスト教の取り決めだった以上,クリスチャンの間には地方的なレベルのどんな指導体制がありましたか。テモテにあてられたパウロの手紙は,霊的な長老たち(プレスビュテロイ)である監督たち(ギリシャ語,エピスコポス,「監督の<エピスコパル>」という言葉の語源),つまり仲間のクリスチャンを教えるのに行動や霊性の点で資格のある男子たちが会衆にいたことを明らかにしています。(テモテ第一 3:1-7; 5:17)1世紀のそれらの男子は独立した僧職者階級を構成しませんでしたし,決して独特の服装をしたりもしませんでした。彼らの特徴はその霊性でした。実際,会衆には各々,長老たち(監督たち)の一団があったので,君主制による単独支配が行なわれたわけではありません。―使徒 20:17。フィリピ 1:1。
14 (イ)クリスチャンの監督たちはやがて,どのようにキリスト教世界の司教たちに取って代わられましたか。(ロ)司教たちの間で首位権を求めて奮闘したのはだれでしたか。
14 エピスコポスb(監督,監督者)という言葉が,教区内の僧職者の他の成員に対して管轄権を持つ聖職者を意味する“bishop”(司教)という語に変えられたのは,かなり時がたってからのことでした。スペイン人のイエズス会士,ベルナルディーノ・イョルカが述べているとおりです。「最初,司教と長老(英語,presbyter)は十分区別されておらず,これらの言葉の意味にのみ注意が向けられていた。司教は監督者の同義語であり,長老は年長者の同義語である。……しかし,その区別は少しずつ明らかになり,司教という名称は,最高の聖職者の権威,および按手をして聖職の身分を授ける権能を有する,一層重要な監督者を指すようになった」。(「カトリック教会の歴史」)事実,司教たちは特に4世紀初頭以降,一種の君主体制を推進させる働きをするようになりました。教階制,つまり僧職者による支配機関が確立され,やがてペテロの後継者であると称するローマの司教が,多くの人々により,最高の司教,ならびに教皇として認められました。
15 初期クリスチャンの指導者の地位とキリスト教世界のそれとの間にはどんな大きな隔たりがありますか。
15 今日,キリスト教世界の様々な教会の司教の地位は,名声と権力を伴う地位であって,司教は普通,相当の報酬を受けると共に,多くの場合,それぞれの国の支配階級のエリートの一員とみなされています。しかし,それら司教たちの高められた誇らしげな立場とキリストと長老たち,もしくは監督たちのもとにあった初期クリスチャンの諸会衆の組織の簡素さの間には,非常な相違があります。それにペテロと,バチカン宮殿の豪勢なたたずまいを背景にして支配してきた,いわゆるペテロの後継者たちとの間の大きな隔たりについては何と言えるでしょうか。―ルカ 9:58。ペテロ第一 5:1-3。
教皇権と名声
16,17 (イ)初期のローマ会衆が司教,もしくは教皇の支配下にあったのでないことは,どうして分かりますか。(ロ)“教皇”という称号はどのようにして使用されるようになりましたか。
16 エルサレムの使徒や長老たちの指示を受け入れた初期の会衆の一つは,恐らく西暦33年ペンテコステ後のある時期にキリスト教の真理が伝えられたと思われるローマの会衆でした。(使徒 2:10)同会衆には当時の他のすべての会衆と同様,長老たちがおり,それらの長老はだれ一人首位権を持たない監督たちの一団として仕えていました。そのローマ会衆の最初期の監督たちは,確かにだれ一人として同時代の人々から司教,もしくは教皇とはみなされませんでした。というのは,ローマの君主制監督団はまだ発達していなかったからです。君主制,もしくは単独監督団が存在し始めた時期を明確に定めるのは困難なことですが,証拠はそれが2世紀に発達し始めたことを示唆しています。―ローマ 16:3-16。フィリピ 1:1。
17 “教皇”(英語,pope; 「父」という意味のギリシャ語パパスの変化した語)という称号は最初の2世紀には使用されませんでした。元イエズス会士ミカエル・ウォールシュはこう述べています。「ローマ司教が初めて“教皇”と呼ばれたのは3世紀からのようであり,この称号は教皇カリストゥスに与えられた。……5世紀末までに,“教皇”は普通,ほかならぬローマ司教ただ一人を意味するようになった。しかし,教皇がその称号はただ自分だけに当てはまると主張することができたのは,11世紀になってからのことである」―「図解教皇史」。
18 (イ)自分の権威を乱用したローマの最初の司教の一人はだれでしたか。(ロ)首位権を有するという教皇の主張は何に基づいていますか。(ハ)マタイ 16章18,19節はどのように正しく理解できますか。
18 自分の権威を乱用したローマの最初の司教の一人は教皇レオ1世(在位,西暦440-461年)でした。ミカエル・ウォールシュはさらにこう述べています。「教皇レオは,4世紀末までローマ皇帝によって使われ,今日でも教皇たちにより依然として使用されている『最大の司教』という,かつての異教の称号を我がものにした」。同レオ1世はマタイ 16章18節と19節にあるイエスの言葉に関するカトリックの解釈に基づいて行動しました。(268ページの囲み記事をご覧ください。)同1世は,「聖ペテロが使徒のうちの第一人者だったのだから,聖ペテロの教会は諸教会の中で首位権を付与されるべきであると宣言し」ました。(「人間の宗教」)レオ1世はこの処置により,皇帝が東のコンスタンティノープルで暫定的な権力を行使する一方,自らは西のローマから霊的な権力を行使することを明らかにしました。教皇レオ3世が西暦800年に神聖ローマ帝国のカール(シャルルマーニュ)皇帝に戴冠させたことは,この権力のほどをさらによく示す例でした。
19,20 (イ)現代の教皇はどのようにみなされてきましたか。(ロ)教皇の公式の称号を幾つか挙げてください。(ハ)教皇の行動とペテロのそれとの間にはどんな対照が見られますか。
19 1929年以来,一般の政府はローマの教皇を独立した主権国家,バチカン市国の支配者とみなしてきました。ですから,ローマ・カトリック教会は他の宗教組織とは異なり,外交代表者,つまり教皇使節を世界の諸政府に派遣できます。(ヨハネ 18:36)教皇は多くの称号を得て名誉を受けていますが,その幾つかはイエス・キリストの代理者,使徒の頭の後継者,普遍教会の最高の司教,西ヨーロッパ総大司教,イタリア首座大司教,バチカン市国元首などです。教皇は虚飾と儀礼をもって人手で運ばれたり,国家主席に帰せられる栄誉を受けたりします。これとは対照的に,ローマの百人隊長コルネリオが,ローマの最初の教皇,ならびに司教と言われているペテロの足もとにひれ伏して敬意を表した時,ペテロがどのように反応したかに注目してください。「ペテロは彼の身を起こして言った,『立ちなさい。私も人間です』」と記されています。―使徒 10:25,26。マタイ 23:8-12。
20 ここで,次のような疑問が生じます。初期の何世紀かの時期の背教した教会に一体どうしてこれほど大きな権力と名声がもたらされたのでしょうか。キリストや初期クリスチャンの質素さや謙遜さは,どのようにしてキリスト教世界の尊大さや虚飾に変わったのでしょうか。
キリスト教世界の土台
21,22 コンスタンティヌスの生涯にはどんな大変化が起きたと言われていますか。彼はそれをどのように活用しましたか。
21 ローマ帝国のこの新しい宗教にとって転換期となったのは,“キリスト教”へのコンスタンティヌス皇帝のいわゆる改宗が行なわれた西暦313年でした。その改宗はどのようにして行なわれましたか。西暦306年にコンスタンティヌスは父の跡を継ぎ,やがてリキニウスと共にローマ帝国の共同統治者になりました。コンスタンティヌスはキリスト教に帰依していた母親と神の加護に対する自分自身の信仰の影響を受けていました。西暦312年のローマ近郊,ミルウィウス橋頭の戦いに出陣する前のこと,彼は“キリスト”を表わす組み合わせ文字 ― ギリシャ語のキリストという名称の最初の2文字であるギリシャ語字母キーとロー ― を兵士たちの盾に描くよう夢の中で告げられたと唱えました。c コンスタンティヌスの軍勢はこの“神聖なお守り”を携えて,同帝の敵マクセンティウスを打ち破りました。
22 コンスタンティヌスはその戦いで勝利を得た後,ほどなくして,自分は信者であると主張しましたが,それでも彼がバプテスマを受けたのは24年ほど後の臨終のほんの少し前のことでした。彼は「[ギリシャ語の字母]キー・ロー[アートワーク ― ギリシャ文字]を自分の標章として採用する」ことにより,同帝国の自称クリスチャンの支持を受けるようになりましたが,「しかし,そのキー・ローという文字は,すでに異教,およびキリスト教双方の背景をなす事物の中で合字[字母を連接したもの]として使われて」いました。―アーノルド・トインビー編,「キリスト教の厳しい試練」。
23 (イ)ある注解者によれば,キリスト教世界はいつ存在するようになりましたか。(ロ)キリスト教世界の土台を据えたのはキリストではないと言えるのはなぜですか。
23 その結果,キリスト教世界の土台が据えられました。英国の時事解説者マルコム・マガリジが自著,「キリスト教世界の終わり」の中で,「キリスト教世界はコンスタンティヌス皇帝と共に存在するようになった」と述べているとおりです。しかし同解説者は,「キリストは自ら,ご自分の王国はこの世のものではないと述べることにより,キリスト教世界が存在するようになる前から同世界を廃止されたとさえ言えよう。この言葉はキリストの述べた言葉の中でも極めて広範囲に及ぶ,極めて重要なものの一つである」という明敏な注解をも述べました。そして,その言葉はキリスト教世界の宗教上,ならびに政治上の支配者たちにより,この上ないまでに甚だしく無視されてきた言葉です。―ヨハネ 18:36。
24 コンスタンティヌスの“改宗”と共に,教会にはどんな変化が生じましたか。
24 キリスト教世界の宗教はコンスタンティヌスの支持を得て,ローマの公式の国教となりました。宗教学の教授エレイン・ペイゲルスはこう説明しています。「かつて,逮捕,拷問,および処刑の対象とされたクリスチャンの司教たちは,今や,税の免除,帝国政府の資金からの贈与,名声,および宮廷での影響力をさえ得た。彼らの教会は新たな富,権力,および顕著な地位を獲得した」。彼らは皇帝の友,つまりローマ世界の友となっていました。―ヤコブ 4:4。
コンスタンティヌス,異端,および正統的信仰
25 (イ)コンスタンティヌスの時代までに,神学上のどんな激しい議論が行なわれていましたか。(ロ)4世紀以前は,キリストとみ父との関係に関する理解の点で,どんな状況が見られましたか。
25 コンスタンティヌスの“改宗”はなぜ極めて重要な事柄でしたか。なぜなら,皇帝としてのコンスタンティヌスは,教理上分裂した“キリスト教”の教会の事柄に及ぼす強力な影響力を持つと共に,自分の帝国の一致を図りたいと考えていたからです。当時,「『言葉』,すなわちイエスのうちに化身した『神』の『み子』と,今では『み父』と呼ばれて,そのみ名ヤハウェが大方忘れられていた『神』との関係」に関して,ギリシャ語を話す司教とラテン語を話す司教との間で激しい議論が行なわれていました。(「コロンビア世界史」)一部の人々は,キリスト,つまりロゴスは創造された方であり,それゆえにみ父よりも下位の方であるという,聖書の裏づけのある見解を支持しました。(マタイ 24:36。ヨハネ 14:28。コリント第一 15:25-28)そのうちの一人はエジプト,アレクサンドリアの司祭アリウスでした。実際,神学教授R・P・C・ハンソンは,「アリウス論争が持ち上がった[4世紀]以前は,東方,あるいは西方教会のいずれにせよ,神学者たちはおしなべて,ある意味でみ子のことをみ父よりも下位の方とみなしていた」と述べています。―「神に関するキリスト教の教理の探求」。
26 三位一体の教えに関するどんな状況が4世紀初頭まで見られましたか。
26 一方,他の人々はキリストを下位の方とみなす見解を異端視し,イエスを“神の化身”として崇拝する方向に向かっていました。しかしハンソン教授は,問題の時期(4世紀)は,「公然の異端[アリウス主義]による攻撃に対する,合意を得て解決された[三位一体の]正統的信仰の弁護の歴史の時期ではなかった。論議の主要な的とされていたその論題に関しては,まだ何ら正統的教理はなかった」と述べ,さらに,「いずれの側も自分たちの見方のほうが聖書の権威により支持されていると考えており,各々の側が他方のことを非正統的,非伝統的,ならびに非聖書的であると評した」と指摘しています。宗教上の高位者たちはこの神学上の問題で完全に分裂していました。―ヨハネ 20:17。
27 (イ)コンスタンティヌスはイエスの性質を巡る議論を解決しようとして何をしましたか。(ロ)ニケア公会議は教会をどのように代表するものでしたか。(ハ)ニケア公会議により,発展中の三位一体の教理に関する論争は解決されましたか。
27 コンスタンティヌスは領土内の一致を図りたいと考えていたので,西暦325年に配下の司教たちをニケア(ニカイア)の公会議に召集しました。ニケアは同帝国東方のギリシャ語圏の領土の新しい都コンスタンティノープルの対岸,ボスポラス海峡の向こう側に位置していました。同公会議には司教総数からすればごく少数の250人から318人ほどの司教が出席したと言われていますが,それら出席者はほとんどギリシャ語圏の地域の司教で,教皇シルウェステル1世さえ出席しませんでした。d 激烈な議論が戦わされた後,正しく代表されなかったその公会議で,三位一体思想にひどく偏ったニケア信経が生まれたのです。しかし,それは教理上の論議を解決するものとはなりませんでした。同信経は三位一体神学の神の聖霊の役割をはっきりと説明しませんでした。激しい議論が何十年も続き,最終的な一致を図るために多くの公会議や様々な皇帝の権威や追放処置が必要でした。神学が勝利を収め,聖書を固守した人々が敗北したのです。―ローマ 3:3,4。
28 (イ)三位一体の教理がもたらした結果の幾つかを挙げてください。(ロ)マリアを“神の母”として崇敬すべき聖書的な根拠が一つもないのはなぜですか。
28 三位一体の教えが何世紀にもわたって説かれてきた結果の一つとして,唯一まことの神エホバはキリスト教世界の神なるキリストに関する神学の泥沼に沈められてきました。e その神学のもたらした次の当然の結果として,イエスが本当に神の化身だとするならば,今度はイエスの母マリアは明らかに“神の母”とみなされたでしょう。そのために,イエスの生物学上の慎ましい母f以外の何らかの重要な役割がマリアにあったことを示す聖句は皆無であるにもかかわらず,長年にわたり,マリアが多種多様な仕方で崇敬の対象とされてきました。(ルカ 1:26-38,46-56)ローマ・カトリック教会が何世紀にもわたって神の母に関する教えを発展させ,礼賛してきた結果,多くのカトリック教徒は,神を崇拝する場合よりもはるかに熱烈な態度でマリアを崇敬しています。
キリスト教世界の教派
29 パウロはどんな事態の進展について警告しましたか。
29 背教のもう一つの特徴は,背教が分裂と崩壊をもたらすということです。使徒パウロは次のように預言していました。「わたしが去った後に,圧制的なおおかみがあなた方の中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう」。また,次のように述べたパウロは,明確な助言をコリント人に与えていました。「さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」。パウロの勧告にもかかわらず,やがて背教と分裂が根を下ろしました。―使徒 20:29,30。コリント第一 1:10。
30 初期の教会にはやがてどんな状況が生じましたか。
30 使徒たちの死後,二,三十年以内にクリスチャンの間にはすでに教派がはっきりと見えるようになりました。ウィル・デュラントはこう述べています。「ケルサス[キリスト教の2世紀の反対者]自身,クリスチャンは『各人がそれぞれ自分の党派を持ちたがっているので,実に多くの党派に分裂して』いると皮肉っていた。[西暦]187年ごろ,イレナエウスは20種類のキリスト教を列挙し,[西暦]384年ごろ,エピファネスは80種類を数えた」―「文明物語: 第3部 ― カエサルとキリスト」。
31 カトリック教会にはどのようにして重大な分離が生じましたか。
31 コンスタンティヌスは今日のトルコの領土に新しい広大な首都を建設させることにより,自分の帝国のギリシャ人の住む東部のほうを好み,その首都をコンスタンティノープル(現代のイスタンブール)と命名しました。その結果,何世紀にもわたってカトリック教会は分極化し,言語と地理双方のために分離し,ラテン語を話す西のローマとギリシャ語を話す東のコンスタンティノープルとが対立しました。
32,33 (イ)キリスト教世界はさらにほかのどんな原因で分裂しましたか。(ロ)聖書は崇拝の際の像の使用について何と述べていますか。
32 依然,進展途上にあった三位一体の教えの種々の面に関する,対立を招く議論は,引き続きキリスト教世界の騒動を起こしました。西暦451年にはキリストの“性質”の特徴を定義するため,別の公会議がカルケドンで開かれました。西方教会は同会議の定めた信経を受け入れましたが,東方教会は異議を唱えたため,エジプトやアビシニアのコプト教会,ならびにシリアやアルメニアの“ヤコブ派”の諸教会が形成されました。神学上の難解な問題,とりわけ三位一体の教理の定義を巡って生じた分裂のために,カトリック教会の一致は絶えず脅かされました。
33 分裂を招いた別の原因は,画像崇敬の問題でした。8世紀には東方教会の主教たちがこの偶像崇拝に反対し,いわゆる聖像破壊時代,つまり画像破壊の行なわれた時代が始まりました。しかし,彼らはやがてイコン(聖画像)を再び使用するようになりました。―出エジプト記 20:4-6。イザヤ 44:14-18。
34 (イ)何がカトリック教会の主要な亀裂をもたらしましたか。(ロ)その亀裂はどんな最終結果をもたらしましたか。
34 さらに,西方教会が聖霊はみ父とみ子の双方から出ることを示唆するため,“フィリオクェ”(「また御子から」の意)というラテン語の言葉をニケア信経に付け加えた時,重大な試練が訪れました。6世紀のこの修正のもたらした最終結果は,「876年にコンスタンティノープルで開かれた[主教]会議が教皇に対して,その政治活動,ならびに“フィリオクェ”条項という異端を正さなかったことの両方の理由で有罪宣告を下した時」に生じた亀裂でした。そして,「その処置は,教会に対する普遍的な統治権を有するという教皇の主張を全面的に退けた東方正教会の処置の一部」でした。(「人間の宗教」)1054年には教皇代表がコンスタンティノープルの総主教を破門し,次に同総主教は教皇に呪いをかけました。その亀裂はやがて幾多の東方正教会 ― ギリシャ,ロシア,ルーマニア,ポーランド,ブルガリア,セルビア各正教会,および他の自治制の諸教会 ― を生み出すものとなりました。
35 ワルド派とはどんな人々のグループでしたか。その信条はカトリック教会のそれとどのように異なっていましたか。
35 また,別の運動も教会内に騒動を起こすようになりました。12世紀に,フランス,リヨン出身のピエール・ワルドは「何人かの学者を雇って,聖書を南フランスのオック語[地方語]に翻訳させ,その翻訳を熱心に研究して,クリスチャンは使徒たちのように ― 私有財産を持たずに ― 生活すべきであるという結論に達し」ました。(「信仰の時代」,ウィル・デュラント著)彼はワルド派の運動として知られるようになった伝道活動を開始しました。同派の人々はカトリックの聖職,贖宥,煉獄,化体説その他,カトリックの伝統的な慣行や信条を退けた上,同派の教えは他の国々にも広がりました。トゥールーズ会議は1229年に聖書関係の書物の所持を禁止して,彼らの活動を阻止しようとしました。ただ,祈とう書だけ,それも死語と化したラテン語のものだけを読むことが許されました。しかし,もっと多くの宗教上の分裂や迫害がなお後代に起きようとしていました。
アルビ派に対する迫害
36,37 (イ)アルビ派とはどんな人々のグループでしたか。彼らは何を信じていましたか。(ロ)アルビ派はどのように抑圧されましたか。
36 ところが,12世紀にフランス南部で,もう一つの運動,つまり多くの追随者がいたアルビという町の名にちなんでつけられたアルビ派(カタリ派としても知られた)の運動が始まりました。この派には同派特有の独身の僧職者階級があり,僧職者たちは崇敬の念のこもったあいさつを受けることを期待していました。彼らは,イエスが最後の晩さんの際,パンについて,「これはわたしの体である」と述べた時,比喩的な意味でそう言われたのだと考えました。(マタイ 26:26,新ア)彼らは三位一体,処女降誕,地獄の火,および煉獄などの教理を退けました。ですから,彼らはローマ教会の教えに対する疑念を積極的に示しました。教皇インノケンティウス3世はアルビ派を迫害するよう命令を出し,「必要とあらば,剣をもって彼らを鎮圧せよ」と命じました。
37 それら“異端者たち”は十字軍の攻撃を受け,カトリックの十字軍はフランスのベジエで2万人もの男女子供を虐殺しました。大変な流血が行なわれた後,1229年に平和が訪れたものの,アルビ派は敗北しました。ナルボンヌ公会議は,「平信徒が聖書のいかなる部分をも持つことを禁じ」ました。カトリック教会にとって問題の根源は,民族の言語に訳された聖書の存在でした。
38 異端審問所とは何でしたか。同審問所はどのように運営されましたか。
38 教会が次に取った処置は,異端審問所,つまり異端を禁止するための裁判所を設置することでした。すでに不寛容の精神に取り付かれていた人々は,迷信を信じており,実際進んで“異端者”を制裁したり殺害したりしようとしました。13世紀の状況は,教会が権力を乱用するのに適していました。しかし,「教会により有罪宣告を受けた異端者は“俗権”― 地元の当局者 ― に引き渡され,火刑に処せられることに」なりました。(「信仰の時代」)教会は実際の処刑の執行を世俗の権威にゆだねることにより,表面上流血の罪を免れたように見えました。異端審問所と共に宗教上の迫害の時代が始まり,その結果,虐待,匿名の偽りの告発,殺害,強奪,拷問などが行なわれ,あえて教会の教えとは異なったことを信じた何千人もの人々が徐々に死に追いやられました。宗教的な表現の自由は抑えられました。まことの神を求めていた人々にとって,何らかの希望がありましたか。その答えは13章で得られます。
39 7世紀には宗教上のどんな運動が始まりましたか。どのようにして始まりましたか。
39 このすべてがキリスト教世界で起きていた間に,中東の一アラブ人が自分の民族の宗教的な無関心さや偶像崇拝を非とする態度を取りました。その人は7世紀に,今日のおよそ10億人もの人々の従順と服従を要求する,ある宗教運動を起こしました。その運動とはイスラム教のことです。次の章では,その預言者で,開祖となった人物の歴史を考察し,彼の教えの幾つかとその源について説明いたします。
[脚注]
a 「霊魂不滅」,「地獄の火」,「煉獄」,および「リンボ」などの表現は,原語のヘブライ語聖書やギリシャ語聖書のどこにも出て来ません。これとは対照的に,「復活」という意味のギリシャ語の言葉(アナスタシス)は42回出て来ます。
b ギリシャ語のエピスコポスという言葉は,文字通りには『見張る者』という意味です。この言葉はラテン語ではエピスコプスとなり,古英語では“biscop”に変えられ,後に中期英語で“bishop”(司教)に変えられました。
c 民間伝説によれば,コンスタンティヌスは“イン ホック シグノ ヴィンチェス”(「このしるしによって征服せよ」の意)というラテン語の言葉の記された1本の十字架の幻を見たとされています。中には,“エン トゥートイ ニカ”(「これをもって征服せよ」の意)というギリシャ語の言葉だったとするほうがもっと当たっているかもしれないと言う歴史家もいます。一部の学者は,年代上の誤りがあるとして,その伝説を疑問視しています。
d 「オックスフォード教皇辞典」はシルウェステル1世に関して次のように述べています。「教会にとって劇的な出来事の生じた画期的時代である,コンスタンティヌス大帝(306-337年)のほとんど22年間の治世中,教皇はいたものの,起きていた重大な出来事で何ら重要な役割を演じてはいなかったようである。……確かに,コンスタンティヌスの親友となって,同大帝とその教会政策を一緒に考慮した司教たちはいたが,[シルウェステル]はその一人ではなかった」。
e 三位一体を巡る議論について詳しく考慮したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1989年に発行した,「あなたは三位一体を信ずるべきですか」と題する32ページのブロシュアーをご覧ください。
f イエスの母マリアのことは名指しで,あるいはイエスの母として四福音書の24箇所の異なった聖句の中で,また「使徒たちの活動」の書でも1回言及されていますが,使徒たちの手紙で,マリアに言及しているものは,1通もありません。
[262ページの囲み記事]
初期クリスチャンと異教のローマ
「キリスト教の運動がローマ帝国内で起きるにつれて,異教徒の改宗者にとっても自分たちの態度や行ないを改めるのは挑戦となった。結婚を本来,社会的,経済的取り決め,同性愛関係を男性教育の予期された要素,男女双方の売春行為を正常で,しかも合法的な事柄,離婚,妊娠中絶,避妊,および望まれない幼児を遺棄して[死なせる]ことなどを実際的な便宜主義の問題とみなすように育てられた多くの異教徒が,そのような慣行に反対するキリスト教の音信を受け入れて,家族の者を驚かせた」―「アダム,エバ,および蛇」,エレイン・ペイゲルス著。
[266ページの囲み記事]
キリスト教 対 キリスト教世界
ティルス出身の3世紀の哲学者で,キリスト教の反対者だったポルフュリオスは,「キリスト教の独特の形態に関して責任があったのはイエス自身ではなく,むしろイエスの追随者だったかどうかに関する」疑問を提起し,「ポルフュリオス(と[4世紀のローマ皇帝で,キリスト教の反対者であった]ユリアヌス)は新約聖書に基づいて,イエスが自らを神とは呼ばなかったこと,また自分自身ではなく,万物の神なる,ただひとりの神について伝道したことを示した。イエスの教えを捨てて,(神ではなく)イエスを崇拝と敬慕の対象にした独自の新たな方法を導入したのは,その追随者たちであった。……[ポルフュリオスは]キリスト教の思想家を悩ませている問題を的確に指摘した。問題は,キリスト教の信仰はイエスが伝道した事柄に基づいているか,それともイエスの死後の後代の弟子たちによって考え出された思想に基づいているかということである」―「ローマ人から見たクリスチャン」。
[268ページの囲み記事]
ペテロと教皇職
マタイ 16章18節で,イエスは使徒ペテロにこう言われました。「それで,わたしはあなたに告げておく。あなたはペテロ[ギリシャ語,ペトロス]である。この岩[ギリシャ語,ペトラ]の上に,わたしはわたしの教会を建てる。死の力がそれに打ち勝つことはない」。(改標)ローマ・カトリック教会はこの句に基づいて,イエスがご自分の教会をペテロの上にお建てになったと主張しています。そして,このペテロは,ローマの連綿と続く歴代の司教でペテロの後継者である人々の最初の人物であると言われています。
イエスがマタイ 16章18節で指摘しておられる岩とはだれのことですか。ペテロですか,それともイエスですか。文脈によれば,この論議の要点は,ペテロ自身が告白したように,「キリスト,生ける神のみ子」としてのイエスの実体を明らかにすることでした。(マタイ 16:16,改標)ですから,キリストを3回否んだペテロではなく,イエスご自身が教会の土台のその硬い岩であると考えるのは筋の通ったことでしょう。―マタイ 26:33-35,69-75。
キリストが土台の石であられることはどうして分かりますか。それは,次のように書き記したペテロ自身の証言から分かります。「確かに彼は人には退けられましたが,神にとっては選ばれた貴重な石であり,あなた方は,生ける石に対するように彼のもとに来て(います)……というのは,聖書にこうあるからです。『見よ,わたしはシオンにひとつの石を据える。選ばれた石,土台の隅石,貴重な石である。これに信仰を働かせる者は決して失望に至ることがない』」― ペテロ第一 2:4-8。エフェソス 2:20。
ペテロが仲間の間で首位権を持っていたという証拠は聖書にも,歴史の中にもありません。ペテロは自分の記した手紙の中で,その首位権に少しも言及していませんし,また他の三つの福音書も ―(ペテロがマルコに述べたと思われる)マルコの福音書も含めて ― ペテロに対するイエスのその言葉にさえ言及していません。―ルカ 22:24-26。使徒 15:6-22。ガラテア 2:11-14。
ペテロがかつてローマにいたという絶対的な証拠は一つもありません。(ペテロ第一 5:13)パウロがエルサレムを訪問した時,「ヤコブとケファ[ペテロ]とヨハネ,すなわち柱と思えた人たち」がパウロを支持しました。ですから,当時,ペテロは少なくともその会衆の3本の柱の1本でしたが,“教皇”ではありませんでしたし,またそのような存在として,あるいはエルサレムの大“司教”として知られてもいませんでした。―ガラテア 2:7-9。使徒 28:16,30,31。
[264ページの図版]
キリスト教世界の三位一体の秘義を表わす三角形
[269ページの図版]
バチカン(下に示されているのは国旗)は世界各国の政府に外交官を派遣しています
[275ページの図版]
後に三位一体の教理となった教えの土台はニケア公会議により据えられました
[277ページの図版]
中央の幼児を抱くマリアに対する崇敬は,もっと古い異教の女神の崇拝を反映しています ― 左はエジプトのイシスとホルス,右はローマの母神マトゥタ
[278ページの図版]
東方正教会 ― ブルガリア,ソフィアの聖ニコライ堂,下は米国,ニュージャージー州の聖ウラディミル聖堂
[281ページの図版]
“クリスチャン”の十字軍は,エルサレムをイスラム教から解放するためのみならず,ワルド派やアルビ派などの“異端者”をも虐殺するために組織されました
[283ページの図版]
スペインの残虐な異端審問所を指導したドミニコ会修道士トマス・デ・トルケマダ。同審問所では無理に自白させるための拷問用の道具が使われました
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イスラム教 ― 服従により神に達する道神を探求する人類の歩み
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12章
イスラム教 ― 服従により神に達する道
[アートワーク ― アラビア文字]
1,2 (イ)クルアーンの冒頭の章にはどんなことが記されていますか。(ロ)これらの言葉はムスリムにとってなぜ重要な意味を持っていますか。(ハ)クルアーンは元々どんな言語で書かれましたか。「クルアーン」という言葉は何を意味していますか。
「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」。この一文はクルアーン,もしくはコーランの上記アラビア語本文の訳文です。この文章はさらにこう続いています。「万有の主,アッラーにこそ凡ての称賛あれ,慈悲あまねく慈悲深き御方,最後の審きの日の主宰者に。わたしたちはあなたにのみ崇め仕え,あなたにのみ御助けを請い願う。わたしたちを正しい道に導きたまえ,あなたが御恵みを下された人々の道に,あなたの怒りを受けし者,また踏み迷える人々の道ではなく」― クルアーン,スーラ 1:1-7,日本ムスリム協会; ピクタール訳。a
2 これらの言葉はイスラム教徒の聖なる書,聖クルアーンの巻頭の章,もしくはスーラである,アル・ファーティハ(「開端」の意)章の全文です。世界人口の6分の1余りの人々がイスラム教を奉じており,信心深いムスリム,つまりイスラム教徒は毎日の祈りの中でこれらの節を少なくとも5回復唱して祈るので,これらの言葉は地上で最もよく読誦されるものの中に入るに違いありません。
3 イスラム教は今日,どれほど広まっていますか。
3 ある情報源によれば,世界には9億人以上のムスリムがいるので,イスラム教の信徒数はローマ・カトリック教会に次いで多いということになります。イスラム教の運動はアフリカや西洋で広がっているため,イスラム教は恐らく世界で最も急速な成長を遂げている主要な宗教と考えられます。
4 (イ)「イスラム」という言葉は何を意味していますか。(ロ)「ムスリム」という言葉は何を意味していますか。
4 イスラムという名称はムスリムにとって重要な意味を持っています。というのは,この名称はアッラーに対する「服従」,「降伏」,もしくは「傾倒」を意味しており,ある歴史家によれば,「それはムハンマド(マホメット)の説くところを傾聴している人々の内心の態度の表現」だからです。「ムスリム」とは,『イスラム教を奉ずる,もしくは行なう者』という意味です。
5 (イ)ムスリムはイスラム教に関して何を信じていますか。(ロ)聖書とクルアーンとの間にはどんな類似点がありますか。
5 ムスリムは,自分たちの信仰は昔の忠実なヘブライ人やクリスチャンに与えられた啓示の終極的な結果であると考えています。しかし,ムスリムがヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の双方から引用するとはいえ,その教えは幾つかの点で聖書からそれています。b (285ページの囲み記事をご覧ください。)イスラム教の信仰をもっとよく理解するには,この宗教がいつ,どこで,またどのようにして始まったのかを知らなければなりません。
ムハンマドの召命
6 (イ)ムハンマドの時代のアラブ人の行なっていた崇拝の中で注目の的とされたのは何でしたか。(ロ)カーバ神殿に関するどんな伝承がありましたか。
6 ムハンマドcは西暦570年ごろ,サウジアラビアのメッカ(アラビア語,マッカ)で生まれました。その父アブドゥッラーはムハンマドが生まれる前に亡くなりました。その母アーミナは彼が6歳のころに亡くなりました。当時,アラブ人はメッカ渓谷のカーバ神殿の神聖な場所を中心として行なわれていた,一種のアッラー崇拝を行なっていました。そのカーバ神殿は簡単な方形の建物で,その建物の中で黒いいん石が崇敬の対象とされていました。イスラム教の伝承によれば,「カーバ神殿は最初,天界の原型に基づいてアダムにより建てられたもので,大洪水後,アブラハムとイシュマエルにより再建され」ました。(「アラブ人の歴史」,フィリップ・K・ヒッティ著)その神殿は,360体の偶像,つまり太陰暦の1年のそれぞれ1日に対する一体の偶像のための聖所となりました。
7 ムハンマドはどんな宗教的な慣行で悩まされましたか。
7 ムハンマドは成長するにつれて,当時の宗教的な慣行を疑問視するようになりました。ジョン・ノスは自著,「人間の宗教」の中で,「[ムハンマドは]宗教や名誉に関するあからさまな利害を巡ってクライシュ族[ムハンマドの所属していた部族]の酋長たちの間で絶えず生じていた反目で悩まされた。さらに,アラブ人の宗教の原始的な遺物,つまり偶像崇拝を伴う多神教やアニミズム(精霊崇拝),宗教上の集会や定期市での不道徳行為,当時はやっていた飲酒や賭博や舞踏,およびメッカのみならず,アラビアの至る所で行なわれていた,望まれない幼い女児を生き埋めにする処置などに対する不満の念は一層強いものがあった」。―スーラ 6:137。
8 ムハンマドはどんな状況の中で預言者となる召命を受けましたか。
8 ムハンマドが預言者になるよう召命を受けたのは,40歳のころだったとされています。瞑想にふけるため,ガハール・ヒラーと呼ばれる近くの山の洞くつに行くのを習慣にしていた彼は,そうしていたある時,預言者になるよう召命を受けたと主張しました。イスラム教の伝承によれば,彼がそこにいた時,後にガブリエルであることが明らかにされたというみ使いから,アッラーの名によって読誦するよう命ぜられました。ムハンマドは命令に応じなかったため,み使いは『力ずくで彼を捕らえ,あまり強く締めつけたため,彼はもはや耐えることができなくなり』ました。それから,み使いはその命令を繰り返しましたが,ムハンマドはまたもや応じなかったため,み使いは再び『そののどを締めて息を止めさせ』ました。このことが三度起きた後,ムハンマドはやっと,クルアーンを構成する一連の啓示の最初のものとされている言葉を読誦し始めました。別の伝承によれば,鈴の鳴り響く音のように,神からの啓示がムハンマドに伝えられたとされています。―「サヒーフ アル・ブハーリー」の中の「啓示の書」。
クルアーンの啓示
9 ムハンマドが最初に受けた啓示とされているのは,どんな言葉ですか。(啓示 22:18,19と比較してください。)
9 ムハンマドが最初に受けた啓示とされているのは,どんな言葉ですか。イスラム教当局は普通,それがアル・アラク,つまり「凝血」章という表題のスーラ 96の最初の5節の言葉だったという点で同意をみています。その章(スーラ)には次のように記されています。
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
読め,『創造なされる御方,あなたの主の御名において。
一凝血から,人間を創られた。』
読め,『あなたの主は,最高の尊貴であられ,
筆によって書くことを教えられた御方。
人間に未知なることを教えられた御方である。』」― 日本ムスリム協会; ピクタール訳。
10-12 クルアーンはどのようにして保存されましたか。
10 アラビア語の出典,「啓示の書」によれば,ムハンマドは,「私は読み方を知りません」と答えました。ですから,彼は復唱したり,読誦したりすることができるよう,啓示を暗記しなければなりませんでした。アラブ人は物を記憶することが上手で,ムハンマドも例外ではありませんでした。ムハンマドがクルアーンの音信全部を受けるのに何年ほどかかりましたか。普通,西暦610年ごろから,彼が亡くなった同632年までの20ないし23年ほどの期間に啓示が与えられたと考えられています。
11 イスラム教の出典の説明によれば,ムハンマドは啓示を受ける度に,そばに居合わせた人々に対して直ちにそれを読誦したとされています。次いで,それらの人がその啓示を記憶にとどめ,またそれを読誦することにより生き生きとした状態に保ちました。アラブ人は紙の製法を知らなかったので,ムハンマドは書記を用いて,らくだの肩甲骨,やしの葉,木,および羊皮紙など,当時入手できた原始的な書写材料に啓示を書き記させました。しかし,クルアーンがムハンマドの後継者や仲間の者たちの指導のもとで現在の形にされたのは,この預言者が亡くなった後のことでした。それは最初の3人のカリフ,つまりイスラム教の指導者たちの支配した時代のことでした。
12 翻訳者であるムハンマド・ピクタールはこう書いています。「クルアーンのスーラはすべて,この預言者が亡くなる前にすでに書き記されており,多くのムスリムはクルアーン全体を記憶にとどめていた。しかし,書き記されたスーラは人々の間で流布され,戦闘の際に……クルアーン全体を暗記して知っていた人々の相当数の者が殺されるに至り,クルアーン全体の収集が行なわれ,また書き記されたのである」。
13 (イ)イスラム教の教えと指導の三つの源とは何ですか。(ロ)イスラム教の一部の学者はクルアーンの翻訳をどう見ていますか。
13 ムスリムの生活は三つの権威 ― クルアーン,ハディース(伝承),およびシャリーア(道)― によって支配されています。(291ページの囲み記事をご覧ください。)ムスリムはアラビア語のクルアーンが最も純粋な形態の啓示であると信じています。というのは,アラビア語は神がガブリエルを通して話した際に用いた言語だとされているからです。スーラ 43:3には,「本当にわれは,それをアラビア語のクルアーンとした。あなたがたが理解するために」と記されています。(日本ムスリム協会; アリー訳)ですから,どんな翻訳でも,純粋さの失われる恐れがあり,結局文意は弱められてしまうと考えられています。実際,イスラム教の学者の中には,クルアーンを翻訳しようとしない人もいます。「翻訳するとは,とにかく裏切ることである」というのが,それらの学者の見方です。ですから,イスラム教史の講師J・A・ウィリアムズは,「ムスリムはクルアーンを他の言語に翻訳しようとする試みを常に非難し,時には禁じてきた」と述べています。
イスラム教の拡張
14 どんな出来事がイスラム教の歴史の初期の重要な転機をしるし付けるものとなりましたか。
14 ムハンマドは大変な敵を相手にして自分の新たな信仰を興しました。彼はメッカの人々,それも自分の部族の人々からさえ退けられました。迫害と憎悪に遭遇しながら13年を過ごした後,彼は活動の中心地をヤスリブの北に移しました。そこは後にマディーナ(メディナ),つまり預言者の都市として知られるようになりました。西暦622年のこの移住,つまりヒジュラはイスラム教の歴史の重要な転機をしるし付ける出来事となり,この年代がイスラム暦の起点として採用されました。d
15 メッカはどのようにしてイスラム教の巡礼のための主要な中心地となりましたか。
15 やがて,ムハンマドは,西暦630年(ヒジュラ紀元8年)1月にメッカを開城させて,支配権の獲得を達成し,その支配者になりました。こうして,政権と教権を掌握したので,カーバ神殿から偶像を一掃すると共に,今日まで続いているメッカ巡礼の中心としての同神殿の地位を確立することができました。―289,および303ページをご覧ください。
16 イスラム教はどれほど遠くまで広がりましたか。
16 西暦632年にムハンマドが亡くなった後,二,三十年もたたないうちに,イスラム教はアフガニスタンまで,また北アフリカのチュニジアに至るまで広がりました。8世紀初頭までには,クルアーンに対する信仰はスペインにも浸透しており,フランス国境にまで達していました。ニニアン・スマート教授は自著,「長年にわたる探求の過程の背景」の中で次のように述べました。「人間的な見地からすれば,キリストの死後,六,七世紀ごろ生活したアラビア人の一預言者の成し遂げた業績は驚異的なものである。人間的に言えば,新しい文明が彼から生じたのである。しかし,もちろん,その業はムスリムにとって神の業であり,その成し遂げた業績はアッラーのそれであった」。
ムハンマドの死は分裂をもたらす
17 ムハンマドの死後,ムスリムはどんな大問題に直面しましたか。
17 この預言者の死は危機をもたらしました。彼は男性の子孫をだれも残さずに,つまり明確に指名された後継者なしに死去しました。フィリップ・ヒッティが述べているとおりです。「ゆえに,カリフの地位はムスリムが直面せざるを得なかった最古の難問題である。それは依然として現に存在する問題である。……ムスリムの歴史家シャハラスターニ[1086-1153年]の言葉を借りれば,『カリフの地位(イマーマ)ほど流血を引き起こしたイスラム教の問題はほかには決してなかった』」。その難問題は西暦632年の昔,どのように解決されましたか。「アブー・バクル……は首都マディーナ(メディナ)に居合わせた指導者たちの参加した,ある種の選挙により(632年6月8日に)ムハンマドの後継者として指名され」ました。―「アラブ人の歴史」。
18,19 どんな主張のためにスンニー派とシーア派のムスリムが分裂しましたか。
18 預言者の後継者は支配者,つまりハリーファ,もしくはカリフになるはずでした。しかし,ムハンマドの真の後継者になるのはだれかという疑問は,ムスリムの信徒の間に分裂をもたらす原因となりました。スンニー派のムスリムは預言者の血統ではなく,選挙による地位継承の原則を認めています。ですから,この派の人々は,最初の3人のカリフ,つまりアブー・バクル(ムハンマドのしゅうと),ウマル(預言者の顧問),およびウスマーン(預言者の娘婿)がムハンマドの正当な後継者だったと考えています。
19 シーア派のムスリムはその主張に異議を唱えています。この派の人々は,真の指導者の地位は預言者の血筋を通して,またそのいとこで娘婿,つまりムハンマドのまな娘ファーティマと結婚した最初のイマーム(「指導者および後継者」の意)であるアリー・イブン・アビー・ターリブを通して伝えられるとしています。結婚したこの二人の間にムハンマドの孫ハサンとフサインが生まれました。シーア派はまた,「最初から,アッラーとその預言者がはっきりと『アリーを唯一正統な後継者』に指名していたが,最初の3人のカリフが彼を欺いてその正当な地位を奪った」とも主張しています。(「アラブ人の歴史」)もちろん,スンニー派のムスリムはこのことに関して別の見方をしています。
20 ムハンマドの娘婿アリーはどうなりましたか。
20 アリーはどうなりましたか。第4代カリフとしてのその治世中(西暦656-661年),アリーとシリアの総督ムアウィーヤとの間で指導権を巡る闘争が起きました。二人は戦いを交じえましたが,ムスリムの流血がそれ以上起きないようにするため,自分たちの争議を仲裁機関にゆだねました。アリーが仲裁を受け入れたため,その主張は弱められ,ハーリジー派(離脱派)を含め,追随者の多くが離れて行き,アリーの執念深い敵になりました。西暦661年に,アリーはハーリジー派のある熱狂者により,毒を塗ったサーベルで殺害されました。この二つのグループ(スンニー派とシーア派)は争い合いました。その後,イスラム教のスンニー派は,預言者の家系外の人々であった,ウマイヤ朝の者たち,つまりメッカの裕福な酋長たちの中から一人の指導者を選びました。
21 ムハンマドの後継者に関するシーア派の見解について述べてください。
21 シーア派について言えば,アリーの長子,ムハンマドの孫ハサンが真の後継者でした。ところが,彼は辞任し,殺害されました。その弟フサインが新しいイマームになりましたが,彼もまた,西暦680年10月10日にウマイヤ朝の部隊により殺されました。その死,つまりシーア派の見方によれば殉教の死は,今日に至るまで,シーア・アリー,つまりアリーの党派に重大な影響を及ぼしてきました。彼らは,アリーこそムハンマドの真の後継者であり,「誤りや罪を犯さないよう神により守られた」最初の「イマーム[指導者]」だったと考えています。シーア派は,アリーとその後継者のことを「神からの完全無欠という賜物」を持つ,不謬の教師とみなしました。シーア派の最も広い階層にわたる人々は,真のイマームはただ12人だけだったと信じており,その最後のムハンマド・アルムンタザルは「子孫を残さずに,サーマルラの大きなモスクの洞くつの中で」姿を消しました。(西暦878年)こうして,「彼は『隠れた(ムスタティール)』,もしくは『待望の(ムンタザル)』イマームとなった。……やがて,彼は真のイスラム教を回復するために,マフディー(神により導かれる者)として現われ,全世界を征服し,すべての事物の終わりの前に短い千年期を招来するであろう」と言われています。―「アラブ人の歴史」。
22 シーア派はフサインの殉教の死をどのように記念していますか。
22 シーア派は毎年,イマーム・フサインの殉教の死を記念し,人々は行列を行ない,その際,ある人々はナイフや剣で自分の体に傷を付けたり,その他の方法で我が身を苦しめたりします。もっと近年になって,シーア派のムスリムはイスラム教の信条に対する熱心さゆえに一般に広く知られるようになりましたが,それでも彼らは世界のムスリムのわずか20%を代表しているにすぎず,スンニー派のムスリムが大多数を占めています。しかし今度は,イスラム教の教えの幾つかを取り上げて,イスラム教の信仰がムスリムの日常の行動にどのように影響しているかに注目してみましょう。
イエスではなく,神が最高の方
23,24 ムハンマドやムスリムはユダヤ教やキリスト教をどのように見ましたか。
23 世界の三大一神教はユダヤ教,キリスト教,およびイスラム教です。しかし,ムハンマドが現われた西暦7世紀の初めごろまでには,これら最初の二つの宗教は,ムハンマドに関する限り,真理の道からそれていました。実際,イスラム教の一部の注解者によれば,クルアーンは,「あなたの怒りを受けし者,また踏み迷える人々の道ではなく」と述べて,ユダヤ人やクリスチャンを退けています。(スーラ 1:7,日本ムスリム協会; ピクタール訳)それはなぜですか。
24 クルアーンの注解はこう述べています。「啓典の民ユダヤ人は律法を破り,マルヤム(マリア)やイーサー(イエス)を中傷し……不正をあえてした。またキリスト教徒は,使徒イーサー(イエス)を」,三位一体の教理により,「アッラー(神)と同位に配した。」― スーラ 4:153-176,日本ムスリム協会; アリー訳。
25 クルアーンと聖書には,どんな並行表現がありますか。
25 イスラム教の主要な教えは,まさに簡単そのもので,ムスリムならだれもがそらで言えるシャハーダ,つまり信仰告白,「ラー イラーハ イッラ-ラーフ ムハンマド ラスールッ-ラー」(「アッラーのほかに神はなく,ムハンマドはアッラーの信徒である」の意)という言葉で知られています。これはクルアーンの「あなたがたの神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく,慈悲あまねく慈愛深き方である」という表現とも合致しています。(スーラ 2:163,日本ムスリム協会; ピクタール訳)この考えは,2,000年ほど前にイスラエルに対してなされた,「イスラエルよ,聴きなさい。わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである」という古い呼びかけの言葉で表わされました。(申命記 6:4)ムハンマドが登場する約600年以上も前に,イエスはこの極めて重要な命令を復唱されました。それはマルコ 12章29節に記されていますが,しかしイエスがご自分は神である,あるいは神と同等であるなどと唱えられた箇所はどこにもありません。―マルコ 13:32。ヨハネ 14:28。コリント第一 15:28。
26 (イ)ムスリムは三位一体をどう見ていますか。(ロ)三位一体は聖書に基づいていますか。
26 神の特異性に関して,クルアーンは,「だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。『三(位)』などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯一の神であられる」と述べています。(スーラ 4:171,日本ムスリム協会; アリー訳)しかし,真のキリスト教は三位一体を説くものではないことに注目しなければなりません。これはキリストや使徒たちの死後,キリスト教世界の背教者たちによって導入された,異教に起源を持つ教理です。―11章をご覧ください。e
魂,復活,楽園<パラダイス>,および地獄の火
27 クルアーンは魂について,また復活について何と述べていますか。(レビ記 24:17,18; 伝道の書 9:5,10; ヨハネ 5:28,29と比べてください。)
27 イスラム教は,人間にはあの世に移って行く魂があると教えています。クルアーンは,「アッラーは人間が死ぬとその魂を召され,また死なない者も,睡眠の間それを召し,かれが死の宣告をなされた者の魂は,そのままに引き留め(られる)」と述べています。(スーラ 39:42,日本ムスリム協会; ピクタール訳)同時に,スーラ 75は全部,「キヤーマ,つまり復活」(同協会; アリー訳),もしくは「死者のよみがえり」(ピクタール訳)に充てられています。その章は一部こう述べています。「わたしは,復活の日において誓う。……人間は,われがかれの骨を集められないと考えるのか。……かれは,『復活の日はいつか。』と問う。……かれには,死者を蘇らせる御力がないとするのか。」― スーラ 75:1,3,6,40,同協会; アリー訳。
28 クルアーンは地獄について何と述べていますか。(ヨブ 14:13; エレミヤ 19:5; 32:35; 使徒 2:25-27; ローマ 6:7,23と比べてください。)
28 クルアーンによれば,魂は天の楽園<パラダイス>か,火の燃える地獄での処罰かいずれかの異なった運命をたどることができます。クルアーンが次のように述べているとおりです。「かれらは,『審判の日は何時のことですか。』と問う。それはかれらが,火獄で試みられる日。言ってやるがよい。『あなたがたの責め苦を味わえ。』」(スーラ 51:12-14,日本ムスリム協会; ピクタール訳)「かれらに対しては,現世の生活でも罰が科せられる。だが来世の懲罰は更に厳しい。かれらはアッラーの御怒りに対し,守護者もないのである。」(スーラ 13:34,同協会; ピクタール訳)次のように問われています。「それが何であるかを,あなたに理解させるものは何か。それは焦熱地獄の火。」(スーラ 101:10,11,同協会; アリー訳)「本当にわが印を信じない者は,やがて火獄に投げ込まれよう。かれらの皮膚が焼け尽きる度に,われは他の皮膚でこれに替え,かれらに飽くまで懲罰を味わわせるであろう。誠にアッラーは偉力ならびなく英明であられる。」(スーラ 4:56,同協会; ピクタール訳)さらにこう描写されています。「本当に地獄は,待ち伏せの場であり……かれらは何時までもその中に住むであろう。そこで涼しさも味わえずに,どんな飲物もない,煮えたぎる湯と膿の外には。」― スーラ 78:21,23-25,同協会; ピクタール訳。
29 魂とその運命に関するイスラム教の教えと聖書のそれとを比べてください。
29 死んだ人の魂はバルザフ,つまり「障壁」,すなわち,「人の死後,審判に至るまでいる場所,もしくは状態」に入る,とムスリムは信じています。(スーラ 23:99,100,脚注,日本ムスリム協会; アリー訳)魂はそこで意識を保っているので,人がかつて邪悪な者だったならば,「墓の懲罰」と呼ばれるものに遭いますが,忠実だったならば,幸福を享受します。しかし,忠実な者たちも,生きていた時の少数の罪のゆえに,やはり多少の責め苦に遭わなければなりません。審判の日に人は各々永遠の運命に直面し,その結果,あの中間状態は終わりを告げます。f
30 クルアーンによれば,義人には何が約束されていますか。(イザヤ 65:17,21-25; ルカ 23:43; 啓示 21:1-5と比べてください。)
30 それとは対照的に,義人には天の楽園<パラダイス>の園が約束されており,こう記されています。「だが信仰して善い行いに励む者には,われは川が下を流れる楽園に入らせ,永遠にその中に住まわせよう。」(スーラ 4:57,日本ムスリム協会; ピクタール訳)「本当に楽園の仲間たちは,この日,喜びに忙しい。かれらはその配偶者たちと,木陰の寝床によりかかる。」(スーラ 36:55,56,同協会; ダウッド訳)「われはムーサー(モーセ)に訓戒を授けた後,詩篇の中に,『本当にこの大地は,われの正しいしもべがこれを継ぐ。』と記した。」このスーラ(章)の脚注は詩編 25編13節,および37編11節と29節,それにマタイ 5章5節のイエスの言葉に読者の注意を引いています。(スーラ 21:105,同協会; アリー訳)。ここで配偶者たち,つまり妻たちに言及しているので,もう一つの疑問を取り上げることにしましょう。
一夫一婦,それとも一夫多妻?
31 クルアーンは一夫多妻について何と述べていますか。(コリント第一 7:2; テモテ第一 3:2,12と比べてください。)
31 一夫多妻はムスリムの間の規則ですか。クルアーンは一夫多妻を許していますが,多くのムスリムにはただ一人の妻しかいません。費用のかかる戦いが何度か行なわれた後,おびただしい数の未亡人が残されたため,クルアーンは一夫多妻を認める余地を設けて,こう述べています。「あなたがたがもし孤児の女たちに対し,公正にしてやれそうにもないならば,あなたがたがよいと思う2人,3人または4人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにもないならば,只1人だけ娶るか,またはあなたがたの右手が所有する者(奴隷の女)で我慢しておきなさい。」(スーラ 4:3,日本ムスリム協会; ピクタール訳)イブン・ヒシャームによるムハンマドの伝記は,ムハンマドが15歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚したことを述べています。彼女が死んだ後,ムハンマドは多くの女性と結婚し,亡くなった時には,9人の未亡人を後に残しました。
32 ムターとは何ですか。
32 イスラム教で行なわれている,もう一つの形態の結婚はムターと呼ばれています。これは「結婚を申し込んだり,承諾したりして,限られた期間,また終身結婚契約の場合のように特定の持参金を払って,男女間で結ばれる特別の契約」と定義されています。(「イスラムナ」,ムスタファー・アル・ラーフィー著)スンニー派はこれを楽しみのための結婚と呼んでおり,シーア派は特定の期間内に解消すべき結婚と呼んでいます。この同じ資料は,「[そのような結婚による]子供は嫡出子であり,終身結婚による子供と同様の権利を持つ」と述べています。このような形態の一時的な結婚がムハンマドの時代に行なわれたらしく,ムハンマドはその存続を許しました。スンニー派はそれが後に禁じられたと主張する一方,シーア派最大のイマーミース派はそれが依然有効であると考えています。事実,特に妻のもとから長期間離れている男性で,そのような結婚をする人は少なくありません。
イスラム教と日常生活
33 “行(ぎょう)と信仰の五柱”とは何ですか。
33 イスラム教には五つの主要な義務と五つの基本的な信仰があります。(296,および303ページの囲み記事をご覧ください。)その義務の一つは,信心深いムスリムは毎日5回,メッカの方を向いて礼拝(サラート)をすることです。ムスリムの安息日(金曜日)にはモスク(礼拝堂)の尖塔から流れる祈祷時報係の忘れ難い呼び声を聞くと,人々は礼拝のためにモスクに群がってやって来ます。今日では,生の呼び声の代わりに,録音した声を流すモスクも少なくありません。
34 モスクとは何ですか。それはどのように使われていますか。
34 モスク(アラビア語,マスジッド)はムスリムの崇拝の場所で,サウジアラビアの王ファハド・ビン・アブドゥル・アズィズによれば,「神への呼びかけのための隅石」と描写されています。彼はモスクのことを「礼拝,研究,法律上ならびに司法上の活動,協議,伝道,指導,教育,および準備の場所……モスクはムスリム社会の心臓部である」と定義しました。この崇拝の場所は今では世界中にあります。歴史上最も有名なモスクの一つは,何世紀ものあいだ世界最大であった,スペイン,コルドバのメスキータ(モスク)です。その中心部は今ではカトリックの大聖堂として使用されています。
キリスト教世界との,また同世界内の争い
35 かつて,イスラム教とカトリック教の間にはどんな状況が見られましたか。
35 イスラム教は7世紀以来,西は北アフリカへ,東はパキスタン,インド,バングラデシュ,およびインドネシアにまで広がり始めました。(表紙の見返しにある地図をご覧ください。)イスラム教はそのように広がるにつれて,ムスリムの手から聖地を取り返すために十字軍を組織した戦闘的なカトリック教会と争うようになりました。1492年には,スペインのイサベル妃とフェルディナンド王がカトリックによるスペイン奪回を完了しました。ムスリムとユダヤ人は改宗するか,スペインから追放されるかのいずれかを強いられました。ムスリムの支配下のスペインでそれまで互いに示し合っていた寛容の精神は,カトリックの異端審問所の影響を受けて消失しました。しかし,イスラム教は生き残り,20世紀には蘇生と大きな成長とを経験してきました。
36 イスラム教が拡張する一方で,カトリック教会にはどんな事態が起きていましたか。
36 イスラム教が拡張する一方で,カトリック教会は同教会内部の騒乱に遭遇して,一般教会員の一致を保つことに努めていました。しかし,二つの強力な影響力が突如爆発的な勢いで現われて,同教会の一致団結した教団としてのイメージはなお一層打ち砕かれようとしていました。そのような影響力を及ぼしたのは,印刷機と民衆の言語に訳された聖書でした。次の章では,キリスト教世界がそのような,また他の影響力のためにさらに分裂していった事情を考慮いたしましょう。
[脚注]
a 「クルアーン」(「読誦」の意)はイスラム教の著述家の好んで用いる呼び方なので,本書でもこの呼び方が用いられています。注目すべき点は,クルアーンの原語はアラビア語であって,英語では広く一般に受け入れられている翻訳はないということです。引照箇所の最初の数字は章,もしくはスーラの番号で,次の数字は節の番号を表わしています。
b ムスリムは,聖書には神からの啓示が収められているものの,そのあるものは後に改ざんされたと考えています。
c この預言者の名前の英語のつづり字は幾つかあります。(Mohammed[モハンメッド], Muḥammad[ムハンマド], Mahomet[マホメット])大抵のイスラム教筋はMuḥammadのほうを取っているので,本書でもこの名を使っています。トルコのムスリムはMuhammed[ムハンメッド]のほうを取っています。
d したがって,ムスリムの暦年は紀元(英語,A.D.; ラテン語,Anno Domini[アンノ・ドミネ,「主の年」の意]),あるいは西暦(英語,C.E.[Common Era,コモン・イァラ; 「西暦紀元」の意])ではなく,ヒジュラ紀元(英語,A.H.; ラテン語,Anno Hegirae[アンノ・ヘギラエ,「脱出の年」の意])で表わされています。
e 三位一体と聖書に関する情報をさらに得たい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1989年に発行した,「あなたは三位一体を信ずるべきですか」と題するブロシュアーをご覧ください。
f 魂や地獄の火という論題に関しては,創世記 2:7; エゼキエル 18:4; 使徒 3:23などの聖句と比較してください。ものみの塔聖書冊子協会が1985年に発行した,「聖書から論じる」と題する本の190-197,および300-304ページをご覧ください。
[285ページの囲み記事]
クルアーンと聖書
「かれは真理をもって,あなたに啓典を啓示され,その以前にあったものの確証とし,また先に律法と福音を下され,この前にも人びとを導き,今また正邪の識別を御下しになる。」― スーラ 3:3,4(3:2,ダウッド訳)。
「コーランの中で歴史上の物語の箇所にはほとんどすべて,聖書の並行記述が見られる。……旧約聖書の人物の中では,アダム,ノア,アブラハム(25の別々のスーラの中で70回ほど言及されており,アブラハムの名はスーラ 14の表題とされている),イシュマエル,ロト,ヨセフ(スーラ 12では専らヨセフのことが扱われている),モーセ(この名は34の別々のスーラに出て来る),サウル,ダビデ,ソロモン,エリヤ,ヨブ,およびヨナ(この名はスーラ 10に出て来る)が一際目立っている。……創造とアダムの堕落に関する物語は5回,洪水は8回,ソドムも8回引き合いに出されている。実際,コーランには聖書の他のどの書よりも五書<ペンタチューク>の並行記述が多く見いだされる。……
「新約聖書の人物の中で強調されているのは,ゼカリヤ,バプテストのヨハネ,イエス(イーサー),マリアだけである。……
「コーランと聖書双方の物語……を比較・研究してみると……逐語的に依存してはいない[つまり,直接引用されてはいない]ことが分かる……」g ―「アラブ人の歴史」。
[脚注]
g [しかし,300ページ,30節のスーラ 21:105も参照]
[291ページの囲み記事]
教えと指導の三つの源
聖クルアーンは,み使いガブリエルによりムハンマドに啓示されたものとされています。アラビア語で書かれたクルアーンの意味や言葉は,霊感を受けたものであるとみなされています。
ハディース(伝承),もしくはスンナ(言行),「預言者の行為,言説,および暗黙の是認(タクリール)は……[ヒジュラ紀元]2世紀に文章の形式を備えたハディースの中で確定された。それゆえ,ハディースは預言者の行動や言辞の記録である」。これはまた,ムハンマドの「仲間たち,もしくは彼らの後継者たち」のだれの行動や言辞にも当てはまります。ハディースの中では,意味だけが霊感を受けたものとみなされています。―「アラブ人の歴史」。
シャリーア(道),もしくは聖法のことで,これはクルアーンの原則に立脚しており,宗教的,政治的,および社会的な意味でムスリムの全生活を律しています。「人間の行為はすべて,以下の五つの範ちゅうに分類される。すなわち,(1)絶対的な義務と考えられる行為(ファルド)[行なったことに対する報い,もしくは行なわなかったことに対する処罰が関係する]; (2)推奨すべき,あるいは賞賛に値する行為(ムスタハーブ)[報いが関係しているが,不作為に対する処罰はない]; (3)許される行為(ジャイズ,ムバー)で,法的には問題にならない; (4)非難されるべき行為(マクルー)で,非とされるが,処罰されない; (5)禁止行為(ハラーム)で,それをすれば,処罰される」―「アラブ人の歴史」。
[296ページの囲み記事]
信仰の五柱
1. ただひとりの神アッラーに対する信仰(スーラ 23:116,117)
2. 天使たちに対する信仰(スーラ 2:177)
3. 多くの預言者たち,ただし唯一の音信に対する信仰。アダムは最初の預言者で,他の預言者の中にはアブラハム,モーセ,イエス,および「預言者たちの封緘」であるムハンマドが含まれていました(スーラ 4:136; 33:40)
4. 審判の日に対する信仰(スーラ 15:35,36)
5. 神の全知性,および神は事前にすべての知識を有しており,すべての出来事を定めておられることに対する信仰。しかし,人間には自分の行動の点で選択の自由があります。[イスラム教は自由意志の問題で幾つかの分派に分かれています](スーラ 9:51)
[303ページの囲み記事]
行の五柱
1. 次のような信仰告白(シャハーダ)を復唱すること。「アッラーの他に神なく,ムハンマドはアッラーの信徒である。」(スーラ 33:40)
2. 1日に5回メッカの方を向いて行なう礼拝(サラート)(スーラ 2:144)
3. 喜捨(ザカー),自分の収入や幾らかの資産の評価額の1%を与える義務(スーラ 24:56)
4. 断食(サウム),特にラマダーンの1か月間の断食(スーラ 2:183-185)
5. 巡礼(ハッジ)。男子のムスリムは皆,一生に一度はメッカまで旅をしなければなりません。それを差し控えられる正当な理由は,病気と貧困だけです(スーラ 3:97)
[304,305ページの囲み記事/図版]
バハーイ教 ― 世界の一致を求める教え
1 バハーイ教はイスラム教の分派ではなく,1844年にイスラム教のシーア派から分かれた一教団である,ペルシャ(現在のイラン)のバーブ教の一派です。バーブ教の指導者はシーラーズのミールザー・アリー・ムハンマドで,彼は自らバーブ(「門」の意)であり,またムハンマドの家系のイマーム・マフディー(「正しく導かれる指導者」の意)であると唱えました。彼は1850年にペルシャの当局者により処刑されました。1863年に,バーブ教団の著名な成員ミールザー・フサイン・アリー・ヌーリーは,「自分自身のことをバーブの予告していた,『神により明らかにされる者』であると唱え」ました。彼はまた,自らをバハー・ウッラー(「神の栄光」の意)という名称で呼び,バハーイ教という新しい宗教を興しました。
2 バハー・ウッラーはペルシャから追放されて,やがてアッコ(今日のイスラエルのアクレ)で投獄されました。その地で彼は主著,アル・キターブ・アル・アクダス(「いと聖なる書」の意)を著わし,バハーイ教の教理を発展させて,包括的な教えを編み出しました。バハー・ウッラーの死去に際して,この駆け出しの宗教の指導権はその子アブドゥル・バハーに引き継がれ,次いで曾孫ショーギ・エフェンディ・ラッバーニーに,そして1963年には万国正義院として知られる選任理事会に引き継がれました。
3 バハーイ教徒は,神はアブラハム,モーセ,クリシュナ,ゾロアスター,仏陀,イエス,ムハンマド,バーブ,およびバハー・ウッラーを含む,“神聖な顕現”によって,ご自身を人間に啓示してこられたと信じています。そして,これらの使者は進化の過程を通して人類を指導するために備えられた存在であり,バーブが現われることにより,人類にとって新しい時代が始まったと信じています。さらに,バハーイ教徒は,バーブの音信は神の意志に関する今日までの最も完ぺきな啓示であり,その音信は世界の一致を可能にする,神から与えられた主要な手段であるとしています。―テモテ第一 2:5,6。
4 バハーイ教の基本的な教えの一つは,「世界の大宗教はすべて起源が神聖なもので,それらの宗教の基本的な原理は完全に調和している」ということです。それらの宗教は,「単に教理上の必ずしも肝要でない面で異なっているにすぎない」とされています。―コリント第二 6:14-18。ヨハネ第一 5:19,20。
5 バハーイ教の信条には,神の唯一性,霊魂不滅,および人類の(生物学的,霊的,ならびに社会的)進化が含まれている一方,バハーイ教徒はみ使いに関する共通の概念を退けています。同時に,三位一体,ヒンズー教の輪廻の教え,および人間の完全な状態からの堕落とその後に備えられたイエス・キリストの血による贖いを退けます。―ローマ 5:12。マタイ 20:28。
6 人間の兄弟関係,および女性の平等という考えがバハーイ教の信仰の主要な特色となっています。バハーイ教徒は一夫一婦制を行なっており,毎日,少なくとも1回,バハー・ウッラーが明らかにした三つの祈りのどれか一つを唱えて祈ります。また,3月に当たる,バハーイ暦アッラー月の19日間,断食をします。(バハーイ暦は各月が19日で成る19か月でできており,閏日が何日かあります。)
7 バハーイ教には決まった儀式はあまりありませんし,僧職者もいません。バハー・ウッラーに対する信仰を告白し,その教えを受け入れる人はだれでも信者として名簿に載せることができるようです。信徒はすべてのバハーイ月の一日に礼拝に集まります。
8 バハーイ教徒は自分たちが各自地球を霊的に征服する使命を担っていると考えており,会話,手本,地域社会の諸計画への参加,および情報伝達運動を通して,自分たちの信仰を広めるよう努めています。そして,自分の住んでいる国の法律に無条件で服従するのは良いことだと考えています。投票はしますが,政治に関与することは慎みます。また,できれば,軍隊では非戦闘員の任務のほうを好みますが,良心的兵役拒否者ではありません。
9 バハーイ教は伝道宗教として最近の数年間に急速な成長を遂げてきました。バハーイ教側の推定によれば,信徒は世界中で500万人とされていますが,この宗教の実際の成人会員数は230万人を少し上回っています。
[研究用の質問]
1,2 バハーイ教はどのようにして興りましたか。
3-7 (イ)バハーイ教の信条の幾つかを挙げてください。(ロ)バハーイ教の信条は聖書の教えとどのように異なっていますか。
8,9 バハーイ教の使命は何ですか。
[図版]
イスラエルのハイファ市にあるバハーイ教の世界本部の寺院
[286ページの図版]
イスラム教の伝承によれば,ムハンマドはエルサレムの“岩のドーム”の中のこの岩から天に昇ったと言われています
[289ページの図版]
イスラム教の巡礼者はメッカで,カーバ神殿の周囲を7回巡り,左下の黒い石に触ったり,口づけしたりします
[290ページの図版]
クルアーンを読むには,アラビア語を学ばなければなりません
[298ページの図版]
左上から右回りに: エルサレムの“岩のドーム”; イラン,南アフリカ,およびトルコのモスク(礼拝堂)
[303ページの図版]
コルドバのメスキータはかつて世界最大のモスクでした(その中心部は今,カトリックの大聖堂として使用されています)
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宗教改革 ― 新たな転換期を迎えた探求の歩み神を探求する人類の歩み
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13章
宗教改革 ― 新たな転換期を迎えた探求の歩み
1,2 (イ)宗教改革を扱ったある本は,中世のローマ・カトリック教会をどのように描写していますか。(ロ)ローマ教会の状態に関して,どんな疑問が生じますか。
「中世の教会の真の悲劇は,教会が時代と共に前進しなかったことである。……進歩し,霊的な指導を行なうどころか,教会は退歩し,退廃し,成員は皆,腐敗していた」。これは,西暦5世紀から15世紀までヨーロッパの大半を支配した,強力なローマ・カトリック教会のことを扱った,「宗教改革史」と題する本の言葉です。
2 ローマ教会は全権を有するその地位からどのようにして零落して,『退歩し,退廃した』のでしょうか。使徒承伝を主張する教皇制度はどのように「霊的な指導」を与えることさえしなかったのでしょうか。また,その結果,どうなりましたか。その答えを得るには,カトリック教会が一体どんな教会になってしまったのか,また同教会が,まことの神を探求する人類の歩みの点で,どんな役割を演じてきたのかを考察してみなければなりません。
衰退期を迎えた教会
3 (イ)ローマ教会は15世紀末までに物質の面でどんな状態にありましたか。(ロ)教会はどのようにしてその威光を維持しようとしましたか。
3 ローマ教会は15世紀末までにその勢力範囲の至る所に教区,僧院,および女子修道院を有して,全ヨーロッパ最大の土地所有者となっていました。同教会はフランスやドイツの土地のおよそ半分,またスウェーデンや英国の土地の5分の2,もしくはそれ以上を所有していたと伝えられています。その結果,どうなりましたか。「文明の歴史」という本は,「ローマの光輝は1400年代末から1500年代の初期にかけて測り知れないほど増大し,その政治的重要性は一時的に大いに高まった」と述べています。しかし,同教会は相当の代価を払って威光を得たので,それを維持するために教皇制度は新たな財源を見いださなければなりませんでした。歴史家ウィル・デュラントは,そのために講じられた様々の方法について述べ,次のように書いています。
「教会により任命された者はみな,1年目には担当部局の収益の半分(“聖職禄取得金”)を教皇庁 ― 教皇制度の行政局 ― に送金し,それ以後は毎年,10分の1,つまり什一を納めるよう要求された。新しい大司教はパリウム ― 大司教の権威の確認のしるし,ならびにその権威を示す記章の役を果たす,白い羊毛製のベルト ― のために相当の額のお金を教皇に支払わなければならなかった。枢機卿,大司教,司教,あるいは大修道院長のだれかが亡くなると,その私有財産は教皇当局に帰属した。……すべて教皇庁から得られる判断,もしくは支持に関しては返礼としての贈り物が期待されており,贈り物によって判断がなされることもあった」。
4 教会に入ってきた富のために教皇制度はその影響をどのように受けましたか。
4 教皇庁の金庫には毎年,大変な額のお金が流れ込んだため,やがてひどい職権乱用と腐敗が起きました。『教皇でも朱に交われば赤くなる』と言われており,この時期の教会の歴史には,ある歴史家の言う,「非常に世俗的な歴代の教皇」が出ました。その中には,自分の名前にちなんで命名したシスティナ礼拝堂を建設するために多額のお金を費やし,また多数のおいやめいを富ませたシクストゥス4世(教皇,1471-1484年),アレクサンデル6世(教皇,1492-1503年),つまり自分の非嫡出子たちを公然と認知して昇進させた,悪名高いロドリゴ・ボルジア,およびユリウス2世(教皇,1503-1513年),つまり教会の務めよりも,戦争,政治,および芸術に熱中した,シクストゥス4世のおいなどが含まれています。オランダのカトリックの学者エラスムスが1518年に,「ローマ教皇庁の破廉恥ぶりは頂点に達した」と書いたのは,けだし当然でした。
5 同時代の記録は聖職者の道徳的行為に関して何を示していますか。
5 腐敗や不道徳は教皇制度だけに限られていたわけではありません。当時,「息子をだめにしたければ,司祭にしなさい」という世間の言い習わしがありました。この言葉は当時の記録によって裏づけられています。デュラントによれば,英国では,「1499年に行なわれた[性的]不貞に関する告発件数[のうち]……聖職者は人口の2%足らずだったようであるが,聖職者の犯罪者の数は全体のおよそ23%に達していた。一部の聴罪司祭は女性の悔悛者に身を許すよう求めた。何千人もの司祭が,ドイツではほとんどすべての司祭がめかけを持って」いました。(コリント第一 6:9-11; エフェソス 5:5と比べてください。)道徳的堕落は他の領域にも達しました。当時のあるスペイン人は次のように苦情を述べたと言われています。「お金を出さない限り,キリストの聖役者からはほとんど何も得ることができないと思う。バプテスマにも金……結婚にも金,告解にも金が要る。―いや,実際,金がなければ,臨終の抹油[最後の儀式]もやってもらえない。お金がなければ,鐘を鳴らしてもらえず,お金がなければ,教会で埋葬してもらえない。だから,金のない者はパラダイスから締め出されているようなものだ」。―テモテ第一 6:10と比べてください。
6 マキアベリはローマ教会のことをどのように描写しましたか。(ローマ 2:21-24)
6 16世紀初頭のローマ教会の状況を要約するために,その時期の有名な哲学者マキアベリの次のような言葉を引用しておきます。
「キリスト教という宗教がその創始者の命令どおりに保たれていたなら,キリスト教世界の状態や社会は今のそれよりもはるかに一致した幸福なものとなっていたであろう。この社会の宗教団体の頭たるローマ教会に近い人々ほど宗教心が少ない人間であるという事実以上に宗教の堕落を示す大きな証拠はあり得ない」。
宗教改革を目指す初期の努力
7 職権乱用の問題の幾つかを扱うために,教会は心もとないどんな努力をしましたか。
7 エラスムスやマキアベリのような人々だけでなく,教会自体,教会の危機に注目していました。苦情や職権乱用の問題の幾つかを扱うために,教会会議が何度か召集されたものの,永続する結果は何ももたらされませんでした。改革を目指す,何らかの真の努力がなされても,個人的な権力や栄光を受けていた教皇たちは,そのような努力に水を差しました。
8 教会が引き続き怠慢だった結果,事態はどうなりましたか。
8 教会がもっと真剣に粛正を行なっていたなら,宗教改革は起こらなかったのかもしれません。しかし,実際には,教会の内外双方で改革を求める声が聞かれるようになりました。11章では,すでにワルド派やアルビ派のことが指摘されました。これらの派の人々は異端者として有罪宣告を受け,情け容赦なく弾圧されたものの,カトリックの僧職者の職権乱用問題に対する不満の気持ちを人々の内に起こさせ,聖書に戻りたいという願いを燃え立たせました。初期の幾人かの宗教改革者はそのような感情を吐露しました。
教会内部からの抗議
9 ジョン・ウィクリフとはだれですか。彼は何を戒めましたか。
9 しばしば「宗教改革の明星」と呼ばれたジョン・ウィクリフ(1330年?-1384年)はカトリックの司祭で,英国,オックスフォードの神学教授でした。彼は教会の職権乱用問題をよく知っていたので,修道会の腐敗,教皇庁による徴税,化体説に関する教理(ミサで使われるパンとぶどう酒が文字通りイエス・キリストの肉体と血に変化するという主張),告解,および現世の事柄に対する教会の関与などの問題に反対する考えを書き著わすと共に,そのような事柄を戒めました。
10 ウィクリフは聖書に対する専心のほどをどのように示しましたか。
10 聖書を教える点での教会の怠慢ということになると,ウィクリフはことさら率直な態度を取りました。彼は一度,「この国の各教区の教会に信頼できる聖書1冊と福音書の信頼できる解説書があって,司祭がそれらをよく調べ,福音書と神の命令とを人々に本当に教えてくれればよいのだが!」と言明したことがありました。ウィクリフはそのような目的で,晩年の何年間かはラテン語ウルガタ訳聖書の英訳の仕事に従事しました。そして,仲間の人々,特にヘレフォードのニコラスの助けを得て,英語の最初の全訳聖書を出版しました。それは確かに,神を探求する人類の歩みに対するウィクリフの最大の貢献でした。
11 (イ)ウィクリフの追随者は何を成し遂げることができましたか。(ロ)ロラード派はどうなりましたか。
11 ウィクリフの著作や聖書の一部は,しばしば“貧乏司祭”と呼ばれる伝道者たちの一団によって英国中で頒布されました。彼らがそのように呼ばれたのは,質素な衣服を着て,物質の持ち物を何も携えずに,はだしで行き巡ったためでした。彼らはまた,あざけりの気持ちを込めて,中期オランダ語のロラルト,つまり「祈り,もしくは賛歌を口ずさむ者」という意味のオランダ語に由来するロラード派と呼ばれました。(「ブルーワー語句・物語辞典」)「ロラード派」という本は,「数年のうちに,その人数は相当の数になった。この国民の少なくとも4分の1は実際に,もしくは名目上であれ,そのような感情に傾いていた」と述べています。もとより,このすべては教会に気づかれずには済みませんでした。ウィクリフは支配階級や学者階級の間で著名な人物でしたから,1384年の最後の日に平安のうちに亡くなることができましたが,その追随者はもっと不幸な目に遭いました。彼らは英国のヘンリー4世の治世中,異端者としてのらく印を押され,その多くは投獄され,拷問され,あるいは焼き殺されたりしました。
12 ヤン・フスとはだれですか。彼は何を戒めましたか。
12 ジョン・ウィクリフの強い影響を受けたのはボヘミア(チェコ)のヤン・フス(1369年?-1415年)でした。彼もまた,カトリック司祭で,プラハ大学の総長でした。ウィクリフと同様,フスもローマ教会の腐敗を戒め,聖書を読むことの重要性を強調しました。そのため,たちまち教階制当局の憤りを買いました。1403年に当局はウィクリフの反教皇思想を説くのをやめるようフスに命じ,同時にウィクリフの著わした本を公衆の前で焼きました。ところが,フスは免罪符aの売買を含め,教会の慣行を極めて痛烈に非難した著書を幾冊か書き続けました。そして,1410年に有罪宣告を受けて,破門されました。
13 (イ)フスは真の教会とは何であると教えましたか。(ロ)フスの不動の態度はどんな結果をもたらしましたか。
13 フスは聖書を支持する点で妥協せず,「誤っている教皇に反抗するのは,キリストに従うことである」と書きました。同時に,教皇やローマの既成の権力組織とは全く異なる真の教会は,「選ばれた人々すべての集まり,ならびにキリストの神秘的な体であり,その頭はキリストである。それはキリストの花嫁であり,キリストは大いなる愛ゆえにご自分の血をもって,その花嫁を請け戻されたのである」と説きました。(エフェソス 1:22,23; 5:25-27と比較してください。)このすべてのゆえに,フスはコンスタンツ公会議で審理され,異端者として有罪宣告を受けました。そして,「間違った生き方をするよりは,潔く死ぬほうが勝っている」と言明し,自分の主張を撤回しようとしなかったために,1415年に刑柱に付けられて焼き殺されました。同公会議はまた,すでに死んで,30年以上も埋められていたウィクリフの遺骨を,こともあろうに,掘り起こして焼くことをさえ命じたのです。
14 (イ)ジローラモ・サヴォナローラとはだれですか。(ロ)サヴォナローラは何をしようとしましたか。その結果,どうなりましたか。
14 もう一人の初期の宗教改革者は,イタリア,フィレンツェの聖マルコ修道院のドミニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498年)でした。イタリアのルネッサンスの精神にすっかり心を動かされたサヴォナローラは,堂々と意見を述べて,教会と国家双方の腐敗を戒めました。そして,聖書,それに自分に授けられたとされている幾つかの幻や啓示を根拠にして,一つのキリスト教国家,つまり神権秩序を樹立しようとしました。教皇は1497年に彼を破門しました。翌年,彼は逮捕され,拷問され,そして絞首刑に処せられました。彼は,「私の主は私の罪のために死んでくださいました。私はこの貧弱な命をその方のために喜んで捨てないのでしょうか」と言い残しました。そして,遺体は焼かれ,その灰はアルノ川に捨てられました。サヴォナローラはいみじくも,自分自身のことを「先駆者,ならびに犠牲」と呼びました。それからほんの数年後,突如,宗教改革がヨーロッパ中で本格的に始まりました。
分裂した家
15 西ヨーロッパのキリスト教世界は宗教改革運動によって,どのように分裂しましたか。
15 ついに,宗教改革の嵐が起きるに至って,西ヨーロッパのキリスト教世界の宗教上の家は粉砕されました。その家はローマ・カトリック教会によりほぼ完全に支配されていたので,今や分裂した家と化しました。南ヨーロッパ ― イタリア,スペイン,オーストリア,およびフランスの一部 ― は大方,カトリックとしてとどまりました。残りの地域は三つの主要な部分に分かれました。つまり,ドイツとスカンディナビアはルター(ルーテル)派,スイス,オランダ,スコットランド,およびフランスの一部はカルバン派(もしくは,改革派),そして英国は国教会派でした。それらの中に,より少数ながら,より急進的な集団が散在しました。最初のものは再洗礼派で,後にメノー派,フッター派,および清教徒が現われ,清教徒はやがて自分たちの信条を北アメリカに持ち込みました。
16 キリスト教世界の家は結局,どうなりましたか。(マルコ 3:25)
16 何年間かたつうちに,これらの主要な区分はさらに細分されて,今日の幾百もの教派ができました。ほんの数例を挙げれば,長老派,監督派,メソジスト派,バプテスト派,および会衆派などがあります。キリスト教世界は確かに分裂した家と化しました。どうしてこのように分裂したのでしょうか。
ルターとその提題
17 プロテスタントによる宗教改革の正式の出発点を示すとすれば,それはいつであると考えられるでしょうか。
17 プロテスタントによる宗教改革の決定的な出発点を示すとすれば,それはアウグスティノ修道会士マルティン・ルター(1483-1546年)が95か条の提題を記したものをドイツ,ザクセン州,ウィッテンベルクの城教会の扉にくぎで打ち付けた1517年10月31日ということになるでしょう。しかし,何に動かされて,この劇的な出来事が起きたのでしょうか。マルティン・ルターとはだれですか。また,彼は何に抗議しましたか。
18 (イ)マルティン・ルターとはだれですか。(ロ)ルターは何に動かされてその提題を出しましたか。
18 マルティン・ルターは彼よりも前のウィクリフやフスと同様,修道士で,学者でした。彼もまた,神学博士で,ウィッテンベルク大学の聖書学教授でした。ルターは聖書に対する洞察の深さゆえにかなり名を上げました。そして,業,もしくは悔悛ではなく,信仰による救い,または義認という論題に関して強硬な意見を抱いていましたが,ローマ教会との関係を断つことは少しも考えていませんでした。実際,彼が提題を出したのは,ある特定の出来事に対する反応としてであって,計画的な反抗ではありませんでした。つまり,免罪符の売買に抗議していたのです。
19 ルターの時代には,免罪符はどのように利用されましたか。
19 ルターの時代には,教皇の免罪符は生きている人々だけでなく,死者のためにも公然と売られていました。「硬貨が賽銭箱に入れられて響きを立てると,魂は直ちに煉獄から飛び立つ」というのが当時の世間の言い習わしでした。普通の人々にとって,免罪符はどんな罪を犯しても罰を免れるための保険証書同然のものとなり,悔い改めは影をひそめました。「どこでも煉獄の責め苦の赦しが売られている。売られているばかりか,拒む者には強制されている」と,エラスムスは書きました。
20 (イ)ヨハン・テッツェルはなぜユーテルボークへ赴きましたか。(ロ)テッツェルが免罪符を販売したことに対して,ルターはどんな反応を示しましたか。
20 1517年に,ドミニコ托鉢修道会の修道士ヨハン・テッツェルは,免罪符を売るために,ウィッテンベルクの近くのユーテルボークへ赴きました。こうして得たお金の一部は,ローマのサン・ピエトロ大聖堂再建の資金に充てられることになっており,またブランデンブルク家のアルブレヒトがマインツの大司教の地位を得るため,ローマ教皇庁に支払うのに借りたお金の返済を助けるためにも使われることになっていました。テッツェルは持ち前の販売技術すべてを駆使したので,人々は彼のところに群れをなして集まりました。憤ったルターは,まるでサーカスもどきのそのやり方全体に関する自分の見解を公表するのに使える最も手っ取り早い手段として,95項目の問題点を記したものを教会の扉にくぎ付けにしました。
21 ルターは免罪符の売買に反対して,どんな論議を行ないましたか。
21 ルターはその95か条の提題を「免罪符の効用の説明に対する反論」と呼びました。彼の目的は教皇の免罪符の売買の行き過ぎや職権乱用を指摘する点に関して,教会の権威にそれほど厳しく挑戦することではありませんでした。このことは次のような提題からも理解できます。
「5. 教皇には自らの権威によって科した処罰以外,いかなる処罰といえども,これを赦免する意志も力もない。……
20. それゆえ,教皇がすべての処罰の全赦免についてうんぬんする場合,実際には,それはすべての処罰を意味しているのではなく,ただ教皇自身の科した処罰のみを意味しているのである。……
36. 真の悔恨の情を抱いているクリスチャンはすべて,たとえ贖宥状がなくとも,刑罰や罪科の正当な全赦免にあずかれる」。
22 (イ)ルターの音信が広まるにつれて,どんな事態が生じましたか。(ロ)1520年にはルターの関係したどんな事柄が起きましたか。その結果,どうなりましたか。
22 発明されてまだ日の浅い印刷機の助けで,激しい議論を呼んだ,この考えは,日ならずしてドイツの他の地方に,そしてローマにも伝わりました。免罪符の売買に関する学問的な議論として始まったこの事件は,やがて信仰や教皇権の問題を巡る論争と化しました。最初,ローマ教会側はルターと討論を行ない,その主張を撤回するよう命じました。ルターが撤回を拒むと,教会と政府当局はいずれも彼に圧力を加えました。1520年に教皇はルターの説教を禁ずる大勅書,つまり勅令を出し,ルターの著書を焼き捨てるよう命じました。この命令を無視したルターは,教皇の大勅書を公衆の面前で焼きました。教皇は1521年にルターを破門しました。
23 (イ)ウォルムス議会とはどんな議会でしたか。(ロ)ルターはウォルムスで自分の見解をどのように述べましたか。その結果,どうなりましたか。
23 同年の後日,ルターはウォルムスで開かれた議会,もしくは会議に召喚されました。ルターは神聖ローマ帝国の皇帝,筋金入りのカトリック教徒カール5世,ならびにドイツ諸州の6人の選帝侯,および宗教界や俗界の他の指導者や高官たちにより審理されました。自分の主張を撤回するよう再び圧力をかけられたルターは,次のような有名な言葉を述べました。「聖書と明白な道理によって納得させられない限り……私は何事も取り消すことはできませんし,またそうするつもりもありません。良心に逆らうのは,正しいことでも,安全なことでもないからです。神が私を助けてくださいますように。アーメン」。その結果として,彼は皇帝から法益被剥奪者と宣せられました。しかし,彼は自分の属していたドイツ州の支配者,ザクセンの選帝侯フリードリッヒに助けられ,ワルトブルク城にかくまわれました。
24 ルターはワルトブルク城にいた間に何を成し遂げましたか。
24 しかし,以上の処置もルターの考えが広まるのを阻止する手だてとはなりませんでした。ルターはワルトブルクで安全に守られていた10か月の間に,執筆と聖書翻訳に専念し,エラスムスのギリシャ語本文からギリシャ語聖書をドイツ語に翻訳しました。ヘブライ語聖書は後に翻訳されました。ルターの聖書は一般の人々がまさに必要としていたもので,「2か月間で5,000部売れ,12年間で20万部売れた」と伝えられています。その聖書がドイツ語とドイツ文化に及ぼした影響は,しばしばジェームズ王欽定訳聖書が英語に及ぼしたそれと比較されます。
25 (イ)プロテスタントという名称はどのようにして造り出されましたか。(ロ)アウグスブルク信仰告白とは何ですか。
25 ウォルムス議会以後の何年かの間に,宗教改革運動は一般の人々から非常な支持を得たため,1526年に皇帝はドイツの各州に独自の形態の宗教としてルター派,もしくはローマ・カトリックのいずれかを自由に選択する権利を認めました。しかし1529年に皇帝がその決定を翻したため,一部のドイツ諸侯が抗議しました。それで,宗教改革運動を表わすプロテスタント(抗議者)という名称が造り出されました。翌1530年にアウグスブルク議会で,皇帝は当事者双方の意見の相違を改善する努力を払いました。ルター派は自分たちの信条を文書にして,つまりルターの教えに基づき,フィリップ・メランヒトンが作成したアウグスブルク信仰告白として提出しました。その文書は極めて融和的な論調で記されていたにもかかわらず,ローマ・カトリック教会がそれを退けたため,プロテスタント主義とカトリック主義との間の亀裂は修復不能なものになりました。ドイツの多くの州がルターの側に付き,スカンディナビアの諸州もそれに倣いました。
改革,それとも反抗?
26 ルターによれば,プロテスタント主義とカトリック主義とが分かれた理由とされる基本的な問題点は何でしたか。
26 プロテスタントとカトリック教徒が分かれた理由とされる基本的な問題点は何でしたか。ルターによれば,三つありました。第一に,救いは「信仰のみによって得られる義認」(ラテン語,ソラ・フィデ)b の結果であり,司祭による赦免,もしくは悔悛の業によるものではない,とルターは信じていました。第二に,許しはひとえに神の恩寵ゆえに(ソラ・グラティア)与えられるのであって,司祭,もしくは教皇の権威によるものではないと説きました。最後に,教理上の事柄はすべて,ただ聖書によってのみ(ソラ・スクリプトゥラ)確証されるべきであって,教皇,もしくは教会会議によってそうされるべきものではない,とルターは主張しました。
27 (イ)プロテスタントはカトリックの非聖書的などんな教えや慣行を保持しましたか。(ロ)プロテスタントはどんな変更を要求しましたか。
27 それにもかかわらず,「カトリック百科事典」によれば,ルターは,「罪や義認に関する彼の特異な見解に合わせ得る限り,古来の信条や典礼をできるだけ多く保持し」ました。アウグスブルク信仰告白は,ルター派の信仰に関して,「聖書,またはカトリック教会,もしくは著述家たちから知られる教会に関する限り,ローマ教会とさえ相いれない事柄は何もない」と述べています。実際,アウグスブルク信仰告白の中で要約されているルター派の信仰には,三位一体,不滅の魂,永遠の責め苦などの非聖書的な教理,それに幼児洗礼や教会の祝祭日などの慣行も含まれていました。一方,ルター派は,聖餐式で人々がぶどう酒とパンの両方を受けられるようにすること,ならびに独身制,修道誓願,および強制的な告解の廃止などのある種の変更を要求しました。c
28 宗教改革はどんな点で成功しましたか。しかし,どんな点では失敗しましたか。
28 ルターやその追随者の唱道した宗教改革は全体として教皇のくびきから離れることに成功しました。とはいえ,イエスがヨハネ 4章24節で述べておられるように,「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」。マルティン・ルターが現われたとはいえ,まことの神を探求する人類の歩みは単に新たな転機を迎えたにすぎないと言うことができます。真理の狭い道が見いだされるのは,なお遠い将来のことでした。―マタイ 7:13,14。ヨハネ 8:31,32。
スイスにおけるツウィングリによる宗教改革
29 (イ)ウルリヒ・ツウィングリとはだれですか。彼は何を戒めましたか。(ロ)ツウィングリの進めた宗教改革はルターのそれとどのように異なっていましたか。
29 ルターがドイツで教皇使節団や行政当局者との戦いに忙殺されていたころ,スイスのチューリヒではカトリックの司祭ウルリヒ・ツウィングリ(1484-1531年)が宗教改革運動を開始しました。その地域ではドイツ語が使われていたので,人々はすでに北部からの宗教改革の気運の影響を受けていました。1519年ごろ,ツウィングリはカトリック教会の免罪符,聖母マリア崇敬,聖職者の独身制,その他の教理を戒めるようになりました。ツウィングリはルターとは別個の独立した立場を主張していましたが,多くの分野でルターと意見の一致を見,ルターの著わした冊子を国中で頒布しました。しかし,より保守的なルターとは対照的に,ツウィングリは像,十字架像,僧服,礼拝音楽などのローマ教会のこん跡をすべて一掃することを唱道しました。
30 ツウィングリとルターの関係を裂く原因となった主要な問題は何でしたか。
30 しかし,この二人の宗教改革者の間には聖体拝領,つまりミサ(聖餐式)の問題を巡る,さらに重大な論争がありました。『これはわたしの体である』と述べたイエスの言葉を文字通りに解釈すべきであると主張したルターは,聖餐式で出されるパンとぶどう酒にはキリストの体と血が奇跡的に含まれていると信じていました。一方,ツウィングリは自分の書いた,「主の夕食」という論文の中で,イエスのその言葉は「比喩的,つまり隠喩的な意味に解さなければならない。『これはわたしの体である』とは,『このパンはわたしの体を表わしている』,もしくは『わたしの体の表象である』という意味である」と論じました。このような意見の相違のために,この二人の宗教改革者はたもとを分かつことになりました。
31 スイスでのツウィングリの業は結局どうなりましたか。
31 ツウィングリは引き続きチューリヒで宗教改革の信条を説き,同市で多くの変革を成し遂げました。やがて他の諸都市も彼の指導に従いましたが,田舎の地方の大半の人々はもっと保守的だったので,カトリック主義を固守しました。これら二派の争いはあまりにも大きくなったため,スイスのプロテスタントとローマ・カトリックとの間で内乱が勃発しました。従軍牧師を務めたツウィングリは,1531年にツーク湖の近くのカッペルの戦いで戦死しました。最後に平和が訪れた時,各々の地域にはプロテスタントかカトリックのいずれかを独自の宗教として選択する権利が与えられました。
再洗礼派,メノー派,およびフッター派
32 再洗礼派とはどんな分派でしたか。どうしてそのような名称を得ましたか。
32 しかしプロテスタントの中には,宗教改革者たちは教皇制を礼賛するカトリック教会の欠点とのかかわりを十分断ち切るまでに至っていないと感ずる人々がいました。それらの人々は,キリスト教の教会は地域共同体,もしくは一国の人々すべてではなく,バプテスマを受けて教会員として活動している忠実な信者だけで構成されていなければならないと考えました。ですから,幼児洗礼を退け,教会と国家の分離を主張しました。そして,仲間の信者にひそかに再び洗礼を施したので,再洗礼派<アナバプテスト>(“アナ”とはギリシャ語で「再び」の意)という名称を得ました。この派の人々は兵役に服したり,宣誓したり,あるいは公職に就いたりすることを拒んだため,社会にとって脅威的な存在とみなされ,カトリック教徒からもプロテスタントからも迫害を受けました。
33 (イ)再洗礼派に対する暴力行為は何により引き起こされましたか。(ロ)再洗礼派の影響はどのように広がりましたか。
33 最初,再洗礼派の人々はスイス,ドイツ,およびオランダなどの各地に散在して,小さなグループを作って生活していました。彼らが自分たちの信ずることをどこでも宣べ伝えるにつれて,その成員の数は急速に増えました。宗教的な情熱にすっかり心を動かされた再洗礼派の人々の一隊は平和主義をかなぐり捨てて,1534年にミュンスター市を攻略し,その都市を一夫多妻制共同体の新しいエルサレムにしようとしました。この運動は大変な暴力行為をもってたちまち阻止され,そのために再洗礼派は不評を買い,事実上根絶されてしまいました。再洗礼派の大半の人々は実際は,孤立した静かな生活をしようとする信心深い質素な人たちでした。再洗礼派の子孫で,もっとよく組織された人々の中には,オランダの宗教改革者メノー・シモンズの追随者であるメノー派の人々やチロル人ヤーコブ・フッターに従ったフッター派の人々がいました。その一部の人々は迫害を逃れるため,東ヨーロッパ,つまりポーランドやハンガリーへ,果てはロシアにまで移住し,他の人々は北アメリカへ移住し,やがてそこでフッター派やアンマン派の共同体という形を取って現われました。
カルバン主義の出現
34 (イ)ジャン・カルバンとはだれですか。(ロ)彼はどんな重要な本を著わしましたか。
34 スイスにおける宗教改革の仕事は,フランスで学生時代にプロテスタントの教えに接したジャン・コーバン,もしくはジャン・カルバン(1509-1564年)の指導のもとで進展しました。1534年にカルバンは宗教上の迫害のゆえにパリを去り,スイスのバーゼルに落ち着きました。彼はプロテスタントを弁護するため,初期の教父や中世の神学者の思想,ならびにルターやツウィングリの思想を要約して著わした「キリスト教綱要」という本を出版しました。この著作は後にヨーロッパやアメリカで確立された改革派諸教会すべての教義上の土台とみなされるようになりました。
35 (イ)カルバンは自分の予定説についてどのように説明しましたか。(ロ)この教理の厳格さはカルバンの教えの他の面にどのように反映していましたか。
35 カルバンは同「綱要」の中で自分の神学を説きました。カルバンにとって神は絶対的な主権者で,その意志により万事が定められ,支配されています。それとは対照的に,堕落した人間は罪深い存在で,救いを受けるには全く値しません。ゆえに,救いは人間の善い業にではなく,神に依存しています。したがって,これはカルバンの予定説で,彼はその説について次のように書きました。
「神は永遠不変の計り事により,救いにあずかることを許される者と滅びに定められる者の双方を一度限り永遠に定めておられると我々は主張する。神に選ばれた人々に関する限り,この計り事は人間の功績には全く無関係で,神の無償の憐れみに基づいているが,神により有罪宣告を受けるままにされる者たちにとって,命の門は公正で,とがむべき所のない,しかも計り知れない裁きによって閉ざされている,と我々は断言する」。
このような教えの厳格さは,やはり他の分野にも反映されています。クリスチャンは単に罪を慎むだけでなく,快楽や軽薄な行為をも慎まなければならないとカルバンは主張しました。さらに,神によって選ばれた者たちで構成されている教会は,一般市民的制約をすべて免除されており,また教会を通して初めて本当に敬虔な社会を確立することができると論じました。
36 (イ)カルバンとファレルはジュネーブで何をしようとしましたか。(ロ)どんな厳格な規定が定められましたか。(ハ)カルバンの極端な処置のためにもたらされた悪名高い結果の一つを挙げてください。彼は自分の行動をどのように正当化しましたか。
36 カルバンはその「綱要」を出版して間もなく,フランス出身のもう一人の宗教改革者ウィリアム・ファレルから,ジュネーブに落ち着くよう説得されました。二人はカルバン主義を実践するために一緒に働きました。この二人の目標はジュネーブを神の都,つまり教会と国家の機能を組み合わせた,神の支配による神権政体に変えることでした。彼らは宗教上の教えや教会の礼拝をはじめ,公共道徳,および衛生や火災防止などの問題をさえ含めたあらゆる事柄を扱う,制裁処置を伴う,厳格な規定を定めました。ある歴史の教科書は,「例えば,ある美容師は花嫁の髪を下品な格好と思える形に整えたかどで二日間投獄され,その髪の結い方を手伝った母親と二人の女友だちも同じ処罰を受けた。ダンスやトランプ遊びをした者たちもやはり行政長官により処罰された」と伝えています。神学上の事柄でカルバンと意見を異にした人々には残忍な処置が講じられました。最も悪名高いのは,火あぶりの刑に処せられたスペイン人ミゲル・セルベト,もしくはミカエル・セルウェトゥスの例です。―322ページの囲み記事をご覧ください。
37 カルバンの影響はスイスの国境をはるかに越えてどれほど広範囲に及びましたか。
37 カルバンは1564年に亡くなるまで,ジュネーブで彼独自の宗教改革を実施し,改革派教会が確立されました。他の土地で迫害を逃れたプロテスタントの宗教改革者たちは,ジュネーブに群れをなして集まり,カルバンの思想を受け入れ,やがてそれぞれの故国で宗教改革運動を開始するよう力を貸しました。カルバン主義はやがて,ユグノー派(フランスのカルバン派プロテスタントはそう呼ばれていた)がカトリック教徒によりひどい迫害を受けていたフランスに広まりました。カルバン派の人々はオランダではオランダ改革派教会を確立するのを助けました。スコットランドでは,前カトリック司祭ジョン・ノックスの熱心な指導のもとで,スコットランド長老派教会がカルバン主義の方針に沿って確立されました。カルバン主義はまた,英国の宗教改革でも一役演じ,さらにそこから清教徒と共に北アメリカに伝わりました。このような意味で,ルターはプロテスタントによる宗教改革運動を開始させましたが,カルバンはその運動の発展に前者よりもはるかに大きな影響を及ぼしました。
英国における宗教改革
38 英国のプロテスタント精神はジョン・ウィクリフの働きによってどのように生まれましたか。
38 ドイツやスイスの宗教改革運動とはかなり別個の性格のものである英国の宗教改革の根源は,ジョン・ウィクリフの時代までさかのぼれます。英国ではウィクリフが教権反対の見解を説き,聖書を重視した結果,プロテスタント精神が生まれました。聖書を英語に翻訳しようとしたウィクリフの努力に他の人々も従いました。英国から逃れていたウィリアム・ティンダルは1526年に,自ら翻訳した新約聖書を出版しました。彼は後にアントワープで裏切られ,杭に付けられて絞殺され,遺体は焼かれました。マイルズ・カバデールはティンダルの翻訳を完成させ,その全訳聖書は1535年に出されました。確かに,一般の人々の言語に訳された聖書を出版したことは,英国の宗教改革に寄与した単一の最も強力な要素でした。
39 ヘンリー8世は英国の宗教改革でどんな役割を演じましたか。
39 教皇から“信仰の擁護者”と呼ばれたヘンリー8世(1491-1547年)が,1534年に「国王至上法」を布告して,自ら英国国教会の首長となった時,ローマ・カトリック教会から正式に分離することになりました。ヘンリーはまた,各地の修道院を閉鎖して,僧院の地所を貴族に分譲しました。その上,すべての教会に英語の聖書を1冊備えることを命じました。しかし,ヘンリーの処置は宗教的性格と言うよりも政治的性格のものでした。彼が望んでいたのは,特に自分の結婚問題dに関連して教皇権からの独立を図ることでした。宗教的には,名称以外すべての点でカトリックの信仰を保ちました。
40 (イ)エリザベス1世の治世中に英国国教会ではどんな変化が生じましたか。(ロ)やがて,国教に反対するどんなグループが,英国,オランダ,および北アメリカに現われましたか。
40 英国国教会が機構上は大方カトリックのままでしたが,プロテスタントの慣行に準ずるようになったのは,エリザベス1世の長い治世(1558-1603年)中のことでした。同国教会は教皇に対する忠誠の義務,聖職者の独身制,告解,その他のカトリックの慣行を廃止しましたが,大主教および主教,それに修道士や修道女を有する教階制の監督派<エピスコパル>型の教会機構を保持しました。e そのような保守的な態度のために相当の不満が募るようになり,国教に反対する様々のグループが現われました。清教徒はローマ・カトリックの慣行すべてを排除して教会を清める,もっと徹底した改革を要求しました。分離派や独立派は,教会の事柄は地元の長老(司祭)たちにより管理されるべきであると主張しました。国教に反対する人々の多くはオランダや北アメリカに逃れて,そこでさらに自分たちの会衆派やバプテスト派の教会を発展させました。また,英国でも,ジョージ・フォックス(1624-1691年)の率いるフレンド会(クエーカー教徒)やジョン・ウェスレー(1703-1791年)の率いるメソジスト派が現われました。―下の図表をご覧ください。
どんな影響が及んだか
41 (イ)一部の学者の見解では,宗教改革は人類の歴史にどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)どんな疑問は真剣に考慮するのに値しますか。
41 これまでに,ルター派,カルバン派,および英国国教会派という宗教改革の三大主流について考慮してきたので,ここで少し立ち止まって,宗教改革により成し遂げられた事柄を評価してみなければなりません。宗教改革によって西洋の世界の歴史の流れが変えられたことは否定すべくもありません。ジョン・F・ハーストは自著,「宗教改革小史」の中で,「宗教改革の影響で,人々は自由,ならびにより高度で,より純粋な公民権を希求するよう向上することになった。プロテスタント主義が広まった所ではどこでも,一般大衆は一層自己主張をするようになった」と書いています。宗教改革がなければ,今日のいわゆる西洋文明はあり得なかったであろうと考える学者は少なくありません。それはともかく,宗教改革は宗教的には何を成し遂げたのだろうかと問わなければなりません。宗教改革はまことの神を探求する人類のために何をしましたか。
42 (イ)宗教改革によって,確かにどんな最大の益がもたらされましたか。(ロ)宗教改革によって本当に成し遂げられた事柄に関して,どんな疑問を提起しなければなりませんか。
42 確かに,宗教改革によって得られた最大の益は,一般民衆が聖書を自分たちの言語で読めるようになったことです。人々は初めて,神のみ言葉全体を目の前に置いて読み,自らを霊的に養えるようになりました。しかし,もちろん,聖書を単に読む以上のことが必要です。宗教改革によって単に教皇権からだけでなく,何世紀にもわたって人間が従わされてきた誤った教理や教義からも人々は自由にされましたか。―ヨハネ 8:32。
43 (イ)今日のプロテスタント諸教会のほとんどは,どんな信条に同意し,またどんな信仰を告白していますか。(ロ)宗教改革の結果としてもたらされた自由な精神や多様性は,まことの神を探求する人類のために何をするものとなってきましたか。
43 プロテスタント諸教会はほとんどすべて,同じ信条 ― ニケア信経,アタナシウス信経,および使徒信経 ― に同意しており,それらの信経は三位一体,不滅の魂,および地獄の火などの,ほかならぬカトリック教会が何世紀もの間教えてきた教理の幾つかに対する信仰を告白したものなのです。そのような非聖書的な教えのために,神とその目的に関する人々の心像はゆがめられてきました。プロテスタントによる宗教改革の自由な精神のもたらした結果として生じた数多くの分派や教派は,人々がまことの神を探求するのを助けるどころか,人々を多種多様な方向に向かわせてきたにすぎません。実際,そのような多様性と混乱のために,神の存在そのものをさえ疑問視するようになった人々が少なくありません。その結果ですか。19世紀には無神論や不可知論の気運が高まりました。次の章では,この論題を取り上げます。
[脚注]
a 教皇の発行した贖宥状。
b ルターは「信仰によってのみ得られる義認」という概念を強調するあまり,自ら行なった聖書翻訳のローマ 3章28節に「のみ」という言葉を付け加えました。彼はまた,『業のない信仰は死んだものです』という言葉のゆえにヤコブの書に疑惑を抱いていました。(ヤコブ 2:17,26)ルターは,パウロがローマ人への手紙の中でユダヤ人の律法の業について語っていたことを認識していませんでした。―ローマ 3:19,20,28。
c マルティン・ルターは1525年に,シトー修道会の修道院から逃亡していた前修道女カタリーナ・フォン・ボーラと結婚しました。二人は6人の子供をもうけました。ルターは,父親を喜ばせ,教皇と悪魔を苦しめ,そして殉教の死を遂げる前に自分の証しを確かなものにするためという三つの理由で結婚したと述べました。
d ヘンリー8世は妻を6人持ちました。教皇の意向に反して,最初の結婚は無効にされ,別の結婚は離婚に終わりました。彼は二人の妻を斬首刑に処させ,二人の妻は普通の死に方で亡くなりました。
e ギリシャ語のエピスコポスという言葉は,ジェームズ王欽定訳などの英語聖書では「主教」と訳されています。
[322ページの囲み記事/図版]
「三位一体の誤り」
法律と医学を学んだスペイン人ミカエル・セルウェトゥス(1511-1553年)は20歳で,「三位一体の誤り」という本を出版し,その中で,自分としては,「聖書に出ておらず,哲学的誤りを永続させるにすぎないような三位一体という言葉を利用することはしない」と述べ,三位一体の教理は,「理解することができず,物事の性質上あり得ない事柄であり,また実際,冒涜的な事柄とさえみなせる」として公然と非難しました。
セルウェトゥスはきたんなく語ったために,カトリック教会により有罪宣告を受けました。しかし,彼を逮捕し,裁判にかけさせ,人を徐々に焼く火あぶりの刑に処させたのは,カルバン派の人々でした。カルバンは次のように述べて自分の行動を正当化しました。「教皇礼賛者たちが自分たちの迷信を守るのに非常に過酷で暴力的であるため,ひどく憤るあまり無実な者の血を流す以上,クリスチャンである行政長官たちが確かな真理を守るために,それほどの熱烈さを示さないのは恥ずべきことではないか」。カルバンは宗教的狂信と個人的な憎しみのために判断力を失い,キリスト教の原則をうやむやに葬りました。―マタイ 5:44と比較してください。
[図版]
ミカエル・セルウェトゥス(右)を異端者として焼き殺させたジャン・カルバン(左)
[327ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
キリスト教世界の主要な宗教組織を簡単に示した図表
背教の始まり-2世紀
ローマ・カトリック教会
4世紀 (コンスタンティヌス)
5世紀 コプト派
ヤコブ派
西暦1054年 東方正教会
ロシア正教
ギリシャ正教
ルーマニア正教その他
16世紀 宗教改革
ルター派
ドイツ
スウェーデン
アメリカその他
英国国教会派
監督派
メソジスト派
救世軍
バプテスト派
ペンテコステ派
会衆派
カルバン主義
長老派
改革派諸教会
[307ページの図版]
両替人を退けるキリストと免罪符の売買を行なう教皇とを対照的に示した16世紀の木版画
[311ページの図版]
刑柱に付けられたヤン・フス
英国の宗教改革者,ならびに聖書翻訳者ジョン・ウィクリフ
[314ページの図版]
マルティン・ルター(右)は托鉢修道会の修道士ヨハン・テッツェルによる免罪符の売買に抗議しました
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現代の不信 ― 引き続き探求してゆくべきですか神を探求する人類の歩み
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14章
現代の不信 ― 引き続き探求してゆくべきですか
「人間にとって神はもはや常に考慮される事柄ではなくなった。人間が日常の営みを続けたり,決定をしたりする際に神を思い起こすことはますます少なくなった。……神は収入や生産性などの他の価値観で置き換えられてきた。神はかつて人間のあらゆる活動の意義の源とされていたかもしれないが,今日では,歴史の秘密の地下牢に葬られてしまった」―「現代の無神論の源」。
1 (紹介の言葉も含める。)(イ)「現代の無神論の源」という本の中で,今日の人々に見られる神に対する信仰はどのように説明されていますか。(ロ)現代の不信はさほど遠くない昔の状況とどのように鋭い対照をなしていますか。
西洋世界の人々の生活の中で神がたいへん肝要な要素となっていた時代は,さほど遠い昔のことではありません。たとえすべての人が自分が信じていると公言することをまじめに実践していなかったとしても,社会的に受け入れられるには,神を信じているという証拠を示さなければなりませんでした。疑念や不安感は何であれ,慎重に心のうちに秘めておかれました。そのようなことを公然と表明するのはけしからぬことで,そうしようものなら激しい非難を招いたでしょう。
2 (イ)多くの人々は神を探求するのをなぜやめましたか。(ロ)どんな疑問を提起せざるを得ませんか。
2 しかし今日,形勢は逆転しました。何らかの宗教的な強い確信を持つことを狭量で,独断的で,狂信的なこととさえ見る向きが少なくありません。神や宗教に対する無関心,つまり関心の欠けた態度が幅をきかせている国は少なくありません。大抵の人は神の存在を信じていないため,あるいはその存在が分からないため,もはや神を探求しようとはしません。実際,「キリスト教時代以後」という用語を使って現代のことを表わす人々もいます。ですから,次のように問わざるを得ません。神に関する考えがどのようにして人々の生活からすっかり遠ざけられてしまったのでしょうか。どんな力の影響で,このような変化が生じたのでしょうか。神を探求し続けるべき確かな理由がありますか。
宗教改革の反動
3 プロテスタントによる宗教改革のもたらした一つの結果は何でしたか。
3 13章で述べたように,16世紀のプロテスタントによる宗教改革は宗教上の権威,あるいはその他の権威に対する人々の見方に著しい変化をもたらしました。自己主張や表現の自由が順応や服従に取って代わりました。大抵の人々は伝統的な宗教の枠内にとどまりましたが,一部の人々はより急進的な政策にそって運動し,既成の諸教会の教義や基本的な教えに異議を唱えました。さらに,他の人々は宗教が歴史を通じて戦争や苦難や不公正に関連して演じた役割に注目し,総じて宗教に懐疑的な態度を取るようになりました。
4 (イ)同時代の記録は十六,七世紀の英国やフランスで無神論がどの程度広がっていたかについてどのように述べていましたか。(ロ)宗教改革が進められた間,教皇のくびきを排除する努力が払われた結果,だれが広く世に知られるようになりましたか。
4 早くも1572年に,「英国の現状に関する論文」と題する報告はこう述べています。「その領域は教皇礼賛者,無神論者,およびプロテスタントという三派に分かれており,これら三者はすべて一様に好感を持たれている。第一と第二の派は人が多いゆえに,我々はあえて彼らに不快な思いをさせたいとは思わない」。他の推定によれば,1623年のパリの無神論者の人数は5万人でした。もっとも,無神論者という言葉はかなり漠然とした意味で使われていました。いずれにしても,宗教改革により教皇権による支配を排除しようとする努力が払われると共に,既成の諸宗教団体の地位に挑戦した人々が明らかに広く世に知られるようになりました。ウィル・デュラントおよびエイリエル・デュラントが「文明物語: 第7部 ― 理性の時代が始まる」の中で,「ヨーロッパの思想家 ― ヨーロッパ人の先鋒 ― はもはや教皇の権威について論じていたのではない。神の存在について論議していたのである」と述べているとおりです。
科学や哲学による攻撃
5 どんな勢力が神に対する不信を急速に引き起こさせるものとなりましたか。
5 キリスト教世界それ自体の分解が進んだほかに,同世界の地位をさらに弱めるように働いた他の勢力もありました。科学,哲学,世俗主義,および唯物主義は,疑念を起こさせ,神や宗教に関する懐疑の念を募らせる役割を演じました。
6 (イ)科学的な知識が広がるにつれて,教会の多くの教えはどのような影響を受けましたか。(ロ)自分は最新の情報に通じていると思い込んだ人々の中には,何をした者もいましたか。
6 科学的な知識が広がるにつれて,聖書の章句の誤った解釈に基づく教会の多くの教えに疑いが差し挟まれるようになりました。例えば,コペルニクスやガリレオのような人々による天文学上の発見により,地球は宇宙の中心であるという教会の天動説はまともに挑戦を受けるようになりました。その上,物質界の営みを律する自然法則を理解することにより,雷鳴や稲妻などのそれまでの不思議な現象,あるいはある種の恒星やすい星の出現さえ神のみ手,もしくは神慮によるものとする必要がもはやなくなりました。人間社会の営みにおける“奇跡”や“神の介入”もやはり疑われるようになりました。神や宗教は突如,多くの人々にとって時代遅れの代物に思えるようになり,自分は最新の情報に通じていると思い込んだ人々の中には,たちまち神に背を向け,群がって科学を神聖視する崇拝を行なうようになった者もいます。
7 (イ)宗教にとって確かに何が最も重大な打撃となりましたか。(ロ)諸教会はダーウィン主義に対してどんな反応を示しましたか。
7 宗教にとって最も重大な打撃となったのは確かに進化論でした。英国の博物学者チャールズ・ダーウィン(1809-1882年)は1859年に「種の起源」を発表し,神による創造という聖書の教えに真っ向から挑戦しました。諸教会はどんな反応を示しましたか。最初,英国や他の国の僧職者はこの理論を公然と非難しました。しかし,反対はやがて消滅しました。ダーウィンの推測は,ひそかに疑念を抱いていた多くの僧職者の求めていた,うってつけの言い訳となりました。ですから,「宗教百科事典」によれば,ダーウィンの生涯中に,「自分の意見をはっきり言える,極めて考え深い僧職者は苦労したあげく,進化論と啓発された聖書理解とは完全に両立できるという結論に達し」ました。キリスト教世界は聖書を弁護する側に立つどころか,科学的な意見の圧力に屈して,人気のある考えに同調しました。そうすることによって,神に対する信仰を徐々に弱めさせました。―テモテ第二 4:3,4。
8 (イ)19世紀の宗教批評家は何に疑いを差し挟みましたか。(ロ)宗教批評家はどんな人気のある見解を提唱しましたか。(ハ)多くの人々が反宗教的な考えをいち早く受け入れたのはなぜですか。
8 19世紀が経過するにつれて,宗教批評家は一層大胆に攻撃するようになりました。そして,単に諸教会の失敗を指摘するだけでは満足せず,宗教の基盤をさえ疑問視するようになり,神とは何か,神が必要なのはなぜか,神に対する信仰はどのように人間社会に影響を及ぼしてきたかなどの疑問を提起しました。ルートウィッヒ・フォイエルバハ,カール・マルクス,ジグムント・フロイト,およびフリードリヒ・ニーチェのような人々は,哲学的,心理学的,および社会学的用語を使って自分たちの論議を行ないました。『神は人間が想像力を駆使して描き出したものにほかならない』,『宗教は人民のアヘンである』,あるいは『神は死んだ』というような見解はすべて,諸教会の無味乾燥で分かりにくい教義や伝統と比べて非常に斬新で,極めて興味深いもののように聞こえました。多くの人々はついに,心の奥に潜んでいた疑問や疑念をはっきり表現する方法を見いだしたように感じて,いち早く,また喜んでそれらの考えを新しい福音的真理として受け入れました。
重大な妥協
9 (イ)科学や哲学による攻撃を受けた諸教会は何をしましたか。(ロ)諸教会が妥協した結果,どうなりましたか。
9 科学や哲学による攻撃や精査を受けた諸教会は何をしましたか。聖書の教える事柄を支持する立場を取る代わりに,圧力に屈して,神による創造や聖書の信ぴょう性というような基本的な信仰箇条に関してさえ妥協しました。結果ですか。キリスト教世界の諸教会は信用を失い始め,多くの人々が信仰を失うようになりました。諸教会が自らを弁護する側に回らなかったため,扉は大きく開かれて,一般大衆は立ち去って行きました。多くの人々にとって,宗教は社会学的な遺物,つまり人生の主要な事柄 ― 誕生,結婚,死 ― をしるし付けるものにすぎなくなりました。多くの人はまことの神を探求するのをほとんどやめてしまいました。
10 どんな緊急な疑問を考慮しなければなりませんか。
10 このすべてを前にして,次のように問うのは筋の通ったことです。科学や哲学は本当に神に対する信仰の死亡証明書の署名同然のものとなりましたか。諸教会の失敗は,教会が教えていると唱えているもの,すなわち聖書が失敗作であることを意味していますか。実際,神を引き続き探求してゆくべきでしょうか。これらの問題を簡単に調べてみましょう。
神に対する信仰の根拠
11 (イ)どんな2冊の本が長い間,神に対する信仰の根拠となってきましたか。(ロ)これらの本はどのように人々に影響を及ぼしてきましたか。
11 神の存在について教えている2冊の本があると言われています。それは創造物,つまりわたしたちの周囲の自然という“本”と,聖書です。それは過去および現在の何億もの人々にとって信仰の根拠となってきました。例えば,たくさんの星のある天を観察して感銘を受けた,西暦前11世紀のある王は,次のような詩の形で,「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げている」と叫びました。(詩編 19:1)月の周囲を飛行した宇宙船から地球の劇的な光景を眺めた,20世紀の一宇宙飛行士は,「初めに神 天地を創造したまえり」という言葉を引用するよう心を動かされました。―創世記 1:1,欽定。
12 創造物という本と聖書はどのように攻撃されてきましたか。
12 しかし,これらの2冊の本は,神の存在を信じていないと主張する人々から攻撃されています。そのような人々は,わたしたちの周囲の世界を科学的に調査した結果,生物は知的な創造によってではなく,全くの偶然や計画性のない進化の過程によって存在するようになったことが証明されたと言います。そして,それゆえに,創造者はいなかったし,また当然,神という問題は余計なことだと論じます。その上,そのような人々の多くは,聖書は実際,時代遅れで,不合理で,したがって,信仰を持つに値しない本だと考えています。その結果,彼らには,神の存在に対する信仰のための根拠はもはや一つもありません。このすべては真実ですか。事実は何を示していますか。
偶然,それとも設計によるもの?
13 生物が偶然に生じたというのであれば,何が起きなければならなかったはずですか。
13 もし,創造者がいなかったとしたら,生物は偶然に,しかも自然に発生したに違いないということになります。生物が生じたというのであれば,ともかく種々の適当な化学物質が適当な温度・圧力その他の制御要素のもとで,適当量一緒になっていたはずですし,そのすべては適正な長さの期間保たれていたはずです。その上,生物が存在し始め,地上で養われていたというのであれば,それらの偶然の出来事が何万回となく繰り返されていたはずです。しかし,そのような出来事の一つでさえ起きる可能性はどれほどあるでしょうか。
14 (イ)たった一個の単純な蛋白質分子が偶然に形成される確率はどれほど微小ですか。(ロ)数学的な計算は生物が自然に生じたという考えにどのように影響を及ぼしますか。
14 適当な原子や分子がたった一個の単純な蛋白質分子を形成する場所に落ちる確率は10113(1の後に0を113個並べた数)分の1になることを進化論者は認めています。この数は実に,宇宙の原子の推定総合計よりも大きな数なのです。数学者は,何であれ,1050分の1以下の確率で起きるとされる事柄は決して起きない事柄として片づけます。しかし生物には,たった一つの蛋白質分子よりもはるかに多くのものが必要です。ただ一つの細胞が活動を維持するのに,およそ2,000個の異なった蛋白質が必要ですから,そのすべてが無作為に生ずる見込みは,実に1040,000分の1となります。天文学者フレッド・ホイルは,「もし人が社会的な信条か科学的な教育のいずれかにより偏見を持たされて,生物は[自然に]生じたのだという信念を抱いているのでなければ,この単純な計算により,その考えは問題外の事柄として完全に一掃される」と述べています。
15 (イ)科学者は物質の世界を研究して何を発見しましたか。(ロ)ある物理学教授は自然界の法則について何と述べましたか。
15 一方,科学者は原子以下の極微な粒子から膨大な星雲に至るまで,物質の世界を研究して,既知の自然現象はすべて,ある基本的な法則に従っているらしいということを知りました。言い換えれば,すべて宇宙で起きている事柄には論理と秩序があることを科学者は発見しており,その論理と秩序を簡単な数学用語で表わすことができるようになりました。物理学教授ポール・デービスはニュー・サイエンティスト誌の中で,「それらの法則のおよそ不合理なまでの単純さ,および優雅さに感動を覚えない科学者はほとんどいない」と書いています。
16 (イ)自然の法則の基本的な定数とは何ですか。(ロ)もし,そのような定数の値がほんのわずかだけ変化したならば,どうなったでしょうか。(ハ)ある物理学教授は宇宙や人間の存在について何と結論しましたか。
16 しかし,それらの法則に関する甚だ興味をそそる事実は,それらの法則には種々の要素があって,わたしたちの知っている宇宙が存在するためには,それらの要素の値が精確に定められなければならないということです。そのような基本的な定数の中には,陽子の電荷の単位,ある種の基本的な粒子の質量,および普通,Gというローマ字で表わされるニュートンの万有引力定数があります。このことについて,デービス教授はさらにこう続けています。「それらの要素のあるものの値がほんのわずか変動するだけで,宇宙の有様には徹底的な変化が生ずるであろう。例えば,フリーマン・ダイソンは,もし核子(陽子と中性子)の間の力がほんの数パーセント強かったならば,宇宙には酸素がなかったであろうと指摘した。水は言うに及ばず,太陽のような恒星も存在できなかったであろう。少なくとも我々の知っている生物は存在することができなかったであろう。ブランドン・カーターは,Gの中でごくわずかな変化が生じても,恒星は皆,青色巨星,もしくは赤色矮星と化してしまい,生物にも等しく凄まじい結果の生ずる恐れがあることを示した」。ですから,デービスは次のように結論しています。「この場合には,宇宙はただ一つしかあり得ないのかもしれないと考えられる。もしそうであれば,我々が意識のある人間として存在していること自体,論理の必然的な結果であるというのは,注目すべき考え方である」。―下線は本書。
17 (イ)宇宙に見られる設計や目的は明らかに何を示唆していますか。(ロ)それは聖書の中でどのように確証されていますか。
17 このすべてからどんなことを推論できますか。まず第一に,もし宇宙が法則によって支配されているのなら,法則を考案,もしくは制定した,理知のある立法者が存在するに違いありません。その上,宇宙の作用を支配する法則は生物と生物を養うのに都合の良い状態を見越して作られていると考えられるゆえに,明らかに目的が関係しています。設計や目的 ― これは全くの偶然の特徴ではありません。それはまさしく理知ある創造者が表明なさるものでしょう。そして,それこそ聖書が次のように言明して,示唆している事柄なのです。「神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。というのは,神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからで(す)」― ローマ 1:19,20。イザヤ 45:18。エレミヤ 10:12。
わたしたちの周囲にある豊富な証拠
18 (イ)ほかのどんなものにも設計や目的のあることが分かりますか。(ロ)知的な設計を示す,どんななじみ深い実例を挙げることができますか。
18 もちろん,設計や目的は単に宇宙の秩序整然とした営みだけでなく,単純なものであれ,複雑なものであれ,生物が日常の活動を続ける仕方,ならびに生物間の,また生物と環境との相互作用にも見られます。例えば,人体のほとんどすべての部位 ― 脳,目,耳,手 ― も現代科学では十分説明し得ないほどの複雑な設計を示しています。それから,動物や植物の世界があります。陸上や海上を毎年,何千キロも飛ぶ,ある種の鳥の渡り,植物の光合成,1個の受精卵が分化した機能を持つ何億もの異なった細胞でできた複雑な有機体にまで発達する過程は ― ほんの二,三の例ですが ― すべて知的な設計を示す,顕著な証拠です。a
19 (イ)ある事物の働き方を科学的に説明できるからといって,知的な設計などないこと,あるいはそのような設計者などいないことが証明されますか。(ロ)わたしたちの周囲の世界を研究することによって何を学べますか。
19 しかし,中には,科学知識が増大したので,そのような絶妙な営みの多くが説明されてきたと論ずる人々もいます。確かに,かつて神秘とされていた多くの事柄が科学によって,ある程度説明されてきました。しかし,子供が時計の働き方を知ったからといって,時計はだれかによって設計されたり,作られたりしたのではないことが証明されるわけではありません。同様に,物質界の多くの事物の驚嘆すべき機能の仕方を人間が理解したからといって,その背後に知的な設計者の存在しないことが証明されるわけではありません。それとは逆に,わたしたちの周囲の世界について知れば知るほど,理知のある創造者であられる神の存在を示す,一層多くの証拠が得られます。ですから,わたしたちは,神のみ業を認めて次のように語った詩編作者の言葉に偏見のない心を抱いて同意することができます。「エホバよ,あなたのみ業は何と多いのでしょう。あなたはそのすべてを知恵をもって造られました。地はあなたの産物で満ちています」― 詩編 104:24。
聖書 ― あなたはそれを信ずることができますか
20 神を探求するよう心を動かされるには,神の存在を信ずるだけでは不十分であることを何が示していますか。
20 しかし,神を探求するよう心を動かされるには,神の存在を信ずるだけでは不十分です。今日,何億もの人々は神に対する信仰を完全に退けているわけではありませんが,神を探求するよう心を動かされてはきませんでした。米国の世論調査員ジョージ・ギャラップ2世は,「カンニング,脱税,およびこそ泥などの点で,教会員とそうでない人々の間には実際,大した違いはないが,それは主に社交的な宗教団体が多いためである」と評し,さらにこう述べています。「多くの人々は自分にとって慰めとなり,自分をくすぐってくれる,必ずしも挑戦とはならない宗教を寄せ集めているだけである。それをお好みの宗教と呼んだ人もいた。それが今日,この国[米国]のキリスト教の主要な弱点である。不屈の信仰がないのである」。
21,22 (イ)聖書が際立った本であることを何が示していますか。(ロ)聖書の信ぴょう性を示す基本的な証拠は何ですか。説明してください。
21 その「主要な弱点」は,主に聖書に関する知識,および聖書に対する信仰の欠如の結果です。しかし,聖書を信ずるべきどんな根拠がありますか。まず第一に注目すべき点は,昔から聖書以上に不当に批判され,悪しざまに言われ,憎まれ,攻撃されてきた本はまずないということです。しかし,聖書はそのすべてに耐えて生き残り,これまでの記録では最も広く翻訳され,頒布された本となりました。このこと自体,聖書が際立った本であることを示しています。しかし,聖書は神の霊感を受けて記された,信ずるに値する本であることを示す,説得力のある,豊富な証拠があります。―340,341ページの囲み記事をご覧ください。
22 聖書は非科学的で,矛盾しており,時代遅れの本であると多少なりとも考えている人は少なくありませんが,事実はその反対であることを示しています。その著述の特異性,その歴史的,ならびに科学的な正確さ,およびその誤りのない預言すべては,唯一の当然の結論,つまり聖書は神の霊感による言葉であるということを指し示しています。使徒パウロが,『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』と述べたとおりです。―テモテ第二 3:16。
不信という挑戦に立ち向かう
23 事実を調べれば,聖書に関してどんな結論を出せますか。
23 創造物という本と聖書から証拠を考慮してきた今,どんな結論を出すことができますか。それらの本はこれまでも常にそうであったように,今日でもなお有効です。先入観によって左右されずに,問題を進んで客観的に見るなら,どんな反論も筋の通った仕方で克服できることが分かります。進んで答えを探求しさえすれば,答えはあるのです。イエスは,「探しつづけなさい。そうすれば見いだせます」と言われました。―マタイ 7:7。使徒 17:11。
24 (イ)多くの人々が神を探求するのをあきらめたのはなぜですか。(ロ)何に慰めを見いだすことができますか。(ハ)本書の残りの章ではどんなことが考慮されますか。
24 結局,神を探求するのをあきらめた人々は大抵,自分で証拠を注意深く調べて,聖書が真実ではないことを知ったゆえに,そうするのをあきらめたのではありません。むしろ,その多くは,キリスト教世界が聖書のまことの神を示さなかったために,遠ざかって行ったのです。フランスの作家,P・バラディエが次のように述べたとおりです。「無神論を実として生み出したのはキリスト教の伝統である。その伝統のために人々の良心の中で神が殺されたのである。なぜなら,伝統は信じ難い神を人々に示したからである」。それはともかく,使徒パウロが,「では,実情はどうなのですか。ある者が信仰を表わさなかったとすれば,その信仰の欠如が,神の忠実さを無力にでもするのでしょうか。断じてそのようなことはないように! むしろ,すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように」と述べた言葉の中に慰めを見いだすことができます。(ローマ 3:3,4)そうです,まことの神を探求し続けるべき十分の理由があります。本書の残りの章では,この探求の歩みがどのように首尾よく完了するに至ったか,また人類の将来はどうなるかについて述べることにいたします。
[脚注]
a 神が存在することを示す,これらの証拠に関する,もっと詳しい説明を読みたい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1985年に発行した,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」と題する本の142-178ページをご覧ください。
[340,341ページの囲み記事]
聖書の信ぴょう性を示す証拠
著述の特異性: 聖書は巻頭の書である創世記から巻末の書である啓示の書に至るまで,66冊の書で構成されており,それらの書は社会的にも,また教育や専門職の点でも大変異なった背景を持つ40人ほどの筆者により書き記されました。その執筆は西暦前1513年から西暦98年まで,16世紀余の期間にわたって行なわれました。しかし最終結果として,メシアによる王国を通して神とその目的の正しさを立証するという際立った主題を論理的に展開して,あらましを述べる,首尾一貫した,調和の取れた1冊の書が生み出されました。―241ページの囲み記事をご覧ください。
歴史的な正確さ: 聖書に記された出来事は,証明された歴史的な事実と完全に合致しています。「聖書を調査する一法律家」と題する本はこう評しています。「恋愛物語,伝説,および偽りの宣誓証言では,出来事は必ずある遠い場所や漠然としたある時と結びつけられているが……聖書の物語では物事の年代や場所が最高度の正確さをもって示されている」。(エゼキエル 1:1-3)また,「新聖書辞典」はこう述べています。「[『使徒たちの活動』の書の筆者]は同時代の歴史の枠組みを自分の物語の背景にしており,またその紙面は市の行政長官,属州の総督,属国の王その他同様の要人に言及する言葉で満ちており,それら言及された人物は問題の場所や時代にまさしく合致していることが再三再四示されている」。―使徒 4:5,6; 18:12; 23:26。
科学的な正確さ: 隔離や衛生に関する律法がイスラエル人に与えられた当時,周囲の諸国民はそのような慣行について何も知りませんでした。伝道の書 1章7節は,古代では知られていなかった,降雨や海洋からの蒸発の関係する循環について述べています。16世紀まで科学によって確証されていなかった,地球は球形で,宇宙空間に懸かっているということが,イザヤ 40章22節やヨブ 26章7節に述べられています。ウィリアム・ハービーが血液の循環に関して発見した事柄を発表するよりも2,200年以上も前に,箴言 4章23節は人間の心臓の役割を指摘していました。ですから,聖書は科学の教本ではありませんが,科学に関連のある事柄に触れる箇所では,科学が発達した時代よりもはるか以前に理解の深さを表わしています。
誤ることのない預言: 古代のティルスの滅び,バビロンの倒壊,エルサレムの再建,およびメディア・ペルシャやギリシャの諸王の台頭と終えんなどはあまりにも詳細に予告されていたため,それらの記録は事後に記されたのだと批評家から非難されましたが,その非難は無駄に終わりました。(イザヤ 13:17-19; 44:27-45:1。エゼキエル 26:3-7。ダニエル 8:1-7,20-22)イエスが誕生する何世紀も前に,この方に関して記された預言は詳細な点まで成就しました。(245ページの囲み記事をご覧ください。)エルサレムの滅亡に関するイエスご自身の預言も正確に成就しました。(ルカ 19:41-44; 21:20,21)イエスと使徒パウロの述べた,終わりの日に関する預言は,この現代にその成就を見ています。(マタイ 24章。マルコ 13章。ルカ 21章。テモテ第二 3:1-5)しかし,聖書はすべての預言を唯一の源,エホバ神に由来するものとしています。―ペテロ第二 1:20,21。
[333ページの図版]
ダーウィン,マルクス,フロイト,ニーチェその他の人々は,神に対する信仰を徐々に弱めさせる種々の説を提唱しました
[335ページの図版]
創造物という“本”と聖書は神に対する信仰の根拠を提供しています
[338ページの図版]
わたしたちの周囲の世界について知れば知るほど,理知のある創造者の存在を示す,一層多くの証拠が得られます
[337ページの図版/図]
もし,ある種の設計上の要素がほんのわずかでも違っていたなら,生物も宇宙も存在するのは不可能だったでしょう
[図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
水素原子の構成要素
電子殻
陽子 + 電子
原子核 −
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まことの神のもとに帰る神を探求する人類の歩み
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15章
まことの神のもとに帰る
「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:34,35。
1,2 愛は真のクリスチャンの間でどんな影響を及ぼすはずですか。
イエスはこのように述べて,ご自分の真の追随者であることを主張する人々を判別する規準を設けられました。クリスチャンの愛は人種的,部族的,ならびに国家的な分裂すべてを超越するものとならなければなりません。それには,イエスが「世のもの」となられなかったように,また今もそうではないのと同様,真のクリスチャンは「世のもの」にならないようにすることが求められています。―ヨハネ 17:14,16。ローマ 12:17-21。
2 クリスチャンは自分が「世のもの」ではないことをどのように示しますか。例えば,現代の不穏な政治,革命,および戦争に関してどのように行動すべきでしょうか。クリスチャンの使徒ヨハネは上記のイエスの言葉と調和して,「すべて義を行ないつづけない者は神から出ていません。自分の兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うこと,これが,あなた方が初めから聞いている音信なのです」と書きました。また,イエスご自身,弟子たちがご自分を救い出すために戦わなかった理由を説明して,こう言われました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは……戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。イエスの命が危険にさらされた時でさえ,それら付き添う者たちは,世の戦い合う仕方にしたがって論争を解決することに巻き込まれたりはしませんでした。―ヨハネ第一 3:10-12。ヨハネ 18:36。
3,4 (イ)イザヤは「末の日」に関してどんなことを預言しましたか。(ロ)どんな疑問に答えなければなりませんか。
3 キリストの時代よりも700年以上も前に,イザヤはすべての国の人々がエホバの真の崇拝を行なうよう集められて,もはや戦いを学ばなくなることを預言し,次のように述べました。「そして,末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ……すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。そして多くの民は必ず行って,こう言う。『来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう』。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。そして,神は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」a ― イザヤ 2:2-4。
4 世界のすべての宗教の中でどの宗教がこれらの要求にかなう,際立った存在となってきましたか。だれが刑務所や強制収容所や死刑をさえものともせずに,戦いを学ぶのを拒んできましたか。
クリスチャンの愛と中立
5 エホバの証人は各自,クリスチャンの中立に関するどんな記録を築いてきましたか。それはなぜですか。
5 エホバの証人は各々のクリスチャンの良心的な中立の立場ゆえに世界中で知られています。証人たちは神に引き寄せられたクリスチャンの世界的な会衆として自分たちの愛と一致を犠牲にしようとはしなかったため,20世紀中ずっと刑務所,強制収容所,拷問,国外追放,および迫害に耐えてきました。1933年から1945年までの期間,ナチ・ドイツではヒトラーの戦争努力に協力しようとしなかったため,1,000人ほどの証人たちが死に,また幾千人もの証人たちが投獄されました。同様に,かつてのファシストのスペインではフランコのもとで,何百人もの若い証人たちが投獄され,その多くは戦いを学ぶ代わりに,各々軍の刑務所で平均10年間服役しました。幾つかの国では今日に至るまで,多数の若いエホバの証人がクリスチャンの中立の立場ゆえに刑務所で苦しんでいます。しかし,エホバの証人は政府の軍事計画に干渉しません。証人たちが政治問題で断固として保っているクリスチャンの中立は,20世紀のあらゆる紛争や戦争の際に守ってきた証人たちの不変の信条の一つとなりました。それは証人たちがキリストの真の追随者であることを明示し,証人たちとキリスト教世界の宗教団体とを区別するものとなっています。―ヨハネ 17:16。コリント第二 10:3-5。
6,7 エホバの証人はキリスト教に関して何を理解するようになりましたか。
6 エホバの証人は聖書とキリストの模範を固守することにより,まことの神エホバの崇拝を実践していることを証明します。証人たちはイエスの生活と犠牲のうちに反映されている神の愛を認めています。また,真のクリスチャンの愛が政治的,人種的,ならびに国家的な分裂を超えた世界的な不可分の兄弟関係をもたらすものであることを理解しています。言い換えれば,キリスト教は国際的な宗教以上のもの,つまり国家的な境界線や権威,もしくは国家的な利害を超越した,超国家的な宗教なのです。それは人類を,共通の先祖を持ち,共通の創造者,エホバ神と共にある一つの家族とみなします。―使徒 17:24-28。コロサイ 3:9-11。
7 他のほとんどすべての宗教団体は戦争に関係し,兄弟殺しや人殺しをしましたが,エホバの証人は先に引用したイザヤ 2章4節の預言を心に銘記していることを示してきました。『しかし,エホバの証人はどこから来たのですか。どのようにその機能を果たしているのですか』と,読者はお尋ねになるかもしれません。
神の証人たちの長い系譜
8,9 神は人類に対してどんな勧めの言葉を述べておられますか。
8 2,700年余の昔,預言者イザヤはまた,次のような勧めの言葉をも述べました。「あなた方は見いだせるうちにエホバを尋ね求めよ。近くにおられるうちに呼びかけよ。邪悪な者はその道を,害を加えようとする者はその考えを捨て,エホバのもとに帰れ。神はその者を憐れんでくださる。わたしたちの神のもとに帰れ。神は豊かに許してくださるからである」― イザヤ 55:6,7。
9 何世紀も後に,クリスチャンの使徒パウロは,『[神話上の]神々への恐れの念を厚く抱いていた』,アテネのギリシャ人に対して,「[神は]一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と説明しました。―使徒 17:22-28。
10 神がアダムとエバやその子供たちから遠く離れておられなかったことは,どうして分かりますか。
10 確かに神はご自分の創造物である人間のアダムとエバから遠く離れておられたわけではありません。神は両人に話しかけて,ご自分の戒めや願望をお伝えになりました。その上,神は両人の息子のカインやアベルからご自身を隠したりはなさいませんでした。神に対する弟の犠牲に関してねたみを示した,憎しみに満ちたカインに神は助言をお与えになりました。ところが,カインは自分の崇拝の仕方を変えるどころか,しっと深い宗教的な狭量さを表わし,弟のアベルを殺害しました。―創世記 2:15-17; 3:8-24; 4:1-16。
11 (イ)「殉教者」という言葉にはどんな意味がありますか。(ロ)アベルはどのようにして最初の殉教者になりましたか。
11 アベルは死に至るまで神に対して忠実であることによって最初の殉教者bになりました。同時に,彼は最初のエホバの証人で,歴史全体を貫く,忠誠を保つ証人たちの長い系譜の先駆者でした。ですから,パウロは次のように述べることができました。「信仰によって,アベルはカインよりさらに価値のある犠牲を神にささげ,その信仰によって義なる者と証しされました。神が彼の供え物について証しされたのです。またそれによって,彼は死んだとはいえなお語っているのです」― ヘブライ 11:4。
12 さらに,だれがエホバの忠実な証人たちの模範となっていますか。
12 パウロはヘブライ人にあてたその同じ手紙の中で,ノア,アブラハム,サラ,およびモーセのような忠実な男女で,その忠実の記録により,「大勢の,雲のような証人たち[ギリシャ語,マルテュローン]」を構成し,まことの神を知って仕えたいと願う他の人々の模範や励みとなってきた一連の人々を皆,列挙しています。それらの人々はエホバ神と関係を持った男女でした。彼らはその方を求めて見いだしました。―ヘブライ 11:1-12:1。
13 (イ)イエスは神の愛を表わした方として,なぜ傑出しておられましたか。(ロ)イエスはどんな特別の仕方でご自分の追随者の模範となっておられますか。
13 それらの証人の中で傑出していたのは,啓示の書で『「忠実な証人」,イエス・キリスト』と言われている方です。イエスは神の愛を示す,さらにもう一つの証拠となられた方です。というのは,ヨハネが次のように記しているからです。「わたしたち自身,父がご自分のみ子を世の救い主として遣わされたことを見,それについて証しをしています。イエス・キリストは神の子であるとの告白をする者がだれであっても,神はそのような者とずっと結びついておられ,その人は神と結ばれているのです。それでわたしたち自身,神がわたしたちの場合に抱いておられる愛を知るようになり,それを信じたのです」。ユダヤ人として生まれたイエスは真の証人でしたし,またご自分の父エホバに忠実を保って殉教の死を遂げられました。キリストの真正な追随者も同様に,あらゆる時代を通じてキリストとまことの神エホバとの証人になるのです。―啓示 1:5; 3:14。ヨハネ第一 4:14-16。イザヤ 43:10-12。マタイ 28:19,20。使徒 1:8。
14 今,どんな疑問に答えなければなりませんか。
14 イザヤの預言は,まことの神エホバのもとに帰ることが「末の日」,もしくは聖書の他の箇所で「終わりの日」c と呼ばれている時期の一つの特色となることを示唆していました。本書でこれまで述べてきた宗教上の多様性や混乱を考えると,わたしたちの生活している終わりの日の今日,「霊と真理をもって」まことの神に仕えるために,だれがその方を本当に探求してきたのだろうかという疑問が生じます。この疑問に答えるには,まず最初に19世紀の出来事に注目しなければなりません。―イザヤ 2:2-4。テモテ第二 3:1-5。ヨハネ 4:23,24。
神を探し求めた青年
15 (イ)チャールズ・テイズ・ラッセルとはだれのことですか。(ロ)彼が抱いた宗教上の疑惑の幾つかを挙げてください。
15 1870年のこと,熱心な青年,チャールズ・テイズ・ラッセル(1852-1916年)はキリスト教世界の伝統的な教えに関して多くの疑問を抱くようになりました。若者の彼は米国ペンシルバニア州の忙しい工業都市アレゲーニー(今のピッツバーグ市の一部)の父親の男子用服飾品店で働いていました。この青年の宗教的な背景となったのは長老派や会衆派の教えでした。しかし,彼は予定説や地獄の火による永遠の責め苦などの教えで動揺していました。キリスト教世界の一部の宗教団体のそのような基本的な教理に疑問を抱いたのは,どんな理由からでしたか。彼はこう書いています。「人間が永遠の責め苦に遭わされることを自ら予知し,また予定した上で,そのような人間を創造するために自分の力を行使するような神は,賢明でも公正でもなければ,愛のある方でもあり得ないであろう。その規準は多くの人間のそれよりも低いものとなろう」。―エレミヤ 7:31; 19:5; 32:35。ヨハネ第一 4:8,9。
16,17 (イ)どんな教えはラッセルの聖書研究グループにとって非常に興味深いものでしたか。(ロ)どんな重大な意見の相違が生じましたか。ラッセルはどのように答えましたか。
16 まだ十代の後半だったラッセルは,他の若い人々と毎週グループで行なう聖書研究を始めました。彼らは霊魂不滅,それにキリストの贖いの犠牲やキリストの再来などの他の論題に関する聖書の教えを分析するようになりました。ラッセルは1877年に25歳で,繁盛していた父親の事業の持ち株を売り,全時間の宣べ伝える業を生涯の仕事とするようになりました。
17 1878年には,ラッセルと彼の協力者の一人で,キリストの死が罪人のための贖罪の働きをし得るという教えを退けた人との間で重大な意見の相違が生じました。ラッセルは反論して,次のように書きました。「キリストはご自分の死と復活により我々のために様々の良いことを成し遂げられた。キリストは死んで,我々の身代わりとなられた。彼は正しい方でありながら,正しくない者のために死なれた。人は皆,正しくない者であった。イエス・キリストは神の恩ちょうによりすべての人のために死を味わわれたのである。……彼はご自分に従う者すべてのために永遠の救いの発起人となられた」。さらに,こう続けています。「請け戻すとは,買い戻すことである。キリストはすべての人のために何を買い戻されたのか。命である。我々は最初のアダムの不従順により,それを失った。第二のアダム[キリスト]はご自分の命をもって,それを買い戻された」。―マルコ 10:45。ローマ 5:7,8。ヨハネ第一 2:2; 4:9,10。
18 (イ)贖いを巡って意見の相違が生じた後,どうなりましたか。(ロ)聖書研究者たちは寄付金に関してどんな型に従いましたか。
18 常に贖いの教理の熱心な擁護者だったラッセルは,以前のその協力者とのすべての関係を断ちました。ラッセルは1879年7月に,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌を発行し始めました。同誌は今日,世界中で,「ものみの塔 ― エホバの王国を告げ知らせる」という表題で知られています。そして,1881年に,献身した他のクリスチャンと共同で,非営利的な聖書協会を設立しました。同協会はシオンのものみの塔冊子協会と呼ばれ,今日ではエホバの証人のために働く法的機関である,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会として知られています。ラッセルは実際,最初から,会衆の集会で献金を徴集することも,またものみの塔協会の出版物を通じて寄付を懇願することもしない旨を力説しました。ラッセルと共になって,深い聖書研究を行なった人々は単に聖書研究者として知られるようになりました。
聖書の真理に戻る
19 聖書研究者たちはキリスト教世界のどんな教えを退けましたか。
19 ラッセルとその同僚は自分たちの聖書研究の結果として,不可解な“いと聖なる三位一体”,人間の生来不滅の霊魂,および地獄の火による永遠の責め苦などのキリスト教世界の教えを退けるようになりました。同時に,神学校で教育を受けた別個の僧職者階級の必要性をも退けました。彼らは,給料,もしくは俸給を考えずに会衆を導く,霊的に資格のある長老たちを伴うキリスト教の慎ましい始まりに戻りたいと考えました。―テモテ第一 3:1-7。テトス 1:5-9。
20 それらの聖書研究者はキリストのパルーシアと1914年に関して何を悟りましたか。
20 それらの聖書研究者は神のみ言葉を調べる際,「世の終わり」やキリストの「来たりたもう」ことに関係のある,クリスチャン・ギリシャ語聖書の預言に鋭い関心を抱いていました。(マタイ 24:3,欽定)彼らはギリシャ語本文を参照することにより,キリストの「来たりたもう」ことが,実際には「パルーシア」,つまり目に見えない臨在であることを悟りました。ですから,キリストは将来,目に見える姿で来ることを示す証拠ではなく,終わりの時のご自分の目に見えない臨在の証拠に関する情報を弟子たちに与えておられたのです。それらの聖書研究者はこのような研究を行なうと共に,キリストの臨在に関する,聖書に基づく年代計算の理解を得たいという強い願いを抱いていました。ラッセルとその同僚は詳細な点をすべて理解したわけではありませんが,1914年が人間の歴史上重大な年代になるということを悟りました。―マタイ 24:3-22。ルカ 21:7-33,行間訳。
21 ラッセルとその仲間の信者たちはどんな責任を感じていましたか。
21 ラッセルは,大々的な宣べ伝える業が行なわれなければならないことを知っていました。彼はマタイの記録した,「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」というイエスの言葉に気づいていました。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)1914年以前のそれら聖書研究者の活動は緊急感を伴っていました。彼らは自分たちの宣べ伝える業が同年中に最高潮に達すると信じており,またそれゆえに他の人々が「王国のこの良いたより」を知るのを助けるため,あらゆる努力を払うべきだと感じていました。やがて,C・T・ラッセルの聖書講話は世界中の何千もの新聞に掲載されるようになりました。
試練と変化
22-24 (イ)C・T・ラッセルが亡くなった時,大抵の聖書研究者はどんな反応を示しましたか。(ロ)ラッセルの跡を継いで,ものみの塔協会の会長になったのはだれでしたか。
22 1916年にチャールズ・テイズ・ラッセルは宣べ伝える業のための米国横断旅行の途中,64歳で突然,亡くなりました。では,聖書研究者はどうなるのでしょうか。彼らは単なる一人の人間の追随者でもあるかのように,業をやめるでしょうか。第一次世界大戦(1914-1918年)の試練にどのように立ち向かうのでしょうか。同大戦の殺りくには,やがて米国が関係しようとしていました。
23 当時の大抵の聖書研究者の反応を表わした典型的な例は,ものみの塔協会の役員の一人,W・E・バン・アンバーグの述べた次のような言葉でした。「この世界的な大きな業は一人の人の業ではありません。それにしては余りにも大きすぎます。それは神の業ですから,変わることはありません。神は過去において多くの僕を用いてこられたのですから,確かに将来においても多くの僕をお用いになります。わたしたちが聖別されているのは,一人の人間,もしくは一人の人間の業のためではなく,神のご意志を行なうためです。神はご自分のみ言葉と摂理に基づく指導により,ご自分の意志をわたしたちに明らかにしてくださるのです。神は依然として実権を執っておられます」。―コリント第一 3:3-9。
24 1917年1月には,弁護士で明敏な聖書研究者のジョセフ・F・ラザフォードが,ものみの塔協会の第二代会長に選出されました。彼は活動的な性格の持ち主で,物事に動じるような人ではありませんでした。彼は神の王国が宣べ伝えられなければならないことを知っていました。―マルコ 13:10。
新たにされた熱意と新しい名称
25 聖書研究者たちは第一次世界大戦後の何年かの時期の挑戦にどのようにこたえ応じましたか。
25 ものみの塔協会は米国で1919年と1922年に大会を組織しました。米国では第一次世界大戦の際の迫害の後でしたから,当時の事情は何千人かの聖書研究者にとって,まるでもう一度ペンテコステを迎えた時のように思えました。(使徒 2:1-4)彼らは人間に対する恐れに屈するどころか,出かけて行って諸国民に宣べ伝えるようにという聖書の招きになお一層精力を込めて,こたえ応じました。1919年に,ものみの塔協会は,「ものみの塔」誌の姉妹誌で,「黄金時代」と呼ばれる雑誌を出版しました。同誌は今日,世界中で「目ざめよ!」誌として知られています。この雑誌は,わたしたちの生きているこの時代の意味について人々を目覚めさせ,平和な新しい世に関する創造者の約束に対する確信を強めさせる強力な道具となってきました。
26 (イ)聖書研究者たちはどんな責任をますます強調しましたか。(ロ)聖書研究者は聖書に関する,より明確などんな理解を与えられましたか。
26 1920年代から1930年代の期間中,聖書研究者は初期クリスチャンが行なった,つまり家から家に訪ねて行なった宣べ伝える業の方法をますます強調しました。(使徒 20:20)信者には各々,キリストの王国による支配に関して,できるだけ多くの人々に証言する責任がありました。人類の前にある論争は宇宙主権に関するものであること,またその論争はエホバ神がサタンと地上のその破壊的な業すべてを打ち砕くことにより解決されることを彼らは聖書からはっきりと理解できるようになりました。(ローマ 16:20。啓示 11:17,18)この論争に関連して,人間の救いは正当な主権者としての神の正しさの立証に比べて二次的な事柄であることが認識されました。ですから,地上には,神の目的と至上性について進んで証しをする忠実な証人がいなければならないということになります。この必要はどのようにして満たされましたか。―ヨブ 1:6-12。ヨハネ 8:44。ヨハネ第一 5:19,20。
27 (イ)1931年にはどんな画期的な出来事が起きましたか。(ロ)証人たちの独特な信条の幾つかを挙げてください。
27 1931年7月,聖書研究者は米国オハイオ州コロンバス市で大会を開催し,同大会で幾千人もの出席者は決議を提出し,その中で,「主なる神のみ口によって命名された名称」を喜んで受け入れ,「私たちはこの名称,すなわち『エホバの証人』という名で知られ,また呼ばれたいと思います」と宣言しました。エホバの証人はその日以来ずっと,自分たちの独特な信条だけでなく,家から家へと訪ねて,あるいは街路で行なう熱心な宣教によって世界中で知られるようになりました。(356,357ページをご覧ください。)― イザヤ 43:10-12。マタイ 28:19,20。使徒 1:8。
28 1935年に証人たちは王国の支配者の立場に関して一層明らかなどんな理解を得ましたか。
28 1935年に証人たちはキリストと共に統治する天の王国級の人たちと地上の彼らの臣民に関する一層明らかな理解を得るようになりました。証人たちは,キリストと共に天から支配するよう召された,油そそがれたクリスチャンの人数が14万4,000人であることを既に知っていました。それでは,人類の残りの人々にはどんな希望があるのでしょうか。政府の存在を正当化するには臣民が必要です。この天の政府,つまり王国もやはり,この地上に何百万もの従順な臣民を持つことでしょう。それらの人々は,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」のことで,彼らは,「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神[エホバ]と,子羊[キリスト・イエス]とによります」と大声で叫びます。―啓示 7:4,9,10; 14:1-3。ローマ 8:16,17。
29 証人たちはどんな挑戦を察知し,それを受けて立ちましたか。
29 大群衆に関する,このような理解を与えられたエホバの証人は,まことの神を探求して,「大群衆」を構成するようになる,それら何百万もの人々すべてを見いだして教えるという,途方もない挑戦を受けて立つことを理解するよう助けられました。その挑戦には国際的な教育運動が関係することになりました。それには,訓練された講演者や奉仕者が必要になるでしょう。学校も必要となるでしょう。ものみの塔協会の次の会長はこのすべてを心に描いていました。
神を求める人たちを世界中で探し求める
30 1930年代,および1940年代のどんな出来事が証人たちに影響を及ぼしましたか。
30 1931年には50に満たない国々で5万人足らずの証人たちがいました。1930年代,および1940年代の証人たちの宣べ伝える業は,当時の出来事のために少しも容易なものとはなりませんでした。この時期にはファシズムやナチズムが台頭し,第二次世界大戦が勃発しました。1942年にはJ・F・ラザフォードが死去しました。ものみの塔協会はエホバの証人の宣べ伝える業に一層はずみをつけるため,強力な指導を必要としていました。
31 良いたよりを宣べ伝える業を拡大するため,1943年には何が機能し始めましたか。
31 1942年にネイサン・H・ノアが36歳で,ものみの塔協会の第三代会長に選出されました。彼は諸国家がなお第二次世界大戦に巻き込まれていたにもかかわらず,良いたよりを全世界で宣べ伝える業をできるだけ速く促進する必要のあることをはっきりと見抜いた精力的な組織者でした。その結果,同会長は直ちに,宣教者を訓練する,ものみの塔ギレアデ聖書学校を開設する計画を実施しました。d 1943年1月には,すべて全時間奉仕者だった最初の100人の生徒が入校しました。生徒たちは主に外国の任命地に派遣されるまでの約6か月間,聖書,および宣教に関連した論題を集中的に研究しました。1990年までに89クラスの生徒が卒業し,幾千人もの奉仕者がギレアデを出て世界中で奉仕しています。
32 1943年以来,エホバの証人はどんな進歩を遂げてきましたか。
32 1943年には,わずか12万6,329人の証人たちが54か国で宣べ伝える業を行なっていたにすぎません。第二次世界大戦中はナチズム,ファシズム,共産主義,およびカトリック・アクション,それにいわゆる民主主義国からの非道な反対を受けたにもかかわらず,エホバの証人は1946年までに王国を宣べ伝える成員の点で17万6,000人余の最高数に達していました。44年後に200以上の国や島々や地域の活発な証人たちの人数はほとんど400万人になりました。証人たちは名称や活動により身分が明白に証明されたので,確かに世界中で知られるようになりました。しかし,証人たちの効果的な奉仕に大いに影響を及ぼした事柄には,ほかにも幾つかの要素が関係しています。―ゼカリヤ 4:6。
聖書教育のための組織
33 エホバの証人はなぜ王国会館を持っていますか。
33 エホバの証人は,地上の至る所にある6万余りの会衆で役立っている王国会館で聖書研究の集会を毎週開いています。それらの集会は儀式や感情ではなく,神とそのみ言葉や目的に関する正確な知識を得ることを基盤にした集いです。ですから,エホバの証人は聖書に関する自分たちの理解を増し加え,聖書の音信を他の人々に宣べ伝えたり,教えたりする方法を学ぶため,1週間に3回集まります。―ローマ 12:1,2。フィリピ 1:9-11。ヘブライ 10:24,25。
34 神権宣教学校にはどんな目的がありますか。
34 例えば,週の中ごろ開かれる集会には,会衆の成員が入学できる神権宣教学校が含まれています。資格のあるクリスチャンの長老によって主宰されるこの学校は,聖書の原則にのっとって教えたり,自分の考えを述べたりする技術を学ぶよう男女子供を訓練するのに役立っています。使徒パウロは,「あなた方の発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけされたものとし,一人一人にどのように答えるべきかが分かるようになりなさい」と述べました。同時に,証人たちはそのクリスチャンの集会で,王国の音信を「温和な気持ちと深い敬意をもって」述べる方法を学びます。―コロサイ 4:6。ペテロ第一 3:15。
35 証人の開く他の集会を幾つか挙げてください。それらの集会にはどんな益がありますか。
35 証人たちはまた,別の日に45分間の聖書講演を聞くために集まり,それに続いて,キリスト教の教えやクリスチャンの行状に関連した聖書の主題に関し,(質問と答えの形式により)会衆で1時間考慮します。会衆の成員は自由に参加できます。証人たちはまた,毎年,1日,ないしは4日にわたる,より大きな集まりや集会や大会にも出席し,普通,何千人もの人々が聖書の講話を聴くためにそのような場所に集まります。それらの,またその他の無料の集まりに出席する結果,証人たちは各々,この地球や人類に対する神の約束に関する知識を深めると共に,クリスチャンの道徳に関する優れた教育を受けます。各々,キリスト・イエスの教えと模範に従うことにより,まことの神エホバに一層近く引き寄せられます。―ヨハネ 6:44,65; 17:3。ペテロ第一 1:15,16。
証人たちはどのように組織されているか
36 (イ)証人たちの中には有給の僧職者階級がありますか。(ロ)では,だれが会衆の中で率先して物事を行ないますか。
36 エホバの証人が集会を開き,また宣べ伝える業を行なうために組織されているとすれば,当然,率先して物事を行なう人がだれかいなければなりません。しかし,証人たちの中には有給の僧職者はいませんし,だれにせよ,偶像視されるカリスマ的な指導者もいません。(マタイ 23:10)イエスはこう言われました。「あなた方はただで受けたのです,ただで与えなさい」。(マタイ 10:8。使徒 8:18-21)各会衆には,霊的に資格のある長老や奉仕の僕たちがおり,その多くは世俗の職業を持って家族を顧み,会衆を教えたり指導したりする面で自発的に率先して物事を行ないます。これこそまさしく1世紀のクリスチャンの残した型です。―使徒 20:17。フィリピ 1:1。テモテ第一 3:1-10,12,13。
37 長老や奉仕の僕たちはどのようにして任命されますか。
37 それら長老や奉仕の僕たちはどのようにして任命されますか。その任命は,様々な土地の出身の油そそがれた長老たちで成る統治体の監督のもとで行なわれます。その統治体の機能は,初期クリスチャンの会衆で率先して物事を行なった,エルサレムの使徒や長老たちの一団の機能と類似しています。11章で述べたように,使徒はだれ一人として他の使徒たちに対して首位権を持っていませんでした。使徒たちは一団として決定を下し,その決定は古代ローマの世界の至る所に散在した諸会衆により尊重されました。―使徒 15:4-6,22,23,30,31。
38 統治体はどのようにその機能を果たしますか。
38 今日のエホバの証人の統治体にとっても同様の取り決めが機能を果たしています。統治体は米国ニューヨーク市ブルックリンにある,その世界本部で毎週,会合を開き,ついでそこから,各国の奉仕活動を監督している,世界中のそれぞれの支部委員会に通達が送られます。エホバの証人は最初期のクリスチャンの模範に従うことにより,神の王国の良いたよりを宣べ伝えて,地球上の広大な土地を網羅することができるようになりました。その業は地球的な規模で続けられています。―マタイ 10:23。コリント第一 15:58。
まことの神のもとに群れをなして集まる
39 (イ)エホバの証人は政治上の問題でなぜ中立の立場を取りますか。(ロ)証人たちは禁令下でもどのように繁栄してきましたか。
39 20世紀のこれまでに,エホバの証人は全地で繁栄してきました。証人たちの業が禁じられたり,あるいは彼らが追放されたりした国々についてさえ,同様のことが言えます。そのような禁令は,主にこの世の政治や国家主義に関連した忠誠に関するエホバの証人の中立の立場を理解しなかった政権によって課せられました。(347ページの囲み記事をご覧ください。)ところが,そのような国々の何十万もの人々が,人類の平和と安全のための唯一まことの望みである神の王国に頼るようになりました。大抵の国では非常にすばらしい証言が行なわれており,今や何百万人もの活発な証人たちが至る所にいます。―361ページの一覧表をご覧ください。
40,41 (イ)エホバの証人は今,何を待ち望んでいますか。(ロ)なお,どんな疑問に対する答えを得なければなりませんか。
40 エホバの証人はクリスチャンの愛と,「新しい天と新しい地」に関する希望とを抱いて,間もなくこの地上の不公正,腐敗,および不義すべてを必ず終わらせる,世界を驚かせる出来事が起きる近い将来を待ち望んでいます。それゆえに,証人たちは心の正直な人々をまことの神エホバに近づかせるため,自分たちの隣人を訪問する誠実な努力を続けてゆきます。―啓示 21:1-4。マルコ 13:10。ローマ 10:11-15。
41 一方,聖書預言によれば,人類,宗教,および汚染されたこの地球の将来はどうなりますか。この極めて重要な疑問に対する答えは,本書の最後の章で得られるでしょう。―イザヤ 65:17-25。ペテロ第二 3:11-14。
[脚注]
a この言葉の最後の二つの文は国連ビルの前にある“イザヤの壁”と国連の庭園にある彫像に記されており,実際,これらの言葉の成就は国連の目標の一つとなっています。
b 「殉教者」という意味の英語の“martyr”の語源となっているギリシャ語のマルテュル(「死によって証言をする者」,「新約聖書用語解説辞典」,W・E・バイン編)という語は,実際には「証人」(「ほかの何らかの方法で自ら見たり,聞いたりしたこと,もしくは知っていることを言明する,または言明できる者」,「新約聖書希英辞典」,J・H・セア編)を意味しています。
c 「終わりの日」についてもっと詳しく考慮したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1982年に発行した,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」と題する本の18章をご覧ください。
d ヘブライ語のガルエードから派生したギレアデという言葉には,「証しの小山」という意味があります。「聖書に対する洞察」,第1巻,882,および942ページ(英文)もご覧ください。―創世記 31:47-49。
[347ページの囲み記事]
異教ローマにおけるクリスチャンの中立
初期クリスチャンはイエスの教えられた愛と平和の原則にしたがい,また神のみ言葉の個人的な研究に基づいて,戦争や戦争のための訓練に参加しようとしませんでした。イエスはかつてこう言われました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」― ヨハネ 18:36。
西暦295年当時でも,あるローマ人の退役軍人の息子,テベステのマクシミリアーヌスは徴兵されました。属州総督に名前を尋ねられた彼は,こう答えました。「ところで,どうして私の名前をお知りになりたいのですか。私は良心上兵役を拒否しております。私はクリスチャンです。……軍務に服することは私にはできません。自分の良心に反して罪を犯すことはできません」。もし従わないなら,命を失うことになる,と属州総督から警告されたところ,彼はこう言いました。「私は軍務に服しません。あなたが私の首をはねようと,私はこの世の権力者には仕えません。私は私の神に仕えます」―「一歴史家による宗教の研究方法」,アーノルド・トインビー著。
現代の全世界のエホバの証人も聖書を個人的に研究した結果,良心の命ずるところに従って,同様の立場を取ってきました。第二次世界大戦中,ある国々,特にナチ・ドイツでは,多くの証人が銃殺されたり,絞首刑や斬首刑に処せられたりして,最高の代償を支払いました。しかし,クリスチャンの愛に基づく,証人たちの世界的な一致は決して破られませんでした。クリスチャンであるエホバの証人の一人の手にかかって戦争で死んだ人は,これまで一人もいません。クリスチャンと称する人々が皆,やはりキリストの愛の規範に従って生活していたなら,世界の歴史はどんなにか違ったものになっていたことでしょう。―ローマ 13:8-10。ペテロ第一 5:8,9。
[356,357ページの囲み記事/図版]
エホバの証人が信じている事柄
質問: 魂とは何ですか。
答え: 聖書では,魂(ヘブライ語,ネフェシュ; ギリシャ語,プシュケー)とは人,または動物,あるいは人や動物が享受する命のことです。
「次いで神は言われた,『地は生きた魂をその種類にしたがい,家畜と動く生き物と地の野獣をその種類にしたがって出すように』。それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった」― 創世記 1:24; 2:7。
動物や人間は生きた魂です。魂とは別個に存在するものではありません。魂は死ぬことができますし,また確かに死にます。「見よ,すべての魂 ― それはわたしのものである。父の魂がそうであるように,子の魂も同様に ― それらはわたしのものである。罪を犯している魂 ― それが死ぬのである」― エゼキエル 18:4。
質問: 神は三位一体ですか。
答え: エホバの証人は,エホバが他に類を見ない,宇宙の主権者なる主であられることを信じています。「イスラエルよ,聴きなさい。わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである」。(申命記 6:4)言葉としてのキリスト・イエスは霊の被造物で,み父のご意志に従って地に来られました。キリストはエホバに服しておられます。「しかし,すべてのものが彼[キリスト]に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」― コリント第一 15:28。マタイ 24:36; マルコ 12:29; ヨハネ 1:1-3,14-18; コロサイ 1:15-20もご覧ください。
聖霊は神の活動する力,もしくは働いているエネルギーのことで,人格的な存在ではありません。―使徒 2:1-4,17,18。
質問: エホバの証人は偶像を崇拝したり,崇敬したりしますか。
答え: エホバの証人は,偶像,人,もしくは組織のいずれが関係していようと,どんな形態の偶像崇拝も行ないません。
「わたしたちは,偶像が世にあって無きに等しいものであること,また,神はただひとりのほかにはいないことを知っています。多くの『神』や多くの『主』がいるとおり,天にであれ地にであれ『神』と呼ばれる者たちがいるとしても,わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです。また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあり,わたしたちもこの方を通してあるのです」― コリント第一 8:4-6。詩編 135:15-18もご覧ください。
質問: エホバの証人はミサ,もしくは聖餐を祝いますか。
答え: エホバの証人はローマ・カトリックの教えである化体説を信じていません。証人たちは毎年,ユダヤ暦のニサン14日(普通,3月か4月)に当たる日に,キリストの死の記念式としての主の晩さんを確かに祝います。その集まりでは,キリストの罪のない体と犠牲の血の象徴として,種の入っていないパンとぶどう酒が会衆の中で回されます。キリストと共にその天の王国で統治する希望を抱いている人たちだけが,表象物にあずかります。―マルコ 14:22-26。ルカ 22:29。コリント第一 11:23-26。啓示 14:1-5。e
[図版]
エホバの証人は聖書研究をするため,王国会館に定期的に集まります
王国会館: 日本の市原市(前ページ),およびブラジルのボイツバ市
[脚注]
e この論題についてさらに考慮したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1985年に発行した,「聖書から論じる」と題する本の135-139,401-405ページをご覧ください。
[361ページの図表]
エホバの証人が宣べ伝える業を行なっている国々の一部
国名 活発な証人の人数
アメリカ合衆国 818,000
アルゼンチン 79,000
イタリア 172,000
インド 9,000
英国 117,000
エルサルバドル 18,000
オーストラリア 51,000
カナダ 98,000
韓国 57,000
ギリシャ 24,000
コロンビア 42,000
ザンビア 72,000
スペイン 78,000
ドイツ連邦共和国 129,000
ナイジェリア 137,000
日本 138,000
ハンガリー 10,000
フィリピン 102,000
フィンランド 17,000
プエルトリコ 24,000
ブラジル 267,000
フランス 109,000
ベネズエラ 47,000
ポーランド 91,000
ポルトガル 36,000
南アフリカ 46,000
メキシコ 277,000
レバノン 2,500
禁令下の36か国 220,000
1989年の世界の合計数 会衆; 6万192 エホバの証人; 378万7,000人
[346ページの図版]
国連の平和像には,「わたしたちは剣を打ち変えてすきの刃にする」と記されています; “イザヤの壁”にはその聖句が刻まれています
[351ページの図版]
エホバの証人は人類の罪のためのキリストの贖いの犠牲の価値を信じています
[363ページの図版]
エホバの証人の大会ホール: 英国イースト・ペニネス市の大会ホール航空写真
米国フロリダ州フォート・ローダーダール市の大会ホール: 英語,スペイン語,およびフランス語のプログラムのために使われています
[364ページの図版]
米国ニューヨーク市ブルックリンにある,ものみの塔協会の世界本部; (左上から)事務所,印刷工場,および宿舎用ビル(濃く浮き出た部分)
[365ページの図版]
ものみの塔支部事務所(左上から); 南アフリカ,スペイン,およびニュージーランド
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まことの神とあなたの将来神を探求する人類の歩み
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16章
まことの神とあなたの将来
「この神秘的な宇宙には,人間がそれは確かだと感じ得る事柄が一つある。人間それ自体は宇宙の最大の霊的存在ではない。……宇宙には人間自身よりも霊的にもっと偉大な実在者がいる。……人間の目標は現象界の背後の実在者との霊的な交わりを求め,それも自己をその絶対的な霊的実体に調和させることを目指してそのような交わりを求めることである」―「一歴史家による宗教の研究方法」,アーノルド・トインビー著。
1 (紹介の言葉を含める。)(イ)歴史家トインビーは人間と宇宙について何を認めましたか。(ロ)聖書は「絶対的な霊的実体」をどのように明らかにしていますか。
過去6,000年のほとんどの期間,人類は一層強い熱意を抱いて,あるいはそれほどではないにせよ,その「絶対的な霊的実体」を見いだそうとして探求してきました。その「実体」は各々主要な宗教により,それぞれ異なった名を付されてきました。あなたがヒンズー教,イスラム教,仏教,神道,儒教,道教,ユダヤ教,キリスト教,もしくは他のどんな宗教を奉ずるにせよ,「絶対的な霊的実体」を表わす名があります。しかし,聖書はこの実体に名,性,および性格を付与しています。それはつまり,生ける神エホバです。この特異な神はペルシャのキュロス大王に対して,「わたしはエホバであり,ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。……わたし自身が地を造り,その上に人をも創造した」と言われました。―イザヤ 45:5,12,18。詩編 68:19,20。
エホバ ― 信頼できる預言の神
2 将来に関する信頼できる情報を得たいなら,だれに頼るべきでしょうか。それはなぜですか。
2 エホバは神を探求する人類の歩みの真の究極目的となる方です。エホバはご自分が最初から結末を告げ得る預言の神であることを明らかにして,預言者イザヤを通して次のように言われました。「昔の最初のことを思い出せ。わたしは神たる者であり,ほかに神もわたしのような者もいないことを。終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち,わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者。……わたしはそれを話したのである。わたしはまた,それをもたらすであろう。わたしはそれを形造ったのであり,また,それを行なうであろう」― イザヤ 46:9-11; 55:10,11。
3 (イ)聖書の預言によれば,どんな出来事を予見できますか。(ロ)サタンは不信者に対して何をしてきましたか。それはなぜですか。
3 このような信頼できる預言の神がおられるので,分裂をもたらす様々な宗教のある世界の体制がどうなるかを知ることができます。同時に,世界の運命を左右できるように思える種々の強力な政治組織に何が降り懸かるかを予測することもできます。それよりもさらに,人類をまことの神エホバから引き離してきた多数の宗教により,『不信者の思いをくらまして』きた,「この事物の体制の神」サタンをどんな終わりが待ち受けているかをも予告できます。ですが,サタンはなぜそのような『思いをくらます』業をしてきましたか。それは,『神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにする』ためです。―コリント第二 4:3,4。ヨハネ第一 5:19。
4 地球と人間の将来に関するどんな疑問に答える必要がありますか。
4 同時に,わたしたちは予告されたそれらの出来事の前途に控えている事柄を知ることができます。地球は最後にどんな状態になるのでしょうか。汚染され,損なわれ,森林は切り払われてしまうのでしょうか。それとも,地球と人類は再生されるのでしょうか。これから述べますが,聖書はこれらの疑問すべてに答えています。しかし,まず最初に,ごく近い将来の出来事に注目してみましょう。
「大いなるバビロン」の実体は明らかにされる
5 ヨハネは幻で何を見ましたか。
5 西暦96年に,聖書の「啓示」の書の内容はパトモス島にいた使徒ヨハネに明らかにされました。聖書の証拠によれば,人類は1914年以来,a 終わりの時に生活していますが,「啓示」の書には,その終わりの時に起きる主要な出来事が生き生きと描写されています。ヨハネが幻で見たそれらの象徴的な情景の一つは,「大いなるバビロン,娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母」と呼ばれる,けばけばしく身を装った,ごう慢な娼婦に関するものです。この女はどんな状態でしたか。「わたしは,その女が聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」と記されています。―啓示 17:5,6。
6 大いなるバビロンはなぜ支配を行なう世の政治的な要素を表わしてはいませんか。
6 この女はだれを表わしていますか。わたしたちはその実体を憶測するよう任されているわけではありません。消去法を使って,この女の仮面をはぐことができます。ヨハネはその同じ幻の中でみ使いが次のように言うのを聞きました。「さあ,多くの水の上に座る大娼婦に対する裁きをあなたに見せよう。地の王たちは彼女と淫行を犯し,地に住む者たちは彼女の淫行のぶどう酒に酔わされた」。地の王たち,つまり支配者たちがこの女と淫行を犯すのであれば,このことはその娼婦が,支配を行なう世の政治的な要素を表わし得ないことを意味しています。―啓示 17:1,2,18。
7 (イ)大いなるバビロンはなぜ商業的な要素を表わすことができませんか。(ロ)大いなるバビロンは何を表わしていますか。
7 同じ記述は,「地の旅商人たちは彼女の恥知らずのおごりの力で富を得た」と告げています。ですから,大いなるバビロンは世の企業的,つまり「商人」的な要素を表わすこともできません。しかし,霊感を受けて記された句は,「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,もろもろの民と群衆と国民と国語を表わしている」と述べています。政治支配者たちと淫行を犯し,商業上の権益を維持しながら交易を行ない,また栄光を帯びて,もろもろの民と群衆と国民と国語の上に座っている象徴的な娼婦に関する描写と合致する,この世の体制の他のどんな主要な要素が残っていますか。それはまさしく,あらゆる変装をした偽りの宗教です。―啓示 17:15; 18:2,3。
8 さらにどんな事実が大いなるバビロンの実体を確証していますか。
8 これが大いなるバビロンの実体であることは,み使いがこの女をその『あらゆる国民を惑わした心霊術的な行ない』のゆえに罪に定めていることにより確証されています。(啓示 18:23)様々な形態の心霊術はすべて,悪霊の霊感を受けた,宗教的な性格のものです。(申命記 18:10-12)ですから,大いなるバビロンは宗教的な実在物を象徴しているに違いありません。この女はまことの神エホバから注意をそらせるためにサタンが人々の思考の中で助長している,サタンの偽りの宗教の世界帝国全体であることを聖書の証拠は示しています。―ヨハネ 8:44-47。コリント第二 11:13-15。啓示 21:8; 22:15。
9 多くの宗教にはどんな一貫した共通の特徴が見られますか。
9 これまで本書の至る所で述べたように,世界の諸宗教のいわば混乱したつづれ織りには,一貫した共通の特徴が見られます。多くの宗教は神話に源を発しています。ほとんどすべての宗教は,人間の死後,不滅の魂とされるものが生き残り,あの世へ行く,もしくは別の生き物に転生するという,ある種の信仰によって結び合わされています。地獄と呼ばれる,恐ろしい責め苦と拷問の場所があるという信仰を共通の特徴として持っている宗教は少なくありません。ほかには,三つ組の神々,三位一体,および母神に対する古代異教の信仰で結びつけられている宗教もあります。ですから,それらの宗教はすべて,娼婦,つまり「大いなるバビロン」という一つの複合的な象徴のもとに一まとめにされているのは,実に適切なことです。―啓示 17:5。
偽りの宗教から逃げ去るべき時
10 宗教的な娼婦に関しては,どんな終わりが預言されていますか。
10 聖書は,地球を取り巻くほどのこの娼婦が最後にどんな運命をたどることを予告していますか。「啓示」の書は象徴的な言葉遣いで,この女が政治的な要素の手にかかって滅ぼされる様子を描写しています。それら政治的な要素は,国際連合,つまりサタンの血まみれの政治体制の像である「緋色の野獣」を支える「十本の角」によって象徴されています。―啓示 16:2; 17:3-16。b
11 (イ)偽りの宗教はなぜ神により罪に定められていますか。(ロ)大いなるバビロンはどうなりますか。
11 サタンの偽りの宗教の世界帝国のこの滅びは,それら諸宗教に対する神の不利な裁きの結果です。それらの宗教は圧制的な政治上の情夫たちと共謀し,彼らを支持しているゆえに霊的な淫行の罪を負っていることが明らかにされます。偽りの宗教は愛国心に促されて,それぞれの国の支配階級のエリートたちと戦争に際して手を握ると共に,無実な人々の血ですそを汚してきました。ですから,エホバは大いなるバビロンに反対するご自分の意志を遂行し,彼女を荒廃させるという考えを政治的な要素の心にお入れになります。―啓示 17:16-18。
12 (イ)バビロンが滅ぼされる時,命を助けていただくには,あなたは今,何をしなければなりませんか。(ロ)真の宗教の特徴となっているのは,どんな教えですか。
12 このような将来が世界宗教の目前に迫っている今,あなたは何をすべきでしょうか。その答えはヨハネの聞いた天からの声が語った次のような言葉のうちにあります。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい。彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の数々の不正な行為を思い出されたのである」。ゆえに,今こそ,サタンの偽りの宗教の帝国から出て,エホバの真の崇拝に加わるよう命ずる,み使いの勧めに従うべき時です。(377ページの囲み記事をご覧ください。)― 啓示 17:17; 18:4,5。エレミヤ 2:34; 51:12,13と比較してください。
ハルマゲドンは近い
13 間もなくどんな出来事が起きるに違いありませんか。
13 「啓示」の書は,「彼女の災厄は一日のうちに来る。それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう」と述べています。聖書の預言すべてが示すところによれば,その「一日」,つまり刑が速やかに執行される短い時が今や近づいています。実際,大いなるバビロンの滅びは,「全能者なる神の大いなる日の戦争……ハルマゲドン」で最高潮に達する「大患難」の時期を招来するものとなります。ハルマゲドンのその戦争,もしくは戦いの結果,サタンの政治体制は打ち破られ,サタンは底知れぬ深みに入れられることになります。そして,義の新しい世が姿を現わします!―啓示 16:14-16; 18:7,8; 21:1-4。マタイ 24:20-22。
14,15 どんな聖書預言の成就が明らかに近づいていますか。
14 今やすでに,もう一つの目覚ましい聖書預言がわたしたちの眼前で成就する時が迫っています。使徒パウロは次のように預言して,警告しました。「さて,兄弟たち,時と時期については,あなた方は何も書き送ってもらう必要がありません。エホバの日がまさに夜の盗人のように来ることを,あなた方自身がよく知っているからです。人々が,『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの劇痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません」― テサロニケ第一 5:1-3。
15 かつて好戦的で,互いに疑い合っていた諸国民が今や,世界の平和と安全を宣言できるようになる情勢に向かって慎重に動いているように見えます。ですから,やはり別の角度から見ても,偽りの宗教,諸国民,およびその指導者であるサタンにエホバの裁きが下される日の近いことが分かります。―ゼパニヤ 2:3; 3:8,9。啓示 20:1-3。
16 今日,ヨハネの助言はなぜ非常に適切ですか。
16 今日,何百万もの人々は,あたかも物質的な価値のみが永続する有意義なものだという考えに基づく生き方をしています。しかし,この腐敗した世界が提供するのは浅薄なはかないものです。そのようなわけで,ヨハネの次のような助言は非常に適切です。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。あなたは永久にとどまるほうを望まれるのではないでしょうか。―ヨハネ第一 2:15-17。
約束された新しい世
17 まことの神を求める人たちの将来はどうなりますか。
17 神がキリスト・イエスを通して世を裁こうとしておられるのですから,その後はどうなるのでしょうか。遠い昔,神はヘブライ語聖書の中で,この地球上の人類に対するご自分の最初の目的,すなわち従順な人類に楽園<パラダイス>となる地上で完全な命を享受させるという目的を遂行することを預言なさいました。サタンはその目的を覆そうとしましたが,神の約束は無効にされませんでした。ですから,ダビデ王は次のように書くことができました。「悪を行なう者たちは断ち滅ぼされるが,エホバを待ち望む者たちは,地を所有する者となるからである。そして,ほんのもう少しすれば,邪悪な者はいなくなる。……義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」― 詩編 37:9-11,29。ヨハネ 5:21-30。
18-20 この地球上では,どんな変化が起きますか。
18 その後,地球の状態はどうなりますか。完全に汚染され,焼き尽くされてしまいますか。森林は焼き払われてしまいますか。そんなことは決してありません! エホバは元々,地球が釣り合いの取れた,清いパラダイスの園になるよう意図されました。人間が地球を誤用してきたにもかかわらず,そのようになる潜在力があります。しかし,エホバは,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」ことを約束なさいました。地球的な規模の破滅に近づく状況が生じたのは,20世紀だけのことです。では,エホバがご自分の所有物,つまりご自分の創造物を守るために間もなく行動を起こされるということを信ずるべき,いよいよ十分の理由があります。―啓示 11:18。創世記 1:27,28。
19 このような変化は間もなく,「新しい天と新しい地」に関する神の取り決めのもとで起きるはずです。それは新しい天空と新しい惑星のことではなく,再生された人類の社会の存在する,一新された地球に対する新たな霊的支配権を意味しています。その新しい世では,仲間の人間が搾取されたり,あるいは動物が利己的に利用されたりすることはありません。暴力行為や流血行為もありません。家のない人もいませんし,飢えや圧制もありません。―啓示 21:1。ペテロ第二 3:13。
20 神のみ言葉はこう述べています。「『そして,彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けてその実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである。……おおかみと子羊が一つになって食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。蛇に関しては,その食物は塵となる。これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない』と,エホバは言われた」― イザヤ 65:17-25。
新しい世の基礎
21 新しい世はなぜ確実な事柄ですか。
21 『このすべてはどうして可能なのだろうか』と問う方がおられるかもしれません。それが可能なのは,「偽ることのできない神が,久しく続いた時代の前に」,人類は回復させられて完全な状態で永遠の命を受けることを「約束された」からです。そして,この希望の根拠は,使徒ペテロにより仲間の油そそがれたクリスチャンにあてて記された最初の手紙の中で次のように言い表わされています。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。神はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生です」。―テトス 1:1,2。ペテロ第一 1:3,4。
22 新しい世の希望の基本となる事柄とは何ですか。それはなぜですか。
22 イエス・キリストの復活は義の新しい世の希望の基本となる事柄です。なぜなら,イエスは清められた地を天から支配するよう神により任じられているからです。パウロもまた,次のように書き記して,キリストの復活がいかに肝要なことかを強調しました。「しかしながら,今やキリストは死人の中からよみがえらされ,死の眠りについている者たちの初穂となられたのです。死がひとりの人を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」― コリント第一 15:20-22。
23 (イ)キリストの復活はなぜ肝要なことですか。(ロ)復活させられたイエスは,ご自分の追随者にどんな命令をお与えになりましたか。
23 対応する贖いとしてのキリストの犠牲の死とその復活は,「新しい天」,つまり王国の支配権と,変化し,再生された人類,つまり「新しい地」の社会の希望の根拠となりました。同時に,キリストの復活により,忠実な使徒たちの行なった,宣べ伝えて教える業にはずみがつけられました。記述はこうなっています。「しかしながら,十一人の弟子はガリラヤに赴き,[復活させられた]イエスが彼らのために取り決めた山に行った。そして,イエスを見ると,彼らは敬意をささげた。しかし,ある者たちは疑った。すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。『わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです』」。―マタイ 19:28,29; 28:16-20。テモテ第一 2:6。
24 イエスの復活はさらに,どんな祝福を保証するものとなっていますか。
24 イエスの復活はまた,人類のための別の祝福,つまり死者の復活を保証するものとなっています。イエスがラザロを死人の中からよみがえらされたことは,将来さらに包括的な復活が行なわれることのしるしでした。(248-250ページをご覧ください。)イエスはかつてこう言われました。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハネ 5:28,29; 11:39-44。使徒 17:30,31。
25 (イ)新しい世の人々はすべて,どんな選択をすることができますか。(ロ)新しい世では,どんな形態の宗教が広く行なわれますか。
25 戻って来る,自分の愛する人たちを迎える,それも多分,各々の世代の人々が順次,そうすることができるのは何と大きな喜びでしょう。その後,新しい世では人は各々完全な状態で,まことの神エホバを崇拝するか,それとも反対者として命を失うかどうかを決めることができます。そうです,新しい世ではただ一つの宗教,つまり唯一の形態の崇拝しかありません。賛美はすべて,愛ある創造者に帰せられ,従順な人間は皆,「王なるわたしの神よ,わたしはあなたを高めます。定めのない時に至るまで,まさに永久にあなたのみ名をほめたたえます。……エホバは大いなる方,大いに賛美されるべき方。その偉大さは探りがたい」と述べた詩編作者の言葉をそのまま繰り返すことでしょう。―詩編 145:1-3。啓示 20:7-10。
26 あなたはなぜ神のみ言葉,聖書を調べるべきでしょうか。
26 あなたは世界の主要な宗教をそれぞれ比較してみたのですから,エホバの証人の信条の基盤となっている,神のみ言葉,聖書をさらに調べるよう,お勧めいたします。まことの神を見いだせることをご自分で確かめてください。ヒンズー教徒,ムスリム,仏教徒,神道信者,儒教徒,道教徒,ユダヤ教徒,クリスチャンその他,どんな信仰を抱いている人であれ,今は,生ける,まことの神と自分との関係を吟味すべき時です。もしかすると,あなたの宗教は,ご自分ではどうすることもできない自分の出生地によって決まったものかもしれません。聖書が神について述べる事柄を調べたからといって,確かに何一つ失うわけではありません。そうすることは,ご自分の生涯の中で,この地球とその上の人類に対する主権者なる主であられる神の目的を本当に知る機会となるかもしれません。そうです,エホバの使者で,この本をあなたにお届けした,その証人たちと共に聖書を研究することにより,まことの神を誠実に探求しておられるあなたは,ご自分を満足させることができるでしょう。
27 (イ)イエスはあなたにどんな勧めの言葉を述べておられますか。(ロ)本書の主題と調和して,イザヤは何をするよう,すべての人に勧めていますか。
27 イエスは,「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます」と,いたずらに言われたのではありません。預言者イザヤの次のような音信に留意するなら,あなたも,まことの神を見いだした人たちの一人になれるでしょう。「あなた方は見いだせるうちにエホバを尋ね求めよ。近くにおられるうちに呼びかけよ。邪悪な者はその道を,害を加えようとする者はその考えを捨て,エホバのもとに帰れ。神はその者を憐れんでくださる。わたしたちの神のもとに帰れ。神は豊かに許してくださるからである」。―マタイ 7:7。イザヤ 55:6,7。
28 あなたがまことの神を見いだすのをだれが援助できますか。
28 もし,あなたがまことの神を尋ね求めておられるのでしたら,ご遠慮なくエホバの証人と連絡をお取りください。c なお時間が残されている間,み父とそのご意志について詳しくお知りになるよう,証人たちは無償で喜んでご援助いたします。―ゼパニヤ 2:3。
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